王制篇第九(3)

By | 2015年4月13日
かの覇者は、そうではない。覇者は田野を開き、国庫を満たし、武器を改良し、兵員の徴募を慎重に行い、それから褒賞を与えて督励し、刑罰を厳にして粛正し、滅んだ国を建て直し(注1)、絶えた家を継続させ、弱国を守って暴国を禁圧し、しかも領地併合の心はない。こうなれば、諸国は親しむであろう。友邦と敵国の交際の道(注2)を尽くし、諸国に尊敬して接すれば、諸国は喜ぶであろう。覇者が親しまれるのは、これが併合しないからである。併合の野心が露呈したならば、諸国はこれを疎んじるであろう。覇者が喜ばれるのは、これが友邦と敵国の交際の道を取るからである。家臣とする野心が露呈したならば、諸国はこれから離れるであろう。ゆえに、不併合を行為で明らかにし、友邦と敵国の交際の道で信用を保つならば、天下に王者がいないときは常勝となるであろう。これが覇道を知る者である。閔王(湣王)(注3)は五カ国連合軍に破れ、桓公は魯の荘公に脅迫された(注4)。その理由は他でもない、王者の道をたどらずに王者のようにふるまったからである。

かの王者は、そうではない。王者はその仁が天下に高らかであり、義が天下に高らかであり、威が天下に高らかである。仁が天下に高らかであるために、天下で親しまない者はいない。義が天下に高らかであるために、天下で尊ばない者はいない。威が天下に高らかであるために、天下であえて敵対する者はいない。敵無しの威をもって、人を心服させる王道の道を助ける。ゆえに戦わずして勝ち、攻めずして領地を得て、武器を使わずして天下が帰服するのである。これが王道を知る者である。仁・義・威の三つを備えた者は、王者になろうと思えばなれるし、覇者になろうと思えばなれるし、強者になろうと思えばなれるのである。


(注1)増注は、斉の桓公が衛公を封じたことであると言う。すなわち、狄(てき)人が衛懿公を殺して、衛国は内乱となった。桓公は狄人を討って楚丘に城を築き、衛文公を即位させた。
(注2)原文「友敵之道」増注の冢田虎に沿って訳す。
(注3)閔王は『史記』では湣王。戦国時代、斉国の王。東帝を名乗って勢威を示したが、燕国の昭王と楽毅(がくき)が仕掛けた対斉連合軍に侵攻されて逃亡、楚国によって殺された。その後斉国は田単によって復興したが、以降斉国の力は衰えた。湣王は『史記』で先代とされている宣王と同一人物であるという重要な説がある。こちらを参照。
(注4)斉桓公の五年、斉国は魯国を討って勝ち、魯の荘公は和を請うて桓公と柯(か)で会盟した。魯公が誓おうとしたとき曹沫(そうばつ)が壇上の桓公を匕首(あいくち)で脅して魯から奪った土地を返すように要求した。桓公は、このときこれを認めた。後で後悔して曹沫を殺し土地を返さないことを望んだが、管仲はこれを諌めた。「脅されたからといって認めたものを、信義にそむいて殺すのは、一時の快をむさぼるだけのこと。諸侯への信義を捨てて、天下からの支援を失うのはいけません。」桓公は思いとどまって土地を魯国に返し、諸侯は斉を信じるようになったという。
《原文・読み下し》
彼の霸者は然らず。田野を辟(ひら)き、倉廩を實(み)たし、備用(注5)を便にし、案(すなわ)ち募選を謹み材伎(さいぎ)の士を閱(えら)び、然る後に慶賞に漸(ひた)して以て之を先にし、刑罰を嚴にして以て之を糾(ただ)し、亡を存し絕(ぜつ)を繼ぎ、弱を衛(まも)り暴を禁じて、兼并(けんぺい)の心無くんば、則ち諸侯之を親しむ。友敵の道を脩め、敬を以て諸侯に接すれば、則ち諸侯之を說(よろこ)ぶ。之に親しむ所以の者は、并(へい)せざるを以てなり。之を并すること見(あら)わるれば、則ち諸侯之を(注6)疏(うと)んず。之を說ぶ所以の者は、友敵を以てなり。之を臣とすること見るれば、則ち諸侯離る。故に其の不并(ふへい)の行を明らかにし、其の友敵の道を信にすれば、天下王[霸]主(注7)無ければ則ち常に勝つ。是れ霸道を知る者なり。閔王(びんおう)は五國に毀(こぼ)たれ、桓公は魯莊に劫(おびやか)さるは、它(た)の故無し、其の道に非ずして之を慮(おもんぱか)るに王を以てすればなり。
彼の王者は然らず。仁天下に眇(びょう)たり、義天下に眇たり、威天下に眇たり。仁天下に眇たり、故に天下親しまざる莫きなり。義天下に眇たり、故に天下貴ばざる莫きなり。威天下に眇たり、故に天下敢えて敵する莫きなり。不敵の威を以て、服人の道を輔く。故に戰わずして勝ち、攻めずして得、甲兵勞せずして天下服す。是れ王道を知る者なり。此の三具を知る者は、王を欲して王たり、霸を欲して霸たり、强を欲して强たり。


