香港歴史博物館(Hong Kong Museum of History)に行った。
この博物館は、開館間もないこともあってめぼしい歴史的文物はほとんどない。オリジナルなものといえば先史時代の遺物の他はせいぜい後で述べる日本軍の残した各種の遺留品ぐらいだ。香港割譲を約した南京条約の条約文も置いていたが、レプリカだった。
その代わりといっては何だが、再現された蛋民(船上生活をしていた人々)や各時代の一般家庭の生活空間の模型などは、質量ともに大変充実した展示内容を誇っている。
昔の家族の結婚式や、村の祭りなども再現されている。
祭りで繰り出される巨大な将軍像が目に付いた。
こういった巨大な像を祭りの時の出し物として繰り出す風習は、確かインドにもあったはずだ。習俗の共通を感じる。
我が国の青森県の「ねぶた」も、ひょっとしたら大陸の影響があるのではないか?
江戸時代以前、青森の十三湊は国際的貿易港だったことを忘れてはいけない。
館内に一枚の地図があった。それはイギリスの香港取得後、どれだけ土地が埋め立てられたかを図示していた。
実に沿海部のほとんどが埋立て地であることがわかる。
この地はまさにただの岩山だったのが、そこから並大抵でない人の力によって打ち立てられた街なのだ。
1960年ごろの香港の写真もあった。今とは全く違って、山肌はsquatting hutsで埋め尽くされていた。中共政府の成立によって大量の難民が流入した結果だ。
だがこの頃以降香港は急速に街並みを変化させていく。「香港に売り飛ばす」という脅し文句が昔の日本でしばしば使われたが、それがリアリティを持つ余地は、今の時代にはもうどこにも見られない。最後に残った「魔窟」の九龍城(Kowloon Walled City)も今は跡形もない。それを惜しむ声がいろいろ聞かれる。あれこそ真の「都市」でありコミュニティーであったと。そうかもしれない。だけど私はそこに住む気がしない。
当然のことながら、日本占領時代(1941〜1945)についてのコーナーがあり、しかも相当に詳しかった。
見ていて厭わしく思ったのは、いくつも展示されていた日本軍人の写真の表情が、皆妙にまじめで真剣な顔立ちをしてることだった。
ビクトリア・ピーク近くの山肌で歩哨をする軍人、中環あたりで行進する軍人、皆(
むしろ今の時代の日本人よりよっぽど)質朴で剽悍な顔つきをしていて、だらけた姿勢はみじんも見てとれない。
だが、彼らの ―いや、私を含めた今の人たちもそうなのかもしれない― 真剣さは、外国人には決して伝わっていない。
外国人から見れば、日本人は何をしにやってきて、どのようなことをしたいのかがさっぱりわからなかったに違いない。
略奪をしたいのだったら、(邪悪な意図であるものの)やりたがっていることについては理解できる。
だがそうでもない。
何だかよくわからないお題目を唱えて、それを信じて何だかよくわからぬながらも真剣な顔つきで戦闘している。
そしてそれは日本人以外には全く何だかよくわからない。そうして彼我ともに傷ついて、何だかよくわからないうちに去っていった。
彼らにとって日本軍はジンギスカンのような悪の軍団だったと理解するよりは、人間ならざる猛獣の群が暴走したものであったと理解するしかなかったのではないだろうか。
もっと詳しく博物館を見たかったのだが、この頃になると疲れがドッと押し寄せてきて、トイレの中で座り込んでしまった。
この3日間、徹底的に歩き回った結果だ。
同じ博物館内で雲南地方の古銅器展をやっていて興味深そうだったが、とても回る気力が出せなかった。