儒效篇第八(5)

By | 2015年8月2日
それゆえ、能力が小さいくせに大きな事業を行うことは、たとえるならば非力なくせに重い荷物を持つようなものであって、体がへし折れるばかりで全く前に進むことなどできないのだ。また自分は愚者であるのに賢者のふりをするのは、せむしの体の者が高い所に登りたがるようなものであって、登ってみたところでその滑稽な様を指してあざ笑う者をますます引き寄せるばかりなのだ。ゆえに、明主が各人の徳を判定して、それらの徳に応じて身分の序列を定めるのは、身分秩序を乱さないためなのである。忠臣が本当に能力があってはじめて職務を受け取るのは、過分の職務を引き受けてしまって行き詰るようなことにならないためなのである。上が身分をきちんと定めて乱さず、下が能力応分の職務を得て行き詰らないのは、治世の極みである。『詩経』に、この言葉がある。:

左右の臣を、平らに治め
みな率いて、従えり
(小雅、采菽より)

この言葉は、上と下の身分秩序が互いに乱れない姿を表したものなのだ。

世間の風俗に従うことを善となし、財貨を宝と考え、衣食して命をつなぐことを自分の唯一の道と考える。これは、一般人民の徳である。行いを正しくして志を堅く持ち、私欲によって聞いた教えを乱したりはしない。このようであれば、勁士(けいし)すなわち志操堅固の士というべきである。行いを正しくして志を堅く持ち、聞いた教えをよく消化して自らを修めることを好み、これによって己の「情」と「性」(注1)を矯正して飾り立て、言う言葉の多くは道理に当たっているがまだ道理を完全に理解するまでは至っておらず、行う行動の多くは道理にかなっているがまだ道理の中に完全に我が身を安定させるまでには至っておらず、その知慮の多くは道理に従っているがまだ細かな点まで完全とはいえず、上に対しては己が尊ぶべき存在を尊重し、下に対しては己に及ばない存在を教えて導く。このようであれば、篤厚の君子というべきである。いにしえの王たち(注2)の礼法を修めることを白と黒とを見分けるがごとくに容易に行い、時々の変化に対応することを「一、二」と数えるがごとくに容易に行い、礼義を行い節文を取り入れてこれの中に我が身を安定させることを自分の手足を動かすように容易に行い、時宜に応じて功績を挙げる巧妙さを示すことを四季が巡り来るように自然に行い、天下を平らかに治めて人民を和親させることを億万の衆がいても一人を使うかのように容易に成し遂げる。このようであれば、聖人というべきである。道理がある様はまことに端正であり、己を謹む様はまことに厳格であり、事業の始めと終わりを区切る様は截然としていて、安定を長く持続できる様はまことに平静であり、正道を執って怠らない様はまことに安楽であり、明らかに知を用いる様はまことに明白であり、法の大綱と法判断(注3)を実施する様はまことに整然としていて、美しく文飾を用いる様は安泰そのものであり、人の善を楽しむ様は和やかで楽しみ、人の不当を恐れる様は憂えて心を悼ませる。このようであれば、聖人というべきである。聖人がこのようであるのは、その道が一つのものから出るからなのだ。その一つのものとは、何を言い表すのか?それは、「神」(注4)を選んで「固」であることを言う。その「神」とは、何を言い表すのか?善を尽くしてこれをあまねく行き渡らせることを「神」と言い、どのような物であっても心をゆらぎ傾けるには足りないことを「固」と言うのだ。「神」に「固」であれば、これを聖人というべきである。聖人とは、正道の要である。天下の正道は聖人を要となし、いにしえの王たち(注2)の正道もまた聖人の内に一つとなっているのだ。ゆえに、わが文明の精髄である詩・書・礼・楽の文化は、すべて聖人を源とするのである。『詩経』は聖人の志を述べたものであり、『書経』は聖人の業績を記録したものであり、礼義は聖人の行動規則を示したものであり、音楽は聖人の調和の試みを示したものであり、そして『春秋経』は聖人の主張を微妙な言葉で記したものなのである。ゆえに、『詩経』の国風(こくふう)(注5)が乱れず風雅であるわけは、聖人の道にならって編集したからである。小雅(しょうが)が小雅であるわけは、聖人の道にならってこれを美しく飾ったからである。大雅(たいが)が大雅であるわけは、聖人の道にならってこれを大いに言挙げしたからである。そして頌(しょう)が盛徳の極地であるわけは、聖人の道にならってこの道で貫いたからである。天下の正道は、聖人の道に尽きるのである。これに向けて進む者には幸福があり、これに背く者は滅びる。聖人の道に向けて進みながら幸福を得ず、聖人の道に背きながら滅びなかった者は、いにしえから現代に至るまでいまだかつてない。


