大学或問・伝九章 ~斉家と治国の関係、恕の意味~

投稿者: | 2023年4月3日

『大学或問』伝九章~斉家と治国の関係、恕の意味~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、赤子を保んずるが如しとは、何ぞや。
曰、程子言(かた)ること有り、赤子未だ自ら其の意を言うこと能わず、而(しか)も之が母爲る者、慈愛の心至誠に出るときは、則ち凡そ其の意を求むる所以の者、或は中(あた)らずと雖も、而も大に相遠きに至らず、豈に學を待ちて而して後に能くせんや、民の若きは則ち赤子の自ら言うこと能わざるが如きには非ず、而して之を使う者反て其の心を失う無きこと能わざることは、則ち本(もと)慈愛の實無し、此に於て察せざること有るのみ、傳の此を言うは、蓋し以て夫の使うの道、自ら其の幼を慈する者自(よ)り之を推すに過ぎず、幼を慈するの心又外より鑠(と)かして强いて爲すことを待つこと有るに非ざることを明かす、君に事うるの孝、長に事うるの弟、亦何を以てか此に異ならんや、旣に其の細を擧ぐるときは、則ち大なる者知んぬ可し。
曰、仁讓に家を言い、貪戾(たんれい)に人を言うは、何ぞや。
曰、善は必ず積みて而して後に成る、惡は小と雖も懼る可し、古人の深戒なり、書に所謂(いわゆる)爾(なんじ)惟れ德小とすること罔(な)かれ、萬邦惟れ慶ぶ、爾惟れ不德大にすること罔かれ、厥(か)の宗を墜す(注1)、亦是の意のみ。
曰、此の章本(もと)上行い下效うこと然ることを期せずして然る者有ることを言う、今諸己に有りて而して後に諸人を求む、諸己に無くして而して後に諸人を非(そし)ると曰うときは、則ち是れ猶お勸勉程督を待ちて而して後に化すること有り、且つ内適(まさ)に自ら脩めて遽(にわか)に人の皆有ることを望まんと欲し、己方(まさ)に僅かに免れて遂に人を責むるに必ず無きを以てせんとや。
曰、此れ其の國を治むる者の爲に之を言えば、則ち吾が有る所を推して、民と共に由る、其の條敎法令の施、善を賞し惡を罰するの政、固(まこと)に理の當に然るべき所にして已む可からざる者、但だ以て令する所其の好む所に反すれば則ち民從わず、故に又本を推して之を言う、其の先ず己に成して以て人を責むること有らんことを欲す、固に其の專ら務めて己を脩めて、都て人を治めずして、手を拱いて以て其の自ら化するを俟つと謂うには非ず、亦其の己が長に矜りて、人の短を愧(はずか)しめて、之を脇(おど)して(注2)以て必ず從わしむと謂うには非ず、故に先君子(注3)の言に曰く、諸己に有れども、必ずしも諸人に求めざれ、以爲(おもえ)らく諸人に求めて、諸己に無きときは、則ち不可なり、諸己に無くとも、必ずしも諸人を非らざれ、以爲らく諸人を非りて諸己に有るときは、則ち不可なり、正に此の意なり。
曰、然らば則ち未だ善有ること能わずして遂に人の善を求めず、未だ惡を去ること能わずして遂に人の惡を非らずんば、斯れ亦恕せずして身を終えるまで行う可けんや。
曰、恕の字の旨、如心を以て義と爲す、蓋し己を治むるの心の如きにして以て人を治む、己を愛するの心の如きにして以て人を愛す、而して苟然姑息の謂に非ず、然して人の心爲る、必ず嘗て理を窮めて以て之を正す、其の己を治め己を愛する所以の者をして皆正に出さしめ、然して後に以て是に即きて之を推して以て人に及ぼす可し、而して恕の道爲ること、言う可き者有り、故に大學の傳、最後兩章始めて此に及ぼすときは、則ち其の力を用うるの序、亦見つ可し、此の章に即きて之を論ずるに至りては、則ち己を治むるの心の如きにして以て人を治めんと欲する者、又自ら治むるに强(つと)むるを以て本と爲るに過ぎず、蓋し能く自ら治むるに强めて、善有りて以て人の善を求む可く、惡無きて以て人の惡を非る可きに至りて、然して後に己を推して人に及び、之をして亦我が自ら治むる所以の如きにして自ら治めしむるときは、則ち表端して景(かげ)正しく、源潔にして流淸し、而して己を治め人を治むる、其の道を盡さずということ無し、所以(ゆえ)に身を終わるに此を力(つと)めて行う可からざるの時無し、今乃ち然らずして直に其の不肖の身を以て標準と爲して、吾が治敎当當に及ぶべき所の者に視えんと欲し、一に姑息を以て之を待し、相(あい)訓誥(くんこう)(注4)せず、相禁戒せず、將に天下の人をして、皆己の不肖の如きにして淪胥(りんしょ)(注5)して以て陷らしめんとす、是れ乃つ大亂の道にして、豈に所謂身を終わるまで行う可きの恕ならんや、近世名卿の言に曰(のぶ)ること有り(注6)、人至りて愚なりと雖も、人を責むることは則ち明なり、聰明有りと雖も、己を恕(おもいや)ることは則ち昏し、苟も能く人を責むるの心を以て己を責め、己を恕るの心を以て人を恕るときは、則ち聖賢に至らざることを患えず、此の言(こと)厚に近し、世に亦之を稱する者多し、但だ恕の字の義は、本(もと)如心を以て得たり、故に以て之を人に施す可くして、以て之を己に施す可からず、今己を恕ることは則ち昏しと曰うときは、則ち是れ已(おのれ)其の此の如くなることを知る、而して又己を恕るの心を以て人を恕ると曰うときは、則ち是れ旣に自ら其の昏を治むることを知らず、遂に推して以て人に及ぶ、其れをして亦將に我が昏の如きにして而して後に已ましむ、乃ち此に由りて以て聖賢の域に入らんと欲せば、豈に誤らざらんや、藉令(たとい)其の意但だ此の心を反して以て人に恕らんことを欲すと爲るは、則ち亦止だ以て下の章人を愛するの事を言う可くして、此の章人を治むるの意と、夫の中庸人を以て人を治むるの説(注7)とに於ては、則ち皆未だ合わざる者有り、蓋し其の恕爲ること同じと雖も、而も一は人に及ぼすを以て主と爲し、一は自ら治むるを以て主と爲るときは、則ち二の者の間、毫釐の異、正に學者の當に深く察して明に辯すべき所なり、漢の光武の若きも、亦賢君なり、一旦罪無きを以て其の妻を黜(しり)ぞく、其の臣郅惲(しつうん)力めて大義を陣(の)べて以て其の失を救うこと能わず、姑(しばら)く緩辭を爲して以て之を慰解す(注8)、是れ乃ち所謂三年を能くせずして緦功(しこう)是を察す、放(ほしいまま)飯(くら)い流(の)み歠(すす)りて齒をもって決(た)つこと是を憚る者なり(注9)、光武乃ち惲の善く己を恕(おもんぱか)り(注10)主を量ると爲るときは、則ち其の失又甚だ遠くして、大いに人臣爲る者の難を責め善を陳ぶることを肯せずして其の君を賊うの罪を啓く、一字の義明ならざる所有りて、其の禍乃ち此に至る、謹まざる可けんや。
曰、旣に上文を結して而して復た詩を引く者三なるは、何ぞや。
曰、古人の言必ず詩を引く、蓋し其の嗟嘆咏歌優游厭飫(えんよ)(注11)を取りて、以て人の善心を感發すること有り、徒に彼の文を取りて、此の義を證するのみに非ず、夫れ以(おもんぱか)るに此の章に論ずる所の家を齊え國を治むるの事、文具わりて意足る、復た三たび詩を引くことは、能く其の論ずる所の外に於て別に發明する所有るに非ず、然して嘗て試みに之を讀むときは、則ち反復吟咏の間、意味深長、義理通暢して、人をして心融かし神會して、手舞いて足蹈むこと知らざる者有らしむ、是れ則ち詩を引くの助け、多しと爲るに與(あずか)れり、蓋し獨り此のみならず、他凡そ詩を引いて云う者、皆是を以て之を求めば、則ち引く者の意見つ可し、詩の用爲ること亦得ん。
曰、三の詩も亦序りや。
曰、首に家人と言い、次に兄弟と言い、終に四國と言う、亦寡妻に刑(のっと)りて、兄弟に至りて、以て家邦を御(おさ)むる(注12)の意なり。


