大学章句:伝三章(前)

投稿者: | 2017年7月6日
大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
詩に云(い)う、邦畿(ほうき)千里は、惟(こ)れ民の止まる所、と。
詩は、商頌(しょうしょう)の玄鳥(げんちょう)の篇。邦畿は、王者の都なり。止は、居るなり。言うは、物各(おのおの)當(まさ)に止まるべき所の處(ところ)有るなり、と。
詩に云う、緡蠻(めんばん)たる黃鳥(こうちょう)、丘隅(きゅうぐう)に止(とど)まれり、と。子(し)の曰(のたま)わく、止まることに於(おい)て、其の止まる所を知れり。人を以てして鳥に如(し)かざる可けんや、と。
緡は、詩には綿に作る。
詩は、小雅(しょうが)綿蠻の篇。緡蠻は、鳥の聲(こえ)。丘隅は、岑蔚(しんうつ)の處(ところ)。子曰わく以下は、孔子の詩を說(と)けるの辭(じ)。言うは、人當に當に止まるべき所の處を知るべきなり。

詩に云う、穆穆(ぼくぼく)たる文王(ぶんおう)は、於(ああ)緝熙(しゅうき)にして敬止(けいし)す、と。人の君と爲(な)りては、仁に止まり、人の臣と爲りては、敬に止まり、人の子と爲りては、孝に止まり、人の父と爲りては、慈に止まり、國人(こくじん)と交わりては、信に止まる。
於緝の於の音は、烏(お)。
詩は、文王の篇。穆穆は、深遠の意。於は、歎美(たんび)の辭。緝は、繼續(けいぞく)するなり。熙は、光明なり。敬止は、其の敬せざる無くして、止まる所に安んずるを言うなり。此(これ)を引きて、聖人の止まるは、至善に非(あら)ざる無きを言う。五者は乃(すなわ)ち其の目の大なる者なり。學者(がくしゃ)は此に於て、其の精微の蘊(うん)を究め、而(しこう)して又類(るい)を推して以て其の餘(よ)を盡(つ)くせば、則ち天下の事に於て皆以て其の止まる所を知る有りて、疑う無し。


《用語解説・本文》
詩に云う、邦畿千里は、、朱子の注にあるとおり、以下は『詩経』商頌、玄鳥篇にある句。商頌は詩経の頌(しょう)の部の一で、商すなわち殷の祖先の徳を称えた歌。殷王朝の末裔が建てた宋国の宗廟の祭で行われたという。
詩に云う、緡蠻たる黃鳥、、同じく、『詩経』小雅、綿蠻篇にある句。小雅は、大雅と並んで周王朝の宮廷で饗宴の際に演奏して歌われた歌を集めたものだという。朱子は「緡蠻」に鳥の聲(声)と注している。だが新釈漢文大系は『韓詩小句』の「文ある容貌」の解を採る。下の訳は、韓詩小句の解に従う。
子の曰わく、、朱子が注するとおり、この詩を解した孔子の言葉である。『論語』に始まる古代の儒家文献には、孔子・孟子・荀子らによる詩経の語句を解釈した言葉が数多く遺されている。詩経の語句を宮廷や外交で即妙に引用してみせる技能は、古代において君子の教養として尊ばれていた。
詩に云う、穆穆たる文王は、、同じく、『詩経』大雅、文王篇にある句。伝二章参照。

《用語解説・朱子注》
學者孔子の道を学ぶ者のこと。朱子の注に常套的に表れる語。

《現代語訳》
詩には、「都から千里四方は王の楽土、民草はここに止まり住まう」とある。
詩は、商頌玄鳥の篇である。「邦畿」とは、王者の都である。「止」は、居ることである。言うは、「(人に限らず)あらゆるものには、止まり住まうべき場所がある」ということである。
詩には、「うつくしき黄鳥(こうちょう。コウライウグイス)が、丘の隅に止まるよ」とある。孔子はこの句について、「黄鳥もまた止まるときには、止まる所を知っているものだ。ましてや人間たるもの、鳥に及ばないわけがあるまい(人間こそ、正しい所に止まらなければならない)」と評された。
「緡」は、詩経では「綿」となっている。
詩は、小雅綿蠻の篇である。「緡蠻」とは、鳥の鳴き声の模写である。「丘隅」とは、けわしく木の茂った場所である。「子の曰わく」以下は、孔子が詩の語句を解説したものだ。言うは、「人は止まるべき所を知らなければならない」ということである。

