大学或問・経の三 ~八条目について~

投稿者: | 2023年3月15日

『大学或問』経の三~八条目について~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、古の明德を天下に明にせんと欲する者、先ず其の國を治む、其の國を治めんと欲する者、先ず其の家を齊う、其の家を齊えんと欲する者、先ず其の身を修む、其の身を修めんと欲する者、先ず其の心を正す、其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす、其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致す、知を致すは物を格(いた)すに(注1)在りとは、何ぞや。
曰、此れ大學の序を言う、其の詳かなること此の如し、蓋し綱領の條目なり、物を格し知を致し意を誠にし心を正し身を修むるは、明德を明にするの事なり、家を齊え國を治め天下を平にするは、民を新にするの事なり、物を格し知を致すは、至善の在る所を知ることを求むる所以、意を誠にする自(よ)り以て天下を平するに至るまでは、夫の至善を得て之に止まることを求むる所以なり、所謂(いわゆる)明德を天下に明にする者は、自ら其の明德を明にして以て民を新にして、天下の人をして、皆以て其の明德を明にすること有らしむるなり、人皆以て其の明德を明にすること有れば、則ち各其の意を誠にし、各其の心を正しうし、各其の身を修め、各其の親を親(しん)し、各其の長を長として、而(しこう)して天下平ならずということ無し、然して天下の本は國に在り、故に天下を平にせんと欲する者は、必ず先ず以て其の國を治むること有り、國の本は家に在り、故に國を治めんと欲する者は、必ず先ず其の家を齊うること有り。家の本は身に在り、故に家を齊えんと欲する者は、必ず先ず以て其の身を脩むること有り、身の主に至りては則ち心なり、一も其の本然の正を得ざること有れば、則ち身主とする所無し、勉强(注2)して以て之を修めまく欲すと雖も、亦得て修まる可からず、故に身を修めんと欲する者は、必ず先ず有以て其の心を正すること有り、而して心の發は則ち意なり、一も私欲其の中に雜(まざ)ること有りて、善を爲し惡を去ること、或は未だ實ならざること有れば、則ち心爲めに累(わずら)わ所(さ)る、勉强して以て之を正さまくと雖も、亦得て正しかる可からず、故に心を正せんと欲する者、必ず先ず以て其の意を誠にすること有り、夫の知の若きは、則ち心の神明、衆理に妙にして萬物を宰する者なり、人有らずということ莫し、而も或は其の表裏をして洞然(どうぜん)として、盡さざる所無からしむること能わざれば、則ち隠微の間、眞妄錯雜す、勉强して以て之を誠にせんと欲すと雖も、亦得て誠なる可からず、故に意を誠にせんと欲する者は、必ず先ず以て其の知を致す有り、致は、推し致すの謂なり。喪は哀を致す(注3)の致の如し、言之を推して盡くるに至るを言うなり、天下の物に至りて、則ち必ず各然る所以の故と、其の當に然るべき所の則と有り、所謂理なり、人知らざるという莫し、而も或は其の精粗隠顯をして、究極餘り無からしむること能わず、則ち理の未だ窮のせざる所、知必ず蔽わるること有り、勉强して以て之を致さまく欲すと雖も、亦得て致す可らず、故に知を致すの道は、事に卽き理を觀て、以て夫の物に格(いた)るに在り、格は、極至の謂、文祖に格る(注4)の格の如し、之を窮して其の極に至るを言うなり、此れ大學の條目は、聖賢相傳えて、人を敎え學を爲する所以の次第、至って纖悉なりと爲す。然して漢魏より以來、諸儒の論、未だ之に及す者の有ることを聞かず、唐の韓子(注5)に至りて、乃ち能く援(ひ)きて以て説を爲して、原道の篇に見(しめ)す、則ち庶幾(しょき)は其れ聞くこと有ることを、然れども其の言(こと)正心誠意に極(きわま)りて、致知格物と云う者を曰う無きことは、則ち是其の端を探らず、驟(にわか)に其の次を語る、未だ擇びて精(くわ)しからず、語詳(つまびら)かならず(注6)の病を免れず、何ぞ乃ち是を以て荀楊を議せんや。
曰、物格りて后に知至り、知至りて后に意誠あり、意誠あって后に心正し、心正しうして后に身修まる、身修めて后に家齊(ととのわ)る、家齊いて后に國治まる、國治まりて后に天下平なりとは、何ぞや。
曰、此れ上文の意を覆(かさ)ねて説くなり、物格は、事物の理、各以て其の極に詣ること有りて餘り無しの謂なり、理の物に在る者の、旣に其極に詣りて餘り無かれば、則ち知の我に在る者に、亦詣る所に隨いて盡さずという無し、知盡さずということ無かれば、則ち心の發する所、能く理に一にして自ら欺くこと無し、意自ら欺かざれば、則ち心の本體物動なすこと能わざるの正しからずということ無し、心其の正を得れば、則ち身の處する所、偏なる所に陷るに至らずして修まらずということ無し、身修まらずということ無かれば、則ち之を天下國家に推して、亦擧げて之を措くのみ、豈に此を外にして之を智謀功利の末に求めんや。
曰、篇首の明德を明すことを言いて、民新するを以て對を爲すは、則ち固(まこと)に専ら自ら明にするを以て言うことを爲す、後段天下を平にするに於ては、復た明德を明にするを以て之を言うときは、則ち民を新にするの事も亦其の中に在るに似て、何ぞ其の之を言うこと一ならずして、之を辨すること明らかならざるや。
曰、篇首の三言は、大學の綱領なり、而して其の賓主對待先後の次第を以て之を言えば、則ち明德を明にするは、又三言の綱領なり、此の後段に至りて、然して後に其の體用の全を極めて一言以て之を擧ぐ、以て夫の天下大なりと雖も吾が心の體該(か)ねずという無く、事物多しと雖も吾が心の用貫かずということ無きことを見(あらわ)す(注7)、蓋し必ず之を析(わか)って以て其の精を極むること有りて亂らず、然して後に之を合せて以て其の大を盡すこと有りて餘り無し、此れ又言の序なり。