(注5)増注は「武備の器用」と言い、集解の王念孫は「器用」、王先謙は「械用」と言う。農具を含めた機械用品と取ってもよいし、武器と取ってもよい。
(注6)集解は元刻に従い「之」字を削るが、削る必要はないと考えるので戻す。
(注7)増注は荻生徂徠を引いて「覇」字を衍字と言う。集解の王念孫も同じ。

ここから、「覇者」の叙述に移る。覇者の具体例としては、春秋時代に最初の覇者となった斉の桓公がもっとも分かりやすい。管仲が宰相として終生輔佐した君主である。桓公は奢りやすくまた人臣を選ぶ目がない人であり、それほど資質優良だったわけではない。桓公が覇者であり続けることができたのは、もっぱら管仲のおかげである。増注の久保愛もまた、ここでの荀子の叙述は桓公のことを指していると指摘している。というわけで、以下の整理は桓公の政策=管仲の政策である。

1 贈与によって相手国の心を縛る贈与戦略

諸侯が桓公の下に付き従うようになった事件が、二回あった。

一つは上の注で書いた、魯の荘公に戦争で得た土地を返還した事件である。
二つは、燕国に土地を割譲した事件である。北辺に位置する燕国に、蛮族である山戎(さんじゅう)が侵入した。燕の荘公は、斉に救援を求めた。桓公は燕のために、山戎を討った。荘公は桓公を見送って、斉の領域に入ってしまった。桓公は「諸侯が互いに見送るときには国境を越えないのが礼である。しかるに燕公は国境を越えて見送ってくれた。これに返礼しなければならない。」こうして、荘公が見送った地点に溝を掘ってそこを斉と燕の国境線とした。

これらのことが、どうして諸侯の間に桓公への信頼を与えたのであろうか。それは軍事力を見せ付けた桓公が土地を得ることをせず、それどころか燕に対してはかえって土地を割譲してあげた、という前代未聞の度量の広さに、圧倒的な信頼感を植え付けられたからであろう。経済人類学の用語で、互酬(reciprocity)というものがある。ある人が別の人に財宝を贈与すると、贈与された人はお返しをしなければ申し訳ない、という負債の心理が起こる。その心理が支配―被支配の人間関係を形作る。贈与された人は、負債の心理のために何らかのアクションを起こさずにはいられない。あるいは、負債を払うために倍返しで贈与し返す。あるいは、別の第三者に贈与して、贈与の輪を広げる。またあるいは、贈与した者に対して心中で負けを認めて服従するのである。

