伊藤仁斎:大学は孔氏の遺書に非ざるの弁(2)

投稿者: | 2017年8月18日
出典:岩波書店『日本思想大系33』昭和46年から漢文原文を取り、同書を参考にしながら読み下しを作成した。『日本思想大系』は、底本を宝永二年刊本『語孟字義』に拠っている。参考とした前書の漢文原文が新字体に変えられているので、下の読み下しもまた新字体で行う。
《現代語訳》
『大学』には、「古(いにしえ)の明徳を天下に明(あきら)かにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しゅうす。其の心を正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知ることを致(きわ)む。知ることを致むることは物を格(ただ)すに在り」とある(経)(注1)。程子(ていし)は、これがいにしえの人々が学を修めた順序であったとみなした(経冒頭の朱子の言を参照)。しかしながら愚(それがし。仁斎のこと)は思うのであるが、孔子・孟子が学ぶことについての条目を述べた言葉は非常に多いにもかかわらず、『大学』のような八つの条目をこのように緊密に連続させた言葉を聞いたことがない。『論語』には、「先生(孔子)は四つのことによって教えた。すなわち文・行・忠・信である」(述而篇)とある。孔子が人を教えた条目はこの四つであって、他の法はなかったことはあきらかであろう。また「知者は惑わない。仁者は憂えない。勇者は懼(おそ)れない」(子罕篇)とある。この知・仁・勇の三者は(『中庸』で言うところの、それぞれが固有に尊い)「天下の達徳」(注2)であって、何も知の次に仁、仁の次に勇といったような順序を述べたものではない。なので、ここから八条目のような学ぶ順序が出たわけではないこともあきらかであろう。また曾子(注3)は「先生(孔子)の道は、忠恕だけだ」(里仁篇)と言った。忠恕こそが一生涯行うべきことであって、孔子の道はこれに過ぎるものはなかったことも、あきらかであろう。また『中庸』には、「政治をすることは、賢明な人材を得るところにある。賢明な人材を得るには、我が身をよくする。我が身を精進するには、道によって行う。道を修めるには、仁をもって行う」(第二十章)とある。これもまた、学を行う順序をこのように述べたものである。これらは、いずれもじつに簡明であって、じつに従い易いものではないか。なのに『大学』は人の道に進むやり方を、まるで九層の台に登るかのように一階を登ってまた一階を登って、その後に台の上にたどり着くというものだというのであろうか?そもそも道とはほかでもない、人の道である。人が、人の道を修めるのである。どこに遠いところがあるだろうか?孔子は、「仁は遠いものであろうか?己が仁を求めれば、こちらに仁はやって来るのだ」(述而篇)と言った。孟子は、「道とは、身近にあるのだ。なのに人はこれを遠きに求める」(離婁章句上)と言った。これらはみな、道がはなはだ近いことを言っている。どうして九層の台に登るようであろうか。かつて宋人(そうひと。南宋時代の人であった朱子を指している)は、韓愈(かんゆ)が『大学』の八条目を引用しながらもその格物・致知まですべて引用しなかったことを批判した(注4)(注5)。これもまた、深く考えていないだけのことだ。孟子は、「人には、常に口に出す言葉がある。みなが『天下国家』という。だが天下の根本は国にあり、国の根本は家にあり、家の根本は我が身にあるのだ」(離婁章句上)と言った。この言葉は、格物・致知に言及しないだけではない。わずかに「家の根本は我が身にあるのだ」に留まって、正心・誠意にすら言及しない。ならば、孟子もまた『大学』をわかっていないと批判するのであろうか?これによってわかることは、八条目は孔孟の意図ではないことがあきらかであろう。


