中庸或問跋・第一章後段五 ~呂氏の説の誤謬~

投稿者: | 2023年4月30日

『中庸或問』跋・第一章後段五~呂氏の説の誤謬~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
呂氏が此の章の説尤も疑う可きこと多し、屡(しばしば)空し貨殖(注1)、及び心を甚しと爲す(注2)というを引くが如きは、其の彼此に於て蓋し兩(ふたつ)ながら之を失す、其の空に由りて而して後に夫の中を見ると曰うは、是れ又前章心を虛にして以て之を求むるの説なり、其の陷りて浮屠(ふと)(注3)に入らざる幾(ほとん)ど希なり、蓋し其の病根正に未發の前に於て夫の所謂中という者を見て之を執れと求むることを欲するに在り、是を以て屡之言いて病愈(いよいよ)甚し、殊に知らず經文に所謂中和を致すという者は、亦曰く其の未だ發せざるに當りて、此の心至りて虛にして、鏡の明なるが如く、水の止まるが如くなるときは、則ち但だ當に敬以て之存じて其れをして小(すこ)しも偏倚有らしめざるべし、事物の來るに至りて、此の心に發見して喜怒哀樂各當る攸(ところ)有るときは、則ち又當に敬以て之を察して其れをして小しも差忒(さとく)(注4)有らしめざるべきのみ、未だ是の如くの説有らず、且つ曰く未だ發せざるの前は、則ち宜く其れ意を著(つ)きて(注5)推し求むることを待たずして、心自の間に瞭然たり、一も之を求むるの心有るときは、則ち是れ便ち已發と爲す、固(まこと)に已に得て之を見ず、況や從いて之を執らんと欲せば、則ち其の偏倚爲ること亦甚し、又何の中をか之得可けんや、且つ夫れ未發已發は、日用の間、固に自然の機有りて、人力を假らず、其の未だ發せざるに方(あた)りては、本自ら寂然たり、固に執ることを事とする所無し、其の當に發すべきに及びては、則又當に事に卽き物に卽きて感に隨いて應ずべし、又安んぞ塊然(かいぜん)(注6)として動かずして此の未發の中を執ることを得んやと、此れ義理の根本爲り、此に於て差うこと有れば、則差わずという所無し、此れ呂氏が説、條理紊亂し援引乖剌(えんいんかいらつ)(注7)して疑う可くに勝(た)えざる所以なり、程子之を譏して大本を識らずと爲す、豈に信ぜざらんや(注8)
(次頁に続く)


(注1)論語先進篇「囘や其れ庶きか、屡空し。賜は命を受けずして貨殖す。億れば則ち屡中る」より。朱子は、この言葉に対する呂氏の解釈を批判している。下の注8を参照。なお呂氏は「空」字を未発の状態の「空(くう)」と解釈しているが、通説は貧しく空(むな)しい状態と解する。朱子の論語集注も通説どおりである。
(注2)孟子梁恵王章句上「權ありて然後に輕重を知り、度ありて然後に長短を知る。物皆然り、心を甚しと爲す」より。上注と同様。
(注3)浮屠は仏陀の古い当て字。使われている当て字に軽蔑的な意味がある。
(注4)差忒は、たがうこと。差異。
(注5)四書大全の「著」字の注に陟略の反、とあるので、読みはチャクである。(意思を)まとわりつける様。
(注6)塊然は、孤立している様。
(注7)援引乖剌は、引用が原意から離れている様。
(注8)四書大全に引かれる藍田呂氏の説、「人義理の當りて過無く不及無きが中爲ることを知らざること莫し。未だ中なる所以に及ばず。喜怒哀樂未發の前、反て吾が心に求むるは、果して何爲(なんすれぞ)や。囘は其れ庶からんか、屡空(むな)し。惟だ空にして然して後に以て中を見つ可し。而して空は中に非ず。必ず事有り。喜怒哀樂の未發、私意小知其の間に撓(みだ)ること無くして、乃ち所謂空なり。曰く、空にして然して後に中を見る。實なるは則ち見えず。子貢が若き聞見を聚むることの多くして、其の心已に實なり。貨殖するが如きは、蓄うる所素(もと)有り。應ずる所限り有り。富有りと曰うと雖も、亦時として窮すること有り。故に億(おもんぱか)ること則ち屡にして未だ皆中らず。權ありて然後に輕重を知り、度ありて然後に長短を知る。物皆然り、心を甚しと爲す。則ち心の物を度るは、權度の審より甚し。其の物に應ずること當に毫髪の差(たが)い無かるべし。然れども人物に應じて節に中らざる者常に多し。其の故何ぞや。中を得て之を執らずして私意小知其の間に撓ること有るに由りて、故に義理當らず。或は過ぎ或は不及。猶お權度の法精しからずんば、則ち百物を稱量して銖兩分寸の差い無きこと能わざるがごとし。此れ所謂性命の理、天道の自然に出て、人の私知の能く爲る所に非ず。曰く、喜怒哀樂の未だ發せざる之を中と謂う。」これに対する朱子の言、「孟子は乃ち是れ心自ら度るを論ず。是れ心物を度るに非ず。喜怒哀樂未發の中を執らんと欲せば、知らず如何して執り得ん。那(か)の事前に來れば、只だ他に應ずることを得。當に喜ぶべきは便ち喜び、當に怒るべきは便ち怒る。如何して執り得ん。」
《要約》

  • 呂氏(呂大臨)が論語孟子を引いて行う未発の中に対する解釈は、引用元の言葉の真意から離れている。「空に由りて而して後に夫の中を見る」というものは、心を虚にして(中を)求めるというたぐいの説で、ほぼ仏教の説に陥っている。未発の状態でできることは明鏡止水の心の体を敬して存することであり、意思によってそこを中に持っていくことではないし、それをすればすでに意思が発して已発である。事物が心に来たときに、明鏡止水の心の用である喜怒哀楽が発して中(あた)ることを目指すのである。程子が呂氏の説を大本を知らずと批判したということは、信ずべきである。

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