(注1)出典本では、「格スニ」とならんで「格ルニ」の読み下しが置かれている。
(注2)勉强は、ここでは無理強いすること。現代日本語の「勉強」とは意味がちがう。すでに死語となっているが、かつての商売用語で勉強は「無理に値段を下げる」という意があった。
(注3)論語子張篇「喪は哀を致して止む」より。
(注4)書経舜典「月正元日、舜文祖に格る」より。
(注5)韓子とは韓愈(韓退之)のことで、唐代の詩文の大家。『原道』を著し儒教復興を提唱した。『原道』の全文は本サイトのページを参照。
(注6)韓愈が『原道』で荀子・揚雄の論が不完全であると批判した語。韓愈は、いにしえからの道統は孟子の死で絶えたと言った。孟子の後に現れた戦国末期の荀子と漢代の揚雄は各時代の大儒であったが、その議論には不純な要素が混じっていて、いにしえの聖賢の意図を正確に述べきれていない、と評した。
(注7)ここでも朱子は体用(體用)の二分法を用いて説明している。
《要約》

  • 八条目のうち格物・致知・誠意・正心・修身は「明徳を明にする」ことに当たり、残る斉家・治国・平天下は「民を新にする」ことに当たる。また格物・致知は至善のあるところを知ることを求めることであり、誠意から以下は至善を得てそこに止まることを求めることである。
  • 天下の本は国、国の本は家、家の本は身である。よって、それぞれの本をまず治め斉(ととの)え修めなければならない。
  • 身の主は心であり、心は意から発する。心が本然の正でなければ身は修まらず、意が誠であって私欲が混じらないようでなければ心は正されない。それに努力せずに無理やり身を修め心を正すことは、不可である。
  • 知は心の神明、すなわちもっとも精彩光明なところであり、知はもろもろの理をよく知り万物を主宰する能力を持つ。知をきわめ尽くさなければ真理と誤謬が混ざり、意が誠にならない。知を致さずに無理やり意を誠にすることは、不可である。
  • すべての物事(物)には、それをそうさせている理由があり、それが「理」である。すべての物事について、それらの「理」を観察してきわめ尽くす(格)ことがなければ、知がおおわれてしまう。物事の理をきわめる(格物)ことをせずに無理やり知を致そうとするのは、不可である。
  • 八条目はいにしえから聖賢が相伝してきた教えであったが、漢魏以降の儒家はまったく論じることがなかった。ようやく唐代になって韓愈が『原道』で言及したが、その引用は誠意正心から始められて、格物致知を抜かしてしまっていた。よって韓愈ですら聖賢の教えへの理解が不十分であったと言う他はない。
  • つづく格物から順々に平天下まで至る文の意味は、この順番であってはじめて達成されるということである。身を修めることが成らずして智謀功利の末に求めて、どうして天下国家が治まるだろうか。
  • 八条目において明徳を明にすることが民を新にすることを含んでいるように書かれているのは、明徳を明にすることが明明徳・新民・止至善の三綱領のまた綱領だからである。明徳を明にすれば天下のすべてを我が心の体が包摂することができて、結果事物のすべてを我が心の用が貫くことができるだろう。

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