中庸或問跋・第一章後段四 ~程子の問答への疑義~

投稿者: | 2023年4月27日

『中庸或問』跋・第一章後段四~程子の問答への疑義~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、程子の明鏡止水の云、固(まこと)に聖人の心を以て赤子の心に異なりと爲す(注1)、然らば則ち此れ其の未だ發せざると爲る者か。
曰、聖人の心、未だ發せざるときは、則ち水鏡の體と爲す、旣に發すれば即ち水鏡の用と爲す、亦獨り未だ發せざるを指して言うに非ず。
曰、諸説如何。
曰、程子備われり、但だ其の蘇季明に答うるの後章、記錄多く本眞を失い、答問相對値せず、耳聞くこと無く、目見ること無くしての答の如き、下の文以て若し事無き時は、須らく見るべく須らく聞くべしというの説を之に參るに、其の誤り必せり、蓋し未だ發せざるの時は、但だ未だ喜怒哀樂の偏有らずと爲るのみ、其の目の見ること有り、耳の聞くこと有るが若きは、則ち當に愈益(いよいよますます)精明にして亂る可らず、豈に心焉(ここ)に在らずして遂に耳目の用を廢するが若くならんや(注2)、其の靜を言う時旣に知覺有り、豈に靜を言いて復(ふく)は以て天地の心を見る(注3)というを引きて説を爲す可けんや、亦暁(さと)す可からず、蓋し至靜の時に當りては、但だ能く知覺する者有りて、未だ知覺する所あらず、故に以て靜中に物有りと爲るときは則ち可なり、便ち纔に思わば卽ち是れ發というを以て比することを爲さば、則ち未だ可ならず、以て坤の卦は純陰にして陽無しと爲ずと爲るときは、則ち可なり、而して便ち復の一陽已に動くを以て比することを爲さば則ち未だ可ならず、
(注4)は所謂時として中せずということ無き者、所謂善く觀る者、却て已發の際に於て之を觀るという者は、則ち語要切なりと雖も、而も其の文意亦斷續無きこと能わず、動の上に於て靜を求むるの云に至りては、則ち問う者又轉じて他に之(ゆ)く(注5)、其の動の字靜の字の問いに答え、敬何を以て功を用いんの問いに答え、思慮定まらざるの問いに答えて、以て無事須らく見るべく須らく聞くべしとての説の若きに至りては、則ち皆精當なり(注6)、但だ其の祭祀の時に當りて、見聞する所無しと曰うときは、則ち古人の祭服を制して旒纊(りゅうこう)(注7)を設くる、其の廣視雜聽を得ずして其の精一を致すことを欲すと曰うと雖も、然も是を以て眞(まこと)に以て全く其の聰明を蔽いて、之をして一も見聞すること無からしむるに足ると爲るに非ず、履(くつ)の絇(く)(注8)有りて以て行の戒と爲し、尊(たる)の禁(きん)(注9)有りて以て酒の戒と爲すと曰うが若き、然も初より未だ嘗て是を以て遂に行かず飮まずんばあらず、若し祭に當るの時をして、眞に旒纊の爲に塞が所(れ)、遂に聾瞽の如くならしめば、則ち是れ禮容樂節皆知ること能わじ、亦將に何を以てか其の誠意を致して鬼神に交わらんや、程子の言(こと)、決して是の如くの過らじ、其の過りて畱(とど)まらざるの問いに答うるに至りては、則ち又相値せざるが若きにして疑う可き者有り(注10)、大抵此の條最も謬誤多し、蓋し他人の問いを聽きて旁(かたわ)ら從い竊(ひそか)に記す、唯だ未だ答うる者の意を了えざるのみに非ず、而も亦未だ問う者の情を悉(つく)さず、是を以て此の亂道を致して人を誤るのみ、衍然として幸有り、其の間の紕漏(ひろう)(注11)顯然として尚お尋繹して以て其の僞を別つ可し、獨り微言の湮没(いんぼつ)(注12)する者は、遂に復(ま)た傳わらず、惜しむ可しと爲るのみ、
(次頁に続く)


