賦篇第二十六(4)

By | 2015年12月16日
天下が治まらないので、一つの佹詩(きし)(注1)を述べよう。
天と地が上下を替え、四季の順番が逆となり、星々が墜落し、朝も夕も真っ暗である。暗愚の小人は昇進し、日月のごとき君子は草莽に隠れる。公正で無私なことを行えば、かえって人は勝手でほしいままな振る舞いをすると誹る。心は公利を愛するのに、なぜか高楼を築いて快適な部屋に住まう贅沢者とそしられる。私的に人を罪することはしないのに、なぜか武具を備えて兵乱の準備をしていると疑われる。道徳を純粋に備えているのに、讒言の口がやかましく起こる。仁の人はちぢこんで困窮し、傲慢で暴虐な者が権勢をほしいままにする。天下は暗くて険悪で、こんなことではおそらく時代の英傑も失われることであろう。螭龍(ちりょう。竜)を蝘蜓(えんてい。とかげ)とみなし、鴟梟(しきょう。ふくろう)(注2)を鳳凰とみなすのが、今の時代なのだ。比干(ひかん)(注3)もまた胸を割かれ、孔子もまた匡(きょう)(注4)で囚われの身となった。彼らの知は明らかに輝いてあったのに、巡り合った時が良くなかった。彼らは礼義を美しく大いに行おうと望んだのに、当の天下は暗黒時代であった。明朗な天は再び戻らず、我が憂いは限りがない。しかし万事は千年の後にまた巡り戻るのが、いにしえの世からの常であった。弟子諸君、学を勉めたまえ。天は、勉める者を忘れないであろう。こんな世では、聖人もまた手をこまねいて見守るしかない。だが、時はほとんど乱の極みに至ろうとしているはずであり、反転はもうすぐのはずなのだ。
「この弟子は愚かであり、おっしゃることがよく分かりません。どうか、反辞(はんじ)(注5)を示していただけるでしょうか?」
ならば、反辞としてこの小歌を示そう。「かの遠き、未来を思う。なんという、出口なき世よ。仁人は、縮んで窮す。暴人は、のさばり栄う。忠臣は、身すら危うし。讒人は、官職を得る」

琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠(注6)を、帯びることを知らない。布と錦とを交ぜても、見分けることができない。閭娵(りょしゅ。いにしえの美女)と子奢(ししゃ。有名な美男子である子都のことであるという)とを、仲立ちすることもしない(注7)。醜女と悪父とを、喜んでいる。盲人のことをよく目が見えると言い、聾人のことをよく耳が聞こえると言い、危険なことを安全であると言い、吉事を凶事と言う。ああ上天よ!こんな世の者と、共にいることがどうしてできるだろうか?


(注1)楊注は、「荀卿佹異激切の詩を陳ぶ」と注する。佹は危のことであり、警世の意を持った変体の詩である。
(注2)中国文化では、鴟梟(ふくろう)は子が親を食う鳥と信じられて(事実ではない)、不孝の悪鳥として不吉とされた。梟雄(きょうゆう)という語が悪党を指す語としてあるゆえんである。そこは、ふくろうを女神アテナの眷属として吉鳥とみなす西洋文化とは異なっている。
(注3)比干は、殷の紂王のおじ。紂を諌めて聞かれず胸を割かれて殺された。
(注4)孔子は、遊説旅行中に匡(きょう)という都市を通過しようとしたとき、匡人は彼を陽虎(ようこ)と間違えてこれを捕らえた。陽虎は魯の家臣で一時権勢を誇り、匡人に狼藉を働いたことがあったという。孔子は、陽虎に容貌が似ていた。囚われの孔子は衛国に救援を求めて、ようやく解放された。
(注5)「反辞」について楊注は、「なお楚詞の乱のごとし」と言う。『楚辞』に収録される詞には、本文の後に詞の大意を縮約した乱(らん)という小詞が置かれる。ここから後の小歌が本篇の大意を示した詞、というわけである。なお、梁啓雄は末尾の句が反辞とみなすべきであると言う。下の注13参照。
(注6)琁(けい)は赤玉(せきぎょく)のことで、瑤(よう)は美しい玉のこと。琁・玉・瑤・珠は、いずれも宝石の玉のこと。
(注7)美女と美男子は、当然ながら君主と君子のことを指している。
《読み下し》
天下治らず、請う佹詩(きし)を陳(の)べん。天地位を易(か)え、四時鄉(きょう)を易え、列星殞墜(いんつい)し、旦暮晦盲(かいもう)す。幽晦は登昭し、日月は下藏し、公正無私なるに、反(かえ)って從橫(しょうこう)と見(注8)、志は公利を愛すに、重樓(ちょうろう)・疏堂(そどう)とし、私に人を罪すること無きも、革を憼(そな)え兵を貳(いまし)む(注9)とし、道德純備なるも、讒口(ざんこう)將將たり。仁人は絀約(くつやく)し、敖暴は擅强(せんきょう)す。天下幽險にして、恐らくは世英を失わん。螭龍(ちりょう)を蝘蜓(えんてい)と爲し、鴟梟(しきょう)を鳳凰と爲す。比干は刳(さ)か見(れ)、孔子は匡(きょう)に拘(とら)わる。昭昭乎(しょうしょうこ)として其れ知之れ明かなるも、(楊注に従い改める:)拂乎(ふつこ)として(注10)其れ時の不祥に遇う。郁郁乎(いくいくこ)として(注10)其れ禮義の大いに行われんことを欲するも、闇乎(あんこ)として天下の晦盲なり。皓天(こうてん)復(かえ)らず、憂(うれい)疆(かぎ)り無きなり。千歲必ず反するは、古(いにしえ)の常なり。弟子學を勉めよ、天忘れざるなり。聖人手を共(きょう)するも、時幾(ほと)んど將(しょう)せんとす(注11)。與(われ)の愚なるを以て疑う(注12)、願わくば反辭(はんじ)を聞かん(注13)。其の小歌に曰く、彼の遠方を念(おも)うに、何ぞ其れ塞(そく)(注14)なる、仁人は絀約(くつやく)し、暴人は衍(えん)す、忠臣は危殆にして、讒人は服(ふく)す(注15)
(注16)琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠は、佩(お)ぶることを知らざるなり、布と錦とを雜(まじ)うるも、異(わ)くるを知らざるなり。閭娵(りょしゅ)・子奢(ししゃ)は、之を媒すること莫きなり。嫫母(ばいぼ)(注17)・力父(りきふ)(注18)は、是を之れ喜ぶなり。盲を以て明と爲し、聾を以て聰と爲し、危を以て安と爲し、吉を以て凶と爲す。嗚呼(ああ)上天よ、曷(なん)ぞ維(そ)れ其れ同せん。


