儒效篇第八(3)

By | 2015年7月30日
わが国の文明の建設者であった先王の道とは、仁を貴び、「中」の道に従ってこの仁を実行するものであった。では、何を「中」と言うのであろうか?その答えは、礼義こそが「中」なのである。この道は、天の道ではなく、地の道ではなく、人が実行するための基準なのであり、君子が実行するべきことなのである。君子が「賢」というとき、それは人間が実行できることを全部できるのが「賢」である、という意味ではない。君子が「知」というとき、それは人間が知ることができることを全部知っているのが「知」である、という意味ではない。君子が「弁」というとき、それは人間が弁論できることを全部弁論できるのが「弁」である、という意味ではない。君子が「察」というとき、それは人間が推察できることを全部推察できるのが「察」である、という意味ではない。君子は、これら全てについて到達するべき目標点、すなわち至足(しいそく)の状態である「聖」の境地だけを目指すのだ(注1)。たとえば土地の高低を見分け、肥沃度を見分け、五種の穀物を時期に応じて栽培する能力については、君子は農民に及ぶことはない。また財貨を流通させ、商品のよしあしを判断し、価格の高低を判別する能力については、君子は商人に及ぶことはない。また規矩(きく。ものさしとコンパス)をあてがい、縄墨(じょうぼく。すみなわ)を置き、便利な道具を供給する能力については、君子は工人に及ぶことはない。真理か否かの分別を考えることもなく、相手を論破して踏みにじり抑えつけることによって相手に恥をかかせる術については、君子は恵施(けいし)や鄧析(とうせき)(注2)に及ぶことはない。君子の本領はこのようなものではなくて、各人の徳を計量し、それらの徳に応じて身分の序列を定め、各人の能力を計量し、それらの能力に応じて官職を授け、賢者も愚者もそれぞれの徳に応分の身分を得るように仕向け、能力者も無能者もそれぞれの能力に応分の官職を得るように仕向け、天下にある万物が適切な処置を得るように仕向け、天下に起こる変化に適切な対応が行われるように仕向け、慎到(しんとう)や墨翟(ぼくてき)(注3)の徒がいかなる弁論も進めることができないように仕向け、恵施(けいし)や鄧析(とうせき)の徒が彼らの詭弁を混ぜ込むことができないように仕向け、言葉は必ず道理に当たり、行為は必ず礼義の要請に当たる。これが、君子の長じている本領なのである。

およそ事業と行動については、道理として有益なものは行い、無益なものは廃止する。これを、「中事」すなわち中庸の事業と行動、と言う。およそ知識と学説については、道理として有益なものは採用し、無益なものは捨て去る。これを、「中説」すなわち中庸の知識と学説、と言う。事業と行動がが中庸を失うこと、これを姦事と言う。知識と学説が中庸を失うこと、これを姦道と言う。姦事・姦道は、治世においては捨て去られるが、乱世においては栄えて皆が従う。だいたい虚偽と真実とをひっくり返したり、堅白同異(けんぱくどうい)(注4)の区別を弁証したりすることは、よく聞き分ける耳でもこれを聞き分けることが難しく、よく見分ける目でもこれを見分けることが難しく、よく言い分ける能弁者でもこれを言い分けることが難しく、たとえ聖人の知であっても即座に指摘することが難しい。しかしこのような複雑であるが無益な邪説は、これを知らなくても君子となることに害は無い。またこれを知っていたとしても、小人となることに障害とならない。工匠はこれを知らなくても、その巧みな技術を用いることに害は無い。君子はこれを知らなくても、統治を行うことに害は無い。だが王公がこれを好めば、国の法度を乱す結果となるであろう。人民がこれを好めば、それぞれの仕事を乱す結果となるであろう。それなのに頭のおかしい頑固者が、このような邪説を奉じる仲間を糾合して徒党を組み、この邪説を弁論し、この邪説をたとえ話によって説明し、己の身が年老いて己の子が成人するに至っても、己の信奉する説が憎むべき邪説であることを認めようとしない。これを愚者の極地と言うのであり、こんな輩になるぐらいならば、鶏や犬の良し悪しの鑑定によって名を挙げるほうがずっとましというものだ。『詩経』に、この言葉がある。:

物の怪のたぐいであるならば
見えず掴めず、あきらめもしましょうが
あんたは人間ではござんせんか、そこに面目(かお)がありまする
この世間、人を視(み)ないですむ道理とてなし
だからこの恨み歌を作りまして
あんたの外れた心を正しましょう
(小雅、何人斯より)

