伊藤仁斎:大学は孔氏の遺書に非ざるの弁(終)

投稿者: | 2017年8月29日
出典:岩波書店『日本思想大系33』昭和46年から漢文原文を取り、同書を参考にしながら読み下しを作成した。『日本思想大系』は、底本を宝永二年刊本『語孟字義』に拠っている。参考とした前書の漢文原文が新字体に変えられているので、下の読み下しもまた新字体で行う。
《現代語訳》
以上、愚(それがし。仁斎のこと)が著した十か条の証明は、そのすべてが必ずしも『大学』が孔孟の血脈(孔孟の教えの本質)と合致しているか否かの問題について関わっているわけではない。しかしながらそれらのうち一、二点であっても趣旨や用語が孔孟と違っている理由がまさしく孔孟の血脈を理解していないがゆえの差であるとするならば、私はそのために論じないではいられない。孟子は「世は衰え、道はだんだんわからなくなり、またも邪説がはびこり暴行が横行するようになった」(滕文公章句下)と言った。孟子は、すでにこのことを憂えていた。いま柱下の書(ちゅうかのしょ、『老子』のこと)や遠遊(えんゆう、『楚辞』の一篇)の篇を読むと、邪説が行われていたのはずいぶん古くから始まっていた(注1)。いわんや中国の戦国時代は聖人の世から遠く離れ、聖人のことを記した経典と言葉は欠落してしまっていた。当時の学士や政治家たちは、自分たちが至宝と思い込んでいる書物がじつは邪説であって、これに誤らされていることに気づかなかった。後世中国が左衽(さじん。着物の左右を逆にした北方異族の風習)の風俗に染まらなかったのは、幸いにも孔孟の遺教がなお残されたからであった。だが始皇帝の焚書の後に残された書物を集めた漢代の儒者たちは、「択(えら)んで精(くわ)しからず」(韓愈が『原道』で荀子・揚雄を批判した言葉)であり、書物の理解を徹底することがなく、ただできるだけ多くの書物を貪欲に集めることに努力した。かれらは、そのことが道を甚だしく害することになってしまったことを知らなかった。
『大学』は、本来『礼記』の一篇であった。そして誰の手に成る書であるのかは、はっきりしなかった。朱考亭(しゅこうてい。朱子のこと。考亭は朱子の号)氏に至って、これをはじめて「経」一章・「伝」十章に分けた。「経」は夫子(孔子のこと)の言葉であるとみなし、「伝」は曾子の意図を門人が記したとみなした(経末伝初の朱子の言葉。こちらこちら)。だがこれは思うに、朱子が自分が好む考えによって言ったものであり、証拠を示した考証によって言ったものではない(注2)。なのに後の時代の学者たちは自分で論ずることをせずに、朱子が言っていることそのままに「きっと孔子の言葉を曾子が伝えたものに違いない」と繰り返すのである。道を害することが、はなはだしいと言うべきである。
愚(それがし)の非才をもって、どうして朱考亭の偉大を求めようか。徳行の勤勉さ、学問の博学さ、文章の豊かさ、いずれも私と彼は遠く隔たっている。彼我の差は万分の一どころか、こちらがつま先を立てて背伸びしたところで及ばないことは、じつに言うまでもないことだ。しかしながら、私はひそかにみずから思う。孔孟の血脈の理解に関しては、私とても彼に決して譲ることはしない。とうとうここで自分の思うところを心にとどめることをせず、みだりに孔孟の血脈を述べて、これを後進の若者たちに委ねることにした。私は、孔孟の言いたかった趣旨が後世に明らかとされないことを、心から恐れる者である。孟子は、「余は何も議論が好きなのではない。やむを得ず行なっているのだ」と言った(滕文公章句下)。道を憂える君子諸君には、孟子のこの言葉が私の真意であることをわかってもらいたい。