この互酬の原理を用いて暴力によらずに相手の心を取る戦略は、古今東西結構よく取られる手段である。豊臣秀吉が徳川家康を臣従させたときには、天下人の秀吉は実母を人質に差し出すという圧倒的な贈与を行うことによって、家康を屈服させたのであった。第二次大戦後にアメリカがマーシャル・プランを実行して疲弊するヨーロッパを救ったのも、贈与によって西側陣営を結束させるための、アメリカの高度な戦略のうちであった。斉の桓公は、強者が諸国から信頼を得て覇者=ヘゲモニー国家となるために、贈与戦略を用いたのであった。それは、力ある者が選択できる、戦わずして優位に立つ人心掌握術であった。さらに付け加えるならば、かつての中華帝国が周辺諸国と展開したいわゆる朝貢貿易もまた、その本質は贈与戦略であった。周辺諸国は、中国から魅力的な産物を沢山もらえるために、朝貢貿易を懇願したのであった。かつての中国は絹織物、茶、書籍、磁器、銅銭など、当時の周辺諸国が重宝する価値ある物資を供給することができた。これと形式的な中華皇帝への服属とをトレードするのが、朝貢貿易というものであった。

2 国際秩序維持のために軍事作戦を行う安全保障戦略

桓公・管仲のコンビが国際的正義として掲げたのは、「尊王攘夷」である。幕末の「尊皇攘夷」のスローガンの卸し元が中国春秋時代の桓公・管仲であったことは、今の日本人によってたいてい忘却されている。

王とは、周王朝のことを指す。春秋時代、周王朝は諸侯への統制力を失い、諸侯国はめいめいに自国の政策を追求して、結果紛争が頻発するようになっていた。
加えて中華文明が周辺の諸族に刺激を与えてそれぞれの国家形成に向かわせ、中華世界の諸侯国との軍事衝突も起こるようになった。中でも強大化したのは、長江流域を支配する楚国であった。楚国は自ら蛮夷の王を称して隣接する中華の諸侯国に侵略を行い、中華世界を挑発するようになった。

桓公と管仲は、以下の外征を実施した。

  • さきほど述べた通り、山戎が燕国に侵入したのでこれを討った。燕公には、周王への貢物を復活させた。
  • 狄(てき)人が衛の懿公を殺して、衛は内乱となった。桓公は狄人を討って楚丘に城を築き、衛文公を即位させた。(注1参照)
  • 桓公夫人の蔡姫は、蔡国の公の妹であった。蔡姫が夫の桓公を怒らせる非礼を行い、桓公は夫人を蔡国に帰したが、離縁はしなかった。蔡公は、蔡姫を他国に嫁がせてしまった。ここで桓公は諸侯の軍を率いて蔡を討ち、これを壊滅させた。このとき更に兵を進ませて、楚を討った。楚王は侵攻の理由を問いただしたところ、管仲は楚王から周王への貢物が届いていないので問責に来た、と返答し、楚王は貢物を約束せざるをえなかった。

これらの外征は、斉国の領土拡張のためではなくて、中華世界の諸侯国を支援して侵入する周辺諸族を撃退することが目的であった。国際正義として掲げたのが、周王を尊重して従来の中華世界の秩序を守ることであった。最後の蔡国への多国籍軍の展開はとりあえず蔡公の桓公への非礼への報復であったと解釈できるが、進んで楚国を討ったのはこの出兵が最初から楚国を問責することがプログラムに入っていたのであろう。管仲は楚王に対して貢物という象徴的なテーマを出して、楚国は中華世界のルールを守るのか否か、と問責したのであった。このように斉国は覇者=ヘゲモニー国家として、国際秩序維持のための軍事作戦を遂行したのであった。