詩には、「おごそかなる文王は、ああ輝き続けて、敬(つつし)むことに心を止められる」とある。人は人の君主となっては仁(=家臣人民への仁愛)に止まり、人の家臣となっては敬(=主君への敬愛)に止まり、人の子となっては孝(=親への孝心)に止まり、人の父となっては慈(=子への慈愛)に止まり、国の人々と交わるときには信(=人々への信頼)に止まるのが、あるべき心なのだ。
「於緝」の「於」の音は「烏(お)」である。
詩は、(大雅)文王の篇である。「穆穆」とは、深遠の意である。「於」は、感動して称える言葉である。「緝」は、継続することである。「熙」は、光って明るいことである。「敬止」とは、あらゆることに敬み、止まるところに心を安らげることを言う。この詩を引用して、(文王のような)聖人が止まるところは至善でないことは一つもないことを示しているのである。五つのこと(君の仁・臣の敬・子の孝・父の慈・交の信)は、まさしく重大な要点を挙げているのである。道を学ぶ者はこの箇所において、その細かく隠れた含意をよく究め、さらに類推して残されたところまでも究め尽したならば、天下のあらゆる物事に対して止まるべき所を知って疑うことはなくなるだろう。
《原文》
詩云、邦畿千里、惟民所止。
詩、商頌玄鳥之篇。邦畿、王者之都也。止、居也。言、物各有所當止之處也。
詩云、緡蠻黃鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎。
緡、詩作綿。
詩、小雅綿蠻之篇。緡蠻、鳥聲。丘隅、岑蔚之處。子曰以下、孔子說詩之辭。言、人當知所當止之處也。

詩云、穆穆文王、於緝熙敬止。爲人君、止於仁、爲人臣、止於敬、爲人子、止於孝、爲人父、止於慈、與國人交、止於信。
於緝之於音、烏。
詩、文王之篇。穆穆、深遠之意。於、歎美辭。緝、繼續也。熙、光明也。敬止、言其無不敬、而安所止也。引此、而言聖人之止、無非至善。五者乃其目之大者也。學者於此、究其精微之蘊、而又推類以盡其餘、則於天下之事皆有以知其所止、而無疑矣。

以上を朱子は、伝三章「止至善」の前半とみなす。この後に続く後半は、礼記大学篇原文では伝三章の直前にある。

ここでの中心は、末尾の五つの要点である。孟子は「父子は親、君臣は義、夫婦は別、長幼は序(敍)、朋友は信」がいにいえの聖人が定めた倫理の要点であった、と説いた(滕文公章句)。孟子のこれは五倫(ごりん)と呼ばれるが、孟子の五倫は人間同士の関係のルールを示しているものであって、いっぽうこの『大学』にあらわれた五つは、各人が他人に対するときに心の中でつつしんで持つべき心構えを示しているものだと言えるだろう。本文の詩経の引用に「敬止(けいし)す」とある。己の内面において、敬うべきものを敬い、慈しむべきものを慈しむ精神を尊重し、そこに安らいで止まることである。つまり人間社会のタテ・ヨコのよき関係を各人が内面で尊重し、それを社会の正しい道だと揺るぎなく確信すること。それが自ら「至善に止まる」ことなのだ、ということである。

大学で書かれていることは理想状態であって、実生活での問題としてたとえば「国家の命令が家族に危害を加えるものであったばあい、ひとはどちらを尊重するべきか?」「君主や親が間違ったことを行っている場合には、家臣や子はそれでも敬って従わなければならないのか?」というケースを考えなければならないだろう。これらの問題についての考察は、孟子あるいは荀子が行っているところである。前者について孟子は「自分が犯罪人として追われても、家族の者を守るのが正しい」と言うだろう(孟子の舜と瞽瞍についての問答をみよ)。後者について荀子は「正義のためにあえて君主や親に従わないのが、真に相手を敬うことである。君主や親が誤るならば、下にある者は黙って従わずにそれを正さなければならない」と言うだろう(荀子の子道篇をみよ。あるいは孟子の伊尹の問答もそのことを言っている)。

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