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王覇篇第十一(6)

君主の道とは、手元に近いものを治めるものであって自分から遠くにあるものを治めるものではない。君主の道とは、自らが明らかに見えるものを治めるのであって自らがよく見えないものを治めるものではない。君主の道とは、一つのことを治めるものであって二つのことを治めるのではない。君主がよく手元に近いものを治めることができたならば、結局遠くに有るものも治まるのである。君主が自らにとって明らかに見えるものをよく治めることができたならば、結局自らがよく見えないものも教化されるのである。君主が一つのことに適切な措置を施すことができたならば、結局その他の百事もまた正されるのである。そもそも天下の政治を全て聞きながら、日が余って仕事が少ないようにするためには、以上のように行えばよいのである。これが、統治の極地である。しかしすでに手元に近いものが治まっているのに自分から遠くにあるものまで治めることに努力したり、すでに自らが明らかに見えるものが治まっているのに自らがよく見えないものまで見ようと努力したり、すでに一つのことに適切な措置を施しているのに二つのことを正すことに努力したりするのは、やりすぎというものである。やりすぎは、足りないことに等しい。これを譬えるならば、真っ直ぐな木を立てておきながらその影が曲がることを期待するようなものである。だが手元に近いものがよく治まっていないのに遠くにあるものを治めようと努力したり、明らかに見えるべきものを明らかに察することができていないのに自らでは見ることが難しいものを見ようと努力したり、一つのことにすら適切な措置を施すことができていないのに百事を正そうと努力するのは、正道から外れているというものである。これを譬えるならば、曲がった木を立てておきながらその影がまっすぐになることを期待するようなものである。ゆえに明主は要点を押さえることを好み、闇主は詳細なことまで努力することを好むのである。君主が要点を好めば、結局百事が詳細に治まるだろう。だが君主が詳細を好めば、結局百事が粗略となるだろう。君主というものは一人の宰相だけを考慮し、一つの法だけを述べ、一つの指示だけを明らかにすることによって、すべてのことを兼ねて覆い、すべてのことを兼ねて照らし、事業の成功を見るのである。宰相というものは百官の特長を考慮し、百事の政務を聞いてまとめることによって、朝廷の臣下百吏の身分を整え、それらの功労を計量し、それらの慶賞を考慮し、年度の終わりにそれらの成績を君子のもとに上げて、これを報告するのである。成績がよければこれを認め、成績が悪ければこれを罷免する。ゆえに君主たるものは、直下の宰相に有能な人材を求めることに努力するのであって、いざ宰相が得られたならばそれを用いるときには休息できるのである。

国を治める者は、人民の力を得る者は富み、人民が死を捧げる者は強く、人民から栄誉を受ける者は栄える。この三つの徳が備われば天下はこの者に帰し、この三つの徳を失えば天下はこの者から去るであろう。天下が帰す者を王者と言い、天下が去る者を亡者と言う。湯王・武王は、正道に従い、正義を行い、天下共通の利益を進め、天下共通の害悪を除き、天下の人心が彼らに帰したのであった。ゆえにその名声を厚くして人民の先頭に立ち、礼義を明らかにして人民を導き、忠信を極めて人民を愛し、賢者を貴び能ある者を用いてこれらを序列し、爵位と服装と褒賞をこれらに加えて賜い、事業は正しい時に行い、役務を軽減し、人民を調斉して、ひろびろと人民をまとめて覆い、赤子を養うように人民を養育して、政令と制度を熟慮して、天下の人民に接するやり方の中で道理に合わないものがほんのわずかでもあったならば、孤(みなしご)・独(子のない老人)・鰥(妻のいない老男)・寡(夫のいない老女)のような弱者であっても、これを決して適応することはなかった。そのために人民が湯王・武王を大帝のように尊び、これを父母のように親しみ、これのために生を望むことなく、決死の思いで力を尽くした。それは他でもない、彼らの道徳が誠に明らかで、彼らのもたらす利益の恩沢が誠に厚かったからである。しかし乱世の君主は、このようでない。不潔なことを行って、他人を押しのけて利益を奪うことを率先して行い、権謀を行って人を倒す道を人に示し、俳優とか侏儒(しゅじゅ。こびと)とか婦女とかの頼みごとを容れて政治を乱し、愚者が知者に指図するようにさせ、無能者を賢者の上に立たせ、人民の生活を貧窮に追い込み、人民を使役するには労苦を極めさせる。そのために人民がこのような君主を賤しむことは匡(せむし)を賤しむようであり、これを憎むことは鬼(バケモノ)を憎むようであり、人民は日々その隙をうかがって皆でこれを投げ捨てて追い払うことを望むのである。このありさまでは、今にわかに外敵の攻撃があったならば、人民が己のために死を捧げることを望んでも、誰もそのようにしないであろう。このような君主のことを肯定する主張は、存在しない。孔子が「私が他人に接する態度を慎重に考慮するのは、それが他人が私に接する態度となるからである」と言われたのは、まさに以上のことを指しているのである。

国を傷つけるものは、何であろうか。小人を高位に付けて人民にこれを貴ばせ勢威あらしめ、取るべきでないものを人民から巧妙に取ることは、国を傷つける大災である。大国の君主でありながら、小さな利益を見ることを好むのは、国を傷つけることである。音楽や映像、展望台や狩場について、次々に厭いて新しいものを求めるのは、国を傷つけることである。いま保有している資産を整えて活用することを行わずに、飽くことなく他人が保有しているものを奪おうと常に望むのは、国を傷つけることである。これさ三つの邪悪な心が胸の中にあって、さらにまた権謀を行い人を倒すことを行う人物を登用して政治を処断させる。このようであれば、君主の権威は軽くなって名は辱められ、社稷は必ず危うくなるであろう。これが、国を傷つける者である。大国の君主でありながら、大本である行為を貴ばず旧法を敬うことなくして、詐欺を好む。このようであれば朝廷の群臣たちもまた上に従い、風俗は礼義を貴ばず、他人を倒すことを好むようになるだろう。朝廷の群臣たちの風俗がこのありさまとなれば、一般庶民たちもまた上に従い、風俗は礼儀を貴ばず、私利を貪ることを好むようになるだろう。君臣上下の風俗が全てこのありさまとなってしまうならば、いかに領地が広くても君主の権威は必ず軽くなり、いかに人口が多くても兵は必ず弱くなり、いかに刑罰が煩瑣であっても命令は下に通じなくなるであろう。これを危国と言い、これは国を傷つける者である。しかし儒者が国を治めるやり方はこのようではなく、儒者はこれらの国の治める道について、必ず詳しく述べることができる。つまり朝廷は必ず礼義を貴んで、貴賤の身分をはっきりと区別する。このようにすれば、士大夫はすべて節義につつしんで職務に命を賭すであろう。百官はその制度を整えて、その禄を重く与える。このようにすれば、その下の下級の官吏たちはすべて法を畏れて規則に従うであろう。関所と市場は検査をするにとどめて課税はせず、質律(しつりつ)(注1)によりごまかしを禁止して利益が偏らないようにさせる。このようにすれば、商人はすべて敦厚誠実となって詐偽を行わないであろう。工匠たちは時宜に応じて伐採を行わせ、納期をゆるやかにして、技能ある者には厚く手当てを行う。このようにすれば、工匠たちはすべて忠信となって粗悪品を納入しなくなるであろう。農村においては田野への税を軽くし、銭納の税を少なくして、労役を課する頻度をまれにして、農作業の時期を奪わない。このようにすれば農夫はすべて農事に朴訥に力を尽くして、他のことに多能とならなくなるであろう(注2)。士大夫は節義に務めて職務に命を賭すので、兵は強くなるだろう。下級の官吏たちは法を畏れて規則に従い、そのあかつきには国は乱れないことが常態となるであろう。商人が敦厚誠実となって詐偽を行わないならば、商人たちは安心して旅行を行い、財貨は流通して、国の需要は満たされるであろう。工匠たちが忠信となって粗悪品を納入しなくなれば、道具類は器用で便利となって財貨が乏しくなることはないであろう。農夫が農事に朴訥に力を尽くして他のことに多能とならなくなれば、上には天の時を失わず、下には地の利を失わず、中には人の和を得て、万事が頓挫せずに行われるであろう。これが、政令が行われて風俗が美であると言うのである。このようであれば国を守れば堅固であり、外に攻めれば強力であり、留まっていれば名声が挙がり、動いたならば功績が挙がるであろう。これがいわゆる、儒家が詳しく述べる政策の内容なのである。


(注1)「質律」について、楊注はこれは「質劑(しつざい)」のことであり、鄭康成を引いて、一つの札に署名してこれを二つに別ける、と注している。すなわち割符のことであり、売買の際に両者を分け持ってごまかしがないようにする制度のこと。
(注2)農民を多能にさせないのは、農民の他業種への転業を阻止して農業人口の減少を防ぐためである。前近代社会では農業生産が経済の圧倒的な基盤であったので、このような農民抑留政策が正当化された。近代の諸国家においても、しばしば農村人口の流動化を規制する反自由主義的政策が見られる。
《原文・読み下し》
主たるの道は近きを修めて遠きを治めず、明を治めて幽を治めず、一を治めて二を治めず。主能く近きを治むれば、則ち遠き者理(おさ)まり、主能く明を治むれば、則ち幽なる者化し、主能く一を當(あた)れれば、則ち百事正し。夫れ天下を兼聽し、日餘り有りて治足らざる者は、此(かく)の如くすればなり、是れ治の極なり。既に能く近きを治めて、又務めて遠きを治め、既に能く明を治めて、又務めて幽を見、既に能く一に當りて、又務めて百を正すは、是れ過ぐる者にして、猶お及ばざるがごときなり。之を辟(たと)うるに是れ猶お直木を立てて其の影の枉(まが)らんことを求むるがごときなり。近きを治ること能わずして、又務めて遠きを治め、明を察すること能わずして、又務めて幽を見、一に當ること能わずして、又務めて百を正す、是れ悖(もと)る者なり。之を辟うるに是れ猶お枉木(おうぼく)を立てて其の影の直(なお)からんことを求むるがごときなり。故に明主は要を好んで、闇主は詳を好む。主(しゅ)要を好めば則ち百事詳なり、主(しゅ)詳を好めば則ち百事荒(すさ)む。君なる者は、一相を論じ、一法を陳じ、一指を明(あきら)かにし、以て之を兼覆(けんふ)し、之を兼炤(けんしょう)し、以て其の盛(せい)(注3)を觀る者なり。相なる者は、百官の長(注4)を論列して、百事の聽を要し、以て朝廷の臣下・百吏の分を飾り、其の功勞を度(はか)り、其の慶賞を論じ、歲終(さいしゅう)に其の成功を奉じて、以て君に效(いた)す。當れば則ち可とし、當らざれば則ち廢す。故に人に君たるは、之を索(もと)むるに勞して、之を使うに休す。
國を用(おさ)むる者は、百姓の力を得る者は富み、百姓の死を得る者は强く、百姓の譽(よ)を得る者は榮ゆ。三得なる者具わりて、天下之に歸し、三得なる者亡くして、天下之を去る。天下之に歸す、之を王と謂い、天下之を去る、之を亡と謂う。湯・武なる者は、其の道に循(したが)い、其の義を行い、天下の同利を興し、天下の同害を除きて、天下之に歸す。故に德音(とくいん)を厚くして以て之に先んじ、禮義を明(あきら)かにして以て之を道(みちび)き、忠信を致(きわ)めて以て之を愛し、賢を賞(たっと)び能を使いて以て之を次(じ)し、爵服・賞慶以て之に申重(しんちょう)し、其の事を時にし、其の任を輕くして、以て之を調齊し、潢然(こうぜん)として之を兼覆(けんふ)し、之を養長すること赤子を保(ほう)するが如く、民を生(せい)せしむるには則ち寬を致(きわ)め、民を使うには則ち理を綦(きわ)め、政令・制度を辨じて、天下の人百姓に接する所以、非理なる者豪末(ごうまつ)の如き有れば、則ち孤獨鰥寡(こどくかんか)と雖も必ず加えず。是の故に百姓の之を貴ぶこと帝の如く、之に親しむこと父母の如く、之が爲に出死・斷亡(だんぼう)して愉(とう)せざる(注5)者は、它(た)の故無し、道德誠に明(あきら)かに、利澤(りたく)誠に厚ければなり。亂世は然らず、汙漫(おまん)・突盜(とつとう)以て之に先んじ、權謀・傾覆以て之に示し、俳優・侏儒(しゅじゅ)、婦女の請謁(せいえつ)以て之を悖(みだ)し、愚をして知に詔(つ)げしめ、不肖をして賢に臨ましめ、民を生(せい)せしむるには則ち貧隘(ひんあい)を致(きわ)め、民を使うには則ち勞苦を極む。是の故に、百姓の之を賤むこと㑌(おう)(注6)の如く、之を惡(にく)むこと鬼の如く、日に間を司(うかが)いて相與(とも)に之を投藉(とうせき)し、之を去逐(きょすい)せんと欲す。卒(にわか)に寇難(こうなん)の事有れば、又百姓の己の爲に死せんことを望むも、得可からざるなり。說以て之を取ること無し。孔子の曰(のたま)わく、吾が人に適(ゆ)く所以を審(つまびら)かにするは、[適](注7)人の我に來る所以なればなり、とは、此を之れ謂うなり。
國を傷つくる者は何ぞや。曰く、小人を以て民に尚(しょう)として威あらしめ、非所を以て民に取りて巧なるは、是れ國を傷つくるの大災なり。大國の主にして、好んで小利を見るは、是れ國を傷つくるなり。其の聲色(せいしょく)・臺榭(たいしゃ)・園囿(えんゆう)に於けるや、愈(いよいよ)厭きて新を好むは、是れ國を傷つくるなり。其の以(すで)に有する所を循正することを好まずして(注8)、啖啖(たんたん)として常に人の有を欲するは、是れ國を傷つくるなり。三邪なる者匈中(きょうちゅう)に在りて、又好んで權謀・傾覆の人を以て、事を其の外に斷せしむ、是の若くなれば、則ち權輕く名辱しめられ、社稷(しゃしょく)必ず危し、是れ國を傷つくる者なり。大國の主にして、本行を隆ばず舊法(きゅうほう)を敬せずして、詐故(さこ)を好む。是の若くなれば、則ち夫の朝廷の羣臣(ぐんしん)も、亦從いて俗を禮義を隆ばずして傾覆を好むに成すなり。朝廷羣臣の俗是(かく)の若くなれば、則ち夫の衆庶・百姓も、亦從いて俗を禮義を隆ばずして、貪利(たんり)を好むに成すなり。君臣・上下の俗是の若くならざること莫ければ、則ち地廣しと雖も權必ず輕く、人衆(おお)しと雖も兵必ず弱く、刑罰繁(しげ)しと雖も令下に通ぜず、夫れ是を之れ危國と謂う、是れ國を傷つくる者なり。儒者の之を爲すは然らず、必ず將(は)た曲辨(きょくべん)す。朝廷必ず將(は)た禮義を隆びて貴賤を審(つまびら)かにす。是の若くなれば、則ち士・大夫は節に敬み制に死せざる者莫し。百官は則ち將(は)た其の制度を齊え、其の官秩(かんちつ)を重くす。是の若くなれば、則ち百吏は法を畏れて繩(じょう)に遵(したが)わざること莫し。關市(かんし)は幾(き)して征(せい)せず、質律は禁止して偏ならず。是の如くなれば、則ち商賈(しょうこ)は敦愨(とんかく)にして無詐ならざること莫し。百工は將(は)た時に斬伐し、其の期日を佻(ゆるやか)にして、其の巧任を利す。是の如くなれば、則ち百工は忠信にして不楛(ふこ)ならざること莫し。縣鄙(けんぴ)は將(は)た田野の稅を輕くし、刀布の斂(れん)を省き、力役を舉(あ)ぐることを罕(まれ)にし、農時を奪うこと無し。是の如くなれば、則ち農夫は朴力にして寡能ならざること莫し。士・大夫は節を務め制に死す、然而(かくのごとくして)(注9)兵勁(つよ)し。百吏は法を畏れて繩に循(したが)い、然る後に國常に亂れず。商賈は敦愨にして無詐なれば、則ち商旅安んじ、貨財通じて(注9)、國求(こくきゅう)給す。百工は忠信にして不楛なれば、則ち器用巧便にして財匱(とぼ)しからず。農夫は朴力にして寡能なれば、則ち上は天の時を失わず、下は地の利を失わず、中は人の和を得て、百事廢せず。是を之れ政令行われ風俗美なりと謂う。以て守れば則ち固く、以て征すれば則ち强く、居れば則ち名有り、動けば則ち功有り。此れ儒の所謂(いわゆる)曲辨(きょくべん)なり。


