大学或問・伝十章の一 ~絜矩の意味、忠と恕の関係~

投稿者: | 2023年4月4日

『大学或問』伝十章の一~絜矩の意味、忠と恕の関係~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、上の章家を齊え國を治むるの道を論ずるに、旣に孝弟慈を以て言を爲す、此には國を治め天下を平するの道を論じて、而(しこう)して復た是を以て言を爲すことは、何ぞや。
曰、三の者は、人道の大端、衆心の同じく得る所の者なり、家自(よ)り以て國に及び、國自り以て天下に及び、大小の殊なること有ると雖も、然も其の道此の如くなるに過ぎざるのみ、但だ前の章は專ら己(おのれ)推して人化するを以て言を爲す、此の章は申して又之を言いて、以て人心の同じき所にして已むこと能わざる者の此の如きなることを見(あらわ)す、是を以て君子は唯だ以て之を化すること有るのみならず、又以て之に處すること有り、蓋し人の心爲る所以の者、未だ嘗て同(かさな)らずんばあらずと曰うと雖も、然も貴賤勢を殊にし、賢愚稟を異にす、苟も上に在るの君子眞に知り實に蹈みて以て之を倡(いざな)うこと有るに非ずんば、則ち下の是の心有る者も亦感じて興起する所無し、幸に其れ以て倡いて興起すること有り、然れども上の人乃ち或は彼の心を察すること能わずして、其の之に處する所以の道を失うときは、則ち彼れ其の興起する所の者、或は遂ぐることを得ずして、反て均しからざるの歎有り、是を以て君子は其の心の同じき所を察して、夫の絜矩の道を得て、然して後に以て此に處すること有りて、其の興起の善端を遂ぐなり。
曰、何を以てか絜の度(たく)(注1)爲ることを言うや。
曰、此れ荘子が所謂(いわゆる)之を絜(めぐら)すに百圍(ひゃくい)(注2)、賈子(かし)が所謂長を度(はか)り大を絜(はか)る(注3)という者なり、此より前(さき)の諸儒、蓋し之を省ること莫くして、强いて訓ずるに挈(けつ)を以てす(注4)、殊に意謂無し、先友太史范公(注5)乃ち獨り此を推して以て之を言いて、而して後に其の理得て通ず可し、蓋し絜は、度なり、矩は、方を爲る所以なり、己が心を以て人の心を度る、人の惡む所の者己に異ならざることを知るときは、則ち敢て己が惡む所の者を以て之を人に施さず、吾が身をして一に此に處らしめれば、則ち上下四方物我の際、各其の分を得、相侵越せずして各其の中に就く、其の占むる所の地を挍(くら)ぶれば、則ち其の廣狹長短又皆平均にして一なるが如く、截然として方正にして有餘不足の處無し、是れ則ち所謂絜矩という者なり、夫れ天下國家爲りて、而も心を處し事を制する所以の者一に此に出るときは、則ち天地の間將に一物として其の所を得ずということ無からんとす、而して凡そ天下の孝弟不倍を爲さんと欲する者、皆以て自ら其の心を盡すことを得て、均しからざるの歎無し、天下其れ平ならざる者有らんや、然れども君子の此れ有る所以、亦豈に外自(よ)り至りて强いて之を爲さんや、亦曰く物格りて知至る故に以て天下の志に通ずること有りて、千萬人の心は、即ち一人の心なることを知る、意誠に心正し故に以て一己の私に勝つこと有りて、能く一人の心を以て千萬人の心と爲す、其れ此の如きのみ、一も私意其の間に存すること有れば、則ち一膜の外便(すなわ)ち胡越と爲る、絜矩せまく欲すと雖も、亦將に隔礙(かくがい)(注6)する所有りて通ずること能わざらんとす、趙由が守(しゅ)爲るときは則ち尉を易(あなど)り、尉爲るときは則ち守を陵(しの)ぐ(注7)、王肅が上に事(つか)うるに方(くら)べて、人の己に佞することを好むが(注8)若き、其の由る所を推すに蓋し此に出ず、而して其の類を充つるときは、則ち桀紂(けつちゅう)盗跖(とうせき)(注9)が爲す所と雖も、亦將に何の至らざる所あらんや。
曰、然らば則ち絜矩の云、是れ則ち所謂恕という者のみか。
曰、此れ固に前章に所謂己を愛するの心の以て人を愛すという者なり、夫子の所謂身を終えるまで行う可し(注10)、程子の所謂充拓し得去るときは、則ち天地變化して草木蕃し、充拓し去らざるときは、則ち天地閉じて賢人隱る、皆其の以て之を推す可くして通せずということ無きをもってのみ、然れども必ず其の理を窮め心を正する者自り之を推せば、則ち吾が愛惡取舎皆其の正を得て、而して其の推して以て人に及ぼす者、亦其の正を得ずということ無し、是を以て上下四方此を以て之を度りて、截然として各其の分を得ずということ莫し、若し理に於て未だ明ならざること有りて心未だ正しからざること有れば、則ち吾が欲する所の者、未だ必ずしも其の當に欲すべき所ならず、吾が惡む所の者、未だ必ずしも其の當に惡むべき所ならず、乃ち此を察せずして遽に是を以て人に施すの準則を爲んと欲するは、則ち其の意公なりと雖も事は則ち私なり、是れ將に其の物我相侵し、彼此交(こもごも)病みて、而して庭除(ていじょ)(注11)の内、跬歩の間と雖も、亦且つ參商(さんしょう)(注12)矛盾して、行わる可からざることを見んとす、尚お何ぞ身を終えるまでの望あらんや、是を以て聖賢凡そ恕を言う者、又必ず忠を以て本と爲す(注13)、而して程子亦忠恕を言うこと兩言、形と影との如し、其の一を去らんと欲すれども而も得可らず、蓋し惟れ忠ありて而して後に如(ゆ)く(注14)所の心始めて其の正を得、是れ亦此の篇先後本末の意なり、然らば則ち君子の學、其の序を謹まざる可しや。


