大学章句:伝六章

投稿者: | 2017年7月15日
大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
所謂(いわゆる)其(そ)の意を誠(まこと)にする者は、自(みずか)ら欺く毋(な)きなり。惡臭(あくしゅう)を惡(にく)むが如くし、好色(こうしょく)を好むが如くす。此(これ)を之(これ)自ら謙(こころよ)くすと謂う。故(ゆえ)に君子は必ず其の獨(ひとり)を愼(つつし)むなり。
惡・好の上字は、皆去聲(きょせい)。謙は、讀(よ)んで慊(きょう)と爲(な)す、苦劫(くきょう)の反。
其の意を誠にすとは、自ら脩(おさ)むるの首(はじめ)なり。毋(む)は禁止の辭(じ)。自ら欺くと云う者は、善を爲して以て惡を去るを知りて、而(しか)も心の發(はっ)する所未(いま)だ實(じつ)ならざる有るなり。謙は快(こころよ)きなり、足るなり。獨とは、人の知らざる所にして、己の獨(ひと)り知る所の地なり。言うは、自ら脩めんと欲する者は、善を爲して以て其の惡を去るを知れば、則ち當(まさ)に實(まこと)に其の力を用いて其の自ら欺くを禁止し、其の惡を惡むは則ち惡臭を惡むが如くし、善を好むは則ち好色を好むが如くし、皆務めて決去(けっきょ)して、求むれば必ず之を得て、以て自ら己に快く足らしむるべし、徒(いたず)らに苟且(かりそめ)にも以て外に徇(したが)いて人の爲(ため)にす可(べ)からず。と。然(しか)れども其の實と不實とは、蓋(けだ)し他人の知るに及ばざる所にして、己獨り之を知る者なり。故に必ず之を此(ここ)に謹み、以て其の幾(き)を審(つまびら)かにす。

小人(しょうじん)閒居(かんきょ)して不善を爲し、至らざる所無し。君子を見て而(しか)る后(のち)に厭然(えんぜん)として、其の不善を揜(おお)いて、其の善を著(あらわ)す。人の己を視ること、其の肺肝(はいかん)を見る如く然れば、則ち何の益かあらん。此を中(うち)に誠なれば外に形(あら)わると謂う。故に君子は必ず其の獨を愼むなり。
閒(かん)は、音閑(かん)。厭(えん)は、鄭氏(ていし)讀んで黶(えん)と爲す。
閒居は獨り處(お)るなり。厭然はは消沮(しょうそ)・閉藏(へいぞう)の貌(さま)。此(これ)は小人の陰に不善を爲して、陽に之を揜わんと欲するは、則ち是れ善の當に爲すべきと惡の當に去るべきとを知らざるに非ざるも、但(ただ)實に其の力を用うる能わずして、以て此(ここ)に至るを言うのみ。然れども其の惡を揜わんと欲するも、卒(つい)に揜う可からず、善を爲すと詐(いつわ)らんと欲するも、卒に詐る可らざれば、則ち亦何の益か之れ有らんや。此れ君子の重ねて以て戒(いましめ)と爲して、必ず其の獨を謹む所以なり。

曾子(そうし)曰(いわ)く、十目(じゅうもく)の視る所、十手(じゅうしゅ)の指す所、其れ嚴(げん)なるかな、と。
此を引きて以て上文の意を明(あきら)かにす。言うは、幽獨(ゆうどく)の中と雖(いえど)も、其の善惡の揜う可らざること此(かく)の如く、畏る可きこと之れ甚(はなは)だし。
富は屋(おく)を潤し、德は身を潤す。心廣(ひろ)く體(からだ)胖(やすら)かなり。故に君子は必ず其の意を誠にす。
胖(はん)は、步丹(ふたん)の反。
胖は、安舒(あんじょ)なり。言うは、富は則ち能(よ)く屋を潤す。德は則ち能く身を潤す。故に心に愧怍(きさ)無ければ、則ち廣大(こうだい)・寬平(かんぺい)にして、體常に舒泰(じょたい)なり。德の身を潤すこと然り、となり。蓋(けだ)し善の中に實(み)ちて外に形わるること此(かく)の如し。故に又此(これ)を言いて以て之を結ぶ。