(注1)『日本思想大系』の読み下しに従う。『日本思想大系』の凡例には、原文(『語孟字義』宝永二年本)に施された返り点・送りがなに基づくとある。これ以降にある『大学』『論語』『孟子』の引用も同じ。
(注2)『中庸』第二十章「知・仁・勇の三者は、天下の達徳なり。」
(注3)曾子は曾参(そうしん)の尊称で、孔子の弟子。この言葉がある問答の他にも、『論語』に多く登場する。
(注4)韓愈『原道』を参照。
(注5)仁斎が言及するのは、『大学或問』経、八条目の項における以下のくだりである。「此れ大學の條目は、聖賢相傳えて、人を敎え學を爲する所以の次第、至って纖悉なりと爲す。然して漢魏より以來、諸儒の論、未だ之に及す者の有ることを聞かず、唐の韓子に至りて、乃ち能く援(ひ)きて以て説を爲して、原道の篇に見(しめ)す、則ち庶幾(しょき)は其れ聞くこと有ることを、然れども其の言(こと)正心誠意に極(きわま)りて、致知格物と云う者を曰う無きことは、則ち是其の端を探らず、驟(にわか)に其の次を語る、未だ擇びて精(くわ)しからず、語詳(つまびら)かならずの病を免れず、何ぞ乃ち是を以て荀楊を議せんや。」(大意:この大学の八条目は、聖賢が相伝してきたものであって、人が学を修める順序について、詳細をきわめたものである。しかしながら漢・魏以来、儒者の論がこの八条目に及んだことがあったことを聞かない。ようやく唐の韓愈に至って、これを引用して一論をなした。『原道』にそれが見える。彼に至ってなんとか八条目の論に近づいたのであるが、『原道』の言葉は正心・誠意で終わっていて、格物・致知まで言及していない。これでは、学の最初を探らずにいきなり次の地点から語っているようなものだ。これでは彼もまた「擇びて精(くわ)しからず、語りて詳(つまびら)かならず」(『原道』で韓愈が荀子・揚雄を批判した語)の欠点をまぬがれない。どうしてこれで荀子・揚雄を批判できるだろうか?)
《読み下し》
大学に曰く、古(いにしえ)の明徳を天下に明(あきら)かにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を修む。其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正しゅうす。其の心を者正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知ることを致(きわ)む。知ることを致むることは物を格(ただ)すに在り。程子此を以て古人(こじん)学を為(す)るの次第とす。然れども愚(ぐ)謂(おも)えらく孔孟学をするの条目を言う者固(まこと)に多し。未だ此の八事を以て相列(つら)ぬること此(かく)の若(ごと)く其れ密なるを聞かず。語に曰く、子四つを以て教ゆ、文・行・忠・信と。明(あきら)けし、夫子人を教うるの条目、此の四者に在って、他の法無きこと。又曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れずと。明けし、此の三者は、天下の達徳にして、学に進むの叙、此に出ずる者無きこと。曾子(そうし)の曰く、夫子の道は、忠恕のみ。明けし、忠恕は身を終うるまで以て之を行う可くして、夫子の道は、是に過ぐる者莫(な)きこと。中庸に曰く、政をすること人に在り、人を取るに身を以てす、身を修むるに道を以てす、道を修むるに仁を以てす。此れ亦学をする次第を言うこと此(かく)の如し。何ぞ其れ簡にして従い易(やす)きや。大学以て人の道に進む、九層の台に登るが若く、一階を歴(へ)、又一階を歴て、後進んで台上に至るとするか。夫れ道は他に非ず、即ち人の道なり。人を以て人の道を修む、何の遠きことか之れ有らん。孔子の曰く、仁遠からんや、我仁を欲すれば、斯(ここ)に仁至る。孟子曰く、道は邇(ちか)きに有り、而(しこう)して諸(これ)を遠きに求む。皆道の甚だ近きを言うなり。豈(あ)に九層の台に登るが如き有らんや。宋人(そうひと)嘗(かつ)て韓子(かんし)を譏(そし)るに其の大学を引いて格物・致知に及ばざるを以てす。亦深く考えざるのみ。孟子の曰く、人、恒の言有り。皆曰(い)う、天下国家と。天下の本は国に在り、国の本は家に在り、家の本は身に在り。但(ただ)格物・致知に及ばざるのみに非ず、纔(わず)かに家の本は身に在るに止まって、正心・誠意に及ばざるときは、則ち又孟子を譏るに大学を知らざるを以てして、可ならんや。故に知る、八条の目は、孔孟の意に非ざること明けし。
《原文(新字体)》
大学曰。古之欲明明徳於天下者。先治其国。欲治其国者。先斉其家。欲斉其家者。先修其身。欲修其身者。先正其心。欲正其心者。先誠其意。欲誠其意者。先致其知。致知在格物。程子以此為古人為学次第。然而愚謂孔孟言為学之条目者固多。未聞以此八事相列若此其密。語曰。子以四教。文・行・忠・信。明夫子教人之条目。在此四者。而無他法也。又曰。知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。明此三者天下之達徳。而進学之叙。無出於此者也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。明忠恕終身可以行之。而夫子之道。莫過於是者也。中庸曰。為政在人。取人以身。修身以道。修道以仁。此亦言為学次第如此。何其簡而易従邪。大学以為人之進道。若登九層台。歴一階。又歴一階。而後進至于台上邪。夫道非他。即人之道也。以人修人之道。何遠之有。孔子曰。仁遠乎哉。我欲仁。斯仁至矣。孟子曰。道在邇。而求諸遠。皆言道之甚近也。豈有如登九層台乎。宋人嘗譏韓子以其引大学不及於格物致知。亦不深考耳。孟子曰。人有恒言。皆曰。天下国家。天下之本在国。国之本在家。家之本在身。非但不及於格物致知。纔止於家之本在身。而不及於正心誠意。則又譏孟子以不知大学。可乎。故知八条之目。非孔孟之意明矣。

仁斎の『大学』批判は、まず八条目から始まる。仁斎は孔子・孟子の遺した言葉には格物・致知から始まる詳細な八条目が見えず、人が学ぶ道をもっと簡潔に述べるにとどまっていることを指摘する。『語孟字義』「理」の章において、仁斎は「理の字のごときはもと死字。事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と言い、理をもって天地の法則とみなす朱子学の姿勢は老子・荘子の思想を誤って採用している、と批判する。また同じく「理」の章において「後世の儒者は、専ら議論を以て主として、徳行を以て本とせず」と言う。後世の儒者とは、二程子・朱子らの宋代儒学者たちを指す。彼らは老荘あるいは禅仏教の「理」を誤って採用し、これをいにしえの聖人の本意であると主張する。だが、それは仁斎にとっては徳行を忘れて議論に走る許しがたい逸脱と写った。『大学』の格物・致知に始まる八条目は、天理すなわち宇宙神羅万象の「理」を把握して、その「理」に己を一致させることを人間の最終目的とする朱子学にとっては、正しい順序であるとみなされた。だが仁斎は八条目などは孔子・孟子の本意とはとうてい認められず、よってこれを『大学』の思想が孔孟の血脈とはいえない、という己の主張の最初の論拠としたのであった。幼少の頃から朱子学に傾倒し、そこで述べられている聖人君子に至る精神修養の道を求めて懊悩した末に、仁斎がたどり着いた結論であった。

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