(注1)四書大全に「待洛の反」とある。度をタクと読んで、はかる・みつもること。
(注2)荘子人間世篇「匠石齊に之く。曲轅に至る。社櫟樹を見るに、其の大きさ牛を蔽う。之を絜らすに百圍。」
(注3)賈子は、賈誼(かぎ)のこと。前漢文帝期の博士。その『過秦論』に「試みに山東の國をして陳渉と長を度り大を絜り、權を比べ力を量らしめば、則ち年を同じうして語る可からず」とある。函谷関以東の諸侯国と陳渉との間で大小長短権勢力量を比較すると、同年にして語ることができない(ほどの差があったのに、諸侯国は始皇帝に併呑され、陳渉の反乱は秦に致命的な打撃を与えた)。
(注4)鄭玄「絜は猶お結のごときなり、挈(けつ、ひっさげるの意)なり。矩は法なり。君子に挈法の道有りとは、當に執りて之を行い、動作之を失わざるべきを謂う」。つまり鄭玄は、絜矩を「法を挈(ひっさ)げる」の意に解し、大学の言葉を「君子には適用して行うべき法がある」のごとき意に取る。朱子は荘子・賈子の用例を挙げて、次注の范如圭の説に賛同して鄭玄説を斥ける。
(注5)四書大全に、「名は如圭、文公の父韋斎の友」とある。すなわち范如圭(はんじょけい)、字は伯達。福建建陽の人で、南遷後の宋王朝に出仕した。
(注6)隔礙(碍)は、へだたりさまたげられる様。
(注7)史記酷吏列伝にある周陽由のこと。姓は趙で、父が周陽に封じられたので周陽氏を名乗った。漢武帝のころに酷暴驕恣な官吏で太守(たいしゅ。郡の行政長官)のときには都尉(とい。郡の警察長官)を視るに令(れい。県の長官、漢代では郡の下の行政単位が県)のごときにし、令のときには必ず太守を陵(しの)いでその統治権を奪った。河東都尉のとき太守の勝屠公と権勢を争って互いに告訴し合い、勝屠公は自害して周陽由は棄市(きし。処刑して市場にさらす)となった。
(注8)三国志魏志、王朗王粛伝の本文に附けられた裴松之注に「劉寔(りゅうしょく)以為(おもえ)らく肅上に事うるに方べて下己に佞なるを好む、此れ一反なり」とある。劉寔の王粛評は陳寿の書いた高い人物評価をくつがえす内容であり、王粛の本性について配下が自分にへつらうことを好むがごとき人物であるなどと酷評している。王粛は魏の政治家・文人で、一度亡逸した『孔子家語』を再発見したことになっているが、これは王粛の偽撰であることが疑われている。
(注9)桀紂盗跖は、歴史上の悪逆非道の代表者。桀は夏王朝を滅ぼした王。紂は殷王朝を滅ぼした王。盗跖は『荘子』ほかにあらわれる大盗賊。
(注10)論語衛霊公篇「子貢問うて曰く、一言にして以て終身之を行う可き者有りや。子の曰わく、其れ恕か。己の欲せざる所、人に施す勿れ」より。
(注11)庭除は、庭の意。「庭除の内、跬歩の間」で、ごくせまい空間のこと。
(注12)参(參)は、オリオン座の三ツ星。商は、さそり座のアンタレスを中心とした三ツ星。互いに空の反対側にあり、一方が昇るともう一方は沈む。参商は、遠く隔たっているたとえ、または仲が険悪なたとえ。
(注13)論語里仁篇「曾子の曰く、夫子の道は忠恕のみ。」中庸「忠恕は道を違(さ)ること遠からず。諸を己に施して願わざれば、亦人に施す勿れ。」
(注14)出典の画像がつぶれてよく読めないが、「如」字にユクと並んでゴトクニノブルの送り仮名が打たれているようである。ここでは忠が「体」としてあり、体から発出して忠に従って行う「用」が恕であり、両者は体用一体であることを述べている。原文「所如之心」は、或問伝九章における朱子の「恕は心の如し」の解釈から来ている。
《要約》

