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第一日
(2004/11/10)

↓空港
↓佐敦(ホテル)
↓尖沙咀

↓上環(文武廟)
↓中環
↓スターフェリー
↓尖沙咀
↓佐敦(廟街)
↓佐敦(ホテル)

第二日
(2004/11/11)

↓佐敦(ホテル)
↓九龍公園
↓油麻地

↓QuarryBay
↓北角
↓銅鑼湾(午砲)
↓黄泥涌峡
↓大潭郊野公園

赤柱

中環
↓The Peak
↓上環
↓佐敦(ホテル)

第三日
(2004/11/12)

↓佐敦(ホテル)
↓尖東車站
↓上水

↓中港境界
↓尖沙咀
↓深水ポー

↓香港歴博
↓佐敦(ホテル他)

第四日
(2004/11/13)

↓空港

第二日 其の五

此の恨み綿綿として盡くる期無し。このうらみめんめんとしてつくるときなし 白楽天

大潭郊野公園を通り抜ければ、もう南シナ海だ。
海に出たはいいが、方向オンチの私とSの両名ゆえまたも散々迷ってムダ足を折った後、通りがかりのミニバスに飛び乗って香港島南端の赤柱(Stanley)半島に向かった。

バウ・ミャウのたぐいの写真は置くだけで見栄えがするから楽。

赤柱の街は、特に何ということもなかった。
ただの海沿いの観光地だ。伊豆あたりに行けばふつうに見ることのできる、質悪く値段高い土産物屋の集積。
西洋人には珍しくても、我らにはあまりにも見慣れすぎている風景にすぎない。

魚はあんまりいなさそう。

穏やかな南シナ海。須磨浦海岸ではない。

歴史的建築というわけではない。

天后廟。この女神(媽祖)の経歴が妙に具体的なのが、中国っぽくて面白い。

彼女の生前の名は「林默娘」であり、宋代(西暦960年)に福建省は眉洲島(「眉」は本当は「さんずいへん」が付く)にて福建省興化府の官吏林愿の7女として産まれた。彼女の名は産まれたとき泣き声を上げなかったことにちなんでつけられたものである。15歳にて泳ぎを習い始めるもたちまちにして水泳の達人となり、それから数々の奇跡を現し始め、、、などなど。(このあたりの説明は、日本語及び英語のWikipediaを参考にしました)
中に入ると、正面にどんと天后様がおわします。その横には小さいながらも関羽将軍が規格どおり関平・周倉の両人を引き連れてちゃんといらっしゃった。いやいやようやくご尊顔を拝むことができました。
だが、廟の右側にある比較的大ぶりの像は、、、観音菩薩?
この地では仏教の菩薩はすっかり道教の神々の中に吸収されてしまっていた。とほほ。

天后廟からショッピングモールを抜けたところにあるバスターミナルでバスを待ったが、、、なかなか来ない。
時刻表の表示を見ると、ほんの数日前にダイヤ改正があって、このバスターミナルは基本的に素通りされるようになり発着本数が激減したということが判明した。
移動するのも面倒だし、このまま待つことにする。
ヒマだから、掲示板にある求人広告でも見る。
学校講師の給与が月3500香港ドル(≒5万円)か、、、やはり日本より一段階貧しさが隠れているようだ。

ようやく来たシティバス6A番に乗り込んで再び中環へ。
バスの中にはテレビ画面が据え付けられてあって、広告とかを流していて面白い。
、、、エステの料金が4888香港ドル(≒6万8000円)だって!
相当に貧富の差があるなあ。まあ、日本に比べれば、だが。

中環に着いたらもう夕暮れ時。
晩飯にするか。
近くにめぼしい店もないし、ここはB級グルメということで、香港地元の快餐店(ファストフード店)にでも入ってみるか。 ほう、保仔飯(土鍋炊き込みご飯、「保」は本当は「保のしたに火」)を始めているのか、、、よしこれにしよう。豚肉と鹹魚の保仔飯。
だが、店員に英語が通じない。 セルフサービスで、炊き上がったらアナウンスしてくれて、カウンターに食券と引き換えに取りに行くというシステムだ。
蓋つきの飯に、付け合わせでスープ、それにレタスの油菜(またかよ、、、)。
さて。






信じられんほど、まずい。

肉にほとんど塩でしか味がついてない。これでは肉の臭みが取れずに、飯の中まで臭みが回ってしまうじゃないか!
何か?このツマようじをこそげた切れ端のようなショウガ数本が、臭い消しの薬味というわけか?
鹹魚は鹹魚で旨みも何もあったもんじゃない。ただ塩辛いだけだ。
おまけに、一緒に付いてきたこのレンコンのスープ(?)、味がなんにもないじゃないか!
まさかまたも出てきた油菜が、唯一この中で何とか食える代物だったとは思いもよらなかったぜ。

怒り心頭に発して、私は快餐店を出た。
(ちなみに同行のSは天心飯もどきのあんかけご飯を注文した。大してうまそうにも見えなかったが、これよりかはましだったんだろう。)