(注3)楊注は、「盛は読んで成と為す、その成功を観るなり」と言う。
(注4)原文「百官之長」。これを新釈の藤井専英氏は「すべての役人の特長」と訳している。王制篇で冢宰すなわち宰相の職分として「其の慶賞を論じ、時を以て順脩し、百吏をして免盡(べんじん)」すべきことが述べられている。よって宰相の職分は単に各省庁の長官についての論功行賞だけにとどまらず、百官の論功行賞の総括を行うべきことが想定されている。よって藤井氏の解釈でも通ると、私は考える。金谷治氏は「多くの長官」と訳している。こちらがオーソドックスな解釈であろう。上の訳では、藤井説に従っておく。
(注5)富国篇(2)注6を参照。ここも「愉」字を「偸」字に通じるとみなす。
(注1)「㑌」は匡(おう)で、せむしのこと。なお楊注には「新序は、之を賤しむこと虺豕の如しに作る」とあり、ここから集解の郝懿行は「㑌」字は「虺」であるべきで、虺(き)と鬼(き)で韻が合う、と言う。虺は、蝮(まむし)のこと。「㑌」字のままでも解釈できるので、このままとする。なお、「㑌」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注6)増注、集解の王念孫ともに『群書治要』の引用では後ろの「適」字がないことを指摘して、衍字と言う。これらに従う。新釈の藤井専英氏は、後ろの「適」字を「適(まさ)に」と読み下している。
(注7)原文「不好循正其所以有」。王覇篇(1)注13と同じく、「以」を「すでに」と読んでおく。
(注8)楊注は、「然而」を「然後」と読むべしと言う。下の文と合せているのである。集解の王念孫は、「然」は「如是」なり、と言う。王説に従えば、「然而(かくのごとくして)」と読み下すであろう。王説を取りたい。
(注9)原文「貨通財」。集解の王念孫は、王制篇に従って「貨財通」となすべし、と言う。これに従う。

王覇篇は、以上である。

荀子が理想とする王者の統治術とは、礼法を整えて官吏と人民を規則に応じて働かせ、能力に応じて身分と官職に昇進・罷免を当てはめ、君主は瑣末な事務を行うことなく、天下の詳細な情報まで知り尽くすこともなくして、しかも統治がスムーズに行われる、というものである。つまり王者の統治術とは、法に仕事をさせ、システムに仕事をさせることに尽きる。孟子は統治者の善なる心こそが国家を強くする要因であると言ったが、統治者の心情にこだわること多大であったが具体的に国家システムをどのように動かすべきか、という考察に欠けていた。荀子の統治術は、彼に続く儒家としてそれを補うものであった。

しかしながら、荀子が儒家の思想に沿って案出した具体的な統治術は、彼の弟子である韓非子や李斯の法家思想と、どれほどの隔たりがあるだろうか。いくら荀子が彊国篇で秦国の政治には儒家の推奨する道が足りないと批判したとしても、荀子は秦国の法による統治システムを賞賛するより他はなかった。この王覇篇で荀子は覇者を不足であると批判して王者を推奨するが、その描く王者の統治術は法治官僚国家のシステムそのものである。それは、長くて無意味な戦乱が続いた中華世界の戦国時代を終わらせるために、荀子が描いた理想であった。だが、国家とは必要悪であり怪物リヴァイアサンであるというホッブスの認識とは違って、荀子が法治官僚国家を美しい王者の理想として描くことに終始してしまっているのは、思想史的に残念なことである。

儒效篇第八(1)

大儒の功績について。武王が崩御したとき、子の成王(せいおう)は幼少であった。それで周公は成王をあえて退けて武王の統治を継承し、天下を自らに服属させた。それは、天下が周から離反することを恐れたからであった。天子の地位を継承し、天下の政治を聴き、天下を保有していることを当然であるかのように振舞ったが、しかし天下は周公のことを貪欲だとはみなさなかった。実兄の管叔(かんしゅく)を殺し旧殷国の都を廃墟としたが(注1)、しかし天下は周公のことを残虐だとはみなさなかった。天下全てを掌握して七十一の封建国を創立し、そのうち姫姓(きせい。周王室の姓)だけが五十三ヵ国を占めたが、しかし天下はこれをえこひいきだとはみなさなかった。周公は成王を教え導き、正道を教育して、文王・武王の後をよく継ぐべき君主に育て上げ、ここに至って周公は周王朝の大権を返上して天子の位を成王に返したのであった。しかしながら天下が周王朝に従うことは変わることなかった。周公は、他の家臣たちとともに北面(ほくめん)(注2)して成王に参朝したのであった。天子の重責は、年少ではとても勤まらない。しかし仮の摂政の位では、天子の役目を行うことはできない。能力ある者には天下が従い、能力なき者からは天下が去る。そこで周公は成王をあえて退けて武王の政治を継承し、天下を自らに服属させた。それは、天下が周から離反することを恐れたからであった。だが成王が加冠して成人したときに周公が天子の位を返上したのは、主君を滅ぼさないという義を明らかにするための行為であった。周公は、当初天下を保有していなかった。そこから天下を保有したのであるが、その後また天下を保有しなくなった。これは、天下を禅譲したからではない。また成王は当初天下を保有しておらず、その後で天下を保有するようになったのであるが、これは天下を簒奪したからではない。最有能者に天子の位が交替したまでのことであり、官職の序列の変更が起こったにすぎないのだ。ゆえに、たとえ分家が本家になり代わって天子となったとしても、越権というべきではない。弟が兄を誅殺したとしても、暴虐というべきではない。君臣の位がひっくり返ったとしても、不順な反逆というべきではない。周公がやったことは、これすべて天下の平和の目的のために、まず文王・武王の事業を完成させることが必要だったからであり、それから進んで分家が本家に仕えるのが本来であるという義に立ち返ったのであった。武王から周公に、周公から成王にと天子の位は変化したが、天下はそれでも平静に統一を保つことができた。聖人でなければ、この事業はできることではない。これが、大儒の功績なのである。


(注1)管叔鮮(かんしゅくせん)は、周の武王の弟で周公の兄。管叔鮮と周公の弟の蔡叔度(さいしゅくど)は、武王が滅ぼした殷国の遺民を監督する任にあった。武王の死後、後を継いだ成王の摂政に周公が就いて国政を総覧した。このとき管叔鮮と蔡叔度は殷の紂王の遺子である武庚(ぶこう)を戴いて、周公に対して反乱を起こした。だが周公はこれを平らげて、武庚と管叔鮮は誅殺されて蔡叔度は追放され、旧殷国の都は廃されて殷の遺民は移された。なお蔡叔度の子孫は赦されて、蔡国に封じられた。
(注2)天子は南面、すなわち南を向いて立つ。家臣は朝廷で天子に相対して仕えるために、家臣となることを「北面する」と言うのである。
《原文・読み下し》
大儒の效。武王崩じて、成王幼なり、周公成王を屏(しりぞ)けて(注3)武王に及(つ)ぎ、以て天下を屬するは、天下の周に倍(そむ)くを惡めばなり。天子の籍を履(ふ)み、天下の斷を聽き、偃然(えんぜん)として之を固有するが如し、而(しこう)して天下焉(これ)貪(たん)と稱せず。管叔(かんしゅく)を殺し、殷國を虛にして、而して天下焉を戾(れい)と稱せず。天下を兼制して七十一國を立て、姬姓(きせい)獨り五十三人に居り、而して天下焉を偏と稱せず。成王を敎誨・開導して、道を諭(さと)らしめ、能く迹(あと)を文・武に揜(つ)がしめ、周公周を歸して、籍を成王に反(かえ)し、天下周に事(つか)うることを輟(や)めず、然り而して周公北面して之に朝す。天子なる者は、少を以て當る可からず、假攝(かせつ)を以て爲す可らず、能なれば則ち天下之に歸し、不能なれば則ち天下之を去る。是を以て周公成王を屏(しりぞ)けて(注3)武王に及ぎ、以て天下を屬するは、天下の周に離るるを惡めばなり。成王冠して成人し、周公周を歸し、籍を反すは、主を滅せざるの義を明(あきら)かにするなり。周公は天下無し。鄉(さき)に天下有りて、今天下無きは、擅(ゆず)るに非ざるなり。成王鄉(さき)に天下無くして、今天下有るは、奪えるに非ざるなり、變埶(へんせい)・次序の節(せつ)(注4)然ればなり。故に枝を以て主に代りて越に非ざるなり。弟を以て兄を誅して暴に非ざるなり。君臣位を易(か)えて不順に非ざるなり。天下の和に因り、文・武の業を遂げ、枝・主の義を明かにす、抑(そもそも)亦變化せるも、天下厭然(えんぜん)として猶お一のごときなり。聖人に非ざれば之を能く爲すこと莫し。夫れ是を之れ大儒の效と謂う。


(注3)「屏」字の解釈について、二説が対立する。楊注は、「屏は蔽」と言う。新釈の藤井専英氏はこれを取り、「おおう」と訓ずる。猪飼補注は「屏は退なり。言うは成王当(まさ)に立つべくして、而(しか)るに周公之を退け、身武王を継ぎ天下の位を践(ふ)む」と言う。漢文大系および金谷治氏はこれを取り、「しりぞく」と訓ずる。ここで荀子は周公が後継ぎであるべき成王を押しのけて実権を握った事実を正当化しようとするのであって、猪飼補注が言うようにあえて誤ったことを述べていると考えたい。
(注4)楊注は「節は期なり」と言う。集解の王先謙は「節然はなお適然のごときなり」と言う。王先謙に従う漢文大系の注は、「時勢の変通上正に起り来りたるもの」と言う。どちらを取っても文意は大きく変わらないと思われるが、楊注に従っておく。新釈も「節」をふし目、と注していて楊注に沿っているようである。

儒效篇(じゅこうへん)の構成を区分するならば、以下のようになるであろうか。
(1)緒言(大儒の功績、周公は国家を統治するためにあえて天下を保有したこと)
(2)秦の昭王(昭襄王)との問答
(3)邪説への批判
(4)学ぶことによって聖人・君子となり富貴と栄誉を得られること
(5)学ぶ段階による聖人・君子・士の区別。学ぶ内容は詩・書・礼・楽であり、これがいにしえの百王の法であること
(6)周公の異説への反論
(7)俗人・俗儒・雅儒・大儒の区別、孔子・子弓(しきゅう)への賞賛
(8)師法に学ぶことの必要性
(9)結語(大儒の優位性、則るべき法は後王であること=後王思想)

(1)は、下に述べるように正論篇の湯武放伐論・堯舜禅譲論につながっている。(2)は彊国篇の応候(范雎)との問答とつながり、(3)は非十二子篇の批判とつながり、(4)は勧学篇の再説であり、また性悪篇の「偽(い)」だけが聖人・君子への道を開くという主張にもつながる。(5)の三段階論は解蔽篇ほかの議論につながり、学ぶべきことが詩・書・礼・楽であることはまた勧学篇の再説である。その礼楽の内容は、礼論篇・楽論篇で詳説される。(6)は正論篇の「世俗の説」への反論の一バリエーションであり、(7)は非十二子篇の儒家サークル内への荀子の批判につながる。(8)はやはり勧学篇、および脩身篇の主張の再説であり、(9)では非相篇ほかに表れる後王思想によって篇の全体が結語される。

このように、儒效篇は『荀子』各篇で展開される叙述のダイジェスト版というべき内容となっている。これに仲尼篇の前半に置かれた王覇論を合わせたならば、長大な『荀子』思想の大方が短く圧縮されていると言うことができるであろうか。儒效篇(および仲尼篇の前半部)は、荀子が自らが主張してきた思想体系を短くまとめることを試みた篇であるかもしれない。以下、上の(1)~(9)の区分に従って読んでいきたい。

緒言は、大儒である周公の政治を正当化するところから始まる。周公は、武王の死後に後を継いだ成王が幼少であったので、その摂政となって成王が成人するまでの間、国政をもっぱらにしていた。荀子は、周公が武王の後に政治を執ったのは天下の統治者が幼少であることはできないからであった、と言う。上の荀子の主張の背景には、君主とは最高の智徳を持った聖人だけが就任するべきであり、そうでなければ天下が従わない、という考えがある。正論篇の湯武放伐論・堯舜禅譲論において検討したとおりである。荀子は、君主の地位を国家の最高指導者という役職として純粋に考え、そこに就くには天下を統治するにふさわしい能力がなければならないと考える。荀子は、孟子のように天命論を用いて世襲王朝の正当性を述べた妥協的な議論を展開することはない。