右は傳(でん)の六章。誠意を釋(と)く。
經(けい)に曰く、其の意を誠にせんと欲すれば、先(ま)ず其の知を致(きわ)む、と。又曰く、知至りて后に意誠なり、と。蓋し心の體(たい)の明(めい)、未だ盡(つく)さざる所有れば、則ち其の發する所、必ず實(まこと)に其の力を用うる能わずして、苟焉(こうえん)として以て自ら欺く者有り。然れども或(あるい)は已(すで)に明かなれども此(ここ)に謹まざれば、則ち其の明かなる所もまた又己の有(ゆう)に非ずして、以て德に進むの基(もとい)と爲る無し。故に此の章の指(むね)は、必ず上章を承けて通じて之を考えよ。然る後以て其の力を用うるの始終、其の序(じょ)の亂(みだ)す可からずして、功の闕(か)く可からざる、此(かく)の如きを見る有らんを云う。


《用語解説・本文》
獨を愼む「独(獨)を慎(愼)む」の語は儒家文献では『中庸』の冒頭、『荀子』不苟篇、または『礼記』礼器篇にも見える。大学・中庸および荀子不苟篇における「慎独」は、それぞれの文脈に即して君子が独りあってなすべき課題を指している。
小人閒居して不善を爲し、至らざる所無し現代では、「小人閑居して不善を為す」という成句で引用される。「小人は、ひまにさせていると不善しか行わない(だからひまにさせないのがよい、または彼らがひまの間になす行動や考えはろくなものがない)」という意味で使われるのがもっぱらである。だが本来「閒居」は独りで静かにいることを指して、「小人は誰も見ていないといつも不善に手を染める(主体的に善ができない)」という意味が本来である。
曾子孔子の弟子、曾参。程子・朱子はこの『大学』は曾子とその門人の著作であると主張する。

《用語解説・朱子注》
去聲(声)中国語の四声(四つの声調、抑揚の調子)の一。経(4)用語解説参照。ここでは原文の「惡惡臭」「好好色」の最初の字を去声で読めという意味。「悪(惡)」字は去声で「にくむ」、「好」字は去声で「このむ」の意。
心の發する所未だ實ならざる有るなり「實(実)」については、経(4)の用語解説を参照。
謙は、讀んで慊と爲す、苦劫の反反は反切のこと。伝三章(後)の用語解説を参照。
鄭氏鄭玄のこと。同用語解説を参照。
蓋し心の體の明、未だ盡さざる所有れば、、「體(体、たい)」は朱子学用語で、本質・本体のような意味。伝五章の用語解説を参照。

《現代語訳》
いわゆる「心の意志を誠(まこと)にする」(経の八条目参照)というのは、自らの心をいつわらない、ということである。悪い臭いを嫌い、美しい色を好むがごとくに、しぜんな心で善を好み悪を嫌うことだ。これを、自分の心を満足させる境地と言うのである。それゆえに、君子は必ず自分ひとりでひたむきに謹んで精進するのだ。
「惡」・「好」の最初の字は、いずれも去聲(きょせい)。「謙」は、「慊(きょう。あきたりる)」と読んで「苦」「劫」の反切。
「心の意志を誠にする」のは、自ら精進することの最初である。「毋」は禁止を意味する字。「自ら欺く」というのは、善をなして悪から去らねばならないとわかっていながらも、心の中から発するものがまだ純化されて迷わずに充実するところまでできていない状態を言うのだ。「謙」は快い、満ち足りるということ。「独(獨)」とは、他人は知らず自分だけが知っているところのもの。その意味は、「自ら精進しようとする者は、善をなして悪から去るべきことを知っているならば、まことに己の力を用いて自分の心がいつわることを禁じ、悪をにくむことが悪い臭いを嫌うように、善を好むことが美しい色を好むように、きっぱりと心を固めて異心から決別し、善の心を求めたら必ず心が善となってしかも自ら快く満ち足りるようにしなければならない。かりそめにも自分以外のなにかに従ったり他人の指図に従ったりして心が善となる、というようなことが決してあってはならない」ということである。しかしながら、己の心が純化されて迷わずに充実しているか否かは他人の知るところではなく、ただ自分ひとりだけが知っているものだ。ゆえに自分ひとりで必ずひたむきに謹んで精進できるかどうかが分かれ目であることを、ここに示したのだ。