(注8)原文「反見從橫」。集解の王念孫は、これを「見謂從橫」となすべきと言う。言うは、後人は楊注の「反見謂從橫反覆之志」の意を解せずに本文を改作したのであり、芸文類集聚人部八において「見謂從橫」に作られているのがその傍証であると言う。「見謂從橫」は「從橫と謂わ見(れ)る」と読んで、従横すなわち勝手ほしいままと誹謗される、という意味となる。しかしながら、ここを受身文と取らずに解しても意味としては差支えないので、王説を取らずに原文を尊重したい。
(注9)原文「貳兵」。「貳」は宋本では「二」字に作る。「貳(二)」について楊注は、増益の意と解する。集解の王念孫は「戒」字の誤りとみなす。新釈の藤井専英氏は儒效篇八(9)注13の于省吾説を適用させて、古文では「上(あるいは(下)」字は「二」字と誤りやすいので、ここの「貳(二)」も「上」字の誤りと解して「とうとぶ」と読み下している。王説を取ることにしたい。
(注10)原文では前句に「拂乎」があり、後句に「郁郁乎」がある。楊注は、「此れ蓋し誤のみ」と言う。これに従い、両者を入れ替える。「拂」は楊注に「違」と言う。さからう。「郁郁乎」は論語にも表れる語で、楊注は「文章有る貌」と言う。文様がいきいきと美しい様。
(注11)増注は、「将は行なり」と言う。時代が行き着くところまで行き着こうとしている、という意。
(注12)原文「與愚以疑」。増注は、「與(与)は予なり」と言い、一人称の「予」に取る。新釈の藤井専英氏は梁啓雄『荀子簡釈』が「与」を「同」、「疑」を「定」と解して、「愚に与(くみ)するも以て疑(ぎょう)す」の意に取っている説を挙げる。しかし藤井氏は「与」を経伝釈詞一に従って「謂」の意に解して、「愚以て疑うと与(い)わば」と読み下している。梁啓雄に従うならば、ここは「(末世ゆえに、やむなく)世の愚か者どもに同調するが、心中は正道に固めるのだ」といった訳となるだろうか。藤井氏は、「諸君は、もし自ら愚鈍で理解し難いと言うならば、(この反辞を聞き給え)」と訳している。上の読み下しと訳は、増注説を取る。
(注13)梁啓雄『簡釈』は、この後に下文の「琁・玉・瑤・珠、、」以下の句を挿入するべきと言う。
(注14)「塞」について、集解の盧文弨は、「或は蹇(けん)字の誤」と言う。蹇は、困難なこと。猪飼補注は、「塞はまさに騫(けん)となすべし」と言う。騫は、懼れること。いずれも、次の注15に示す「服」字を「般」の誤りとみなす説に沿って、「衍(えん)」「般」と韻を成すために示された解釈である。ここでは、底本から字を変えないでおく。したがって「塞」「服」は韻を成すが「衍」は韻を成さないと解しておく。
(注15)楊注は、「服」は用なり、と言う。登用されること。楊注或説は「服」を「般」に作る、と言い、般楽すなわち楽しむ意に解する説を並行して挙げる。この説も有力である。
(注16)ここから後の文章について。集解の盧文弨は、これが『戦国策』楚策に表れる、荀子が春申君に遺(おく)った賦と一致することを指摘する。『戦国策』に表れる荀子と春申君とのエピソードは、また漢代の先行する逸話集である『韓詩外伝』からの引用である。しかし王先謙は、このエピソードが事実であったことを疑う。劉向校讎叙録の本文およびコメントを参照。
(注17)楊注は、「嫫母は醜女、黄帝時の人」と言う。いにしえの黄帝時代の醜女のことという。
(注18)宋本は「刁父(ちょうふ)」に作る。増注は、「刁父は醜男」と言う。嫫母と対の醜男なのであろうか。「刁」字はわるがしこいという意味があるので、一般名詞と考えるならば、刁父は悪賢い男を指すのであろう。

賦篇の最後には、佹詩(きし)すなわち警世の詩が収録されている。末尾の「琁(けい)・玉・瑤(よう)・珠は、、」以下の数句は単独の賦と解釈することもできるが、新釈の藤井専英氏は『荀子簡釈』の見解を紹介して、簡釈いわくこれらの句は「其の小歌に曰く、、」の前に置かれるべきであって、これらの句が佹詩における「反辞」の内容をなす、という。なお注にも示したが、末尾の数句は劉向『戦国策』楚策にある荀子と春申君とのエピソードにおいて、ほぼ同文が荀子が春申君に贈った自作の賦として掲載されている。その内容の考証については、劉向校讎叙録の本文およびコメントを参照いただきたい。

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