荀子は「君主は最高の智徳を持った聖人でなければならない」という視点をもって、ここで周公が天下を一度保有して再度返上した経過を説明するのである。しかしながら、もし成王が君主の役職に耐えない凡庸な人間に成人したならば、どうするべきだと言うのであろうか?その仮定について、荀子は述べていない。だがおそらく荀子ならば、そのときには周公は決して天子の位をこれに返上せず、別に天下が従う聖人を待ったであろう、と述べたのではないか、と思われる。君主の地位を最高の能力者として見る荀子は、そういう結論に至らずにはいられないはずだ。最高の能力者である君主の下に、礼義を学んで身につけた君子が行政を行う。これが、荀子が理想とする法治官僚国家のすがただからである。

儒效篇第八(2)

秦の昭王(昭襄王)(注1)が荀子(孫卿子)(注2)に質問した。
昭襄王「儒者は、国に無益であろうか?」
荀子「儒者とは、先王の功績にのっとり、礼義を貴び、家臣たちと子弟たちを謹ませ、上の者を最も貴ばせることができます。君主が儒者を登用すれば、その威勢は朝廷において重くなります。またたとえ登用されなくても、儒者は野に退いて人民の中にあって正直であり、必ず従順であり、飢えて凍える窮迫の状態にあっても決して邪道に走って利益を貪ることはありません。儒者とは、たとえわずかの土地すら保有しなくても国家の社稷(しゃしょく)を維持する大義を明らかにする者であり、たとえ呼びかけても誰も答えない零落の身分にあっても万物を差配して人民を養う道筋に精通する、有益な智徳を保有する存在なのです。この者が人の上に立つ権勢を持てば、王公の仕事をなすべき人材です。またこの者が人の下に立てば、社稷を盛り立てる家臣となり、君主の宝となります。この者がたとえ貧民街の陋屋に隠棲していたとしても、人々はこの者を貴ばずにはいられません。そのわけは、儒者はまことに儒道を身に備えているからです。かつて仲尼(ちゅうじ。孔子のこと)は、魯国の司寇(しこう。司法大臣かつ警察長官)の役職に任命されて就任しようとしていました(注2)。すると沈猶氏(しんゆうし)は、自分の羊に朝に水を飲ませて市場でごまかすことをやめました(目方を増やすため、あるいは乳量を増やすための両説がある)。公愼氏(こうしんし)は、淫乱な自分の妻を追い出しました。愼潰氏(しんかいし)は、奢侈が度に過ぎていたので魯の国境を越えて逃亡しました(注4)。魯国の牛馬を売る者たちは、掛け値で売る(注5)ことをしなくなりました。これらはすべて、まず仲尼じしんが己の身を正して、それから人民が正しくなることを期待したゆえに、可能となったのです。
また、仲尼は魯都の闕里(けつり)の住民(注6)と共に暮らしていました。すると闕の住民の子弟たちは、鳥獣の獲物を分配するさいには、親がいる者が多く分け前を与えられるようになりました。これは、仲尼が孝悌の道を住民たちに教化したからです。仲尼の例に見るように、儒者は朝廷にあれば政治を美しくなし、下は人民と共にあれば風俗を美しくします。以上が、儒者が人の下に立った場合の効能であります。」

昭襄王「では次に、人の上に立つ権勢を持ったときの結果は、いかがであるか?」
荀子「儒者が人の上に立つならば、広大な効能があらわれるでしょう。その心の内には意志が定まり、朝廷においては礼節が修まり、百官においては法律・規則・度量衡が正しく守られ、下の人民には忠信・愛利の政策が形となって表れ、この者はたった一つの不義を行いたった一人の無罪者を殺して天下を得られる時に直面しても、決して得ようとはしないでしょう。この者の義が人々に信じられて四海に行き渡るならば、天下中の者がこれにやかましいほどに呼応することでしょう。どうしてでしょうか?それは、この者が上に立てば貴ぶべき名声が明らかに示されるために、天下がこの名声に従って治まるからなのです。ゆえに近くに住む者はこの者の治世を謳歌して楽しみ、遠くに住む者は急いでこの者のもとへ駆けつけるのです。四海の内は一家のごとくとなり、命令は行き渡り、服従しない者はありません。これが、人師(じんし)というものです。『詩経』にある、この言葉のように(注7)。:

西より、東より、
南より、北より、
慕いきたりて、服せざるはなし
(大雅、文王有聲より)

儒者が人の下に立つときの効能は前に申し上げたようなものであり、儒者が人の下に立つときの効能は後に申し上げたようなものです。これでどうして、儒者が国に無益であると言えましょうか?」
昭襄王「よい話だ。」


(注1)原文「昭王」。秦の昭王(在位BC306-BC251)は『史記』においては昭襄王の名で表れる。魏冄(ぎぜん)および范雎(はんしょ。秦国では「張禄」の偽名で呼ばれていた)を宰相に登用して、秦国を戦国七雄の中で圧倒的に抜きん出た超大国の地位に押し上げた。彊国篇(4)のコメントを参照。
(注2)原文「孫卿子」。『荀子』において荀子の名称は孫卿(堯曰篇)、または孫卿子(議兵篇)と表わされる例が多い。
(注3)『史記』孔子世家によれば、魯の定公のとき孔子は五十代で大司寇の位に昇り、孔子五十六歳のときまでその地位にあった。大司寇時代の孔子は、三桓氏の居城の邑を破壊することを試みるなど魯公の権力を復興させる努力を行ったが、ついに果たせず辞職して弟子たちとともに魯を去った。
(注4)沈猶氏・公愼氏・愼潰氏は魯国の人。これらのエピソードは『孔子家語』に見える。
(注5)原文「豫賈」。集解の王引之は「豫はなお誑のごとし」と言う。たぶらかし、あざむくこと。つまり、実勢価格よりも高めに吹っかける掛け値で売りつけること。
(注6)原文「闕黨」。闕(けつ)は魯の都、曲阜(きょくふ)にある里(り。集落)。闕黨(党)は、闕里の住民たちのこと。下のコメントも参照。
(注7)ここまでの文章から下の詩の引用まで、ほぼ同じ文章が議兵篇(3)の問答において使われている。つまりこのあたりの表現と引用は、荀子が王者を称えるための定型文(テンプレート)である。
《原文・読み下し》
秦の昭王(しょうおう)孫卿子に曰く、儒は人の國に益無きか、と。孫卿子曰く、儒者は先王に法(のっと)り、禮義を隆(とうと)び、臣子を謹ましめ、其の上を貴ぶことを致(きわ)むる者なり。人主之を用うれば、則ち埶(せい)本朝に在りて宜しく、用いられざれば、則ち退いて百姓に編して愨(かく)、必ず順下を爲し、窮困・凍餧(とうだい)すと雖も、必ず邪道を以て貪を爲さず。置錐(ちすい)の地無くして、社稷(しゃしょく)を持するの大義に明(あきら)かに、鳴呼(おこ)にして之に能く應ずる莫きも、然も萬物を財(さい)し、百姓を養うの經紀(けいき)に通ず。埶人の上に在れば、則ち王公の材なり。人の下に在れば、則ち社稷の臣にして、國君の寶なり。窮閻(きゅうえん)・漏屋(ろうおく)に隱ると雖も、人貴ばざること莫きは、之道(しどう)誠に存すればなり。仲尼(ちゅうじ)將(まさ)に司寇(しこう)爲(た)らんとす、沈猶氏(しんゆうし)敢て朝(あした)に其の羊に飲(みずか)わず、公愼氏(こうしんし)其の妻を出し、愼潰氏(しんかいし)境を踰えて徙(うつ)り、魯の牛馬を粥(ひさ)ぐ者、賈(か)を豫(あざむ)かざるは、必ず蚤(つと)に正して以て之を待てばなり。闕黨(けつとう)に居るや、闕黨の子弟罔不(もうふ)を分つに(注8)、親有る者は取ること多きは、孝弟以て之を化すればなり。儒者本朝に在れば、則ち政を美にし、下位に在れば、則ち俗を美にす。儒の人の下爲ること是の如し、と。
王曰く、然らば則ち其の人の上爲ること何如(いかん)、と。孫卿曰く、其の人の上爲るや、廣大なり。志意內に定まり、禮節朝(ちょう)に脩まり、法則・度量官に正しく、忠信・愛利下に形(あら)われ、一の不義を行い、一の無罪を殺して、而(しこう)して天下を得るは、爲さざるなり。此君(この)(注9)義人に信ぜられ、四海に通ずれば、則ち天下之に應ずること讙(かまびす)しきが如し。是れ何ぞや。則ち貴名白(あき)らかにして天下治(おさ)まればなり。故に近き者は歌謳(かおう)して之を樂しみ、遠き者は竭蹶(けつけつ)して之に趨(おもむ)き、四海の內は一家の若く、通達の屬、從服せざること莫し、夫れ是を之れ人師と謂う。詩に曰く、西自(よ)り東自(よ)り、南自(よ)り北自(よ)り、思うて服せざること無し、とは、此を之れ謂うなり。夫れ其の人の下爲るや彼の如く、其の人の上爲るや此の如し、何ぞ其れ人の國に益無しと謂わんや、と。昭王曰く、善し、と。


(注8)原文「罔不分」。集解の劉台拱・王念孫は、「不」は「罘」と言う。「罔罘」は両字ともに網の意で、「罔」は鳥獣を捕らえる網、「罘」は兎を捕らえる用途の網。劉・王説を取り、楊注のように「罔」を否定の語と考えて「分せざる罔(な)し」のように読む解釈を取らないこととする。
(注9)集解の王念孫は、「君」字は「若」字の誤りで、「此若義」は「此義」と云うがごとし、と言う。宋本は「子」字が下にあって「此君子」に作り、宋本に依る新釈は「此の君子」と読み下している。王念孫説を取る。

つづいて、秦の昭王(昭襄王)との問答が収められている。荀子の秦国での遊説に関する詳細は、彊国篇を参照していただきたい。彊国篇とこの儒效篇の叙述を合わせたならば、荀子は秦国で王と宰相とに面会して自説を述べたことになる。荀子は王に対して孔子を例に出して、儒家の統治がいかに効果的であるかを説明したというのである。しかし孔子が魯の司寇にあったときに統治がよく行われたことは、孔子の人徳に全ての原因を求めることはできないだろう。司寇は司法大臣に警察長官を兼ねる役職であり、この役職に就いて孔子が行った政策は、法の公正かつ厳格な施行でなかったとしたら、他に何があったであろうか。荀子は孔子の統治術を称えるが、それはすでに秦国の法による効果的な統治によって実施されているのではなかっただろうか。むしろ荀子は、秦国の王と官僚たちの法の運営術はすでに十分であって、秦国の王と官僚たちはそこからさらに進んで、統治者としての倫理を儒家思想によって学ぶことを勧めたかったのであろう。しかし、荀子はその方面において王と宰相とを説得することができなかったようである。

文中に出てくる闕(けつ)とは、魯国の都曲阜(きょくふ)の中にあった集落、闕里(けつり)のことであり、そこの住民を闕党(けつとう)と呼んだ。『論語』憲問篇には、孔子が闕党の一人の童子について辛口の批評をした言葉が収録されている。現在、曲阜の闕里には孔子を祀る孔廟(こうびょう)が置かれている。『史記』孔子世家の伝えるところによれば、この孔廟は孔子の弟子たちが居住していた堂内に後世建てられた廟であり、廟とそこでの祭祀は漢代に至るまで存続していたという。

儒效篇第八(3)

わが国の文明の建設者であった先王の道とは、仁を貴び、「中」の道に従ってこの仁を実行するものであった。では、何を「中」と言うのであろうか?その答えは、礼義こそが「中」なのである。この道は、天の道ではなく、地の道ではなく、人が実行するための基準なのであり、君子が実行するべきことなのである。君子が「賢」というとき、それは人間が実行できることを全部できるのが「賢」である、という意味ではない。君子が「知」というとき、それは人間が知ることができることを全部知っているのが「知」である、という意味ではない。君子が「弁」というとき、それは人間が弁論できることを全部弁論できるのが「弁」である、という意味ではない。君子が「察」というとき、それは人間が推察できることを全部推察できるのが「察」である、という意味ではない。君子は、これら全てについて到達するべき目標点、すなわち至足(しいそく)の状態である「聖」の境地だけを目指すのだ(注1)。たとえば土地の高低を見分け、肥沃度を見分け、五種の穀物を時期に応じて栽培する能力については、君子は農民に及ぶことはない。また財貨を流通させ、商品のよしあしを判断し、価格の高低を判別する能力については、君子は商人に及ぶことはない。また規矩(きく。ものさしとコンパス)をあてがい、縄墨(じょうぼく。すみなわ)を置き、便利な道具を供給する能力については、君子は工人に及ぶことはない。真理か否かの分別を考えることもなく、相手を論破して踏みにじり抑えつけることによって相手に恥をかかせる術については、君子は恵施(けいし)や鄧析(とうせき)(注2)に及ぶことはない。君子の本領はこのようなものではなくて、各人の徳を計量し、それらの徳に応じて身分の序列を定め、各人の能力を計量し、それらの能力に応じて官職を授け、賢者も愚者もそれぞれの徳に応分の身分を得るように仕向け、能力者も無能者もそれぞれの能力に応分の官職を得るように仕向け、天下にある万物が適切な処置を得るように仕向け、天下に起こる変化に適切な対応が行われるように仕向け、慎到(しんとう)や墨翟(ぼくてき)(注3)の徒がいかなる弁論も進めることができないように仕向け、恵施(けいし)や鄧析(とうせき)の徒が彼らの詭弁を混ぜ込むことができないように仕向け、言葉は必ず道理に当たり、行為は必ず礼義の要請に当たる。これが、君子の長じている本領なのである。

