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第一日
(2004/11/10)

空港
↓佐敦(ホテル)
↓尖沙咀

↓上環(文武廟)
↓中環
↓スターフェリー
↓尖沙咀
↓佐敦(廟街)
↓佐敦(ホテル)

第二日
(2004/11/11)

↓佐敦(ホテル)
↓九龍公園
↓油麻地
↓QuarryBay
↓北角
↓銅鑼湾(午砲)
↓黄泥涌峡
↓大潭郊野公園

↓赤柱
↓中環

↓The Peak
↓上環
↓佐敦(ホテル)

第三日
(2004/11/12)

↓佐敦(ホテル)
↓尖東車站
↓上水

↓中港境界
↓尖沙咀
↓深水ポー

↓香港歴博
↓佐敦(ホテル他)

第四日
(2004/11/13)

↓空港

第一日 其の一

萬里、空に乗ずるが若し。ばんり、くうにじょうずるがごとし 王維

関西空港

というわけで、2004年11月10日から3泊4日、友人のSと共に香港へ旅行することになった。
もともとS自体が香港に行くことを計画していたのを、いつも出不精なこの私の性根を叩き直すために彼があえて同行に引っ張り出したわけであるが、、、

飛行機は、AIR INDIAの香港経由ボンベイ(ムンバイ)行き。
当然中国人と共にインド人がたくさん乗っていた。
目の前の席も、(おそらく)インド人男性2人でした。
それにしても彼らはよく話す。機中の4時間、ずっと休みなく会話を続けていた。よく話題が続くもんだ。対照的にこちらは特に話題もなく、機内食(カレーが出て、これはうまかった)を食った後、隣のSは寝てしまった。神経質な私は彼ほどカンタンに寝ることができない。しょうがないから、前のおやじのえらく立派な後頭部のつむじが会話に応じて上下左右に動くのを、何時間も眺め続けるることに。

 後でSになぜ彼らはあんなにも話題が豊富なのかという点について意見を求めたら、Sいわく、「いや、二人とも初対面同士やから、まず自分の出身地とか家族とかについて説明するだけで軽く一時間はかかるんやで。何せインドは広いからな。」
なるほど、そんなものか。

まあ飛行機での旅というものは、フライト直後から目の前のビデオでIn case of emergencyの対処法がこんせつていねいに流され、始めから不吉な印象が植え付けられてブルーな気分になってしようがない(少なくとも私はそうだ)。こんな不快な気分をまぎらわすためにも、彼らのように何でもいいから話題を出して話し続けるのは、実に気の効いた気配りなんじゃないか?
何せ、ビデオで流されている洋画はクソつまらないし、窓の外を見ても雲、雲、雲のおなじ景色しか見えないので気休めにもならない。そういうわけで日本人みたいにブスッと押し黙っているのは、電車の旅などでは良くても、飛行機ではちと感心しないマナーではないか?、、、などととりとめもないことを考えているうちに、4時間後ようやく香港國際空港に着いた。

かすかに香港のビルが見える

空港に着いたのは夕刻。
着いたはいいが、どうも外国に来たという感じがあまりしない。このことに、逆に少し戸惑った。
別に回りから結構日本語の会話が聞こえてくるから、ではない。また、構内がゴチック体の漢字に満ち溢れているから、でもない。
何とも形容しがたいが、人々の服装の着こなし方、手荷物の持ち歩き方、携帯の取り方使い方、仲間が固まって会話する仕草、こういう交通機関の構内でやや小走り気味に歩く傾向、、、これらのようなこと全てに「違和感」がなくて、日本にいたときと連続した感覚を自分に与え続ける。ちょうど10年前にヨーロッパに行ったことがあるが、その時感じた「外国に来た!」という第一印象とは全く違う。

パックツアーとは名ばかりの、フライトとホテルの手配以外は完全自由行動のツアーなので、ツアコンにガイドされるのは空港からホテルまでの移動の間だけ。空港からホテルのある九龍まで、チャーターされたバスに乗って移動した。

豊かとはいいがたい山々

『平凡社大百科事典』の「香港」の項目によると、

「香港島と九竜半島の南東部は花コウ岩や古い火山性の斑岩の風化物でおおわれ,著しく褶曲し浸食も進んでいる。香港島は植生が乏しいこともあって,まったく岩山の景観を呈する。」

なるほど、至る所にその姿が見える。
イギリスが占領する前は、ここが不毛の半ば見捨てられた地であったということもうなずける。
海外貿易に極めて鈍感であった歴代中国王朝から見れば、この地形の港としての重要性など全然気にも留めなかったに違いない。

歴史によれば、九龍は南宋王朝最後の皇統の兄弟が、モンゴルの追撃を逃れてわずかの期間宮廷を開いた地であるという(西暦1277年〜79年)。アヘン戦争以前に、この地がまがりなりにも主要な歴史的舞台となった唯一のイベントであった。
この地の西にあって対岸のマカオとを隔てさせる海の名は珠海で、この名はこの辺りの海から真珠が取れることに由来するという。
いずれにせよ、本来広東省の中心地は珠海に注ぐ珠江デルタの中心にある広州であって、香港近辺は真珠の採集の他には漁業と塩作り、あるいは「香港」の名の由来であるという香木の栽培程度がなされるだけの、辺鄙な寒村にすぎなかった(かつての中国では、漁業生活者は不当に蔑まれていた)。

それに追い討ちをかけるように、清朝は順治帝十八年(西暦1661年)に台湾で割拠する鄭成功一味の勢力拡大を阻止するために、広東・福建両省などの沿海住民を30里(17.3km)奥地に強制移住させた(遷海令、康熙帝二十二年(西暦1683年)に廃止)。清朝が山海関を抜いて北京入城を果たしたのが順治帝元年(西暦1644年)で、圧倒的少数の満州族が大海のような中国を完全に支配するのはもっと後のことだ。その初期の時代には、こういった荒っぽいやり方で「反乱」(反乱側の鄭氏から見れば明朝の復興である)を鎮圧することも辞さなかった。
とにかくもこの遷海令によって、清朝は沿海住民が鄭一味に協力する可能性を絶ったわけだが、当然香港島もその対象であったはずだ。つまり、この辺りは一度全く無人の地となったわけで、人が(改めて)住み着いた歴史はごく浅いということになる。