解題
伊藤仁斎(いとう・じんさい)は本名伊藤維楨(~これえだ)で、寛永四年(1627)の生まれで宝永二年(1705)に没。京都の商家に産まれ、少年時より学に傾倒して長じても世間に関わることができず、実家を弟に譲って自らは学問に専念する。三六歳で自らの到達した思想をもって京都堀川に私塾古義堂を開き、子弟を集めて儒学を教える。彼が学び始めた少年時は幕初時代で、朱子学が藤原惺窩・林羅山の師弟によりようやく中国・朝鮮から本格的に導入されたばかりの頃であった。少年仁斎は、当時新来の学問である朱子学に傾倒するところから、学問を始めた。しかし朱子学に傾倒して懊悩する時期を過ぎた後、これに疑問を抱く時期を迎えた。ついに朱子学を批判して、朱子学が孔子・孟子の元来の思想を曲解しているという確信を持った。ゆえに孔子・孟子の時代に戻ってその古い教えを再発見し、孔子・孟子の言葉の古い意義を復興すべきことを唱えた。彼に続く学派は古義派(こぎは)と呼ばれて、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)の古文辞派(こぶんじは)とともに江戸時代中期における朱子学批判の一勢力となった。仁斎は細川藩に儒者として招かれたがこれを固辞し、生涯を市井の学者として過ごした。元号の貞享(西暦1684-1688)は、仁斎の立案である(吉川幸次郎『仁斎東涯学案』、岩波『日本思想大系』所収による)。
彼の四人の実子(東涯・梅宇・竹里・蘭嵎)と一人の養子(介亭)は、いずれも儒者となった。うち最も著名で父の学をよく継承したのが、伊藤東涯(いとう・とうがい。1670-1736)である。東涯は父の学問の業績を整備して、仁斎の学を一学派として儒学界に定着させる仕事を行った。東涯は優れた学者であったが、以降の古義派は創造的発展力を失って江戸時代後半にはその影響力を落としていった。
仁斎に戻ると、彼は十一歳のときに『大学』の治国平天下章(本サイト経4,経5参照)を読んで、「今の世、またかくの如き事を知るもの有らんや(こういった教えがわかっている人は、今の世でもいるのでしょうか?)」と言ったと言う。それほどに『大学』に早くから感激したのであったが、後年に彼が論語・孟子の用語解説書として著した『語孟字義』には、付録として『大学』が二程子・朱子が言うような「孔子の遺書」(本サイト経1参照)などではない、という批判の文が収められた。それが、『附・大学は孔氏の遺書に非ざるの弁』である。仁斎は、四書の中で『論語』と『孟子』を取り上げてこの二書に特権的な価値を与えた。『中庸』はその内容のうち論孟の趣旨に合致している部分のみを評価し、『大学』は以下の批判文に示されているように、おそらく戦国時代の儒家が当時の情勢に応じて書いた書であって孔孟の血脈(元来は朱子が用いた文献考証の用語で、文章の作者が言わんとしている趣旨・文脈)が分かっておらず、その価値は朱子学が特筆するほどのものではないと低い評価を下したのであった。
なお山崎闇斎門下の浅見絅斎(あさみ・けいさい)は、仁斎の『大学』批判への朱子学者からの再批判として『大学は孔氏の遺書に非ざるの弁を弁ず』他の複数の書を著した(土田健太郎『江戸の朱子学』より)。
『語孟字義 附・大學は孔氏の遺書に非ざるの辨』
出典:岩波書店『日本思想大系33』昭和46年から漢文原文を取り、同書を参考にしながら読み下しを作成した。『日本思想大系』は、底本を宝永二年刊本『語孟字義』に拠っている。参考とした前書の漢文原文が新字体に変えられているので、下の読み下しもまた新字体で行う。 |