(注1)四書大全に引く問答、「蘇氏問う、赤子の心と聖人の心と如何。程子曰く、聖人の心は明鏡止水の如し。」明鏡止水とは、くもりのない鏡と波立たない水のごとくに静かな心の状態を指す。この語は荘子徳充符篇が出典であり、伊藤仁斎は程子の論が孔孟でなく老荘に依拠している証左のひとつとして、批判する材料とした。
(注2)四書大全に引く問答、「蘇氏問う、道中するの時、耳聞くこと無く目見ること無きや否や。程子曰く、耳聞くこと無く目見ること無しと雖も、然も見聞の理始めより得有り。」
(注3)周易復卦、彖傳「復は其れ天地の心を見るか」より。
(注4)出典に易の「復」卦が印刷されている。易経記号を用いる。
(注5)四書大全に引く問答、「蘇氏問う、中は是れ時として中すること有りや否や。程子曰く、何の時にして中せざらん。事を以て之を言えば、則ち時として中すること有り、道を以て之を言えば、何の時にして中せざらん。曰く、固に是れ爲る所皆中、然れども四の者未だ發せざるの時を觀るに、靜なる時自ら一般の氣象有り、事に接わる時に至るに及びて又自ら別なるは何ぞや。曰く、善く觀る者は此の如くならず。却て喜怒哀樂已發の際に於て之を觀て、且つ靜時如何と説く。曰く、之を物無しと謂うは則ち不可なり。然れども自ら知覺の處有り。曰く、旣に知覺有れば、却て是れ動なり。怎生(なに)を靜と言わん。人復は其れ天地の心を見ると説く、皆以て至靜能く天地の心を見ると謂うは、非なり。復の卦の下面の一畫は、便ち是れ動なり。安んぞ之を靜と謂うことを得んや。古自(よ)り儒者皆言う靜にして天地の心を見ると。惟だ某(なにがし)言う動きて天地の心を見ると、或(あるひと)の曰く、是れ動の上靜を求むこと莫きや否や。固に是なり。然れども最も難し。」これに対する朱子の言、「至靜の時、能く知り能く覺る者有りて、知る所無し。覺る所此れ易の卦純坤と爲す。陽無きの象と爲ず。若し復の卦を論ぜば、則ち須らく知覺する所有る者を以て之に當(あ)つべし。合いて一説と爲することを得ず。故に邵子(しょうし)亦云う一陽初て動く處、萬物未だ生せざる時と。此れ至微至玅の處、須らく心を虛し慮を靜にして方に始めて見得べし。」
(注6)四書大全に引く問答、「或曰く、喜怒哀樂未發の前、動の字を下すか靜の字を下すか。程子曰く、之を靜と謂わば則ち可なり。然も靜中須らく物有りて初めて得べく、這裏(ここ)便ち是れ難き處、學者自ら先ず敬を理會し得るに若くは莫し。能く敬すれば則自ら此れを知る。或曰く、敬何を以てか功を用いん。一を主とするに若くは莫し。」「問う、某嘗て患う思慮定まらず。或は思う一事を未だ了らず。他事麻の如く又生ず如何。曰く、不可なり。此れ誠ならずの本なり。須らく是れ習いて能く專一なる時便ち好し。思慮と事に應ずるとに拘らず、皆一を求めんことを要す。」「或曰く、靜坐の時に當りて、物の前に過ぐる者、還りて見るや見ざるや。曰く、事如何(こといかん)と看よ。若し是れ大事祭祀の如きは前旒(ぜんりゅう)明を蔽い、黊纊(とうこう)耳に充つ。凡そ物の過ぐる者見ず聞かず。若し無事の時は、目須らく見るべく、耳須らく聞く可し。」これに対する朱子の言、「靜中に物有るは、只是知覺昧からず。或(あるひと)は程子の語纔に知覺有らば便ち是れ動というを引きて問うことを爲す。若し寒を知り暖を覺ると云わば、便ち是れ知覺已に動く。今未だ曽て事物に著らかならず。但だ知り覺ゆ在ること有らば、何の其の靜と爲すことを妨げん。靜坐を成さざる、便ち只是れ瞌睡(こうすい)。」瞌睡は、いねむりの意。
(注7)前旒(ぜんりゅう)と黊纊(とうこう)を指す。上注の程子の問答の中で言及されている。前旒は、かんむりの前に垂らした玉飾り。黊纊は、黄綿で作った耳塞ぎ。前旒・黊纊は祭礼のかんむりに着けられて、広視雑聴を防ぐ意味を持つ。
(注8)絇は、履(り、くつ)の前に着けられた飾り。
(注9)禁は、尊(そん、祭祀用の酒だる)を置く台。
(注10)四書大全に引く問答、「或曰く、敬する時に當りて見聞すと雖も、過りて畱まらざること莫きや否や。程子曰く、道は禮に非ずば視ること勿れ聽くこと勿れと説きずや。勿は、禁止の辭。纔に勿の字を説くは便ち得ざるなり。」
(注11)紕漏は、あやまってかけること。
(注12)湮没は、ほろびること。
《要約》