およそ事業と行動については、道理として有益なものは行い、無益なものは廃止する。これを、「中事」すなわち中庸の事業と行動、と言う。およそ知識と学説については、道理として有益なものは採用し、無益なものは捨て去る。これを、「中説」すなわち中庸の知識と学説、と言う。事業と行動がが中庸を失うこと、これを姦事と言う。知識と学説が中庸を失うこと、これを姦道と言う。姦事・姦道は、治世においては捨て去られるが、乱世においては栄えて皆が従う。だいたい虚偽と真実とをひっくり返したり、堅白同異(けんぱくどうい)(注4)の区別を弁証したりすることは、よく聞き分ける耳でもこれを聞き分けることが難しく、よく見分ける目でもこれを見分けることが難しく、よく言い分ける能弁者でもこれを言い分けることが難しく、たとえ聖人の知であっても即座に指摘することが難しい。しかしこのような複雑であるが無益な邪説は、これを知らなくても君子となることに害は無い。またこれを知っていたとしても、小人となることに障害とならない。工匠はこれを知らなくても、その巧みな技術を用いることに害は無い。君子はこれを知らなくても、統治を行うことに害は無い。だが王公がこれを好めば、国の法度を乱す結果となるであろう。人民がこれを好めば、それぞれの仕事を乱す結果となるであろう。それなのに頭のおかしい頑固者が、このような邪説を奉じる仲間を糾合して徒党を組み、この邪説を弁論し、この邪説をたとえ話によって説明し、己の身が年老いて己の子が成人するに至っても、己の信奉する説が憎むべき邪説であることを認めようとしない。これを愚者の極地と言うのであり、こんな輩になるぐらいならば、鶏や犬の良し悪しの鑑定によって名を挙げるほうがずっとましというものだ。『詩経』に、この言葉がある。:

物の怪のたぐいであるならば
見えず掴めず、あきらめもしましょうが
あんたは人間ではござんせんか、そこに面目(かお)がありまする
この世間、人を視(み)ないですむ道理とてなし
だからこの恨み歌を作りまして
あんたの外れた心を正しましょう
(小雅、何人斯より)

外れた心の持ち主が忠告に従えばまだよいが、そうでなければもはやお手上げである。


(注1)原文読み下し「正(とどま)る所有り」。下の注5のとおり「正」字を「止」の誤りであるとみなし、「止まる所」を解蔽篇(6)の叙述に従って解釈する。
(注2)ともに、著名な詭弁家。不苟篇(1)注2および注3を参照。
(注3)慎到・墨翟(墨子)の説についての説明と荀子の批判は、非十二子篇(1)ほかを参照。
(注4)諸子百家の名家に分類される公孫龍の説。劉向校讎叙録注9を参照。
《原文・読み下し》
先王の道は、仁を之れ隆(とうと)ぶなり、中に比して之を行う。曷(なに)をか中と謂う。曰く、禮義是れなり、と。道なる者は天の道に非ず、地の道に非ず、人の道(おこな)う所以にして、君子の道う所なり。君子の所謂(いわゆる)賢なる者は、能く徧(あまね)く人の能くする所を能くするの謂(いい)に非ざるなり。君子の所謂知なる者は、能く徧く人の知る所を知るの謂に非ざるなり。君子の所謂辨(べん)なる者は、能く徧く人の辨ずる所を辨ずるの謂に非ざるなり。君子の所謂察なる者は、能く徧く人の察する所を察するの謂に非ざるなり、正(とどま)る(注5)所有り。高下を相(み)、墝肥(こうひ)を視、五種を序するは、君子は農人に如かず。財貨を通じ、美惡を相(み)、貴賤を辨ずるは、君子は賈人(こじん)に如かず。規矩を設け、繩墨(じょうぼく)を陳じ、備用を便にするは、君子は工人に如かず。是非・然不然の情を卹(かえりみ)ず、以て相薦樽(せんそん)(注6)し、以て相恥怍(ちさく)するは、君子は惠施(けいし)・鄧析(とうせき)に若かず。若し夫れ德を謫(はか)りて(注7)次を定め、能を量りて官を授け、賢・不肖をして皆其の位を得、能・不能をして皆其の官を得、萬物をして其の宜しきを得、事變をして其の應を得、愼(しん)・墨(ぼく)をして其の談を進むることを得ず、惠施・鄧析をして敢て其の察を竄(ざん)せざらしめ、言は必ず理に當り、事は必ず務に當る、是れ然る後に君子の長ずる所なり。
凡そ事行の、理に益有る者は之を立て、理に益無き者は之を廢す、夫れ是を之れ中事と謂う。凡そ知說の、理に益有る者は之を爲し、理に益無き者は之を舍(す)つ、夫れ是を之れ中說と謂う。事行中を失う、之を姦事と謂う。知說中を失う、之を姦道と謂う。姦事・姦道は、治世の棄つる所にして、亂世の從服する所なり。若し夫れ充虛の相施易(いえき)(注8)するや、堅白同異(けんぱくどうい)の分隔するや、是れ聰耳の聽く能わざる所なり、明目の見る能わざる所なり、辯士の言う能わざる所なり。聖人の知有りと雖も、未だ僂指(るし)(注9)する能わざるなり。知らざるも君子爲(た)るに害無く、之を知るも小人爲るに損無く、工匠知らざるも、巧を爲すに害無く、君子知らざるも、治を爲すに害無し。王公之を好めば則ち法を亂り、百姓之を好めば則ち事を亂る。而(しこう)して狂惑・戇陋(こうろう)(注10)の人、乃ち始めて其の羣徒(ぐんと)を率い、其の談說を辨じ、其の辟稱(ひしょう)を明(あきら)かにし、身を老し子を長ずるまで、惡(にく)むことを知らざるなり。夫れ是を之れ上愚と謂う。曾(すなわ)ち雞狗(けいこう)を相するの以て名を爲す可きに如かざるなり。詩に曰く、鬼と爲り蜮(いき)と爲れば、則ち得可からず、靦(てん)たる面目有り、人を視ること極まり罔(な)し、此の好歌(こうか)を作りて、以て反側を極む、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)楊注は「正」は「止」に作るべし、と言う。これに従う。
(注6)増注は、「薦樽は未詳」と言う。楊注は、「相蹈藉して撙抑するを謂う」と言う。たがいに踏み敷いて抑えつけること。楊注の解釈に従っておく。
(注7)原文「謫德」。同じ儒效篇の後の文に、「德を譎(けつ)して位を序する」の語がある。楊注は本注において「謫は商と同じ。古字なり。其の德を商度す」と言い、或説で多くの本が「謫」を「譎」に作り、「譎」は「決」と同じ、と注釈を付加している。集解の洪頤煊は、「謫」は「論」字の誤りであることを疑う。同じ集解の王念孫は、「譎」字が正しいと言う。増注の久保愛は、「謫德」で通じるので必ずしもこれを改めず、と言う。増注に従う。
(注8)楊注は、「施は読んで移と曰う。移易は実者をして虚となし、虚者をして実とならしむるを謂う」と言う。
(注9)楊注は「僂は疾なり」と言う。僂指で、すばやく指摘すること。
(注10)楊注は「戇は愚なり」と言う。戇陋で、愚かで固陋なこと。

原文の「君子」について。勧学篇などの学ぶ者への呼びかけの内容の篇においては、基本的に「君たち」と訳した。しかしこの儒效篇などの儒家の統治論を説明する内容の篇においては、「君子」の語はむしろ聖人の下にあって礼義を体化して人民を統治する存在、つまり具体的には国家の官僚を指す。この儒效篇においては、原文の「君子」をそのまま君子として訳すことにする。

「道なる者は天の道に非ず、地の道に非ず、人の道(おこな)う所以にして、君子の道う所なり」と言う言葉は、天論篇の叙述と呼応している。すなわち天論篇において荀子は、君子が行うべき道は天や地の自然に見出されるべきではなく、むしろこれら自然を利用して人間の理性をもって社会を改良していくことを薦めるのである。

諸子百家の邪説を批判して、君子の役目はそのような無益な邪説に明察であることではないと説く内容は、非十二子篇ほかの各篇における邪説批判にあるところと同じである。

儒效篇第八(4)

「私はいま身分賤しいが、尊貴となりたい。愚かであるが、知者となりたい。貧困であるが、富を得たい。可能であろうか?」と問うだろうか。ならば答えよう、そのためには、学ぶことが唯一の道であると。学問とは、これをとりあえず実践すれば、士(し)(注1)となることができる。これを厚く慕って努力すれば、君子(くんし)(注1)となることができる。これを完全に理解すれば、聖人(せいじん)(注1)となることができる。上には聖人にまでなれるだろうし、下でも士・君子になれるだろう。これを禁じることなど、誰にもできはしない。これまでは頭のぼやけた街中の一般人であったのが、学問によってにわかに聖王の堯・禹にすら並ぶ智を身に付けるのだ。これぞ、賤しい者が尊貴となることではないか?これまでは家の門と家の部屋との区別すら考えても分からなかったのが、学問によってにわかに仁義に基づいて是非を分かち、天下を手のひらの上で回すことを白と黒とを見分けることぐらい簡単に行えるようになるのだ。これぞ、愚か者が知者となることではないか?これまでは何も持っていない人間であったのが、学問によってにわかに天下を治める道具(注2)がすべて自らに備わるようになるのだ。これぞ、貧困なる者が富裕となることではないか?いまここに人がいて、この者が突然千溢(せんいつ。二万両。重さで言えば320kg)の宝を持つようになれば、たとえこの者が見た目では物乞いをして食っていたとしても、世の人はこの者を富者と言うであろう。天下を治める道具という宝は、しかしながらこれを着ることもできず、これを食うこともできず、これを売ろうとしてもにわかに売ることもできないものである。なのに、世の人はこの宝を持つ者もまた、富者と言うであろう。それはどうしてであろうか?そのわけは、天下を治める道具という大富の器がまことに我が身にあるからでなくて何であろうか。これもまた、巨大なる富人と言うしかない。これぞ、貧困なる者が富裕となることではないか?

ゆえに君子は爵位がなくても貴く、禄がなくても富み、発言がなくても信じられ、怒りを見せなくても威厳があり、隠退して貧しい暮らしをしていても安らかに栄え、ただ一人で暮らしていても楽しむのである。これは、我が身の内に貴さ・富・重厚さ・厳格さの実質が極限まで積み上がっているからなのである。ゆえに「貴い名声は、仲間と徒党を組んで争うことによって得ることはできず、誇大な大言をもって有することはできず、重い権勢によって脅かすことはできず、必ずまずは己を誠にして、その後に自ずから成るのである」と言うのである。貴い名声とは、これを争えばすなわち失い、これを譲ればすなわち得られ、退いて譲ればかえって積み上がり、誇大に大言すればかえって虚しくなるだろう。ゆえに君子は努めて己の内を修め、外に向けて謙譲し、努めて徳を身に積んで、退いて譲ることを持って世に対処していくのである。このようにすれば、貴い名声が挙がることは日月のように明らかとなるだろうし、天下が己の名声に呼応する声は雷のように大きくなるであろう。『詩経』に、この言葉がある。:

深沢の奥に、鶴鳴かば
その声高く、天に聞こゆ
(小雅、鶴鳴より)

このように、なるであろう。だがつまらぬ人間は、この反対である。仲間と徒党を組んで、栄誉はいよいよ少なくなる。つまらぬ争いをして、名はいよいよ恥を受ける。安泰と利益を求めようとしてわずらわしく苦労しても、その身はいよいよ危うくなるのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

不良なる人民どもは、
相手のことを考えもせず、相(たが)いに怨むことばかり
爵を頂戴したとても、人に譲るを知ることなし
その果てに、己を亡ぼさん
(小雅、角弓より)

このように、なるであろう。


(注1)荀子の言う士・君子・聖人は、学問の理解の段階でありなおかつ国家における身分の格差でもある。現代的に言い換えれば「士」はノンキャリアの実務官僚、君子はキャリアの政策官僚、聖人はその頂点にある国家元首であろう。解弊篇(6)脩身篇(4)非相篇(5)の議論を参照。
(注2)原文読み下し「天下を治むるの大器」。つまり、仁義の正道、礼法の体系のことであり、前の(3)注1の「止まる所」のことである。
《原文・読み下し》
我賤にして貴、愚にして智、貧にして富まんことを欲す、可ならんや。曰く、其れ唯(ただ)學か。彼の學なる者は、之を行えば、曰(いわ)く士なり(注3)。焉(これ)を敦慕するは、君子なり。之を知るは、聖人なり。上は聖人と爲り、下は士・君子と爲る、孰(たれ)か我を禁ぜんや。鄉(さき)には混然たる涂(みち)の人なり、俄(にわか)にして堯・禹に並ぶ、豈に賤にして貴ならずや。鄉には門室(もんしつ)の辨を效(かんが)うるも、混然として曾(すなわ)ち決すること能わざるなり、俄にして仁義に原(もと)づき、是非を分ち、天下を掌上に圖回(えんかい)(注4)すること、黑白を辯ずるが而(ごと)し、豈に愚にして知ならざらんや。鄉には胥靡(しょび)(注5)の人なり、俄にして天下を治むるの大器舉(みな)此に在り、豈に貧にして富ならざらんや。今此に人有り、屑然(せつぜん)として千溢(せんいつ)の寶を藏せば、行貣(とく)して食すと雖も、人之をを富めりと謂わん。彼の寶なる者は、之を衣(き)るも衣る可からざるなり、之を食すも食す可からざるなり、之を賣るも僂(と)く售(う)る可からざるなり、然り而して人之を富めりと謂うは何ぞや、豈に大富の器、誠に此に在るがためならざらんや。是れ杅杅(うう)として亦富人のみ。豈に貧にして富ならずや。
故に君子は爵無くして貴く、祿無くして富み、言わずして信あり、怒らずして威あり、窮處して榮え、獨居して樂しむ。豈に至尊・至富・至重・至嚴の情、舉(みな)此に積むがためならざらんや。故(ゆえ)に曰く、貴名は比周を以て爭う可らざるなり、夸誕(かたん)を以て有す可らざるなり、埶重(せいじゅう)を以て脅す可からざるなり、必ず將(まさ)に此に誠にして然る後に就(な)らんとす、と。之を爭えば則ち失い、之を讓れば則ち至る。遵道(しゅんじゅん)(注6)なれば則ち積み、夸誕なれば則ち虛し。故に君子は務めて其の內を脩めて、之を外に讓り、務めて德を身に積みて、之に處するに遵道(しゅんじゅん)(注6)を以てす。是(かく)の如くなれば則ち貴名の起ること日月の如く、天下の之に應ずること雷霆(らいてい)の如し。故(ゆえ)に曰く、君子は隱にして顯、微にして明、辭讓にして勝つ、と。詩に曰く、鶴九皋(きゅうこう)に鳴きて、聲天に聞こゆ、とは、此を之れ謂うなり。鄙夫は是に反す。比周して譽(ほまれ)(注7)俞(いよいよ)少く、鄙爭(ひそう)して名俞(いよいよ)辱しめられ、煩勞(はんろう)以て安利を求めて、其の身俞(いよいよ)危し。詩に曰く、民の良無き、一方を相怨む、爵を受けて讓らず、己斯(ここ)に亡するに至る、とは、此を之れ謂うなり。