(注1)「情」と「性」は荀子の性悪説において、「偽(い)」によって矯正するべき本能的衝動である。正名篇の「情」・「性」の語の定義、および性悪篇の議論を参照。
(注2)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
(注3)原文「統類」。解蔽篇(6)注3を参照。
(注4)荀子は「神」の字を精神や自然の精妙なはたらきの意味に用いて、超自然的存在の意味に用いない。
(注5)『詩経』は、国風・小雅・大雅・頌の四部に分かれる。国風は周王朝の下の各封建国において収録された歌謡。小雅・大雅は周王朝の宴席で歌われた歌謡であるという。頌は周・魯・殷(商)の三国の宗廟で舞とともに奏でられた歌謡という。
《原文・読み下し》
故(ゆえ)に能小にして事大なるは(注6)、之を辟(たと)うるに是れ猶お力の少にして任の重きがごときなり、粹折(さいせつ)を舍(お)きて適(ゆ)くこと無きなり。身不肖にして賢を誣(し)うるは、是れ猶お傴伸(うしん)にして高きに升(のぼ)るを好むがごとく、其の頂を指す者愈(いよいよ)衆(おお)し。故に明主の德を譎(けつ)して位を序するは(注7)、亂れざるを爲す所以なり。忠臣は誠に能にして、然る後に敢て職を受くるは、窮せざるを爲す所以なり。分上に亂れず、能下に窮せざるは、治辯の極なり。詩に曰く、左右を平平(べんべん)す、亦是れ率(したが)い從(したが)う、とは、是れ上下の交(こもごも)相亂れざるを言うなり。
從俗を以て善と爲し、貨財を以て寶と爲し、養生を以て己が至道と爲すは、是れ民の德なり。行(おこない)法(ただ)しく(注8)至(こころざし)堅く(注9)、私欲を以て聞く所を亂さず、是の如くなれば、則ち勁士(けいし)と謂う可し。行(おこない)法(ただ)しく(注8)至(こころざし)堅く(注9)、好んで其の聞く所を脩正して、以て其の情性を橋飾し、其の言多く當る、而(しか)も未だ諭(さと)らず、其の行多く當る、而も未だ安んぜず、其の知慮多く當る、而も未だ周密ならず、上は則ち能く其の隆(とうと)ぶ所を大にし、下は則ち能く己に若(し)かざる者を開道す、是の如くなれば、則ち篤厚の君子と謂う可し。百王の法を脩むること、白黑を辨ずるが若く、當時の變に應ずること、一二を數うるが若く、禮を行い節を要(むか)え(注10)之に安んずること、四枝を生(めぐ)らす(注11)が若く、時を要(むか)え(注10)功を立つるの巧は、四時を詔(つ)ぐるが若く、平正和民の善は、億萬の衆にして、博(もっぱ)ら(注12)一人の若し、是の如くなれば、則ち聖人と謂う可し。井井(せいせい)として其れ理有るなり、嚴嚴(げんげん)として其れ能く己を敬するなり、分分(ふんぶん)として其れ終始有るなり、猒猒(えんえん)として其れ能く長久なり、樂樂(らくらく)として其れ道を執(と)りて殆(おこた)らず、炤炤(しょうしょう)として其れ知を用うること之れ明(あきら)かなり、脩脩(しゅうしゅう)として其れ統類を用いること之れ行わるなり、綏綏(すいすい)として其れ文章有るなり、熙熙(きき)として其れ人の臧(よ)きを樂しむなり、隱隱(いんいん)として其れ人の不當を恐るるなり、是の如くなれば、則ち聖人と謂う可し。此れ其の道一に出ず。曷(なに)をか一と謂う。曰く、神を執りて固なるなり。曷をか神と謂う(注13)。曰く、善を盡(つ)くして治を挾(あまね)く(注14)する、之れを神と謂い(注15)、萬物以て之を傾くるに足ること莫き、之を固と謂う。神・固、之を聖謂う。聖人なる者は、道の管なり。天下の道は是(ここ)に管し、百王の道も是に一なり。故(ゆえ)に詩・書・禮・樂は之れ是(ここ)に歸す。詩は是れ其の志を言うなり、書は是れ其の事を言うなり、禮は是れ其の行を言うなり、樂は是れ其の和を言うなり、春秋は是れ其の微を言うなり。故(ゆえ)に風(ふう)の不逐爲(た)る所以の者は、是(ここ)に取りて以て之を節すればなり。小雅(しょうが)の小雅爲(た)る所以の者は、是に取りて之を文(かざ)ればなり。大雅(たいが)の大雅爲(た)る所以の者は、是に取りて之を光(おお)いにすればなり、頌(しょう)の至(し)たる所以の者は、是に取りて之を通ずればなり。天下の道是(ここ)に畢(つ)く。是(これ)に鄉(むか)う者は臧(よ)く、是に倍(そむ)く者は亡ぶ。是に鄉いて臧からず、是に倍きて亡びざる者は、古自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て有らざるなり。