《現代語訳》 孔孟(孔子・孟子)の学を修めようと望むならば、孔孟の書を読まなければならない。孔孟の書を読もうと望むならば、孔孟の血脈(孔孟の教えの本質)を理解しなければならない。孔孟の血脈を理解しない者は、いわば柁(かじ)のない船、明かりのなり夜道、杖のない盲人であって、どこに向かえばよいのかを知ることができないようなもので、許されるものではない。いやしくも孔孟の書を読んでその血脈を理解したならば、天下で読んではならない本が何か、論じてはならない理論は何か、ということは必ずわかるものだ。試しに、異端(老荘、仏教、楊朱、墨子など孔孟以外のすべての教え)の言葉を、聖人の書物の中に混ぜてみるがよい。逆に聖人の言葉を、異端の書物の中に混ぜてみるがよい。それでも白黒を見分けるようにはっきりと見分けることができて、菽(まめ)と麦とを区別するように簡単に区別できて、手は間違わず選び取り、耳に入れば理解できて、ほんのわずかも間違えず、たった一瞬でも間違えない。こうであれば、はじめて孔孟の血脈を理解している、と言うのである。 では、まさに何をもって孔孟の血脈を理解できて惑わされないようになったと言えるのであろうか?そもそも「孔子の聖は堯・舜より優ることが遠くはなはだしく、人類が始まって以来いまだ孔子の偉大さに匹敵する者など出たことはないのである」(孟子、公孫丑章句における孟子の言葉をなぞっている)(注1)。なので孟子は孔子を学ぶことを望んで(注2)、結果孔子の後継者となることができたのであった。いまもし孔子・孟子が今の時代に生まれていたとしても、彼らが説く教えとなす行いは『論語』『孟子』の二書に書かれた内容から離れることはできなかったはずであり、したがって『論語』『孟子』の二書を捨て置いて、その他の何の書物によって孔孟の血脈を理解して惑わされないようになれるであろうか?まことにもって『論語』の一書は、その言葉は平易で正しく、その道理は深く穏やかであり、これに一字を増せば余計であり、これから一字を減らせば不足であり、この書こそが天下にある言葉の中で頂点に立つものであり、この書において天下の道理は尽されているのである。まさに宇宙第一の書(注3)である。『孟子』の書もまた『論語』を解説したものであり、その言葉は明白で、その道理は純粋である。これは、『礼記』に収められた各篇が、秦人の坑儒焚書の害から逃れた残余のテキストを、漢代の儒者がこじつけて編集した結果であるのとはまるで違うのだ(注4)。なので『論語』に次いで言葉に偽りがない書は、『孟子』ただ一書だけであろうか。孔子の道を学ぶ者は、いやしくも『論語』『孟子』二書を取って、これに深く没頭して繰り返し読み、じっくりゆっくり存分に味わい、これらを口にたえず上せて、これらを手に常に持って、「立っているときには目の前に並んでいることが見えて、馬車に乗っていることには衡(こう。馬車の横木)に寄り沿っていることが見え」(論語、衛霊公篇の言葉)(注5)るように読み、孔孟からじかに言葉を掛けられたかのように読み、孔孟の心中を見通すかのように読み、その教えに感激勇躍して思わず手が舞い足が踏んでしまう。このようであって初めて、孔孟の血脈を理解できて、いろいろな人々の入り乱れた言葉によって惑わされないようになるであろう。 『大学』の一書は、もと『礼記』(注6)の中の一篇であって、作者の名前ははっきりと伝わっていない。思うに、斉・魯の諸儒(注7)で『詩経』『書経』の二書によく通じているが孔孟の血脈をよく理解していない者の作であろう。その斉家伝以下においては、孝・弟・慈を言い(伝九章)、また絜矩(けっく)の道を論じている(伝十章)。そこは、私(仁斎)もまたうなずけるところがある。まことによく『詩経』『書経』の本意を取り上げたものである。