大学或問・序 ~大学と小学、敬の重要性~

投稿者: | 2023年3月4日

緒言


明代の『四書大全』には大学章句に続いて、『大学或問(だいがくわくもん)』が収録されている。大学或問は大学章句と同時に執筆された書で、大学章句の各章に対して「或(あるひと)問う」から始まる問者と朱子の質疑応答集が逐条的に収められている。大学章句における朱子の見解をより詳しく知ることができる。

『大学或問』序~大学と小学、敬の重要性~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、大學の道、吾子(ごし)(注1)以て大人(たいじん)の學と爲(す)るは何ぞや。
曰、此れ小子の學に對して之を言うなり。
曰、敢て問う、其の小子の學と爲るは何ぞや。
曰、愚序文に於て已に略(ほぼ)之を陳(の)ぶ(注2)、而(しこう)して古法の今に宜しき者、亦旣に輯(まと)めて書爲(つく)る(注3)、學者以て之を考えずばある可からず。
曰、吾聞く、君子は其の遠なる者の大なる者を務む、小人は其の近き者の小なる者を務むと、今子方(まさ)に將(まさ)に人に語るに大學の道を以てせんとす、而して又其の小學の書を考えんことを欲するは、何ぞや。
曰、學の大小、固(まこと)に同じからざること有り、然れども其の道爲(た)ることは則ち一のみ、是を以て其の幼に方(くら)べて、之を小學に習わざれば、則ち以て其の放心を収め、其の德性を養いて、大學の基本を爲すこと無し、其の長ずるに及びて、之を大學に進めざれば、則ち以て夫の義理を察し、諸事業に措て、小學の成功を収むること無し、是れ則ち學の大小同じからざる所以、特(ただ)に以て少長習う所の宜を異にするを以て、高下淺深先後緩急の殊(こと)なること有り、古今の辨、義利の分、判然として薫蕕(くんゆう)(注4)氷炭の相反するが如くにして、以て相入る可からざるが若きには非ず、今幼學の士をして、必ず先(ま)ず以て自ら酒掃(さいそう)應對(おうたい)進退の間、禮樂(れいがく)射御書數の習を盡(つく)すこと有りて、其の旣に長ずるを俟(ま)ちて、而して後に德を明にし民を新にして、以て至善に止るに進ましむ、是乃ち次第の當然、又何爲(いか)にして不可ならんや。
曰、幼学の士、子が言を以て序に循(したが)い漸(ようや)く進みて、以て等を躐(こ)え節を陵(しの)ぐの病(へい)を免るることを得れば、則ち誠に幸なり、若し其の年の旣に長じて、此に及ばざる者の、反(かえ)りて事に小學に從わんと欲さば、則ち恐らくは其れ扞格(かんかく)(注5)勝えず勤苦して成り難しの患に免れざることを、直(じか)に事に大學に從わんと欲せば、則ち又恐らくは其の序を失い本無くして、以て自ら達すること能わざることを、則ち如何。
曰、是れ其の歳月の已に逝く者は、則ち固に得て復た追う可からず、若し其の工夫の次第條目は、則ち豈に遂に得て復た補う可からざるや、蓋し吾之を聞けり、敬(注6)の一字は、聖學の始を成して終を成す所以の者なり、小学を爲する者の、此に由らざるは、固に以て本原を涵養して、夫の洒掃應對進退の節と、夫の六藝(りくげい)の敎とを謹むこと無し、大學を爲する者、此に由らざるは、亦以て聰明を開發し、德に進み業を修め、夫の德を明にし民を新にするの功を致すこと無し、是を以て程子格物の道を發明して、必ず是を以て説を爲すなり、不幸にして時を過ぎて而して後に學ぶ者の、誠に能く此に力を用いて、以て大に進みて、其の小を兼ねて補うことを害せずんば、則ち其の進む所以の者の、將に本無くして以て自ら達すること能わざることを憂えず、其れ或は摧頽(さいたい)(注7)已に甚しうして、以て兼ぬる所有るに足らずんば、則ち其れ肌膚の會、筋骸の束を固する所以(注8)にして、而して其の良知良能の本を養う者も、亦以て之を此に得可くして、其の之を前に失することを患えず、顧(おも)うに七年の病を以て、三年の艾(もぐさ)を求む、其の功を百倍するに非ずんば、以て之を致すに足らず、若し徒(いたずら)に咎を旣往に歸して、之を後に補う所以の者の、又以て自ら力(つと)むること能わずんば、則ち吾其の扞格勤苦日に甚しきこと有りて、身心顛倒(てんとう)し、眩瞀(げんぼう)迷惑(注9)して、終に以て致知力行の地を爲すこと無きことを見ん、況んや以て天下國家に及ぶ有らんと欲するをや。
曰、然らば則ち所謂(いわゆる)敬は、又若何して力を用いんや。
曰、程子(注10)此に於て、嘗(かつ)て主一無適(しゅいつむてき)を以て之を言う、嘗て整齊嚴肅(せいせいげんしゅく)を以て之を言う、其の門人謝氏(注11)が説に至るは、則ち又所謂常惺惺(じょうせいせい)の法という者の有り、尹氏(注12)が説は、則ち又所謂其の心収歛して一物を容れざるという者の有り、是の數説を觀れば、以て其の力を用いるの方を見るに足れり。
曰、敬の學の始と爲る所以の者は然り、其の學の終と爲る所以は、奈何。
曰、敬は、一心の主宰にして、萬事の本根なり、其の力を用いる所以の方を知れば、則ち小學の此に頼りて以て始を爲すこと無きこと能わざることを知る、小學の此に頼りて以て始まるるを知れば、則ち夫の大學の此に頼りて以て終を爲すこと無きこと能わざるを知る者の、以て一以て之を貫きて疑い無かる可し、蓋し此の心旣に立ちて、是に由りて物を格(いた)し知を致して以て事物の理を盡すときは、則ち所謂德性を尊びて問學に道(よ)る、是に由りて意を誠にし心を正しうして以て其の身を修むれば、則ち所謂先ず其の大いなる者を立て小さき者を奪うこと能わず、是に由りて家を齊え國を治めて以て天下に及ぶときは、則ち所謂己を修めて以て百姓を安(やすら)かにす、篤恭にして天下平かなる、是皆未だ始まりより一日として敬を離れず、然らば則ち敬の一字は、豈に聖學の始終の要に非ずや。