小人(しょうじん)は独りでいると、不善の限りを尽くすものだ。だが君子を見るやいないなや気まずくなってこそこそと己の不善を覆い隠し、善にいそしむようにみせかけるものだ。だが他人の人を見る目は、その肺や肝まで見通すほど鋭いものなのである。隠したって、どうして効果があるだろうか?これを「心の内が誠であれば、外にしぜんと善があらわれる」というのである(そうでなければ、本当に善をなすことはできないのだ)。だから、君子は必ず自分ひとりでひたむきに謹んで精進するのだ。
「閒」の音は、「閑(かん)」。「厭」は、鄭氏は「黶(えん)」と読むように注する。
「閒居」は独りでいること。「厭然」は意気消沈して隠す様子。これが言いたいことは、小人が陰に不善をなして陽にこれを覆い隠そうとするのは、彼らが善をなして悪から去らねばならないということがわかっていないわけではないのだが、自分で努力して善をなすことができずにこうなってしまうということに尽きる。だが、小人がその悪を覆い隠そうとしても結局は隠すことができず、いつわって善をなそうとしても結局はいつわることができないので、何の効果もないのである。よってここで君子に対して重ねて訓戒し、必ず自分ひとりでひたむきに謹んで精進すべきを説いたのだ。

曾子(そうし)が言った、「人の行いは、いつも十の目が見ている、いつも十の手がゆびさしている。だから厳につつしまなければならない」と。
この言葉を引いて、上の文の意義を明らかにしたのである。その意味は、「たとえひっそりと独りでいたとしても、その善悪はこのように覆い隠すことができない。なので非常に恐れ慎まなければならない」ということである。
富は家屋を潤すが、徳は身を潤す。自らの心がいつわらず満足できる境地にあれば、心はひろびろとなり、体もやすらかとなる。だから、君子は必ずその心の意志を誠にするのだ。
「胖」は、「步」「丹」の反切。
「胖」は、やすらかでくつろぐこと。その意味は、「富は家屋を潤すことができるが、徳は身を潤すことができる。ゆえに心にいつわりがなければ、心はひろびろとのびやかとなり、身はつねにくつろいでやすらかとなる。徳が身を潤すとは、そのような様である」ということである。思うに、善が心の内で満ちて外の姿にまで表れるのは、このようなものである。ゆえにもう一度この言葉を置いて、結語としたのだ。

以上は、伝の六章である。心の意志を誠にすることを説いている。
経に、「意志を誠にしようと望んだ人たちは、なによりもまずその知能を究め尽したものであった」とあり、また「知能のなしうることが究め尽されたのちに、ようやく心の意志を誠にすることができた」とある(経(4)経(5))。思うに、心の輝かしい本質がまだ明らかになっていない場合、心から発するところのものは、必ずやまことに己の力を用いることができないで、その場しのぎに自らの心をいつわることになってしまうだろう。だがたとえすでにわが心の本質がすでに明らかになっていたとしても、ひたむきに謹んで精進することがないならば、その明らかなるところも自己が自在に用いるものではなくて、そこから徳に進む基礎とすることができない。ゆえにこの章の趣旨は、必ず前の伝五章(格物致知)と通し読んで、両者合わせて考えなければならない。そうした後に、己の力を用いる最初の点と最終の点について、その順序を乱すべきでなく、またその効能はいかなる欠点もないことを理解できるだろう。

《原文》
所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必愼其獨也。
惡・好上字、皆去聲。謙、讀爲慊、苦劫反。
誠其意者、自脩之首也。毋者禁止之辭。自欺云者、知爲善以去惡、而心之所發有未實也。謙快也、足也。獨者、人所不知而、己所獨知之地也。言、欲自脩者、知爲善以去其惡、則當實用其力而禁止其自欺、使其惡惡則如惡惡臭、好善則如好好色、皆務決去、而求必得之、以自快足於己、不可徒苟且以徇外而爲人也。然其實與不實、蓋有他人所不及知、而己獨知之者。故必謹之於此、以審其幾焉。