(注1)遠遊篇は『楚辞』に収録された詩篇で、戦国時代楚国の詩人屈原(くつげん)の作と伝承されている。遠遊篇には、道家的な神仙思想の影響が見られる。だが屈原は孟子に少し遅れた時代に活動した人であり、仁斎がここで例として挙げるのは正確でない。
(注2)『大学或問』で、朱子は経が孔子の遺書であるかどうかには確信がないが詮索はしない、と言っている。また伝については、その中に曾子の言葉が引用されて、また『中庸』『孟子』の趣旨とよく一致しているので曾子の意図を門人が記して子思さらに孟子に授けたものに違いない、と言っている。いずれも根拠としては薄弱であり、仁斎はそれを念頭に置いて批判しているのであろう。『或問』の本文は、このページの用語解説を参照。
《読み下し》
大凡(おおよそ)愚が著す所の十証の者は、悉(ことごと)く血脈の合否に繋(かか)わらずと雖も、然れども其の一二、意を命じ詞を措くの差、本(もと)皆血脈を識らざるに因りて然るときは、則ち今亦之が為に辨ぜざることを得ず。世衰え道微(び)にして、邪説暴行又作(おこ)る。孟子既に之を言う。今柱下(ちゅうか)の書・遠遊(えんゆう)の篇を観るに、邪説の行わるるのこと、固(まこと)に已に尚し。況んや戦国の際、聖を去ること既に遠く、経残(そこな)われ言闕(か)く。世の学士・大夫(たいふ)、自ら以て至宝として、実に邪説の為に之れ誤らるる所(こと)を知らざるなり。今全く左衽(さじん)の俗と為らざる者は、幸いに孔孟の遺教尚(なお)存するが故なり。漢儒之を択びて精(くわ)しからず、之を識って徹せず、多きを貪り得るを務めて、其の道を害するの甚しき此(ここ)に至ることを知らず。
大学本(もと)礼記に在るときは、則ち一篇の書たり。而(しこう)して誰人の手に出ずることを詳らかにせず。朱考亭氏(しゅこうていし)に至って、始めて分って経一章・伝十章とす。経は以て夫子の言とし、伝は以て曾子の意にして、門人此を記すとす。蓋(けだ)し其の意の好尚する所に出でて、考証する所有って言うに非ず。後学自ら辨ずることを知らず、直ちに以為(おも)えらく孔子の言にして、曾子之を伝すと。道を害するの尤(はなは)だしき者と言う可きなり。
愚の至って無似(ぶじ)なる、何ぞ敢て考亭を望まん。徳行の勤たる、学問の博(ひろ)き、文章の富める、其の相懸絶すること、翅(ただ)に万分の一のみならず。其の跋(つまだ)て及ぶ可からざること、固(まこと)に之を言うことを待たず。然れども窃(ひそ)かに自ら思う、識孔孟の血脈を識るに於ては、則ち敢て自ら譲らず。是(ここ)に於て窃かに自ら揣(はか)らず、漫(みだ)りに孔孟の血脈を述べて、以て之を児曹(じそう)に附す。実に恐る、孔孟の旨、大いに後世に明(あきら)かならざらんことを。孟子の曰く、予豈(あ)に辨を好まんや。予已むを得ざればなり。道を憂うるの君子、其れ諸(これ)を諒(まこと)とせよ。
《原文(新字体)》
大凡愚所著十証者。雖不悉繋乎血脈之合否。然其一二命意措詞之差。本皆因不識血脈然。則今亦不得不為之辨。世衰道微。邪説暴行又作。孟子既言之。今観柱下書・遠遊篇。邪説之行。固已尚矣。況乎戦国之際。去聖既遠。経残言闕。世之学士・大夫。自以為至宝。而不知実為邪説之所誤也。今不全為左衽之俗者。幸孔孟之遺教尚存故也。漢儒択之不精。識之不徹。貪多務得。不知其害道之甚至于此。大学本在礼記。則為一篇書。而不詳出於誰人之手。至於朱考亭氏。始分為経一章・伝十章。経以為夫子之言。伝以為曾子之意。而門人記之。蓋出於其意之所好尚。而非有所考証而言。後学不知自辨。直以為孔子之言。而曾子伝之。可謂害道之尤者也。愚之至無似。何敢望考亭。徳行之勤也。学問之博也。文章之富也。其相懸絶。不翅万分之一。其不可跋及。固不待言之矣。然窃自思。於識孔孟之血脈。則不敢自譲焉。於是窃不自揣。漫述孔孟之血脈。以附之児曹。実恐孔孟之旨。不大明于後世也。孟子曰。予豈好辨哉。予不得已也。憂道之君子。其諒諸。

仁斎の弁は、以上である。現代でこそ朱子の見立てには根拠がないと大方否定されているものの、仁斎の時代においては朱子学は幕府公認の学であり、隣国の清国・朝鮮においては国学であり、国内国外に大きな権威を持っていた。仁斎は朱子の説には根拠がないという理由だけで単に批判するのではなく、長年の思索の結果として自らの信じる「孔孟の血脈」を体系的に用意した上で、朱子に挑んだのであった。そこに、仁斎のオリジナリティがあった。わが国では朱子学のアンチテーゼとして陽明学が後世さかんとなったが、陽明学もまた中国渡来の借り物の思想の体系であり、オリジナリティでは仁斎に及ばない。自らの思想の体系を用意して朱子学に挑む仁斎の姿勢は、思想の内容は違うが次の世代の荻生徂徠もまた追うことになった。

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