だがその八条目をつらね(経)、それが説く学問の方法に至るときには、これが孔孟の血脈を理解しているのかと疑わずにはいられないのである。 (注1)孟子公孫丑章句に「生民有りてより以来、未だ孔子有らず」「宰我は予を以て夫子を観れば、堯・舜に賢ること遠しと曰う」などとある。仁斎は、どうして孔子が堯・舜を上回る人類史上最大の聖人といえるのかについて、同じく『語孟字義』の「附・堯舜既に没し邪説暴行又作(おこ)るを論ず」で論じている。仁斎の論の趣旨は、孔子の偉大な点ははじめて正道をはっきりと定めて後世に至るまで正道と邪説の区別を明らかにしたところにあり、そこが聖人であったが一時代のための政治家にすぎなかった堯・舜以下の聖人たちを超えた業績であった、というようなものである。
(注2)孟子は同じ公孫丑章句で伯夷・伊尹・孔子について「皆古(いにしえ)の聖人なり。吾は未だ能く行うこと有る能わざるも、乃(すなわ)ち願う所は則ち孔子を学ばん」とある。 (注3)「最上至極宇宙第一書」の賛辞は仁斎『論語古義』総論の綱領に見えて、仁斎生前の『論語古義』最終稿本には副題として「最上至極宇宙第一論語」が置かれた。 (注4)『語孟字義』「書」の章において、仁斎は『書経』のうち現在「偽古文尚書」と言われている篇がいにしえの堯舜三代の真正の書ではないと疑った。また「理」および「性」の章において、『礼記』楽記篇の思想が老子に由来すると主張して、楽記篇にある言葉を自らの理論の根拠とする朱子を批判した。ここで仁斎は、『大学』もまた後世の作であろうと疑義を呈するのである。 (注5)論語衛霊公篇「立つときは則ち其の前に参なるを見、輿に在るときは則ち其の衡に倚るを見る」。 (注6)原文「戴記」。『礼記』は前漢に戴聖(たいせい、生没年不詳)が儒家の礼に関するテキスト群を編集した書であり、編者の名を取って戴記とも呼ばれる。 (注7)ここで仁斎は、戦国時代の儒家が斉・魯の両国で主に活動していたことを指しているのだと思われる。実際には、他国にも儒家はいたはずである。秦の弾圧を経て、漢代に生き残った儒家は斉・魯の集団のみであった。 |
《読み下し》 孔孟の学を為さんと欲する者は、以て孔孟の書を読まずんばある可からず。孔孟の書を読まんと欲する者は、以て孔孟の血脈を識らずんばある可からず。孔孟の書を読んで、孔孟の血脈を識らざる者は、猶(な)お船の柁(かじ)無く、夜行の燭(しょく)無く、聾者(ろうしゃ)の杖を失いて、其の嚮方(きょうほう)する所を識ること莫きがごとし。其れ可ならんや。苟(いやし)くも孔孟の書を読んで、孔孟の血脈を識らば、天下何の書か読む可からず、何の理か辨(べん)ず可からざらん。試(こころみ)に異端の言を以て諸(これ)を聖人の書に雑(まじ)え、聖人の言を以て諸を異端の書に置いて、其の之を見ること黒白を視るが如く、之を分かつこと菽麦(しゅくばく)を辨(わきま)うるが如く、手に随(したご)うて取り、耳に入るときは則ち知り、毫釐(ごうり)を爽(たが)えず、杪忽(びょうこつ)を差(たが)えず、夫れ然る後之を能く孔孟の血脈を識ると謂うなり。 将(まさ)に何を以て能く孔孟の血脈を識って惑わざることを得んとするか。夫れ孔子の聖、堯・舜に賢(まさ)れること遠甚にして、生民有りてより以来、未だ其の盛(さかん)なるに比する者有らず。孟子孔子を学ぶことを願い、其の宗を得る者なり。若(も)し孔孟をして復(また)今世に生れ、其の説く所行く所、語・孟の二書に過ぎる可からざるときは、則ち語・孟の二書を舎(す)てて、其れ何を以て之を能(よ)くせん。誠(まこと)に以て論語の一書、其の詞平正(へいせい)、其の理深穏(しんおん)、一字を増すときは則ち剰(あま)ること有り、一字を減ずるときは則ち足らず、天下の言、是(ここ)に於てか極まる。