(注1)偽古文尚書、尹訓より。尹訓は偽書である。新釈漢文大系『書経』注釈では、朱子が引用した文は呂氏春秋報更篇他に見える書経から引用されたと記録がある語句を土台にして作られた文であると推測している。呂氏春秋報更篇「此書之所謂、德幾無小者也。(此れ書の所謂、德小無きに幾(ちか)きなる者なり)」
(注2)出典本では「脇」字が使われているが、意味は明らかに「脅」字として使われている。脇と脅は「わき・かたわら」が原義で、読みも同じである。
(注3)四書大全に、「文公の父、名は松、字は喬年、韋斎先生と號す」とある。すなわち朱子の父の朱松(しゅしょう)。羅従彦に学び、程子の道学を伝授された。朱子の師の李延平も羅従彦に学んだので、李延平と朱松は同門となる。
(注4)訓誥は、いましめさとすこと。
(注5)淪胥は、ともにつれだつ様。
(注6)四書大全に、「范純仁、字は堯夫、忠宣公と諡」とある。范純仁(はんじゅんじん)は北宋の政治家。著名な政治家・文人である范仲淹の次子で、旧法党に属して王安石の新法に反対、左遷されたが後に復帰して宰相に昇った。
(注7)中庸「君子は人を以て人を治め、改めて止む」より。
(注8)後漢書郅惲伝より。後漢の光武帝は郭皇后を廃して寵愛する陰皇后に替え、皇太子も郭(廃)皇后の産んだ劉彊から陰皇后が産んだ劉荘(後の明帝)に替えた。郅惲が、光武帝に諫言した。光武帝は「惲善く己を恕り主を量る」と言った。
(注9)孟子尽心章句上「三年の喪を能くせずして緦(し)小功之を察し、放飯流歠(ほうはんりゅうせつ)して齒決する無きを問(せ)む」より。三年の喪(父母のための最も重い喪)をよくできないのに緦麻・小功(いずれもより遠い親類のための軽い喪)について細かく論じ、放飯流歠(暴飲暴食。非礼の最たるもの)するくせに歯で肉を噛み切る非礼を責めたりする。(堯舜のような聖人はなすべき仕事が大きいので何でも行うわけにはいかない。些事にこだわりながら大事ができない偽君子とは違うのだ、という文意。)
(注10)ここで朱子は「恕」字が『大学』で述べられている意味と光武帝が使った意味とで違っていることを批判している。出典の送り仮名も、両者で変えている。出典の意を取って読み仮名をふった。
(注11)厭飫は、あきたりる様。または、(あきて)いやになる様。
(注12)詩経大雅、思齊より。(文王は)妻におきてを与え、兄弟におきてを拡げ、家からさらに国まで統治する。
《要約》