  • 前章で、すでに斉家治国の要点は孝弟慈であると語られた。本章は治国平天下についての章であるが、ここで再び孝弟慈について語られるのはどうしてであるか。その問いに対して、朱子は答える、「この三者は人道の大端、すなわち人道が始まる大いなる開始点である。それは、家・国・天下すべて規模は異なっても同じ道である。ただ前章は己を推して人を化する点について述べ、本章は人心は皆同じであることを再説したうえで、君子は人心を化するだけでなくて処することも必要であることを述べるものである。人は本質的には皆同じ心を持っているのであるが、人はそれぞれに貴賎の勢・賢愚の稟が異なって多様である。ゆえに人の上に立つ君子は人心共通の原理を真に知って善導するのでなければ、従う者は興起させられることがない。幸いにも興起したとしても、君子が人心を察することができずこれに処すことができなければ、興起した者はあるいは成し遂げられず、かえって不均等な結果となるだろう。よって君子は人心の同じき所を察して絜矩の道を得、その後に人心を処することができたならば、興起するきっかけを得た人々を最後まで成し遂げさせることができるだろう」と。
  • 絜矩の解釈について、鄭玄説は通らない。「絜」字について荘子・賈子の用例があり、范如圭の指摘に賛同する。絜は度(はか)ること、矩は直線を引くものさしであり、絜矩とは己が心をもって人の心をはかることである。
  • 人がにくむところの者は己と異ならないことを知れば、己がにくむところのものを敢えて人に施さないであろう。わが身を一にこの原理に置くならば、あらゆるものごとがそれぞれの分を得て中(ちゅう。中庸に言う、万物にとって理に合った過不足なき着地点)に就き、あらゆるものごとの立つ位置が過不足なく落ち着くところを得るだろう。これがいわゆる絜矩というものである。心を処し事を制する原理がこの一の絜矩から出るならば、天地の間に一物としてその所を得ないものがなく、孝弟不倍(孝弟の道にそむかない)の心ある人はすべてその心を尽くすことができて、不均等な結果とはならないであろう。こうすれば、天下が平でないことがあるだろうか。
  • 君子がこの原理にあるのは、外から強制されるものではない。格物致知して天下の志に通ずることができて、千万人の心は結局同じ一つの心であることを知るのである。意誠で心正しく、己が私欲に勝つことができて、己の一つの心をして千万人の心であらしめることができるのである。ちょっとでも私心が己にあれば、一皮むけば胡越(こえつ。北と南の蛮族)となってしまう。その心で絜矩して政治をしようとしても、滞って成し遂げられないであろう。漢の趙由や魏の王肅は、思うにこういう私心を原理として始めていた政治家だったのであろう。
  • では絜矩とはすなわち恕のことであるか、と問われて、朱子は答える、「絜矩は、まことに前章の己を愛する心をもって人を愛す、というものであり、孔子が終身行うべきものであると言った恕にほかならない。しかし理を窮め心を正す観点から言うならば、我が愛悪取捨の選択がすべて正を得て、それを推して人に及ぼすならば、結果は必ず正を得るであろう。そこから絜矩によってはかるならば、あらゆるものごとがそれぞれの分を得ることになることであろう。しかしいまだ理を明らかにできず、結果として我が欲すもの・我がにくむものがまさに欲すべきにくむべきものにいまだなっていないのであれば、それを準則として人に施せば意図は公であっても事業は私である。ゆえに聖賢は恕を言うときには、必ず同時に忠(いつわりない真心のことで、朱子が言うところは、己が欲しにくむところが理に合致していつわりがないことである。主君に対する忠義ではない)を本となしたのであった。また程子も忠恕を必ず合わせて言った。忠と恕は形と影のごときであり、まず心に忠があってそこから『心の如く』恕が行われるならば、心ははじめて正を得るであろう。これが本章における本末なのである」と。(四書大全に引く朱子の言葉に、「忠は是れ本体、恕は是れ枝葉」とある。忠は本であり、恕は忠から行為として表れる用であり末である。忠あっての恕であり恕は忠に裏付けられる、という意味であって、忠だけが大事で恕が些末な行為であると言うのではない。)

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