儒效篇第八(8)

By | 2015年8月9日
聞かないことは聞くことに及ばず、聞くことは見ることに及ばず、見ることは知ることに及ばず、知ることは行うことに及ばない。学ぶこととは、そのことを行うことまでやって、そこでようやく終わりとなるのである。行えば、万事が明らかとなる。万事に明らかである者を、聖人というのである。聖人とは仁義に基づき、是非を正しく判断し、言葉と行動とを一致させ、わずかの過ちもしない。なぜそれができるかといえば、他でもない。聖人は、学んだことを行うことまでやり尽くすからなのである。ゆえに、聞いても見なければ、博聞でも必ず誤るだろう。見てもその内容をよく知ることがなければ、知識を得ても必ず虚妄となるだろう。知っても行わなければ、深く学んだとしても必ず行き詰るだろう。聞くことも見ることもしない者がたとえたまたま正しい行いができたとしても、それは仁道に基づいた必然ではないので、そのような行き方では百度試みて百度すべて失敗するであろう。ゆえに、人は従うべき師も礼法もなければ、その者に知があれば必ず盗みを成し、勇があれば必ず他人を傷つけ、能あれば必ず乱を起こし、明察であれば必ず怪説を述べ立て、雄弁であれば必ず大言壮語するであろう。しかし人は従うべき師と礼法を持つならば、その者に知があれば速やかに万事を前に進ませることができるだろうし、勇があれば速やかに威厳を持つようになるだろうし、能があれば速やかに成功するであろうし、明察であれば速やかに万事を理解し尽くすであろうし、雄弁であれば速やかに道理を述べることができるであろう。ゆえに師と礼法を持つ者は、人間の至宝というべきである。しかし師と礼法のない者は、人間の大害というべきである。人は師と礼法がなければ、あるがままの「性」(注1)を尊ぶばかりである。しかし従うべき師と礼法を持てば、学習を積み上げることを尊ぶのだ。だが師と礼法は、己の学習を通じて得るものであって、あるがままの「性」によって初めから与えられているものではない。なので、「性」はそれだけで己を治めることはできないのである。「性」は、人が自分の力で得たものではない天与の属性であって、それゆえに矯正して順化するべきものである。だが学習を積み上げることは、人が生まれながらに持っているものではなく、それゆえに後天的に努力して行うべきものである。立ち居振る舞いや日常の習慣的行為は、「性」を順化させる原動力である。心を一つに集中してそこから外さないことは、学習を積み上げさせる原動力である。習慣的な行為は意志をしだいに移し変えるし、そういう習慣的な行為に長らく安定していることは、人の気質を移し変えるであろう。心を一つに集中してそこから外さなければ、やがては精妙な知力を得る(注2)ことになって、天地の万物を統御する(注3)ことになるであろう。ゆえに、土を積み上げれば山となり、水を盛り上げれば海となり、朝と夕を積み重ねたものはこれを年といい、最も高いものはこれを天といい、最も低いものはこれを地といい、空間の上下東西南北の果てはこれを極といい、市井の一般人が善を積み重ねて完成させるならば、これを聖人というのである(注4)。聖人とは、求めてしかる後に獲得し、行ってしかる後に成し遂げ、積み上げてしかる後に高くなり、やるべきことを尽くしてしかる後に聖となるのである。ゆえに聖人とは、人間が積み上げた果てに成る存在なのである。人は鋤いて耕すことを積み重ねると、農夫となる。また切って削ることを積み重ねると、工匠となる。また財貨を売買することを積み重ねると、商人となる。そして礼義を積み重ねると、君子となるのだ。工匠の子は、その環境にいるゆえに必ず父親の仕事を継がずにはいられない。都市の住民は、都市の服装を習い性としてそれを着ることをよしとする。楚国に居住すると楚人となり、越国に居住すると越人となり、中華に居住すると中華の住民となる。これらは、天性によってこうなるのではない。わずかずつ習慣を積み重ねた果てに、身に付けるものである。ゆえに、人は立ち居振る舞いを謹み日常の習慣的行為を慎むことを知って、わずかずつの習慣を大きく積み重ねたならば、君子となるであろう。しかしあるがままの「情」・「性」をそのままにして学ぶことを怠るならば、小人となるであろう。君子となれば常に安泰で栄誉があり、小人となれば常に危険で恥辱を受けるであろう。およそ人は、安泰と栄誉を求めて危険と恥辱を憎むものである。ゆえに、ただ君子だけが人の好むものを受けるに値することを行うのであり、反対に小人は人が憎むものを受けることに繋がることを毎日望んで行っているのである。『詩経』に、この言葉がある。:

この良き人を、求めず迪(すす)めず
残忍の者を、復(また)も顧みる、ゆえに
民は貪乱となり、寧(やす)んじて害事をなす
(大雅、桑柔より)

このように小人が栄える世は、必ず乱れるのである。


(注1)以下の「性」・「情」は正名篇(1)の定義するところであり、人間の生物的本能を示す語である。「性」・「情」を人間の普遍的属性とみなし、なおかつこれらを「偽(い)」の学習によって克服されるべきネガティブな属性とみなすのが、荀子の性悪説である。性悪篇を参照。なお、上の訳は通行本に基づいて語を入れ替えている。下の読み下し文の注7・注8を参照。
(注2)原文読み下し「神明に通ず」。神明とは、精妙なはたらきのこと。万物の精妙なはたらきを知る力を得ることであって、超自然的な神の知を得る意味ではない。
(注3)原文読み下し「天地に參す」。不苟篇(3)注1と同じく、これを「天地の万物を統御する」と訳した。
(注4)市井の一般人でも聖人となれる、とここで荀子は言うが、性悪篇においては潜在的にはそうであるが現実的には決してなることはできない、という議論が置かれている。荀子の統治論においては聖人=最高の知徳を得た存在=君主であって、聖人は極めて選ばれた存在である。
《原文・読み下し》
聞かざるは之に聞くに若かず、之を聞くは之を見るに若かず、之を見るは之を知るに若かず、之を知るは之を行うに若かず。學は之を行うに至りて止む。之を行えば明(あきら)かなり。明(めい)之を聖人と爲す。聖人なる者は、仁義に本づき、是非に當り、言行を齊しくし、豪釐(ごうり)を失わず。他の道無し、之を行うに已(とど)まればなり。故に之を聞いて見ざれば、博(ひろ)しと雖も必ず謬(あやま)り、之を見て知らざれば、識(し)ると雖も必ず妄(ぼう)なり、之を知りて行わざれば、敦(あつ)しと雖も必ず困(くる)しむ。聞かず見ざれば、則ち當ると雖も仁に非ず、其の道百舉(ひゃくきょ)して百陷するなり。故に人(ひと)師無く法無くして、知なれば則ち必ず盜を爲し、勇なれば則ち必ず賊を爲し、能云(あ)れば(注5)則ち必ず亂を爲し、察なれば則ち必ず怪を爲し、辯なれば則ち必ず誕を爲す。人師有り法有りて、知なれば則ち速(すみや)かに通じ、勇なれば則ち速かに威あり、能云(あ)れば(注5)則ち速かに成り、察なれば則ち速かに盡(つく)し、辯なれば則ち速に論(りん)あり(注6)。故に師法有る者は、人の大寶なり、師法無き者は、人の大殃(たいおう)なり。人師法無ければ、則ち性(注7)を隆(とうと)び、師法有れば、則ち積(注7)を隆ぶ。而(しこう)して師法なる者は、情(せき)(注8)に得る所にして、性に受くる所に非ざれば、以て獨立して治むるに足らず。性なる者は、吾が爲すこと能わざる所、然り而して化す可きなり。情(せき)(注8)なる者は、吾が有する所に非ず、然り而して爲す可きなり。注錯(ちゅうそ)・習俗は、性を化する所以なり。一に幷(あわ)せて二せざるは、成積を成す所以なり。習俗は志を移し、安久は質を移す、一に幷せて二せざれば、則ち神明に通じ、天地に參す。故に積土は山と爲り、積水は海と爲り、旦暮積みたる之を歲(とし)と謂い、至高は之を天と謂い、至下は之を地と謂い、宇中六指(うちゅうりくし)は之を極と謂い、涂(みち)の人百姓善を積みて全く盡すは、之を聖人と謂う。