(注3)原文「曰士也」。「曰」の読み方には各説あり、(1)増注は、「曰」字を衍字とみなす。(2)物を列挙するときに添える語として、「いわく」と読む。藤井専英氏は別見解として「いわく」と読む例を示す。(3)語助として「ここに」と読む。藤井専英氏はこのように読み下す。(4)「すなわち」と読む。金谷治氏はこのように読み下す。どれでも構わないと考えるが、(2)が日常的な読み方と同じなのでこれに従いたい。
(注4)集解の兪樾は、「圖」の隷書字は「㘣」字と似ているのでこれを誤ったのであろう、と言う。「㘣」は「圓(円)」である。「圓回(円回)」は、円転の意。兪樾説に従う。なお漢文大系は字を改めず、「天下を掌上に回(めぐ)らすを圖(はか)る」と読み下している。
(注5)楊注は、「胥靡は刑徒の人なり」と言う。集解の王引之は楊注に反対して、「胥」は疏、「靡」は無、と言う。空っぽで何もないこと。王引之説を取る。
(注6)集解の王念孫は、「道」はまさに「遁」となすべし、遵遁は逡巡なり、と言う。しりぞき、ゆずること。王念孫説に従う。
(注7)集解の王念孫は、「譽」はすなわち「與」字なり、と言う。與(与)は党与、すなわち仲間・同志のこと。新釈は素直に名誉の意に取って、「ほまれ」と訓ずる。新釈を取っておく。

ここは、勧学篇以下の各篇において説かれる、学んで君子となり人間を完成させることへの勧めと一致した内容である。ここだけ取り出して読めば、孟子の議論と何ら変わることがない。荀子の独自な点といえば、百王の礼法への理解の程度によって聖人・君子・士の三段階を分ける議論がある。この三段階論は国家システムの中の身分秩序と対応させた議論であって、孟子にはない国家制度の具体的な構想を論じたものである。続く叙述において、さらに展開される。

儒效篇第八(5)

それゆえ、能力が小さいくせに大きな事業を行うことは、たとえるならば非力なくせに重い荷物を持つようなものであって、体がへし折れるばかりで全く前に進むことなどできないのだ。また自分は愚者であるのに賢者のふりをするのは、せむしの体の者が高い所に登りたがるようなものであって、登ってみたところでその滑稽な様を指してあざ笑う者をますます引き寄せるばかりなのだ。ゆえに、明主が各人の徳を判定して、それらの徳に応じて身分の序列を定めるのは、身分秩序を乱さないためなのである。忠臣が本当に能力があってはじめて職務を受け取るのは、過分の職務を引き受けてしまって行き詰るようなことにならないためなのである。上が身分をきちんと定めて乱さず、下が能力応分の職務を得て行き詰らないのは、治世の極みである。『詩経』に、この言葉がある。:

左右の臣を、平らに治め
みな率いて、従えり
(小雅、采菽より)

この言葉は、上と下の身分秩序が互いに乱れない姿を表したものなのだ。

世間の風俗に従うことを善となし、財貨を宝と考え、衣食して命をつなぐことを自分の唯一の道と考える。これは、一般人民の徳である。行いを正しくして志を堅く持ち、私欲によって聞いた教えを乱したりはしない。このようであれば、勁士(けいし)すなわち志操堅固の士というべきである。行いを正しくして志を堅く持ち、聞いた教えをよく消化して自らを修めることを好み、これによって己の「情」と「性」(注1)を矯正して飾り立て、言う言葉の多くは道理に当たっているがまだ道理を完全に理解するまでは至っておらず、行う行動の多くは道理にかなっているがまだ道理の中に完全に我が身を安定させるまでには至っておらず、その知慮の多くは道理に従っているがまだ細かな点まで完全とはいえず、上に対しては己が尊ぶべき存在を尊重し、下に対しては己に及ばない存在を教えて導く。このようであれば、篤厚の君子というべきである。いにしえの王たち(注2)の礼法を修めることを白と黒とを見分けるがごとくに容易に行い、時々の変化に対応することを「一、二」と数えるがごとくに容易に行い、礼義を行い節文を取り入れてこれの中に我が身を安定させることを自分の手足を動かすように容易に行い、時宜に応じて功績を挙げる巧妙さを示すことを四季が巡り来るように自然に行い、天下を平らかに治めて人民を和親させることを億万の衆がいても一人を使うかのように容易に成し遂げる。このようであれば、聖人というべきである。道理がある様はまことに端正であり、己を謹む様はまことに厳格であり、事業の始めと終わりを区切る様は截然としていて、安定を長く持続できる様はまことに平静であり、正道を執って怠らない様はまことに安楽であり、明らかに知を用いる様はまことに明白であり、法の大綱と法判断(注3)を実施する様はまことに整然としていて、美しく文飾を用いる様は安泰そのものであり、人の善を楽しむ様は和やかで楽しみ、人の不当を恐れる様は憂えて心を悼ませる。このようであれば、聖人というべきである。聖人がこのようであるのは、その道が一つのものから出るからなのだ。その一つのものとは、何を言い表すのか?それは、「神」(注4)を選んで「固」であることを言う。その「神」とは、何を言い表すのか?善を尽くしてこれをあまねく行き渡らせることを「神」と言い、どのような物であっても心をゆらぎ傾けるには足りないことを「固」と言うのだ。「神」に「固」であれば、これを聖人というべきである。聖人とは、正道の要である。天下の正道は聖人を要となし、いにしえの王たち(注2)の正道もまた聖人の内に一つとなっているのだ。ゆえに、わが文明の精髄である詩・書・礼・楽の文化は、すべて聖人を源とするのである。『詩経』は聖人の志を述べたものであり、『書経』は聖人の業績を記録したものであり、礼義は聖人の行動規則を示したものであり、音楽は聖人の調和の試みを示したものであり、そして『春秋経』は聖人の主張を微妙な言葉で記したものなのである。ゆえに、『詩経』の国風(こくふう)(注5)が乱れず風雅であるわけは、聖人の道にならって編集したからである。小雅(しょうが)が小雅であるわけは、聖人の道にならってこれを美しく飾ったからである。大雅(たいが)が大雅であるわけは、聖人の道にならってこれを大いに言挙げしたからである。そして頌(しょう)が盛徳の極地であるわけは、聖人の道にならってこの道で貫いたからである。天下の正道は、聖人の道に尽きるのである。これに向けて進む者には幸福があり、これに背く者は滅びる。聖人の道に向けて進みながら幸福を得ず、聖人の道に背きながら滅びなかった者は、いにしえから現代に至るまでいまだかつてない。


(注1)「情」と「性」は荀子の性悪説において、「偽(い)」によって矯正するべき本能的衝動である。正名篇の「情」・「性」の語の定義、および性悪篇の議論を参照。
(注2)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
(注3)原文「統類」。解蔽篇(6)注3を参照。
(注4)荀子は「神」の字を精神や自然の精妙なはたらきの意味に用いて、超自然的存在の意味に用いない。
(注5)『詩経』は、国風・小雅・大雅・頌の四部に分かれる。国風は周王朝の下の各封建国において収録された歌謡。小雅・大雅は周王朝の宴席で歌われた歌謡であるという。頌は周・魯・殷(商)の三国の宗廟で舞とともに奏でられた歌謡という。
《原文・読み下し》
故(ゆえ)に能小にして事大なるは(注6)、之を辟(たと)うるに是れ猶お力の少にして任の重きがごときなり、粹折(さいせつ)を舍(お)きて適(ゆ)くこと無きなり。身不肖にして賢を誣(し)うるは、是れ猶お傴伸(うしん)にして高きに升(のぼ)るを好むがごとく、其の頂を指す者愈(いよいよ)衆(おお)し。故に明主の德を譎(けつ)して位を序するは(注7)、亂れざるを爲す所以なり。忠臣は誠に能にして、然る後に敢て職を受くるは、窮せざるを爲す所以なり。分上に亂れず、能下に窮せざるは、治辯の極なり。詩に曰く、左右を平平(べんべん)す、亦是れ率(したが)い從(したが)う、とは、是れ上下の交(こもごも)相亂れざるを言うなり。
從俗を以て善と爲し、貨財を以て寶と爲し、養生を以て己が至道と爲すは、是れ民の德なり。行(おこない)法(ただ)しく(注8)至(こころざし)堅く(注9)、私欲を以て聞く所を亂さず、是の如くなれば、則ち勁士(けいし)と謂う可し。行(おこない)法(ただ)しく(注8)至(こころざし)堅く(注9)、好んで其の聞く所を脩正して、以て其の情性を橋飾し、其の言多く當る、而(しか)も未だ諭(さと)らず、其の行多く當る、而も未だ安んぜず、其の知慮多く當る、而も未だ周密ならず、上は則ち能く其の隆(とうと)ぶ所を大にし、下は則ち能く己に若(し)かざる者を開道す、是の如くなれば、則ち篤厚の君子と謂う可し。百王の法を脩むること、白黑を辨ずるが若く、當時の變に應ずること、一二を數うるが若く、禮を行い節を要(むか)え(注10)之に安んずること、四枝を生(めぐ)らす(注11)が若く、時を要(むか)え(注10)功を立つるの巧は、四時を詔(つ)ぐるが若く、平正和民の善は、億萬の衆にして、博(もっぱ)ら(注12)一人の若し、是の如くなれば、則ち聖人と謂う可し。井井(せいせい)として其れ理有るなり、嚴嚴(げんげん)として其れ能く己を敬するなり、分分(ふんぶん)として其れ終始有るなり、猒猒(えんえん)として其れ能く長久なり、樂樂(らくらく)として其れ道を執(と)りて殆(おこた)らず、炤炤(しょうしょう)として其れ知を用うること之れ明(あきら)かなり、脩脩(しゅうしゅう)として其れ統類を用いること之れ行わるなり、綏綏(すいすい)として其れ文章有るなり、熙熙(きき)として其れ人の臧(よ)きを樂しむなり、隱隱(いんいん)として其れ人の不當を恐るるなり、是の如くなれば、則ち聖人と謂う可し。此れ其の道一に出ず。曷(なに)をか一と謂う。曰く、神を執りて固なるなり。曷をか神と謂う(注13)。曰く、善を盡(つ)くして治を挾(あまね)く(注14)する、之れを神と謂い(注15)、萬物以て之を傾くるに足ること莫き、之を固と謂う。神・固、之を聖謂う。聖人なる者は、道の管なり。天下の道は是(ここ)に管し、百王の道も是に一なり。故(ゆえ)に詩・書・禮・樂は之れ是(ここ)に歸す。詩は是れ其の志を言うなり、書は是れ其の事を言うなり、禮は是れ其の行を言うなり、樂は是れ其の和を言うなり、春秋は是れ其の微を言うなり。故(ゆえ)に風(ふう)の不逐爲(た)る所以の者は、是(ここ)に取りて以て之を節すればなり。小雅(しょうが)の小雅爲(た)る所以の者は、是に取りて之を文(かざ)ればなり。大雅(たいが)の大雅爲(た)る所以の者は、是に取りて之を光(おお)いにすればなり、頌(しょう)の至(し)たる所以の者は、是に取りて之を通ずればなり。天下の道是(ここ)に畢(つ)く。是(これ)に鄉(むか)う者は臧(よ)く、是に倍(そむ)く者は亡ぶ。是に鄉いて臧からず、是に倍きて亡びざる者は、古自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て有らざるなり。


(注6)原文「故能小而事大」。宋本は「不」字があって「故不能小而事大」に作る。新釈の藤井専英氏は宋本を尊重して、「故(こ)に小にして大を事(こと)とする能わず」と読み、この語が古語からの引用であると解釈している。
(注7)集解の王先謙は「譎は決なり」と言う。儒效篇(3)注7を参照。ここではさきの楊注或説に沿う。
(注8)集解の王念孫は、「法」は「正」なり、と言う。これに従う。
(注9)集解の王先謙は、『荀子』においては「至」字と「志」字は通じる、と言う。正論篇(2)注9参照。これに従う。
(注10)楊注は、「要は邀なり」と言う。むかえる。
(注11)増注は「韓詩外伝は、生を運に作る」と言う。これに従う。
(注12)集解の王念孫は、「博」は「摶(せん)」の誤りで、摶はすなわち専一の専、と言う。もっぱらにすること。
(注13)原文に沿って訳すと上の訳のようになって、どこかに「固」字が入るべきである。金谷治氏は、「曷をか神と謂う」と補うべきであると言う。注15につづく。
(注14)楊注は、「挾」は読んで「浹」たり、と言う。あまねくする。
(注15)注13のつづき。集解の王引之は、この後に「曷謂固曰」の四字を入れるべきであると言う。もしこの四字を入れるならば、読み下しは「、、之れを神と謂う。曷をか固と謂う。曰く、萬物以て、、」となるだろう。

ここは、『荀子』の他篇でもあらわれる人間の段階論を述べている。学ばず生まれたままの「性」「情」のままにいるのは小人・俗人であり、統治階級の下に置かれて統治される。統治階級の最下層が「士」、より高い段階が「君子」、頂点の統治者が「聖人」と呼ばれる。小人・俗人から「士」「君子」「聖人」に進むためには、学ぶことによって「偽(い)」を身に付けなければならない。「偽」とは人間を自然状態の争いから引き離して平和な社会を作るために制定される人為的諸制度のことであり、上の荀子の言葉で「詩・書・礼・楽」と具体的に指定されているものが、それに当たる。これらへの理解の深さによって、「士」・「君子」・「聖人」の三段階が分かれる。荀子は「聖人」を各々の時代における最高の智徳を備えた存在であり、すべての「偽」の制定者であると想定する。荀子にとっては君主は「聖人」でなければならず、「士」・「君子」の上に立つべき最高の能力が求められるからである。以上のことは、性悪篇および富国篇を参照いただきたい。

荀子の段階論は、「偽」を学ぶ深さによって人間の身分を振り分けて、世襲的要素はそこに見られない。後世の中華帝国で採用された科挙の制度や、現代の官僚採用試験を理念的に先取りしたものであるといえるだろう。だが荀子は身分の最上位の君主にすら「聖人」として最高の智徳を求めるものであって、より徹底した実力主義である。

儒效篇第八(6)

