中庸或問跋・第一章前段二 ~程子・呂氏の説を検討~

投稿者: | 2023年4月14日

『中庸或問』跋・第一章前段二~程子・呂氏の説を検討~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、性に率い道を修むるの説同じからず、孰れか是(ぜ)と爲さんや。
曰、程子の性に率うを論ずる(注1)は正に私意人欲未だ萌さざるの處に就きて、其の自然に發見して各條理有る者を指して言う、以て道の名を得る所以は、修爲を指して言うに非ざることを見るなり、呂氏の良心の發より以下、安くんぞ能く是を致すというに至るまでの一節(注2)、亦甚だ精密なり、但だ謂わく人天地の中を受けて以て生ると雖も、而(しか)も形體に梏(こく)せられ、又私意小知の爲に撓(みだ)所(さ)る、故に天地と相似ずして發して節に中(あた)らず、必ず以て其の天に受くる所の者を失わざること有りて、然して後道と爲るというときは、則ち所謂道は、又修爲の後に在りて、反て敎に由りて以て之得るなり、復(ま)た子思程子の指す所の人欲未だ萌さずして自然に發見するの意に非ず、游氏(注3)が所謂私を容ること無きときは、則ち道我に在り、楊氏(注4)が所謂之に率うのみというときは、亦皆呂氏が病有るに似たり、道を修むるに至りては、則ち程子之を養うに福を以てす、修めて復ることを求む(注5)の云、却て未だ子思本文の意に合わざるに似たり、獨り其の一條に所謂此に循いて之を修めて各其の分を得、而して舜の事を引きて以て通じて之を結する(注6)者、其の旨を得たりと、故に其の門人亦多く之を祖す、但し引く所の舜の事、或は論語の本文の意に非ざるのみ、呂氏が所謂先王禮を制して之を天下に達し之を傳う(注7)という者之を得たり、但し其の本性に率うの道を説く處、已に其の指を失う、而して此に於て又之を推し本づけて、以爲(おもえ)らく性に率いて行わば、已に節に中ると雖も、而も稟(う)くる所過不及無きこと能わず、若し能く心誠に之を求めば、自然に中らずとも遠からず、但だ之を天下に達し、之を後世に傳えんと欲す、所以に又當に道を修めて敎を立つべしというときは、則ち太(はなは)だ繁複を爲して本文の意を失うのみ、改本に又時と位と同じからざるを以て言を爲す、亦親切ならざるに似たり。


(注1)四書大全に引かれる程子の説:「生之を性と謂う。人生れて靜なる以上は説く容からず。纔に性を説くときは、便ち已に是れ性にあらず。此の理は、天命なり。順いて之に循うは、則ち道なり。又曰く、天是を下に降して、萬物行を流(し)き、各性命を正すは、是れ所謂性なり。其の性に循うは、是れ所謂道なり。此れ亦人物に通じて言う。性に循うというは、馬は則ち馬の性を爲して、又牛底の性を做さず。牛は則ち牛底の性を爲して、又馬底の性を做さず。此れ所謂性に率うなり」。この説は、『近思録』に程明道の言として見える説である。
(注2)四書大全に引かれる藍田呂氏(すなわち呂大臨)の説:「性と天道と、本異なること有ること無し。但だ人天地の中を受けて以て生まると雖も、而も蕞爾(さいじ)の形體に梏せられ、常に私意小智其の間に撓ること有り。故に天地と相似ず。發する所遂に出入齊しからずして節に中らざるに至る。如(も)し天に得る所の者をして喪わざらしめば、則ち何の節に中らざることを患わんや。故に良心の發する所道に非ざること莫し」云々。これに対する朱子の言葉:「只是れ性に隨い去らば皆是れ道。呂氏は人を以て道を行うと説く。若し然らば則ち未だ行わざるの前は便ち是れ道にあらざらんや。」
(注3)游氏は、游酢のこと。広平(廣平)先生と称される。程子兄弟に学び、程門四大弟子の一とされる。四書大全に引かれる廣平游氏の説:「天の萬物に命ずる者は、道なり。而して性は、道を具えて以て生ず。其の性の固より然るに因りて私を容ること無きときは、則ち道我に在り。若し人爲に出るは則ち道に非ず。」
(注4)楊氏は、楊時のこと。亀山(龜山)先生と称される。大学或問・伝五章の六の注を参照。四書大全に引かれる龜山楊氏の説:「性は、天命なり。命は、天理なり。道は、則ち性命の理のみ。性に不善有りと謂う者は、天を誣るなり。性に不善無きとき、則ち加損す可からず。修むることを俟つこと無し。之に率う。」
(注5)四書大全に引かれる程子の説:「民は天地の中を受けて以て生る。天の命之を性と謂う。人の生は直なり。意亦此の如し。若し生を以て生養の生と爲せば、却て是れ道を修むる之を敎と謂うなり。下の文に至りて始めて自ら能くする者は之を養うに福を以てし能わざる者は敗れて禍を取ると云う。又曰く、道を修むる之を敎と謂う。此れ則ち專ら人事に在り其の本性を失うを以て、故に修めて是に復ることを求むるときは、則ち學に入る。若し元失わざれば、則ち何の修むることか有らん。」
(注6)四書大全に引かれる程子の説:「此に循いて之を修めて、各得るは其の我加損すること無し。此れ舜天下を有(たも)ちて與(あず)からざる者なり。」ここまでの程子の二語に対する朱子の言葉:「道を修むれば人事を以て言うと雖も、然も其の之を修むる所以の者は、天命の本然に非ずということ莫し。人の私智の能く爲る所に非ず。然も聖人に非ざれば盡すこと能わざること有り。故に程子舜の事を以て之を明にす。」
(注7)四書大全に引かれる藍田呂氏の説:「性に循いて行えば、物之を撓ること無し。節に中らずという者無きと雖も、然も天に稟くる者、厚薄昏明無きこと能わざるを以て、則ち物に應ずる者亦小過小不及無きこと能わず。故に之を品節する之を禮と謂う。閔子喪を除して孔子に見ゆ。之に琴を予(あた)え之を彈かせしむ。切切として言いて曰く、先王禮を制す、敢て過さざるなり。子夏喪を除して孔子に見ゆ。之に琴を予えて之を彈かせしむ。侃侃として言いて曰く、先王禮を制す、敢て及ばずんばあらざるなり。故に心誠に之を求めば、中らずと雖も遠からず。然も將に之を天下に達し、之を後世に傳えんとす。其の終わる所を慮り、其の敝う所を稽れば、則ち其の小過小不及なる者、以て修めずんばある可らず。此れ先王の禮を制する所以なり。」途中で引用される子夏・閔子と孔子の会話は、孔子家語六本篇にある。
《要約》