天下の理、是に於てか尽く。実に宇宙第一の書なり。孟子の書も、亦(また)論語を羽翼(うよく)して、其の詞明白、其の理純粋、礼記(らいき)諸篇、秦人(しんびと)坑燔(こうはん)の餘に出でて、漢儒附会(ふかい)の手に成るが若きに非ず。故に論語に次いで其の言詭(あやま)り無き者は、其れ惟(ただ)孟子か。学者苟くも此の二書を取って、沈潜反復、優游(ゆうゆう)饜飫(えんよ)、之を口にして絶えず、之を手にして釈(お)かず、立つときは則ち其の前に参(さん)なるを見、輿(よ)に在るときは則ち其の衡(こう)に倚(よ)るを見、其の謦欬(けいがい)を承(う)くるが如く、其の肺腑を視るが如く、手の之を舞い、足の之を蹈(ふ)むことを知らず。夫れ然る後能く孔孟の血脈を識って、衆言淆乱(こうらん)の為に惑わされざることを得ん。 大学の一書、本(もと)戴記(たいき)の中に在って、譔人(せんじん)の姓名を詳(つまび)らかにせず。蓋(けだ)し斉(せい)・魯(ろ)の諸儒、詩・書の二経に熟して、未だ孔孟の血脈を知らざる者の撰する所なり。其の斉家(せいか)伝以下、孝・弟・慈を言い、絜矩(けっく)の道を論ずる者は、吾取る所有り。固(まこと)に能く詩・書の意を得る者なり。其の八条目を列し、及び其の説く所の学問の法に至っては、則ち疑い無きこと能わず。 |
《原文(新字体)》 欲為孔孟之学者。不可以不読孔孟之書。欲読孔孟之書者。不可以識孔孟之血脈。読孔孟之書。而不識孔孟之血脈者。猶船之無柁。夜行之無燭。聾者之失杖。而莫識其所嚮方也。其可乎。苟読孔孟之書。而識孔孟之血脈。天下何書不可読。何理不可辨。試以異端之言雑諸聖人之書。以聖人之言置諸異端之書。其見之如視黒。分之如辨菽麦。随手而取。入耳則知。不爽毫釐。不差杪忽。夫然後謂之能識孔孟之血脈也。将何以得能孔孟之血脈而不惑乎。夫孔子之聖。賢於堯舜遠甚。而自有生民以来。未有比其盛者矣。而孟子願学孔子。而得其宗者也。若使孔孟復生今世。其所説所行。不可過語孟二書。則舎語孟二書。而其何以能之。誠以論語一書。其詞平正。其理深穏。増一字則有剰。減一字則不足。天下之言。於是乎極矣。天下之理。於是乎尽矣。実宇宙第一書也。孟子之書。亦羽翼論語。而其詞明白。其理純粋。非若礼記諸篇。出於秦人坑燔之餘。而成於漢儒附会之手。故次論語而其言無詭者。其惟孟子乎。学者苟取此二書。沈潜反復。優游饜飫。口之而不絶。手之而不釈。立則見其参於前。在輿則見其倚於衡。如承其謦欬。如視其肺腑。不知手之舞之。足之蹈之。夫然後得能識孔孟之血脈。而不為衆言淆乱之所惑也。大学一書。本在戴記之中。不詳譔人姓名。蓋斉魯諸儒。熟詩書二経。而未知孔孟之血脈者所撰也。其斉家伝以下。言孝弟慈。論絜矩之道者。吾有取焉。固能得詩書之意者也。至乎其列八条目。及其所説学問之法。則不能無疑。 |
仁斎は『論語』を「宇宙第一の書」(論語古義)と呼び、『孟子』を「論語の津筏(しんばつ、渡し船)」と呼んで論語理解のために必読の書と言った(童子問)。上に見えるとおり、『論語』と『孟子』に流れる「孔孟の血脈」だけを信ずるべき真正の思想とみなして、そこからの距離があるか否かを判定して、儒家が漢代以降に伝えた六経や、二程子・朱子らの宋代儒者が、「孔孟の血脈」から遠ざかっていることを批判する。それが、仁斎の古義学の学問的立場である。仁斎は、『書経』のうち古文尚書と呼ばれたテキストの真正性を疑い(後に偽書であったことが証明された)、『礼記」各篇のテキストもまた後世の儒家の付会が入っていることを疑う。こうしてもとは『礼記』に収録されていた『大学』の真正性を疑う一文を自著『語孟字義』の付録に置いたのであった。では、仁斎はどこを疑ったのであろうか?それは、これ以降に論じられる。