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第一日
(2004/11/10)

↓空港
↓佐敦(ホテル)
↓尖沙咀

↓上環(文武廟)
↓中環
↓スターフェリー
↓尖沙咀
↓佐敦(廟街)
↓佐敦(ホテル)

第二日
(2004/11/11)

↓佐敦(ホテル)
↓九龍公園
↓油麻地

↓QuarryBay
↓北角

銅鑼湾(午砲)
↓黄泥涌峡
↓大潭郊野公園

↓赤柱
↓中環

↓The Peak
↓上環
↓佐敦(ホテル)

第三日
(2004/11/12)

↓佐敦(ホテル)
↓尖東車站
↓上水

↓中港境界
↓尖沙咀
↓深水ポー

↓香港歴博
↓佐敦(ホテル他)

第四日
(2004/11/13)

↓空港

第二日 其の三

爾の器は誠に利なるも。なんじのきはまことにりなるも 秋瑾

ほとんど無益な1時間半を過ごして、再びSと合流。地下鉄で銅鑼灣(Causeway Bay)に向かう。
それにしても、地下鉄の発着の合図で流れるジングルがやたらと威勢がいい。
「お前ら、気合入れて仕事せんかい!」と喝を入れられているようだ。
こういう躁的なノリは、実はけっこう好きだったりする。

銅鑼灣駅付近にあった両替屋には長蛇の列。大陸の観光客のようだ。
ひょっとしたら米ドルを人民元に替えようとしているのか?この旅行の直後人民元切り上げの憶測が急浮上したし、いち早く噂を嗅ぎつけて行動に出ていたのかも。(だが2005年2月現在、まだ切り上がっていない)

(追記)2005年7月、ようやくちょびっとだけ切り上げた。直後にスーパーで微妙に野菜の値段が変動したが、すぐ元に戻ったような気がする。

時間は正午。銅鑼灣の海岸にあるジャーディン社の午砲(The Noon Day Gun)を観にいった。

大砲はいいね。

男の性といえよう。

この大砲の元々の起こりは、まだビクトリア湾の安全が確立されていない植民地時代初期に当社が海賊防衛用に設置した私設砲台だということだ。
その後、砲台は同社の商船が入港した場合に祝砲を撃つセレモニー的なものになっていったが、あるとき誤って英国海軍の軍艦が入港した際に砲を撃ってしまった。英国海軍はその行為を不遜として、罰として毎日正午に時報として大砲を撃つサービスを会社に命じたという。そのサービスが今も続いている。

はいはい、もうちょっと待ってください。

Load a gun...

こんなんでどうですか。

FIRE!!!

見逃した方は、あしたまたお越しください。

Show's up.

説明のプレートによれば、基金に一定額ドネーションすればこの大砲を撃たせてくれるとのこと。

ジャーディン=マセソン会社(Jardine,Matheson and Co.,Ltd.)といえば、歴史上では悪名高きアヘン商社として出てくるが、今目の前で行われているセレモニーは毒気など全て抜け落ちた、平和なものだ。ナショナリスティックな眼鏡をつければ、過去の屈辱の象徴と決め付けることすらできるであろう代物だが、少くとも今のところは、この炎天下での行事がそのようないきり立った見方にまとわりつかれている様子は見られない。

日本軍にも撃ったんだろうか?

英国は、香港島(西暦1842年)、九龍半島(同1860年)、新界(New Territory)(同1898年)とまさしく隴を得て蜀を望むがごとく征服地を拡大していったわけだが、この地に立ってみれば、香港島が英国にとって重要な商用拠点となればなるほど、ほとんど川といっていいぐらいに狭い海峡であるこのビクトリア港の対岸の安全を確実なものにしておかずばなるまいと考えるのは、自然ななりゆきだっただろうと実感してしまう。
ただそれは、現代に行われているようなグローバルに受け入れられる国際法規に準拠した国家間協定、といったものによらなかった。つまるところ、武力占領によって行われた。見方を変えればあるいは、ヨーロッパの「通商の自由と安全の確保」というルールを理解しない当時のアジア諸国に対しては、武力占領によって通商ルートを自国の主権下に置くしか安全確保の方法がなかった、ともいえなくもない。
だが、通商貿易の繁栄の確保のために暴力は許されるのか。この問いはどうやらまだ現代でも決着がついていないようだ。