小人閒居爲不善、無所不至。見君子、而后厭然揜其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝然、則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必愼其獨也。
閒、音閑。厭、鄭氏讀爲黶。
閒居獨處也。厭然消沮・閉藏之貌。此言小人陰爲不善、而陽欲揜之、則是非不知善之當爲與惡之當去也、但不能實用其力、以至此耳。然欲揜其惡、而卒不可揜、欲詐爲善、而卒不可詐、則亦何益之有哉。此君子所以重以爲戒、而必謹其獨也。

曾子曰、十目所視、十手所指、其嚴乎。
引此以明上文之意。言、雖幽獨之中、而其善惡之不可揜如此、可畏之甚也。
富潤屋、德潤身。心廣體胖。故君子必誠其意。
胖、步丹反。
胖、安舒也。言、富則能潤屋矣。德則能潤身矣。故心無愧怍、則廣大・寬平、而體常舒泰。德之潤身者然也。蓋善之實於中而形於外者如此。故又言此以結之。

右傳之六章。釋誠意。
經曰、欲誠其意、先致其知。又曰、知至而后意誠。蓋心體之明、有所未盡、則其所發、必有不能實用其力、而苟焉以自欺者。然或已明而不謹乎此、則其所明又非己有、而無以爲進德之基。故此章之指、必承上章而通考之。然後有以見其用力之始終、其序不可亂、而功不可闕、如此云。

伝六章は、礼記大学篇では経のすぐ後ろにあったが、朱子が入れ替えた。八条目の誠意を解説した伝である、と朱子は見立てたのであるが、原文のままの順に読んだならば、「誠(まこと)」の内容をより具体的なイメージを用いて読者に喚起させようとした解説であろう。君子が心の誠意だけを頼りとして精神を独り立ちさせることは、国家の重要な責務を担うべきリーダーにとって大切な心がけであった。

「独を慎む」の語は『中庸』『荀子』にも表れる。君子の条件である。

君子は、誰に言われるでもなく、誰かに見られるより前に、善事に進まなければならない。孟子に「文王を待ちてしかるのちに興る者は、凡民(ぼんみん)なり。かの豪傑の士のごときは、文王なしといえどもなお興る」(盡心章句上)の言葉がある。たいていの人は、周囲の影響を受けてから行動するものだ。だが、それでは世の中にまだ広がっていないことを行うことはできない。ましてや、世の中の流れに逆らってまで正しいと信じることを始めることはできはしない。しかし世の中の誰もまだ気づいていないことをいちはやく行い、世の人から笑われ無視されながらもひたむきに継続し、やがては世の中の流れを変える成果を挙げる。それが、先覚者である君子の仕事というべきなのだ。ちなみに「先覚者」も、孟子の言葉である。

そのような君子は、山中の蘭(らん)の花にたとえられる。蘭は山奥深くにあって、かぐわしい香りを立てて咲く。その姿を誰も見ているわけでもないが、美しく咲くのである。蘭に竹(冬枯れの厳しさの中で、まっすぐに葉を落とさない)・梅(まだ寒い春先に、いちはやく花を咲かせる)・菊(晩秋の没落の頃に、美しい花を見せる)を合わせて、中国では「四君子」と呼んで愛される植物である。四君子は、かの地では絵画のモチーフとしてもよく好まれる。四君子がなぜ君子の象徴であるのかは、周囲に泥(なず)まず美しくあるからである。

「独を慎む」の語について朱子学は複雑な理論を積み重ねるが、あまり理論にこだわるよりも「どうして、君子は独を慎まなければならないのか。それが、どうして世の手本となるのだろうか」ということに思いを巡らせて、世の中をリードする人材を目指すならばいかに心がけるべきかを自分で考えてみたほうがよいだろう。私は、そう考える。

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