次に述べる葵丘(ききゅう)の会盟において、周王は桓公に対等の礼を許そうとした。桓公はこの頃成功に奢ってこれを受けようとしたが、管仲は強くこれを押し留めた。覇者の信用力が尊王攘夷という国際正義に依拠していることを、管仲は忘れはしなかったのである。ここで桓公が周王と対等である、すなわち他の諸侯よりも格上であるということを宣言したならば、その時点で斉国への信認は崩れ去ってしまうだろう。どんなに強力であっても、覇者はあくまでも諸国と対等の盟友関係でなければいけないのである。この管仲の見識を実行して、自国の力に奢ることのない謙虚なヘゲモニー国家は、じつはあまりない。

3 自国を含む多国を拘束する法的インフラを提唱する国際制度戦略

桓公の三十五年、斉は諸侯を葵丘に集めて会盟した。
その会盟国が守るべき内容は、五箇条であった。以下、『孟子』告子章句下に沿って列挙する。

  1. 不孝者は誅罰すべし。後継ぎは変えるべからず。妾を妻と取り替えるべからず。
  2. 賢を尊び才を育てて、有徳の者を顕彰すべし。
  3. 老を敬い幼をいつくしみ、外から来た賓客・旅行者の扱いをゆめゆめ怠るべからず。
  4. 士は官職を世襲させるべからず。官職は兼任させるべからず。士を取り立てる際には必ず人物を優先させよ。みだりに大夫を誅殺するべからず。
  5. (他国を水攻めにするために)河川の堤防を曲げるべからず。(他国を飢餓に陥れるために)穀物の売買を妨害するべからず。諸侯が自らの臣に土地を封与する際には、盟主に必ず報告せよ。

1、2、3および4は、諸侯国の国内モラルの引き締めである。これらが正論であって斉のためだけに有利な条項ではないことは、明らかであろう。
また3は国際外交のインフラを維持することも諸侯国の責務とするもので、安定した国際秩序のためには不可欠の保護策である。
5は、自国の利益しか考えずに天下万民のためにならない軍事作戦の禁止である。現代では軍事作戦のみならず、資源維持や環境保護の目的についても国際的な取り決めを必要とする。

斉国がイニシアティブを取った葵丘の会盟は、上のように自国を含む多国を拘束する法的インフラの提唱であった。斉国だけの利益を追求したものではない正論であるので、諸侯国は覇者の権威の下でこれを誓うより他はなかった。

以上が、管仲の取った覇者=ヘゲモニー国家の戦略である。前回出た偽りの強者と覇者を分ける点は、強者は己の力に頼って他国をねじふせようと望むのに対して、覇者は贈与によって相手国の心を取り、国際正義を掲げることによって自国だけの利益ではない集団的利益の追求に目標を置いたところにある。この覇者の心を取る拘束力が、独立自尊を重んじる真の強者といえども、国際的秩序に参加する選択肢を選ばなければならなくさせるのである。もとよりそれは、真の強者にとってもメリットあることだからである。

しかしながら、斉国が覇者であり続けることはできなかった。政治的天才であった管仲が死去した後、桓公は覇者の座を維持することが出来なかった。このとき宋国の襄公は、自らも覇者として世界に正義をもたらそうと望んだ。こうして、襄公は諸侯を集めて会盟を企画した。しかし楚国は、小国の襄公が呼びつけたことに怒った。そこで宋に侵攻して襄公を捕らえた上で釈放し、これを辱めたのであった。中小国の宋国では、力で楚国を圧するだけの国力がなかったのである。あるいは、襄公は覇者となるためには贈与の裏づけが必要である、という管仲の戦略を十分に理解していなかったのである。「力を持って仁を仮(か)る者は覇なり」と孟子は言う。覇者=ヘゲモニー国家は、国に他国に抜きん出た力がないと、国際正義に実効力を持たせることができない。だから孟子も荀子もこれが最終的解決ではありえない、と否定する。否定するのであるが、、、