彼は之を求めて而して後に得、之を爲して而して後に成り、之を積みて而して後に高く、之を盡して而して後に聖なり。故に聖人なる者は、人の積む所なり。人は耨耕(じょくこう)を積みて農夫と爲り、斲削(たくさく)を積みて工匠と爲り、反貨を積みて商賈(しょうこ)と爲り、禮義を積みて君子と爲る。工匠の子は、事を繼がざること莫く、都國の民は、其の服に安習す。楚居りて楚たり、越に居りて越たり、夏に居りて夏たり。是れ天性に非ざるなり、積靡(せきび)然らしむるなり。故に人注錯を謹み、習俗を愼むことを知りて、大いに積靡すれば、則ち君子と爲り、情性を縱(ほしいまま)にして問學に足らざれば、則ち小人と爲る。君子と爲れば則ち常に安榮なり、小人と爲れば則ち常に危辱なり。凡そ人は安榮を欲して危辱を惡(にく)まざること莫し。故に唯(ただ)君子のみ能く其の好む所を得ることを爲し、小人は則ち日に其の惡む所を徼(もと)む。詩に曰く、維れ此の良人をば、求めず迪(すす)めず、維れ彼の忍心をば、是れ顧み是れ復す、民の貪亂(たんらん)なる、寧(やす)んじて荼毒(とどく)を爲す、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)原文「云能」。楊注は「自ら其の能を言う」と注して、能力を自称することに取る。集解の王念孫は、「云」は「有」である、と言う。増注は「云」字は衍字であると言う。王念孫に従って読み下す。
(注6)集解の王念孫は「論は決なり、言うは事を辯ずれば則ち即決するなり」と言う。漢文大系、金谷治氏ともども「論」字を判断、決断の意味で解釈している。いっぽう新釈の藤井専英氏は、これを直前の文の「誕」、すなわちでたらめな大言壮語と対比させて、「論」を「倫」すなわち「理」の意味に取る于省吾の説を取っている。「倫」の意とみなす藤井説に従いたい。
(注7)「性」・「積」字について。宋本は「性」を「情」、「積」を「性」字に作る。増注の久保愛は、「荀卿の性悪を唱えるの意に非ず。蓋(けだ)し正文及び注は、好事者之を改むるなり」と指摘して、彼が編集した増注本は本文と楊注におけるこれらの二字を入れ替えてある元刻に依拠したことを言っている。集解本も同じであって、集解本を底本とする漢文大系はすでに字を入れ替えてある。宋本を底本とする新釈の藤井専英氏は「情」・「性」の字のままで解釈をしているが、今は藤井氏に従わず「性」・「積」の字に入れ替えた文で解釈する。
(注8)二つの「情」字について、楊注或説は「まさに積となすべし」と言う。増注・集解の王念孫ともに、「情」字は「積」とするべきことを言う。これに従う。

師と礼法に従って学ばなければ学問は無益有害であることは、冒頭の勧学篇でも述べられたところである。

上のくだりは、宋本と通行本で用いられている語句が異なっている。新釈の藤井専英氏は、宋本のままでなんとか荀子の思想に沿わせて解釈を試みておられるが、非常に迂遠な解釈となってしまっている。上の読み下しは集解本を底本とした漢文大系に依り、下注で宋本との相違を説明した。訳は、通行本の解釈に沿ってわかりやすいものにした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です