外れた心の持ち主が忠告に従えばまだよいが、そうでなければもはやお手上げである。


(注1)原文読み下し「正(とどま)る所有り」。下の注5のとおり「正」字を「止」の誤りであるとみなし、「止まる所」を解蔽篇(6)の叙述に従って解釈する。
(注2)ともに、著名な詭弁家。不苟篇(1)注2および注3を参照。
(注3)慎到・墨翟(墨子)の説についての説明と荀子の批判は、非十二子篇(1)ほかを参照。
(注4)諸子百家の名家に分類される公孫龍の説。劉向校讎叙録注9を参照。
《原文・読み下し》
先王の道は、仁を之れ隆(とうと)ぶなり、中に比して之を行う。曷(なに)をか中と謂う。曰く、禮義是れなり、と。道なる者は天の道に非ず、地の道に非ず、人の道(おこな)う所以にして、君子の道う所なり。君子の所謂(いわゆる)賢なる者は、能く徧(あまね)く人の能くする所を能くするの謂(いい)に非ざるなり。君子の所謂知なる者は、能く徧く人の知る所を知るの謂に非ざるなり。君子の所謂辨(べん)なる者は、能く徧く人の辨ずる所を辨ずるの謂に非ざるなり。君子の所謂察なる者は、能く徧く人の察する所を察するの謂に非ざるなり、正(とどま)る(注5)所有り。高下を相(み)、墝肥(こうひ)を視、五種を序するは、君子は農人に如かず。財貨を通じ、美惡を相(み)、貴賤を辨ずるは、君子は賈人(こじん)に如かず。規矩を設け、繩墨(じょうぼく)を陳じ、備用を便にするは、君子は工人に如かず。是非・然不然の情を卹(かえりみ)ず、以て相薦樽(せんそん)(注6)し、以て相恥怍(ちさく)するは、君子は惠施(けいし)・鄧析(とうせき)に若かず。若し夫れ德を謫(はか)りて(注7)次を定め、能を量りて官を授け、賢・不肖をして皆其の位を得、能・不能をして皆其の官を得、萬物をして其の宜しきを得、事變をして其の應を得、愼(しん)・墨(ぼく)をして其の談を進むることを得ず、惠施・鄧析をして敢て其の察を竄(ざん)せざらしめ、言は必ず理に當り、事は必ず務に當る、是れ然る後に君子の長ずる所なり。
凡そ事行の、理に益有る者は之を立て、理に益無き者は之を廢す、夫れ是を之れ中事と謂う。凡そ知說の、理に益有る者は之を爲し、理に益無き者は之を舍(す)つ、夫れ是を之れ中說と謂う。事行中を失う、之を姦事と謂う。知說中を失う、之を姦道と謂う。姦事・姦道は、治世の棄つる所にして、亂世の從服する所なり。若し夫れ充虛の相施易(いえき)(注8)するや、堅白同異(けんぱくどうい)の分隔するや、是れ聰耳の聽く能わざる所なり、明目の見る能わざる所なり、辯士の言う能わざる所なり。聖人の知有りと雖も、未だ僂指(るし)(注9)する能わざるなり。知らざるも君子爲(た)るに害無く、之を知るも小人爲るに損無く、工匠知らざるも、巧を爲すに害無く、君子知らざるも、治を爲すに害無し。王公之を好めば則ち法を亂り、百姓之を好めば則ち事を亂る。而(しこう)して狂惑・戇陋(こうろう)(注10)の人、乃ち始めて其の羣徒(ぐんと)を率い、其の談說を辨じ、其の辟稱(ひしょう)を明(あきら)かにし、身を老し子を長ずるまで、惡(にく)むことを知らざるなり。夫れ是を之れ上愚と謂う。曾(すなわ)ち雞狗(けいこう)を相するの以て名を爲す可きに如かざるなり。詩に曰く、鬼と爲り蜮(いき)と爲れば、則ち得可からず、靦(てん)たる面目有り、人を視ること極まり罔(な)し、此の好歌(こうか)を作りて、以て反側を極む、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)楊注は「正」は「止」に作るべし、と言う。これに従う。
(注6)増注は、「薦樽は未詳」と言う。楊注は、「相蹈藉して撙抑するを謂う」と言う。たがいに踏み敷いて抑えつけること。楊注の解釈に従っておく。
(注7)原文「謫德」。同じ儒效篇の後の文に、「德を譎(けつ)して位を序する」の語がある。楊注は本注において「謫は商と同じ。古字なり。其の德を商度す」と言い、或説で多くの本が「謫」を「譎」に作り、「譎」は「決」と同じ、と注釈を付加している。集解の洪頤煊は、「謫」は「論」字の誤りであることを疑う。同じ集解の王念孫は、「譎」字が正しいと言う。増注の久保愛は、「謫德」で通じるので必ずしもこれを改めず、と言う。増注に従う。
(注8)楊注は、「施は読んで移と曰う。移易は実者をして虚となし、虚者をして実とならしむるを謂う」と言う。
(注9)楊注は「僂は疾なり」と言う。僂指で、すばやく指摘すること。
(注10)楊注は「戇は愚なり」と言う。戇陋で、愚かで固陋なこと。

原文の「君子」について。勧学篇などの学ぶ者への呼びかけの内容の篇においては、基本的に「君たち」と訳した。しかしこの儒效篇などの儒家の統治論を説明する内容の篇においては、「君子」の語はむしろ聖人の下にあって礼義を体化して人民を統治する存在、つまり具体的には国家の官僚を指す。この儒效篇においては、原文の「君子」をそのまま君子として訳すことにする。

「道なる者は天の道に非ず、地の道に非ず、人の道(おこな)う所以にして、君子の道う所なり」と言う言葉は、天論篇の叙述と呼応している。すなわち天論篇において荀子は、君子が行うべき道は天や地の自然に見出されるべきではなく、むしろこれら自然を利用して人間の理性をもって社会を改良していくことを薦めるのである。

諸子百家の邪説を批判して、君子の役目はそのような無益な邪説に明察であることではないと説く内容は、非十二子篇ほかの各篇における邪説批判にあるところと同じである。

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