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第一日
(2004/11/10)

↓空港
↓佐敦(ホテル)
↓尖沙咀

↓上環(文武廟)
↓中環
↓スターフェリー
↓尖沙咀
↓佐敦(廟街)
↓佐敦(ホテル)

第二日
(2004/11/11)

↓佐敦(ホテル)
↓九龍公園
↓油麻地

↓QuarryBay
↓北角
↓銅鑼湾(午砲)
↓黄泥涌峡
↓大潭郊野公園

↓赤柱

↓中環

↓The Peak
↓上環
↓佐敦(ホテル)

第三日
(2004/11/12)

↓佐敦(ホテル)
↓尖東車站
↓上水

中港境界
↓尖沙咀
↓深水ポー

↓香港歴博
↓佐敦(ホテル他)

第四日
(2004/11/13)

↓空港

第三日 其の二

大国を治むるは、小鮮を烹るがごとし。たいこくをおさむるは、しょうせんをにるがごとし 『老子』

トラックがびゅんびゅん通る道路を、ひたすら歩く。
観光地でないだけあって、大変殺風景だ。

深センは治安が悪そうなのでパス。

山の向こうに新川のビルが見える。
この辺に来ると、ほとんどはげ山ばかりだ。

昔この辺は一触即発だったのだろう。

ついに中港境界まで来た。

意外と手軽な検問所。

検問は香港側の警察が管理している。
検問の向こうには人民解放軍がいるのだろう。

境界あたりはほこりっぽい。

一瞬でこうなる。

ものすごい交通量だ。
あっというまにトラックが連なっていく。
大陸と香港とは、もはや経済的に一体というべきか。

香港の一人あたりGDPは2004年現在でだいたい23,000USドル(ちなみに日本は37,000USドル、韓国は15,000USドル)。
大陸中国の一人あたりGDPは、全国平均で約1,360USドル。最も裕福な広東省でも、せいぜいならせば2〜3,000USドル程度あればいい方だろう。たとい人民元が過少評価されているといっても、その差は明らかだ。
同じ言葉をしゃべって、しかもこれだけ物の流通は活発である。どうしても起こる潜在的な人の流れを制御するためには、お上が結局のところ少々荒っぽい手段を取らざるをえないのだろうか?
このような、同民族なのに境界を隔てただけではなはだしく経済格差があるような社会が今のアジアには存在している(そしてまた、韓半島もそうだ)。片方の人々が豊かな生活を得て失うものを持ってしまったことが、双方のユニフィケーションに立ちはだかる壁として、もはやあまりにシリアスなものになってしまっているに違いない。双方の差はもうかつての東西ドイツの差どころの話ではないだろう。
そのような問題のない日本は、この事実を考慮に入れないと彼らに何も言えないのではないか?
今は、大陸の人たちが経済成長で未来を夢見ることができるのが、香港という大陸に浮かぶあやうい繁栄の島を守っている。
だが、今上海や珠江デルタ周辺のごく一部の人々で享受されている点の繁栄が、この香港でまがりなりにも成り立っている面の繁栄を勝ち取るに至るまでどのぐらいの歳月が必要なのかを考えると、気が遠くなる。人間の経済はどんなにがんばってもせいぜい年率10%を大きく上回って成長できない。ましてや一人当たりならばなおさらだ。複利計算をしてみればいい。日本レベルの水準に到達するまで何十年かかるのか、いやさ、せめて韓国レベルに至るまでどうなのか。そんなことが21世紀中に可能なのか?地球はそれを許してくれるのか?


中港境界近くに数アール程度の小さな畑で野菜づくりをしている初老のおやじがいた。
大学で中国語学科だったSが彼に何を作っているのか普通話で話し掛けてみた。
だが、全く通じない。不審者と思われるのも何なんで、早々に退散した。

現代ですらこれだから、昔は北方人と南方人が口頭でコミュニケーションを取る機会など官僚同士でもなければ極めてまれなことだったのだろう。

マルコ=ポーロが十七年も中国に滞在していながら中国語をどうやら知らなかったようだということについて歴史家がいろいろ書いているが、大陸の言語がこんなありさまで地方ごとに分裂している状態では、むしろその一つの言語だけを学ぶことなど行政官としてナンセンスなことだったのではないか?
むしろ大陸に侵入者のモンゴルが網をかぶせた別の言語 ―モンゴル語か、ペルシャ語だろうが― を用いることが、行政として当然の能率と均一さを確保する道だったのだろう。ちょうど現代でも英語が通じる英国のコモンウェルス内諸国では、現地語など学ぶより英語を使ったほうが官僚やビジネスマン、それにインテリとコミュニケーションを取るのに手っ取り早い実情と、同じようなものであったと思うのだが。

このような実情だから、別の地方出身者同士がコミュニケーションを取るためには、漢字を使った筆談しかない。

例えば福建省出身の林則徐(西暦1785〜1850)と湖南省出身の左宗棠(西暦1812〜1885)が船中で夜通し語り合ったとき、あれは口頭で話したのだろうか?

歴史によれば、道光帝二十九年(西暦1849年)10月、その頃雲貴総督に任命されていた65歳の林則徐が湖南の長沙に赴いたとき、挙人()の37歳の左宗棠が訪問し船中で夜通し語り合ったという。
林則徐はアヘン戦争を引き起こした責任を取らされて新疆(現在の新疆ウイグル自治区)に三年間左遷された後雲貴総督に任命されていたのだが、この翌年に死亡する。後に陝甘総督としてロシア・イギリスの干渉から新疆を辛うじて清朝のものに守り切った左宗棠が(守りきったことが果たしてこの地域にとって良かったことだったのかどうかはとりあえず置いておく)、この時の会談で林則徐から彼の長年の経験によるヨーロッパ列強対策のヒントを教えられたという。
だが、林則徐は正規の官僚だからマンダリン(普通話)を使えただろうが、まだ地方の名士段階にすぎない左宗棠はどうだったのだろうか。
湖南方言は普通話とほとんど別言語のように違うというのだが。やっぱり筆談だったのだろうか。
他にも、湖南省出身の毛沢東と山東省出身で上海で女優をしていた江青の夫妻は、ふだんどのような夫婦間のやりとりをしていたのだろうか(毛沢東の湖南なまりはひどいものだったらしい)、だいたい歴代王朝の後宮では全国から集められた女性たちと皇帝は会話できたのだろうか、などと変な勘繰りを入れれば、これはもうきりがない。

)地方(省)レベルの科挙すなわち郷試の合格者を、挙人という。だがそもそも挙人となるまでに何度も前段階の地方試験に合格しなければならず、挙人となっただけで大変な名誉であって、この段階で既に地方の名士とみなされたという。挙人には更に中央で開かれる最終レベルの科挙すなわち会試・殿試が待っていて、これに合格すれば政治に携わる高級官僚となれる。竹内好氏の説明を借りれば、郷試は普通文官試験(現代ならば国家二種)で、会試は高等文官試験(同じく国家一種)に相応するということだ。