ある人が、「孔子は、『周公は偉大である。その身が高貴となってますます恭しくなり、その家が富んでますます倹約となり、その敵に勝利してますます用心した』と言ったとか」と言った。私は、これにこう答えた、「それは、周公が行ったことにほとんど当てはまらないし、孔子が言った言葉とも思えません。武王が崩御したとき、子の成王(せいおう)は幼少でした。それで周公は成王をあえて退けて武王の統治を継承し、天子の地位を継承し、屏風を背にして坐し、諸侯は周公のいる堂の下で趨走(すうそう。家臣が主君の前で駆け足すること)の礼を行いました。この時期の周公を、いったい誰が恭しい態度だと言えますか?周公は天下全てを掌握して七十一の封建国を創立し、そのうち姫姓(きせい。周王室の姓)だけが五十三ヵ国を占めて、周王室の子孫は狂気惑乱の者でない限りすべて天下の大諸侯に封じられました。この時期の周公を、いったい誰が倹約だと言えますか?さて、彼の兄の武王が殷の紂王を討伐したいきさつを話しましょう。武王は兵を忌む凶日に行軍を始め、太歳(たいさい)(注1)に向かって東に進み、氾水(はんすい)にさしかかったときには川が氾濫し、懐(かい)の地に至ると道が壊れ、共頭に至ると山崩れが置きました。霍叔(かくしゅく)(注2)は恐怖して言いました、『行軍を始めてから三日で、五つの災いがありました。これは、討伐をやってはならないのではないですか?』と。しかし周公は言いました、『紂は、比干(ひかん)の胸を割いて箕子(きし)を幽閉し(注3)、飛廉(ひれん)と悪来(あくらい)(注4)に政治を行わせています。これを討伐してはならない、などということがありますか?』と。こうしてついに馬を整えて進撃し、朝に戚(せき)の地で食事を行い、暮に百泉(ひゃくせん)の地で宿営し、つづく早朝に牧(ぼく)の野で殷軍を制圧しました。殷軍に対して太鼓を打って攻撃したら、紂王の兵は攻めることをやめて逃亡を始め、ここに殷人の敗走に乗じて紂王を討伐しました。つまり、周人の兵が紂王を殺したのではなく、殷人がこれを見捨てて殺してしまったというわけです。なので、戦いの後には敗れた殷軍からは首級も捕虜もなく、勝った周軍には困難に奮戦したための恩賞もありませんでした。こうして武王の周軍は国都に戻り、三防具(注5)をしまい、五兵器(注5)を伏せて、天下を合一して、声楽を制定しました。ここにおいて武象(ぶしょう)が制定されて、韶護(しょうかく)はすたれていきました(注6)。四海の内の万民はことごとく心を変えて考えを改め、すべてが周王朝に教化されて恭順しました。それゆえ家の扉は閉められることもなく、天下からはすべての境界が撤廃されました。この時期の周公を、いったい誰が用心しているなどと言えますか?」と。


(注1)太歳とは、木星のこと。増注は、「太歳を迎えて之を伐たば、必ず其の凶を受く」と言う。
(注2)霍叔は、武王の弟。
(注3)比干・箕子は殷の王族で、紂王の迫害を受けた。議兵篇(5)注8参照。
(注4)飛廉・悪来(おらい、とも読まれる)は親子で、ともに殷の紂王の家臣。解蔽篇(2)注3参照。
(注5)原文「三革」および「五兵」。三種類の革製の防具と、五種類の兵器。三革について楊注は犀・兕(じ。水牛)・牛の説と甲・冑・盾の説を挙げる。五兵には諸説ある。栄辱篇(1)注1参照。
(注6)武象は、武王が殷を討った後に制定された音楽。韶護は、殷の音楽。猪飼補注は、周は六代の楽を兼用したので、この言葉は新楽が起こって古楽がおのずから廃れたことを言う、と注している。
《原文・読み下し》
客道(い)える有りて曰く、孔子曰く、周公は其れ盛なるかな。身貴くして愈(いよいよ)恭しく、家富みて愈儉に、敵に勝ちて愈戒む、と。之に應じて曰く、是れ殆(ほとん)ど周公の行に非ず、非孔子の言に非ず。武王崩じて、成王幼なり。周公成王を屏(しりぞ)けて(注7)武王に及(つ)ぎ、天子の籍を履(ふ)み、扆(い)を負いて坐し、諸侯堂下に趨走(すうそう)す。是の時に當りてや、夫れ又誰か恭と爲さんや。天下を兼制し、七十一國を立て、姬姓獨り五十三人に居る。周の子孫、苟(いやし)くも狂惑ならざる者は、天下の顯諸侯と爲らざるは莫し、孰(た)れか周公を儉なりと謂わんや。武王の紂を誅するや、行くの日兵忌(へいき)を以てし、東面して太歲(たいさい)を迎え、汜(はん)(注8)に至りて汎(はん)し、懷(かい)に至りて壞し、共頭に至りて山隧(お)つ。霍叔(かくしゅく)懼れて曰く、出ずること三日にして五災至る、乃ち不可なること無からんか、と。周公曰く、比干(ひかん)を刳(こ)して箕子(きし)を囚(とら)え、飛廉(ひれん)・惡來(あくらい)政を知る、夫れ又惡(いずく)んぞ不可なること有らんや、と。遂に馬を選(ととの)えて進み、朝に戚(せき)に食し、暮に百泉(ひゃくせん)に宿し、旦(あした)に牧(ぼく)の野に厭(あつ)し(注9)、之を鼓して紂の卒鄉(むか)うところを易え、遂に殷人に乘じて紂を誅す。蓋し殺す者は周人に非ず、殷人に因るなり。故に首虜の獲無く、蹈難(とうなん)の賞無し。反(かえ)りて三革(さんかく)を定(や)め(注10)、五兵を偃(ふ)し、天下を合して、聲樂を立つ。是に於て武象(ぶしょう)起りて韶護(しょうかく)廢せられ、四海の內、心を變じ慮を易(か)え以て之に化順せざること莫し。故に外闔(がいこう)は閉じず、天下に跨(また)がりて蘄(き)(注11)無し。是の時に當りてや、夫れ又誰か戒を爲さんや、と。


(注7)「屏」字を「しりぞく」と読む。儒效篇(1)注3参照。
(注8)集解の盧文弨・王念孫は「汜」は「氾」に作るべし、と言う。「氾」は川の名。
(注9)原文「厭旦於牧之野」。集解の兪樾は、「厭旦」はまさに「旦厭」に作るべきであり、「厭」は読んで「壓」となすべし、と言う。つまり、早朝に牧(ぼく)の野で殷軍を制圧した、と解する。これに従う。
(注10)楊注は、「定」は「息」と言う。やめる。
(注11)集解の劉台拱は、「蘄」は「圻」と同じと言う。「圻」は境界のこと。

ここは、正論篇のスタイルを踏襲して、異論に対する荀子の反論が置かれている。いったい荀子は、何の異論を斥けようとしているのであろうか?それは、聖人である周公の治世は完全であり、完全な治世においては敵は絶滅するために、為政者は正しい政治を行うだけで天下は完全に安定する。ゆえに、一切の警戒は必要ないのだと言いたいのである。荀子は聖人が天下の頂点に立つ統一帝国の治世を完全無欠な政体と想定するために、このような反論を行うのだ。もとより聖人の治世の下でも人間の欲望が消えることはありえず、法に違反する者が絶えるわけでもない。しかしそれに対しては、各人の能力に応じて身分と禄が比例的に与えられるために欲望は秩序づけられて、法に違反する者には厳罰が正しく施行されるので秩序は保たれる、と言うであろう。詳細な叙述は、正論篇に表われている。

荀子は、聖人の治世をこのように完全に合理的に運営される国家システムとして想定する思想家である。現代にこれを読む者にとっては、その限界は明らかであろう。その限界を持った思想家として、批判するところは批判して、その上で現代人にとっても啓蒙されるところを救い出して読まなければならない。

儒效篇第八(7)

造父(ぞうほ)(注1)は、天下の御者で最上の人間である。だが、車と馬が与えられなければその能力を示すことはできない。羿(げい)(注2)は、天下の弓手で最上の人間である。だが、弓と矢が与えられなければその能力を示すことはできない。大儒は、最もよく天下を調和させて統一させる人間である。だが、百里四方の土地が与えられなければその功績を示すことはできない(注3)。だが堅固な車とよく整えた馬を揃えて、それで一日千里の遠くまで走ることができないならば、造父とはいえない。よく整えた弓と真っ直ぐな矢を揃えて、それで遠くにある小さな的を射抜くことができないならば、羿とはいえない。そして百里の土地を与えられて、それで天下を調和させて統一し、強暴なる者を制圧することができなければ、大儒とはいえない。この大儒という存在は、たとえ貧民街の陋屋に隠棲して、錐を立てる土地すら持っていなくても、王公ですら名声を争うことができず、大夫程度の位階であったとしても、一人の君主も手元に置き続けることができず、その名声は諸侯を凌駕して、諸侯は競ってこれを家臣とすることを願わずにはいられない。だから大儒がたった百里四方の土地を用いたとしても、千里四方の国はこれと勝負することもできず、強暴の国を鞭で叩いて使役し天下を斉一して、この国を傾けることができる敵などはいなくなるのである。これが、大儒の証拠である。大儒の言葉は正しい分類に従い、大儒の行為は礼義に従い、大儒が行動を起こすときにはいかなる後悔もありえず、大儒が難事に当たるときには変化に応じてことごとく適切な措置を行い、時とともに応変し、世とともに応変し、千事に万変するも、その取る道は一つで何の変化もない。これが、大儒の行為である。大儒が窮迫すると、俗儒どもはこれを笑う。しかし大儒がことをうまく成し遂げると、英傑でもこれに教化され、無茶苦茶な人間どもはこれから逃れ、邪説を立てる者どもはこれを恐れ、一般人たちはこれの偉大さを見て自ら恥じ入るのである。ことを成し遂げるときには天下を統一し、しかし窮迫するときには一人でその貴い名声を立てる。天であってもこれを死に追いやることはできず、地であってもこれを埋め去ることはできず、桀(けつ。代表的な悪王)・盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)のはびこる末世であっても、これを汚すことはできない。大儒でなければ、このような姿で世に立つことはできはしない。仲尼(ちゅうじ)・子弓(しきゅう)(注4)が、これに当たるのである。

ゆえに、俗人がいて、俗儒がいて、雅儒がいて、大儒がいる。学問をせず、正義もなく、富と利益を尊ぶ者。これが、俗人である。ゆるやかな衣に薄い帯をしめ、冠を高く被り、大方は先王の道に則りながら理解不十分ゆえにかえって社会の統治術を乱し、誤った学問を雑駁に列挙し、現代の君主(注5)に則って国家の制度を斉一するべきなのに、そのことを知らず、まず尊ぶのは礼義であって『詩経』『書経』の学問はその後に置くべきなのに、そのことを知らず、その衣冠と行為はすでに世俗の者と同じなのに、それを憎むことを知らず、その言葉と弁論はすでに邪説の墨子(ぼくし)と同じなのに、邪説と正道とを分ける見識力を持たず、先王のことを口に出して愚者を欺き、衣食を要求し、財貨を得て口を養うことができれば上機嫌となり、諸侯の太子に付き従い、諸侯にへつらう側近どもに仕え、諸侯の有力な食客どもを褒め称え、平然として諸侯の終身の捕虜のように従って、それ以上の志を持たない者。これが、俗儒である。次に、現代の君主に則って国家の制度を斉一にし、礼義を尊んで『詩経』『書経』の学問は後回しにして、その言葉と行動には大いなる礼法が示されているが、しかしながらその見識力はいかなるときにも斉一であるまでには至らず、礼法と教えが及ばない事象とか、あるいは見聞がまだ得られない事象などに直面したときには、これらを類推によって正しく判断するだけの知を得るには至らない。ゆえに、知っているものは知っていると言い、知らないものは知らないと正直に言う(注6)。その心中は他人を誹謗することなく、また他人によってその心中が欺かれることもない。こうして賢者を尊んで礼法を畏れて、怠けることも傲慢となることもしない者。これが、雅儒である。先王に則って礼義を統制し、制度を斉一して、身近な情報から深遠な知識を獲得し、いにしえの礼法の原理に沿って現代の事象を理解し、一つの正道に沿って万物を理解し、いやしくも仁義の正道に沿った事象であるならば、たとえ鳥や獣のことであってもそれが本当のことか誤った情報であるかを白と黒を分けるように容易に判別し、それどころかいまだかつて見たことのない事象が突然あるところで発生したとしても、それが入るべきカテゴリーを判断してその事象を分類してこれに対応し(注7)、疑心してためらうことなどはない。礼法を万物に張り巡らせて、万物を礼法によって計量することによって、割符を合わせるかのように見事に正しく理解して判断する。これが、大儒である。ゆえに、君主が俗人を登用すれば、万乗(ばんじょう)の国(注8)ですら滅亡するであろう。俗儒を登用すれば、万乗の国はようやく存続できるに留まるであろう。雅儒を登用すれば、千乗の国は安泰となるであろう。そして大儒を登用すれば、百里四方の小国であっても長らく存続できて、しかも三年の後には天下を統一して、諸侯をその家臣とすることができるだろう。であるから大儒がもし万乗の国に登用されたならば、その挙動一つで天下は平定され、一日にしてその功績は明らかとなるであろう。