  • 「性に率い道を修める」について、先人たちの説が一様でない。どれが正しいのであるか。そう問われて、朱子は各説について回答する:
  • 程子(兄の程明道)の説(性とは生、すなわち生まれついて与えられた属性である。牛が牛であって馬でないこと、馬が馬であって牛でないことが、性に率うということである)について。これは(人について言うならば)、私意人欲がいまだ萌さない地点で自然に発見され、すでに天から与えられた條理が備わっているものを指しているのである。程子が「道」と呼んでいるのは(未発の地点で生まれたまま備わっている道であり)、己を修める、すなわち已発の情を節にあてる中庸の道を指しているのではない。(朱子学用語で言えば、人が生まれついて天から与えられた「未発の性」が性である。これを性が形気と接触して感応した「已発の情」と混同してはいけない。「未発の性」は性であって天命であるが、「已発の情」は己を修めて中庸を取らなければ私意人欲に堕ちて天命の性に従えない。人間以外はナマのままの生が「性」であってナマのまま生きることが「道」であるが、人間は気質を中庸に修めなければ天が人間に与えた「性」に復り「道」に率うことができない)。
  • 呂氏(呂大臨)の説(人は天地の中を受けて生まれるのであるが、ちっぽけな形体=身体の中にしばりつけられて常に私意小智に歪んでしまい、結果天地と似なくなり節にあたらない。だがもし天から得るものを失わないようにすれば、節にあたらないことを患うことがなくなるだろう)について。呂氏の言葉では、いわゆる道は己を修めた後であらわれ、教によって(はじめて)得るものとなる。程子が言う、人欲がいまだ萌さない地点で自然に発見されるという考えとは異なっている。(呂氏の説では、人は生まれたときにはすでに性が歪められていることになる。そうではなくて、人は生まれついては完全な性であり、完全であり続けるのであるが、形気と接触したとき過不及が起こる結果として私意人欲が起きるのである。)

    【※】以下は、ブログ作者のノート。呂氏の説は、荀子的な性悪説に一歩近づいている。朱子の説は性善説であるが、悪の原因を性の外に放り出した善悪二元論である。程明道の説は性善説で、人間のナマの生がまるごと善でありうるという善一元論に進む可能性をもっている。善一元論の可能性を推し進めたのが陸象山であり、後の王陽明を用意したといえるであろう。

  • 游氏の「私を容ること無きときは、則ち道我に在り」説、楊氏の「之に率うのみ」説にも、呂氏の説と似た欠陥が見える。
  • 道を修めるについて、程子の「之を養うに福を以てす、修めて復ることを求む」なる言葉は、子思の意と合わないように見える。その後に「此に循いて之を修めて、各得るは其の我加損すること無し」で締めて、後に舜のことを引用するのはその意を得たりと言えるだろう。
  • 呂氏の「先王禮を制して之を天下に達し之を傳う」の語は、その意を得たりと言えるだろう。ただしその本性に率うの道を説くところは、子思の本旨を失っている。心誠に中を求めるならば、自然に当たらずといえども遠からずとなるであろう。後はそれを天下に達し、それを後世に伝えることを望むまでである。そこに道を修めて教えを立てるべし、と付け加える(「則ち其の小過小不及なる者、以て修めずんばある可らず」)のは、はなはだ重複していて本文の主旨を損なうものである(朱子の批判するところを解釈するならば、心誠に中を求めたら、それだけでやがて自然に過不及が解消されるのである。その上に小さな過不及を修めるための礼制があるというのはおかしい、というものであろうか)。

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