覇者を述べ終わった後、荀子はそれよりも上の「王者」を述べる。だが、何という内容の乏しい王者であろうか。このようなお題目を掲げれば戦わずして世界を統一し、諸国を臣として世界統一政府が成立するであろう、などと国際政治学のレポートで書いたならば、間違いなく不可を食らうであろう。荀子には、正義が自明の理として見えていたから、こんなにも王者の説明が簡単なのである。ではその自明の理である王者の政治とは、ここから後に続くさっぱり魅力のない法治官僚国家なのである。現代に荀子を読む者は、ここでがっかりしてしまう。

荀子は、もう統一中華帝国しか正解がない、という当時の結論が見えていたから、このようなことが書けたのであろう。しかし現代の世界政治の最終結論が、統一世界帝国のはずがない。古代の中華世界は非常に長い期間諸国が対立して戦争を続け、大国が小国を併合し、異文化の諸国まで中華世界に参入して結果として中華世界の文化が平均値に収斂し、その果てに荀子の時代には統一中華帝国が現実味を帯びていたのであった。現在の世界には、そのような文化の平均化はまだない。ならば現在の世界においては、覇者=ヘゲモニー国家による支配がせいぜい次善の策であり、覇者が不在の時代においては、各国ともに真の強者を目指して侵略を否定してなおかつ国の独立を保持するぐらいしか策がない、ということになるであろう。現代の文脈では、「王者」はありえないのであろうか。

(カントは)人間の本性(自然)には「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。、、、カントが永遠平和のための国家連合を構想したのは、そのような国家の本性を消すことができないという前提に立ってです。しかも、彼は、国家連合が人間の理性や道徳性によって実現されるとはまったく考えなかったのです。それをもたらすものは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのです。

その結果が第一次大戦です。しかし、それがカントの平和論を甦らせた。、、、(国際連盟は)世界対戦を通じて、つまり「自然の巧知」によって達成されたのです。

彼(引用者注:カント)の理念は究極的に、各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国にあります。それ以外に、国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはありえないし、したがって、それ以外に国家が揚棄されることはありえません。

(以上、柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を越えて』岩波新書、220-222ページより)

柄谷氏は、カントの世界共和国への期待をこのように言う。確かに荀子の「王者」の可能性を現代で考えるとするならば、「戦争を抑止し、持続しながらたえず拡大する連合」(カント『永遠平和のために』より)によるどこの国にも偏らない正義の力による支配、が最もありえる姿であろう。しかし、「王者」の理想を実現するために成立した国際連合は、柄谷氏もまた認めるように、現在国際紛争解決のための公共の場としての力が大きく疑われている。そこからアメリカの保守的論客たちはカント的な国際連合を嘲笑し、むしろヘーゲル的に覇権国が力で自己の理念を実現することを正統とするのである。つまりここでの稿の言葉に沿えば、「王者」を嘲笑して「覇者」だけが正解であると言うのである。その言い方にはこれまで述べたように相応の理があるので、なかなかに抗いがたい。

荀子の構想する統一中華帝国は、非常に長い期間諸国が血で血を洗う戦争を繰り返した先に見えてきた。秦国の絶対優位を確定させた長平の戦では、敗れた趙軍の兵が40万人殺された、と『史記』には記録されている。戦国時代の記録を見るとほとんど日常的に戦争を繰り返して多数の兵が死んでいたのであり、この惨状から抜け出すために荀子は王者による統一帝国を期待して、しかもそれは荀子の時代からあとわずかの後に実現したのであった。国際連合、あるいはなんらかの新しい中立的な国際機関が国際紛争解決のための公共の場として再び力を取り戻すには、柄谷氏がカントに言及して予見するように、恐ろしい世界戦争をもう一度経なければならないのであろうか。

王制篇はここから後、王者の経綸(けいりん)が延々と述べられる。だが、正直言って私には何の興味も沸かない。すでにそれは中華帝国として歴史上実現したのであり、荀子は法治官僚国家の理想を述べているだけである。そしてそれは、もはや来るべき理想ではない。今さら専制国家に憧れる理由は、何一つないのである。

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