  • 程子が赤子の心と聖人の心について問われて「聖人の心は明鏡止水の如し」と答えた問答について、朱子は「聖人の心の未発は水鏡の体(本体)、已発は水鏡の用(作用)である。程子の言は、聖人の心は未発だけであるという意味ではない」と答えた。(前に朱子は赤子の心は已発である、と答えたので、朱子は誤解のないように答えた。)
  • 未発已発の論について、程子の論は十分である。しかしながら、蘇季明の問いへの答えにおいては、問答の記録が本意を失っており、問と答がうまく対応していない。
  • 「程子曰く、耳聞くこと無く目見ること無しと雖も、然も見聞の理始めより得有り。」この言葉は、後の「若し無事の時は、目須らく見るべく、耳須らく聞く可し。」と矛盾している。(心が外界に触れない未発の時は、喜怒哀楽の偏りがないと言うべきであろう。この状態で見聞せずともすでに理が内在している、というのは本意であるはずがない。心が発して和すれば見聞によってますます精明となる、と言うのが本意なはずであろう。)
  • 程子の「靜を言う時旣に知覺有り」云々と言い、易の復の卦をもって説明するところも、よくわからない。至静の時(=未発)においては、知覚をする機能があるがまだ知覚する対象がない。純坤の卦は、知覚をする機能があってまだ知覚していない状態である。そこから一陽が動いて復の卦となるが、それは知覚する対象が始まったと解するべきである。
  • 程子の祭祀の時云々の説明も不十分である。祭祀の礼装で前旒(ぜんりゅう)・黊纊(とうこう)を用いるのは、視野を狭めて雑音を消すためである。しかしながら、それによって一切視ず聞かずの状態に置くのではない。見えない聞こえない状態にあれば、礼容楽節の何もかもできなくなって鬼神との交感もできなくなろう。これが程子の真意であるはずがない。(耳を塞ごうが目を隠そうが、暑さ寒さは必ず感じる。知覚は避けられないものであり、知覚してなおかつ静であることができるのである。居敬のために静坐することを妨げるものは、知覚ではない。行う者の居眠りである。)
  • 「過りて畱(とど)まらざる」云々の問いへの答えも、程子の言としては疑わしい。
  • このあたりの條の言には、最も多く誤謬が見られる。程子の門人が他人の問答を横で聞いて記録したものであるが、程子の返答がまだすべて終わっていないところで記録を終えたのか、あるいは問者の真意をよく理解せずに記録したのか。あやまりを明らかにして、演繹して真意を解釈する必要がある。程子の言葉で記録されなかった部分については、もう取り返すことができない。(以上、程子の未発・已発に関する語録の中には、心は外界を感知する前に理があって、心を養う最善の道は外界の情報を遮断して虚無となることである、かのように受け取られかねないものがある。だが朱子にとってはそれは程子の真意であるはずがなく、心は未発のところでは不偏不倚であり、それは万人の心にとってそうである。そこを存養して発する時に備え、発したときに節に当たり和することを目指さなければならない。心は外界と必ず接触せずにはいられないものであり、むしろ内外一体・物我一理であるので外界と接触するところにこそ物の理が捉えられるのである。)

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