(注1)造父は、有名な御者。性悪篇(6)注5参照。
(注2)羿は、伝説の弓の名人。
(注3)孔子・子弓は大儒であったが、政治を執るための土地を与えられなかったので天下を平定する功績を挙げることができなかった、と言いたいのである。つまり、荀子が大儒と称えるが天下平定の功績を挙げられなかった孔子・子弓を弁護するためのエクスキューズとして、この前置きがある。
(注4)仲尼は、孔子の字(あざな)。子弓は、詳細不明。非相篇(1)コメントの考証を参照。
(注5)原文「後王」。後王が指す対象についての考証は、非相篇(3)コメント参照。本サイトでは、現代の君主の意味に取る。
(注6)原文読み下し「之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰う」。論語為政篇の「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是(これ)知なり」を想起させる。しかし荀子の分類では、この段階の知では雅儒であり、俗儒より上であるが完全とはいえない。大儒は以下に述べるように完全な判断力を持つ者であって、「知らざる」ことに直面しても完全に正しい類推を行うことができる者であり、よって「知らず」と言うことなどありえないと言うのである。荀子は大儒(聖人と言い換えてよい)が一般の雅儒(士・君子と言い換えてよい)を凌駕する完全な知の保有者であることを主張するために、このような非現実的な叙述を大儒に当てはめる結果となる。
(注7)原文読み下し「統類を舉げて之に應じて」。未知の事象に直面したとき、それが入るべきカテゴリーを判断して分類し、理解可能な事象に位置づける。ここで荀子は、既知のカテゴリーに当てはめて未知の事象を理解する、という固定的な認知の構造を言っている。未知の事象に直面することによって既知のカテゴリーがゆらぎ、結果として新しいパラダイムが発生する、というパラダイム・シフトの可能性は、全く想定されていない。
(注8)万乗の国とは戦車一万台を用意できる国、という意味で、戦国時代における大国の代名詞。つづく千乗の国は、よって中規模の国の代名詞である。
《原文・読み下し》
造父(ぞうほ)なる者は天下の善く御する者なり、輿馬無ければ則ち其の能を見(あら)わす所無し。羿(げい)なる者は天下の善く射る者なり、弓矢無ければ則ち其の巧を見わす所無し。大儒なる者は善く天下を調一する者なり、百里の地無ければ則ち其の功を見わす所無し。輿は固く馬は選びたり、而(しか)も以て遠きを至(いた)して一日にして千里なること能わざれば、則ち造父に非ざるなり。弓は調(ととの)い矢は直くして、而も以て遠きを射て微に中(あ)つること能わざれば、則ち羿に非ざるなり。百里の地を用いて、而も以て天下を調一し、强暴を制すること能わざれば、則ち大儒に非ざるなり。彼の大儒なる者は、窮閻(きゅうえん)・漏屋(ろうおく)に隱れ、置錐(ちすい)の地無しと雖も、而も王公も之と名を爭うこと能わず、一大夫の位に在るも、則ち一君も獨り畜(とど)むること能わず、一國も獨り容るること能わず、成名は諸侯より況(さかん)にして、得て以て臣と爲すことを願わざる莫し。百里の地を用いて、而も千里の國能く之と勝を爭うこと莫く、暴國を笞棰(ちすい)し、天下を齊一して、而も能く傾くる莫し、是れ大儒の徵(ちょう)なり。其の言は類有り、其の行は禮有り、其の事を舉(あ)ぐるや悔無く、其の險を持するや變に應じ曲(つぶ)さに當り、時と遷徙(せんし)し、世と偃仰(えんぎょう)し、千舉萬變するも、其の道一なり。是れ大儒の稽(けい)なり。其の窮するや俗儒之を笑うも、其の通ずるや英傑も之に化し、嵬瑣(かいさ)(注9)は之を逃れ、邪說は之を畏れ、衆人は之を愧ず。通ずれば則ち天下を一にし、窮すれば則ち獨り貴名を立つ。天も死せしむること能わず、地も埋むること能わず、桀(けつ)・跖(せき)の世も汙(けが)すこと能わず、大儒に非ざれば之に能く立つこと莫し、仲尼(ちゅうじ)・子弓(しきゅう)是れなり。
故に俗人なる者有り、俗儒なる者有り、雅儒なる者有り、大儒なる者有り。學問せず、正義無く、富利を以て隆(とうと)しと爲す、是れ俗人なる者なり。逢衣(ほうい)・淺帶(せんたい)、其の冠を解果(かいら)(注10)にし、略(ほぼ)先王に法(のっと)りて而も世術を亂すに足り、繆學(びゅうがく)雜舉(ざっきょ)し(注11)、後王に法りて制度を一にするを知らず、禮義を隆(とうと)びて詩書を殺(そ)ぐ(注12)ことを知らず、其の衣冠・行僞(こうい)は、已(すで)に世俗に同じ、然り而(しこう)して惡[者](にく)む(注13)ことを知らず、其の言議・談說は、已に墨子に異なること無し、然り而して明(めい)は別(わ)くること能わず、先王を呼び以て愚者を欺き、衣食を求め、委積(いし)を得て以て其の口を揜(おお)うに足れば、則ち揚揚如(ようようじょ)たり。其の長子に隨い、其の便辟(べんべい)に事(つか)え、其の上客を舉(ほ)め、億(*)然(おくぜん)(注14)として終身の虜の若くにして、敢て他志有らず、是れ俗儒なる者なり。後王に法り制度を一にし、禮義を隆びて詩書を殺(そ)ぎ、其の言行は已に大法有り、然り而して明は齊(ひと)しくすること能わず、法敎の及ばざる所、聞見の未だ至らざる所は、則ち知は類すること能わざるなり。之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰う、內は自ら以て誣いず、外は自ら以て欺かず、是を以て賢を尊び法を畏れて敢て怠傲せず、是れ雅儒なる者なり。先王に法り禮義を統べ、制度を一にし、淺を以て博を持し、古を以て今を持し、一を以て萬を持し(注15)、苟(いやしく)も仁義の類なれば、鳥獸の中に在りと雖も,白黑を別つが若く、倚物(きぶつ)・怪變(かいへん)の、未だ嘗て聞かざる所、未だ嘗て見ざる所、卒然として一方に起これば、則ち統類を舉げて之に應じて、儗㤰(ぎたい)(注16)する所無し。法を張りて之を度(はか)れば、則ち晻然(えんぜん)として符節を合するが若し、是れ大儒なる者なり。故に人主俗人を用うれば、則ち萬乘の國亡び、俗儒を用うれば、則ち萬乘の國存し、雅儒を用うれば、則ち千乘の國安く、大儒を用うれば、則ち百里の地も久しく、而(しか)も後(のち)三年にして、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。萬乘の國を用うれば、則ち舉錯(きょそ)して定まり、一朝にして伯(あきら)かなり(注17)

(*)原文は「にんべん+患」。CJK統合漢字および同拡張Aにないので、やむなく代用する。

(注9)「嵬瑣」は、大につけ小につけ無茶苦茶な行いをすること(人)。非十二子篇(1)注10参照。
(注10)「解果」について楊注本説、増注は未詳と言う。集解の盧文弨は楊注或説の『説苑』の引用から、蠏螺(蠏堁)となすべし、と言う。蠏螺は高地のこと。増注は非十二子篇で「其の冠を弟佗(ていた)にし」とあり、
解果が弟佗と関係があるかもしれない可能性を示唆している。弟佗は、だらしなくゆるんでいること。漢文大系・新釈は蠏螺の方向で解釈しいて、金谷治氏は弟佗の方向で解釈している。いちおう蠏螺の意味とみなしておく。
(注11)ここまで原文「而足亂世術繆學雜舉」。猪飼補注は『韓詩外伝』の引用に「舉」字がなく、この字おそらく衍字と言い、「而足亂世、術繆學雜[舉]」と区切る。読み下せば、「世を乱すに足り、術は繆に、学は雑にして」となるだろう。金谷治氏はこの読み方に沿っている。しかし、「舉」字を衍字とみなさず読む楊注を採用する漢文大系および新釈に賛同したい。
(注12)集解の郝懿行は「殺」字はけだし「敦」字の誤り、と言う。漢文大系はこれに従っている。金谷治氏および新釈の藤井専英氏は「殺」字をそのまま減殺の意に解している。両者ともに勧学篇において礼義を尊ばずに詩書に従うだけの儒者を「陋儒」と批判していることをその根拠として挙げる。「下禮を隆ぶこと能わず、安(すなわ)ち特(ただ)に將(まさ)に雜[識]志を學び、詩書に順(したが)わんとするのみ。則ち末世窮年まで、陋儒(ろうじゅ)爲ることを免れざるのみ」(勧学篇(4))。金谷・藤井説に従う。つづく「殺」字も同様。
(注13)原文「然而不知惡者」。増注、集解の王念孫ともに「者」字は衍字と言う。
(注14)集解の王念孫は、「にんべんの右に『立+患』」字の誤りか、と言う。この字は「億」字に通じ、「安」の意である。よって「億然」「安然」、すなわち平然の意に取る。
(注15)楊注はここまでのくだりについて、「先王」はまさに「後王」となすべく、「古を以て今を持し」は「今を以て古を持し」となすべし、と注している。ここのくだりは、藤井専英氏の指摘するように、非相篇末尾の文章「近きを以て遠きを知り、一を以て萬を知り、微を以て明を知る」に対応したものであろう。だが非相篇においては古い時代よりも後王を参照するべきだ、と言っているために、楊注はかくのごとき入れ替えを主張しているに違いない。楊注のように入れ替えたほうが、確かに解釈としては分かりやすい。しかし増注の久保愛が言うように、荀子の本意は先王の道を勧めるものであって、その上で後王の道もまた先王の道と合致しているからこれに則ることは正しいと言っているのである。なので久保愛は「本注(楊注のこと)は拘(なず)むなり」と言って、楊注が他篇の言葉に拘泥している、と評している。確かに原文のままに後王=雅儒、先王=大儒、と対比させたほうが文章として美しく、しかも著者の本意を示すことができるだろう。なので、原文のままにしておく。
(注16)原文の「㤰」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。増注は「㤰」はまさに「慸」字に作るべく、「慸
」は「滞」と同じ、と言う。増注に従う。「儗滞」は、心に疑ってためらうこと。
(注17)原文「一朝而伯」。楊注は「伯」は読んで「覇」となす、と言う。集解の王念孫はこれに反対し、読んで「白」たるべしと言う。「白」は顕著、明らかの意。すなわち大儒が万乗の国を用れば覇者どまりであるはずがなく、一日で名声が天下に明らかとなるはずだと言うのである。王念孫説に従う。

俗儒を批判して孔子と子弓を賞賛することは、非十二子篇後半の叙述と共通している。後王に則るべきことは非相篇に共通しているが、注でも述べたところだが、荀子は後王(上の訳では、「現代の君主」とした)と先王とが同一の原理に従っていると考えるので、後王を肯定するのである。後王は先王よりも時代がより近くて、得られる情報がより明確であり、これの制度に見習うことは間違いではない。荀子はその理由で後王を肯定するのであって、荀子が後王に則るべきだと言うことは、先王の制度を軽視するべきだと言う意味では決してない。荀子はいにしえの時代から現代まで人間社会を統治する正道は一切変化していないと考える、歴史不変論者なのである。詳細は非相篇で検討した。

荀子が大儒の能力を非現実的なまでに過大評価している点においては、どうやら孟子と変わるところがないようだ。荀子の「百里四方の土地でも三年で天下を統一できる」といった言葉は、孟子の「文王を手本とすれば、大国は五年で必ず天下に政治を行えるようになり、小国でも七年で必ずそうなるであろう。」(離婁章句上、七)という言葉と何ら変わることがない。孟子も荀子も理想だけを重視して、理想を現実化させるときの困難な過程を考えようとしない。孔子を大儒と称える荀子には悪いが、たとえ孔子が百里四方の地の小国を与えられたとしても、三年で天下を統一するようなことは絶対に不可能であったろう。現に孔子は百里四方よりもずっと大きな魯国で大司寇の高位にあり、そこで数年の間政治の中枢にあったのである。しかし孔子は天下の平定はおろか、魯国の改革にすら失敗して国を去らざるをえなかった。荀子の言葉は、孔子の本当の実績を無視した空想の孔子像である。

儒效篇第八(8)

聞かないことは聞くことに及ばず、聞くことは見ることに及ばず、見ることは知ることに及ばず、知ることは行うことに及ばない。学ぶこととは、そのことを行うことまでやって、そこでようやく終わりとなるのである。行えば、万事が明らかとなる。万事に明らかである者を、聖人というのである。聖人とは仁義に基づき、是非を正しく判断し、言葉と行動とを一致させ、わずかの過ちもしない。なぜそれができるかといえば、他でもない。聖人は、学んだことを行うことまでやり尽くすからなのである。ゆえに、聞いても見なければ、博聞でも必ず誤るだろう。見てもその内容をよく知ることがなければ、知識を得ても必ず虚妄となるだろう。知っても行わなければ、深く学んだとしても必ず行き詰るだろう。聞くことも見ることもしない者がたとえたまたま正しい行いができたとしても、それは仁道に基づいた必然ではないので、そのような行き方では百度試みて百度すべて失敗するであろう。ゆえに、人は従うべき師も礼法もなければ、その者に知があれば必ず盗みを成し、勇があれば必ず他人を傷つけ、能あれば必ず乱を起こし、明察であれば必ず怪説を述べ立て、雄弁であれば必ず大言壮語するであろう。しかし人は従うべき師と礼法を持つならば、その者に知があれば速やかに万事を前に進ませることができるだろうし、勇があれば速やかに威厳を持つようになるだろうし、能があれば速やかに成功するであろうし、明察であれば速やかに万事を理解し尽くすであろうし、雄弁であれば速やかに道理を述べることができるであろう。ゆえに師と礼法を持つ者は、人間の至宝というべきである。しかし師と礼法のない者は、人間の大害というべきである。人は師と礼法がなければ、あるがままの「性」(注1)を尊ぶばかりである。しかし従うべき師と礼法を持てば、学習を積み上げることを尊ぶのだ。だが師と礼法は、己の学習を通じて得るものであって、あるがままの「性」によって初めから与えられているものではない。なので、「性」はそれだけで己を治めることはできないのである。「性」は、人が自分の力で得たものではない天与の属性であって、それゆえに矯正して順化するべきものである。だが学習を積み上げることは、人が生まれながらに持っているものではなく、それゆえに後天的に努力して行うべきものである。立ち居振る舞いや日常の習慣的行為は、「性」を順化させる原動力である。心を一つに集中してそこから外さないことは、学習を積み上げさせる原動力である。習慣的な行為は意志をしだいに移し変えるし、そういう習慣的な行為に長らく安定していることは、人の気質を移し変えるであろう。心を一つに集中してそこから外さなければ、やがては精妙な知力を得る(注2)ことになって、天地の万物を統御する(注3)ことになるであろう。ゆえに、土を積み上げれば山となり、水を盛り上げれば海となり、朝と夕を積み重ねたものはこれを年といい、最も高いものはこれを天といい、最も低いものはこれを地といい、空間の上下東西南北の果てはこれを極といい、市井の一般人が善を積み重ねて完成させるならば、これを聖人というのである(注4)。聖人とは、求めてしかる後に獲得し、行ってしかる後に成し遂げ、積み上げてしかる後に高くなり、やるべきことを尽くしてしかる後に聖となるのである。ゆえに聖人とは、人間が積み上げた果てに成る存在なのである。人は鋤いて耕すことを積み重ねると、農夫となる。また切って削ることを積み重ねると、工匠となる。また財貨を売買することを積み重ねると、商人となる。そして礼義を積み重ねると、君子となるのだ。工匠の子は、その環境にいるゆえに必ず父親の仕事を継がずにはいられない。都市の住民は、都市の服装を習い性としてそれを着ることをよしとする。楚国に居住すると楚人となり、越国に居住すると越人となり、中華に居住すると中華の住民となる。これらは、天性によってこうなるのではない。わずかずつ習慣を積み重ねた果てに、身に付けるものである。ゆえに、人は立ち居振る舞いを謹み日常の習慣的行為を慎むことを知って、わずかずつの習慣を大きく積み重ねたならば、君子となるであろう。しかしあるがままの「情」・「性」をそのままにして学ぶことを怠るならば、小人となるであろう。君子となれば常に安泰で栄誉があり、小人となれば常に危険で恥辱を受けるであろう。およそ人は、安泰と栄誉を求めて危険と恥辱を憎むものである。ゆえに、ただ君子だけが人の好むものを受けるに値することを行うのであり、反対に小人は人が憎むものを受けることに繋がることを毎日望んで行っているのである。『詩経』に、この言葉がある。:

この良き人を、求めず迪(すす)めず
残忍の者を、復(また)も顧みる、ゆえに
民は貪乱となり、寧(やす)んじて害事をなす
(大雅、桑柔より)

このように小人が栄える世は、必ず乱れるのである。


(注1)以下の「性」・「情」は正名篇(1)の定義するところであり、人間の生物的本能を示す語である。「性」・「情」を人間の普遍的属性とみなし、なおかつこれらを「偽(い)」の学習によって克服されるべきネガティブな属性とみなすのが、荀子の性悪説である。性悪篇を参照。なお、上の訳は通行本に基づいて語を入れ替えている。下の読み下し文の注7・注8を参照。
(注2)原文読み下し「神明に通ず」。神明とは、精妙なはたらきのこと。万物の精妙なはたらきを知る力を得ることであって、超自然的な神の知を得る意味ではない。
(注3)原文読み下し「天地に參す」。不苟篇(3)注1と同じく、これを「天地の万物を統御する」と訳した。
(注4)市井の一般人でも聖人となれる、とここで荀子は言うが、性悪篇においては潜在的にはそうであるが現実的には決してなることはできない、という議論が置かれている。荀子の統治論においては聖人=最高の知徳を得た存在=君主であって、聖人は極めて選ばれた存在である。
《原文・読み下し》
聞かざるは之に聞くに若かず、之を聞くは之を見るに若かず、之を見るは之を知るに若かず、之を知るは之を行うに若かず。學は之を行うに至りて止む。之を行えば明(あきら)かなり。明(めい)之を聖人と爲す。聖人なる者は、仁義に本づき、是非に當り、言行を齊しくし、豪釐(ごうり)を失わず。他の道無し、之を行うに已(とど)まればなり。故に之を聞いて見ざれば、博(ひろ)しと雖も必ず謬(あやま)り、之を見て知らざれば、識(し)ると雖も必ず妄(ぼう)なり、之を知りて行わざれば、敦(あつ)しと雖も必ず困(くる)しむ。聞かず見ざれば、則ち當ると雖も仁に非ず、其の道百舉(ひゃくきょ)して百陷するなり。故に人(ひと)師無く法無くして、知なれば則ち必ず盜を爲し、勇なれば則ち必ず賊を爲し、能云(あ)れば(注5)則ち必ず亂を爲し、察なれば則ち必ず怪を爲し、辯なれば則ち必ず誕を爲す。人師有り法有りて、知なれば則ち速(すみや)かに通じ、勇なれば則ち速かに威あり、能云(あ)れば(注5)則ち速かに成り、察なれば則ち速かに盡(つく)し、辯なれば則ち速に論(りん)あり(注6)。故に師法有る者は、人の大寶なり、師法無き者は、人の大殃(たいおう)なり。人師法無ければ、則ち性(注7)を隆(とうと)び、師法有れば、則ち積(注7)を隆ぶ。而(しこう)して師法なる者は、情(せき)(注8)に得る所にして、性に受くる所に非ざれば、以て獨立して治むるに足らず。性なる者は、吾が爲すこと能わざる所、然り而して化す可きなり。情(せき)(注8)なる者は、吾が有する所に非ず、然り而して爲す可きなり。注錯(ちゅうそ)・習俗は、性を化する所以なり。一に幷(あわ)せて二せざるは、成積を成す所以なり。習俗は志を移し、安久は質を移す、一に幷せて二せざれば、則ち神明に通じ、天地に參す。故に積土は山と爲り、積水は海と爲り、旦暮積みたる之を歲(とし)と謂い、至高は之を天と謂い、至下は之を地と謂い、宇中六指(うちゅうりくし)は之を極と謂い、涂(みち)の人百姓善を積みて全く盡すは、之を聖人と謂う。彼は之を求めて而して後に得、之を爲して而して後に成り、之を積みて而して後に高く、之を盡して而して後に聖なり。故に聖人なる者は、人の積む所なり。人は耨耕(じょくこう)を積みて農夫と爲り、斲削(たくさく)を積みて工匠と爲り、反貨を積みて商賈(しょうこ)と爲り、禮義を積みて君子と爲る。工匠の子は、事を繼がざること莫く、都國の民は、其の服に安習す。楚居りて楚たり、越に居りて越たり、夏に居りて夏たり。是れ天性に非ざるなり、積靡(せきび)然らしむるなり。故に人注錯を謹み、習俗を愼むことを知りて、大いに積靡すれば、則ち君子と爲り、情性を縱(ほしいまま)にして問學に足らざれば、則ち小人と爲る。君子と爲れば則ち常に安榮なり、小人と爲れば則ち常に危辱なり。凡そ人は安榮を欲して危辱を惡(にく)まざること莫し。故に唯(ただ)君子のみ能く其の好む所を得ることを爲し、小人は則ち日に其の惡む所を徼(もと)む。詩に曰く、維れ此の良人をば、求めず迪(すす)めず、維れ彼の忍心をば、是れ顧み是れ復す、民の貪亂(たんらん)なる、寧(やす)んじて荼毒(とどく)を爲す、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)原文「云能」。楊注は「自ら其の能を言う」と注して、能力を自称することに取る。集解の王念孫は、「云」は「有」である、と言う。増注は「云」字は衍字であると言う。王念孫に従って読み下す。
(注6)集解の王念孫は「論は決なり、言うは事を辯ずれば則ち即決するなり」と言う。漢文大系、金谷治氏ともども「論」字を判断、決断の意味で解釈している。いっぽう新釈の藤井専英氏は、これを直前の文の「誕」、すなわちでたらめな大言壮語と対比させて、「論」を「倫」すなわち「理」の意味に取る于省吾の説を取っている。「倫」の意とみなす藤井説に従いたい。
(注7)「性」・「積」字について。宋本は「性」を「情」、「積」を「性」字に作る。増注の久保愛は、「荀卿の性悪を唱えるの意に非ず。蓋(けだ)し正文及び注は、好事者之を改むるなり」と指摘して、彼が編集した増注本は本文と楊注におけるこれらの二字を入れ替えてある元刻に依拠したことを言っている。集解本も同じであって、集解本を底本とする漢文大系はすでに字を入れ替えてある。宋本を底本とする新釈の藤井専英氏は「情」・「性」の字のままで解釈をしているが、今は藤井氏に従わず「性」・「積」の字に入れ替えた文で解釈する。
(注8)二つの「情」字について、楊注或説は「まさに積となすべし」と言う。増注・集解の王念孫ともに、「情」字は「積」とするべきことを言う。これに従う。

師と礼法に従って学ばなければ学問は無益有害であることは、冒頭の勧学篇でも述べられたところである。

上のくだりは、宋本と通行本で用いられている語句が異なっている。新釈の藤井専英氏は、宋本のままでなんとか荀子の思想に沿わせて解釈を試みておられるが、非常に迂遠な解釈となってしまっている。上の読み下しは集解本を底本とした漢文大系に依り、下注で宋本との相違を説明した。訳は、通行本の解釈に沿ってわかりやすいものにした。

儒效篇第八(9)

人間の等級について。心は私欲にねじまがっていながら、他人が自分のことを公正であるとみなすことを望み、行いは汚れていながら、他人が自分のことをきちんと整っているとみなすことを望み、きわめて愚かで無知でありながら、他人が自分のことを知者であるとみなすことを望むならば、これは一般人である。心は私欲を抑えた末に公正となり、行いは「情」・「性」(注1)を抑えた末にきちんと整い、知力があっても好んで人に質問する末に才覚を現し、このように公正できちんと整って才覚あるならば、これは小儒ということができる。心は公正であることに安んじ、行いはよく整っていることに安んじ、知力は法の大綱と法判断(注2)に通暁するならば、これは大儒ということができる。大儒とは、天子・三公(注3)に就く人材であり、小儒とは、諸侯・大夫・士(注4)に就く人材であり、一般人とは、工業・農事・商売に就くべき人材である。そして礼義とは、君主が配下の群臣の能力を測定して区分する基準(注5)であって、これによって人間の等級が完成するのである。

君子の言葉には踏み外さない境界があり、君子の行いには守るべき範囲があり、君子には唯一の尊重する正道がある。政治について意見を求める者がいたならば、国家を安泰にして存続させる方法以外のことは、口に出さない。持つべき志について意見を求める者がいたならば、士(注6)となるべき方法以外のことは、口に出さない。道徳について意見を求める者がいたならば、現代の君主(注7)の定めた法度以外のことは、口に出さない。夏・殷・周三代の正道のさらに前のことは、資料不備ではっきりしたことが言えない。そして現代の君主の法律から外れたことを言うのは、正しくない。君子の言葉・行い・道は、高かろうが低かろうが大きかろうが小さかろうが、すべてこの境界を越えないのであって、これによって君子は己の心を踏み外さない境界の範囲内に留めるのである。ゆえに、諸侯が政治について質問しても、その質問が国家を安泰にして存続させる方法以外に及べば、君子は答えない。庶民が学問について質問しても、その質問が士(注8)となるべき方法以外に及べば、君子は教えない。諸子百家が言説を立てても、その言説がわが国の文明の建設者であった先王(注9)のこと以外に及べば、君子は聞く耳を持たない。これが、君子の言葉には踏み外さない境界があり、君子の行いには守るべき範囲がある、というのである。


(注1)荀子の性悪説における「情」・「性」の意味は、さきの儒效篇(8)注1を参照。
(注2)原文「統類」。儒效篇(5)注3ほかと同じ。
(注3)三公とは、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注4)通常荀子は「士」という語を君子より格下の官僚という意味に用いるが、ここでは大夫と合せて宮廷の家臣の意味で用いられている。
(注5)原文「寸尺尋丈檢式」。寸・尺・尋・丈は長さの単位。檢・式は法則や基準の意味。合せて、測定する基準のことを言う。
(注6)こちらの「士」は、君子より格下で一般人よりは上の統治階級のことである。たとえば脩身篇(4)を参照。
(注7)原文「後王」。儒效篇(7)注5を参照。
(注8)ここの「士」も、上の注6と同じ意味である。
(注9)原文「先王」。ここは「後王」でなくて「先王」でよい。なぜならば、荀子にとって本来依拠するべきなのは先王の道であって、後王の制度は本質的に先王の道と合致していてなおかつ資料が明確であるからこれに従うのがよい、と考えるからである。儒效篇(7)注15も参照。
《原文・読み下し》
人論(じんりん)(注10)。志は曲私を免れずして、人の己を以て公と爲さんことを冀(ねが)い、行は汙漫(おまん)を免れずして、人の己を以て脩と爲さんことを冀い、甚だ愚陋・溝瞀(こうぼう)にして、人の己を以て知と爲すことを冀う、是れ衆人なり。志は私を忍びて、然る後に能く公、行は情性を忍びて、然る後に能く脩、知にして問を好み、然る後に能く才なり。公・脩にして才なるは、小儒と謂う可し。志は公に安んじ、行は脩に安んじ、知は統類に通ず、是の如くなれば則ち大儒と謂う可し。大儒なる者は、天子・三公なり。小儒なる者は、諸侯・大夫・士なり。衆人なる者は、工・農・商賈(しょうこ)なり。禮なる者は、人主の羣臣(ぐんしん)の寸・尺・尋・丈・檢・式爲(た)る所以にして、人倫盡(つ)くせり。
君子は言に壇宇(だんう)(注11)有り、行に防表(ぼうひょう)有り、道に一隆有り。道德(せいじ)(注12)の求を言えば、安存より下らず、志意の求を言えば、士より下らず、道德の求を言えば、後王に二(たが)わず(注13)。道三代に過ぐるは、之を蕩と謂い、法後王に二(たが)う(注13)は、之を不雅と謂う。之を高くし之を下(ひく)くし、之を小にし之を臣(きょ)(注14)にするも、是に外ならず、是れ君子の志意を壇宇・宮廷(注15)に騁(は)する所以なり。故に諸侯政を問いて、安存に及ばざれば、則ち告げざるなり。匹夫學を問いて、士と爲るに及ばざれば、則ち敎えざるなり。百家の說、先王に及ばざれば、則ち聽かざるなり。夫れ是れを之れ君子は言に壇宇有り、行は防表有りと謂うなり。


(注10)集解の王念孫は、「論」は読んで「倫」となすべし、と言う。「倫」は等級のこと。これに従う。
(注11)集解の王念孫は、「壇」は堂基にして「宇」は屋辺なり、壇宇有りと言うはなお言に界域有りというがごとし、と言う。建物の内のように守られた境界がある、という意味。
(注12)楊注は、ここの「道德」はまさに「政治」となすべし、と言う。これに従う。
(注13)新釈の藤井専英氏は于省吾の説を取って、「二」は「下」字の誤りであると言う解釈を採用している。「下(くだ)る」と解釈するならば、後王の制度からさらに下って逸脱しない、という意味となるだろう。しかし王制篇では「道は三代に過ぎず、法は後王に貮(たが)わず。道三代に過ぐるは、之を蕩(とう)と謂い、法後王に貮うは、之を不雅と謂う」とある。よって藤井氏も「二」は「貮」のことであるとみなすことが妥当である、と付け加えている。ここでは藤井説を取らず、「二」は「貮」に通じて「たがう」意であるとみなす。
(注14)楊注は、「臣」は「巨」の誤りと言う。
(注15)この「宮廷」は「壇宇」と同じく境界のことであって、具体的な建物の意ではない。

儒效篇は、これで終了する。大儒は国家の頂点にあって統治し、小儒は国家の中堅にあって行政を行う。統治者が従うべき正道は夏・殷・周の三代の古制にならい、礼法の規則は「後王」に従う。「後王」は、いちおう現代の君主と解釈しておくことにしたい。以上が、荀子の結論である。