(注1)吾子は、友人などへの呼びかけ。あなた。
(注2)『大学章句序』のこと。当ブログを参照。
(注3)『小学』のこと。朱熹が編纂した。大学章句序を参照。
(注4)薫蕕は、香り高い草と悪臭がする草。
(注5)扞格は、受け付けずすらすらとゆかない様。年齢が進んで、いまさら小児の行うべき学びを心が受け付けない。
(注6)敬は朱子が程子から継承した概念で、心を専一にしてどこへも行かない状態。心を静かに落ち着け敬を保つ「居敬」が徳を涵養し、格物致知による「窮理」が知を進めて、両者をあわせることが学問の方法として採択される。
(注7)摧頽は、こわれてくずれる様。歳を取り過ぎて、若年時の学びと成人後の学びを兼ねて行えない。
(注8)礼記礼運篇「礼義は人の大端なり、信を講じ睦を修めて、人の肌膚の會、筋骸の束を固する所以なり」から。歳を取り過ぎていたとしても、礼義をよく学べば心の良知良能を育てることができる。
(注9)眩瞀は、目がくらむ様。眩瞀迷惑で、目がくらみどうすればよいのか思いまどうこと。過去の不勉強を長じて取り戻すためには人並み以上の努力をしなければならず、さもなくばものにならない。
(注10)程子とは二程子のことで、程顥(ていこう、号は明道)・程頤(ていい、号は伊川)の兄弟を指す。ともに朱子学の道統の祖。主一無適は、心を専一にしてどこにも行かないこと。
(注11)謝氏とは謝良佐(しゃりょうさ)のことで、程顥・程頤の門人。常惺惺は、心がつねに昏昧せず明晰であること。
(注12)尹氏とは尹焞(いんとん)のことで、程頤の門人。
《要約》

  • 小学は幼少時の学で、大学は成人後の学である。まず小学で礼儀作法・基礎教養を学んで徳性を養い、しかる後に大学で義理を察して諸事業を行う力をつける。
  • たとえ幼少時から学び始めなかったとしても、成年後に努力して学べば補うことはできる。「敬」に力を用いて学ぶことが肝心である。
  • 「敬」は聖学の始めにして終わりであり、小学から大学まで一をもって貫かれている。「敬」は程子の言葉では主一無適・整斉厳粛と呼ばれ、謝氏の言葉では常惺惺と呼ばれる。「敬」に力を用いる方法は、彼らの教説の中に示されている。

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