(注6)原文「故能小而事大」。宋本は「不」字があって「故不能小而事大」に作る。新釈の藤井専英氏は宋本を尊重して、「故(こ)に小にして大を事(こと)とする能わず」と読み、この語が古語からの引用であると解釈している。
(注7)集解の王先謙は「譎は決なり」と言う。儒效篇(3)注7を参照。ここではさきの楊注或説に沿う。
(注8)集解の王念孫は、「法」は「正」なり、と言う。これに従う。
(注9)集解の王先謙は、『荀子』においては「至」字と「志」字は通じる、と言う。正論篇(2)注9参照。これに従う。
(注10)楊注は、「要は邀なり」と言う。むかえる。
(注11)増注は「韓詩外伝は、生を運に作る」と言う。これに従う。
(注12)集解の王念孫は、「博」は「摶(せん)」の誤りで、摶はすなわち専一の専、と言う。もっぱらにすること。
(注13)原文に沿って訳すと上の訳のようになって、どこかに「固」字が入るべきである。金谷治氏は、「曷をか神と謂う」と補うべきであると言う。注15につづく。
(注14)楊注は、「挾」は読んで「浹」たり、と言う。あまねくする。
(注15)注13のつづき。集解の王引之は、この後に「曷謂固曰」の四字を入れるべきであると言う。もしこの四字を入れるならば、読み下しは「、、之れを神と謂う。曷をか固と謂う。曰く、萬物以て、、」となるだろう。

ここは、『荀子』の他篇でもあらわれる人間の段階論を述べている。学ばず生まれたままの「性」「情」のままにいるのは小人・俗人であり、統治階級の下に置かれて統治される。統治階級の最下層が「士」、より高い段階が「君子」、頂点の統治者が「聖人」と呼ばれる。小人・俗人から「士」「君子」「聖人」に進むためには、学ぶことによって「偽(い)」を身に付けなければならない。「偽」とは人間を自然状態の争いから引き離して平和な社会を作るために制定される人為的諸制度のことであり、上の荀子の言葉で「詩・書・礼・楽」と具体的に指定されているものが、それに当たる。これらへの理解の深さによって、「士」・「君子」・「聖人」の三段階が分かれる。荀子は「聖人」を各々の時代における最高の智徳を備えた存在であり、すべての「偽」の制定者であると想定する。荀子にとっては君主は「聖人」でなければならず、「士」・「君子」の上に立つべき最高の能力が求められるからである。以上のことは、性悪篇および富国篇を参照いただきたい。

荀子の段階論は、「偽」を学ぶ深さによって人間の身分を振り分けて、世襲的要素はそこに見られない。後世の中華帝国で採用された科挙の制度や、現代の官僚採用試験を理念的に先取りしたものであるといえるだろう。だが荀子は身分の最上位の君主にすら「聖人」として最高の智徳を求めるものであって、より徹底した実力主義である。

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