大学或問・経の二 ~「止まるを知る」「本末終始」の意味~

投稿者: | 2023年3月12日

『大学或問』経の二~明明徳・新民・止至善とは何か~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、止まるを知りて后に定まること有り、定まりて后に能く靜かなり、靜かにして后に能く安し、安うして后に能く慮る、慮りて后に能く得るは、何ぞや。
曰、此れ上文の意を推し本づいて、德を明にし民を新するは至善に止まる所以の由を言うなり、蓋し德を明にし民を新するは、固(まこと)に皆其の至善に止まらんことを欲す、然れども先ず以て夫の至善の在る所を知ること有るに非ざれば、則ち以て其の當に止まるべき所の者を得て之に止まること有ること能わず、射る者は固に其の夫の正鵠に中(あた)らんことを欲するが如し、然れども先ず以て其の正鵠の在る所を知ること有らざれば、則ち以て其の當に中(あ)つべき所の者を得て之に中つること有ること能わず、止まることを知ると云うは、物格(いた)り知至りて、而(しこう)して天下の事に於て、皆以て其の至善の在る所を知ること有り、是れ則ち吾が當に止まるべき所の地なり、能く止まる所を知れば、則ち方寸の間、事事物物、皆定理有り、理旣に定まること有れば、則ち以て其の心を動かすこと無くして能く靜かなり、心旣に能く靜かなれば、則ち地を擇ぶ所無くして能く安し、能く安ければ、則ち日用(注1)の間、從容(しょうよう)間暇(かんか)(注2)にして、事至り物來るとき、以て之を揆(はか)ること有りて能く慮る、能く慮れば、則ち事に隨いて理を觀、深を極め幾を研(あきらかにし)て、各其の止まる所の地を得て之に止まらざること無し、然して旣に眞に止まる所を知れば、則ち其の必ず止まる所を得ること、固に已に甚だ相遠からず、其の間の四節は、蓋し亦其の然る所以の故此の四の者の有ることを推し言う、孔子の志學より從心に至り(注3)、孟子の善信より聖神に至り(注4)、實に等級の相い懸(はるかな)ること有りて、身を終えるまでの經歴の次序爲るが如きには非ず。
曰、物本末有り、事終始有り、先後する所を知れば、則ち道に近しとは、何ぞや。
曰、此れ上の文兩節の意を結すなり、德を明にし民を新にするは、兩物にして内外相對す、故に本末と曰う、止まることを知り能く得るは、一事にして首尾相因る、故に終始を曰う、誠に其の本を先にして其の末を後にし、其の始を先にして其の終を後にすることを知れば、則ち其の進みて爲ること序有りて、而して道に至ることや遠からず。


(注1)「日用」の語は完全に日本語化しているが、「用」は朱子学で「体(體)」と対をなす特殊な意味を持っている。本質=体は世界にただ一つだけあり、そこから応用=用がさまざまにあらわれる。ここでは体である至善を知ることができたならば、日々起こる事件に対して応用し、適切な解答を出すことができるだろう、ということである。
(注2)從容は、ゆったりとした様。間暇は閑暇とおなじで、ゆとりがある様。至善に止まることができれば、日々の事件に面したとき、心がゆったりとして対処することができるだろう。
(注3)論語為政篇「吾れ十有五にして學に志す、、七十にして心の欲する所に從って矩を踰えず」より。
(注4)孟子盡心章句下「欲すべき之を善と謂い、諸を己に有する之を信と謂い、、大にして之を化する之を聖と謂い、聖にして知る可らざる之を神と謂う」より。
《要約》

  • 「止まるを知る」とは、格物致知して天下すべての事において至善のある所を知ることである。至善のある所は心と事物の定理であるので、それを知ればそこに止まり、心は静かとなり安定し、日々起こる事件に対してよく考えて応用し、適切な解答を得ることができるだろう。すなわち至善のあるところに止まることができることは、解答を得たことと大して離れていないのである。
  • 「止まるを知る」から「能く得る」までの六段階は原因と結果の説明であり、人がこの順番に時間をかけて学習成長していく段階ではない。
  • 「本末」「終始」とは、上文の「止まるを知る」と「能く得る」の意味である。「止まるを知る」を先にして「能く得る」ことがその後に来るという順序を知らなければいけない。

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