  • 「赤子を保んずるが如し」の意味は、民を使うときには母親が学ばずとも至誠から幼児に慈愛を施す心、そのような慈愛心を忘れてはいけない、というまでのことであり、たとえである。幼児を慈する心は外から強いてようやく行うものではなく、至誠から自発的に出てくるものである。君に事(つか)える孝、長に事える弟も、民への慈と同様である。
  • 本章で仁・譲(讓)は家から国を言い、貪戾は人から国を言う理由について、朱子は「善は積んで後に成るものだが、悪は(わずか一人の)小さな悪でも恐るべきだからだ」と答える。
  • 「諸を己に有して、而る后に諸を人に求む。諸を己に無くして、而る后に諸を人に非とす」について、この言葉は国を治める者に対して言うのであり、自分が保有しているところを推して民と共に由れ、というものである。法令がたとえ理として正しくても、それを統治者が好んでいなければ、民は従うべくもない。まず自らが身を修めて守り、それができた後に他人の違反を責めることができる。自らが身を修めるだけで民は自発的に教化されるのを待つのではないし、自らの長所を誇って他人の短所をはずかしめ、それらを脅迫して従わせるのでもない。
  • 恕の字義は、「如心(心の如し)」である。己を治める心の如くにして人を治め、己を愛する心の如くにして人を愛することである。しかしながら、必ず理を窮めて心を正し、己を治めて愛するところを正しくしなければならない。己の内が正しくなり、その後に己のことを推して人に及ぼすのである。本章と次の伝十章においては、それぞれに力を用いるべき順序があることを理解しなければならない。己を治める心の如くにして人を治めよ、ということは、ただ努力すべき根本を言っているにすぎない。己がよく治まり善があって悪がなくなり、人に善を求めて悪を非難することができるまでに至って、はじめて己を治める心を推して人に及ぼすことができるのである。
  • 以上のごとき恕は、自己を正しく清くして後に人に推し及ぼすものであり、生涯終わるまで努力を尽くさなければならない。それをせずに己が不肖でありながらそれを標準として姑息(その場しのぎ)の道をもって人に及ぼすならば、天下の人すべてが自分と同じき不肖に道連れとなるだろう。次の十章で人を愛することを言うのと、本章および『中庸』の人を治めることとの間には、まだ合致しないところがある。恕の精神は同じなのであるが、前者は人に及ぼすことが主であり、後者は己を治めることが主である。両者はわずかな違いしかない(が決定的な差がある)ので、学ぶ者は深く察して明らかに区別しなけれなならない。
  • 漢の光武帝が皇后を罪無くして廃したとき、その臣の郅惲は大義を直言して主君を失政から救うことができず、柔らかい言葉を用いて主君に皇帝としての責務を悟らせた。それで光武帝は、「惲善く己を恕(おもんぱか)り主を量る」と郅惲を賞した。しかしこれは孟子の言う「三年の喪を能くせずして緦小功之を察し、放飯流歠して齒決する無きを問む」のたぐいのことであり、主君が失政から戻るにははなはだ遠く、人臣が難を責め善を述べることを許すことなく、主君をそこなう罪をひらくこととなった。恕の一字の義が明らかでないために、このような大きな禍となったのである。(大学が述べる真の恕とは、己をよく治め尽くして、その上で己を治める心のように人を治め己を愛する心のように人を愛することである。光武帝が使った恕は、善に至っていないのに「よく主君の心をおしはかった」というだけのことである。)
  • 本章の後半に詩三首が引用されているのは、詩によって人の善心を感発させるためである。本章の義は前半で尽くされていて、詩によってそれ以上の新しい意味を追加させるものではない。引用された詩三首の順序は、家人、兄弟、国家となっていて、大雅思斉の句の並びと同様である。

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