大学章句:伝三章(後)

投稿者: | 2017年7月9日
大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
詩に云(い)う、彼(か)の淇(き)の澳(くま)を瞻(み)れば、菉竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。斐(ひ)たる有る君子は、切(せつ)するが如(ごと)く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。瑟(しつ)たり僩(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。斐たる有る君子は、終(つい)に諠(わす)る可からず、と。切するが如く磋するが如しとは、學(まな)ぶを道(い)うなり。琢するが如く磨するが如しとは、自ら脩(おさ)むるなり。瑟たり僩たりとは、恂慄(しゅんりつ)するなり。赫たり喧たりとは、威儀(いぎ)なり。斐たる有る君子は、終に諠る可からずとは、盛德至善(せいとくしぜん)にして、民の忘るる能(あた)わざるを道うなり。
澳は、於六(おりく)の反(はん)。菉は、詩には綠に作る。猗は、叶韻(きょういん)にして、音は阿(あ)。僩は、下版(かはん)の反。喧は、詩には咺に作る。諠は、詩には諼に作る。並びに況晚(きょうべん)の反。恂は、鄭氏(ていし)讀(よ)んで峻と作(な)す。
詩は、衛風(えいふう)淇澳(きいく)の篇。淇は、水の名。澳は、隈(くま)なり。猗猗は、美盛の貌(かお)。興(きょう)なり。斐は、文(あや)ある貌。切は刀鋸(とうきょ)を以てし、琢は椎鑿(ついさく)を以てす、皆物を裁して形質を成さしむるなり。磋は鑢鐋(りょとう)を以てし、磨は沙石(させき)を以てす、皆物を治めて其(それ)をして滑澤(かったく)ならしむるなり。骨角(こっかく)を治むる者は、旣(すで)に切して復(また)之を磋す。玉石(ぎょくせき)を治むる者は、旣に琢して復之を磨す。其の治の緒(ちょ)有りて、益(ますます)其の精を致(きわ)むるを言うなり。瑟は、嚴密(げんみつ)の貌。僩は、武毅(ぶき)の貌。赫・喧は、宣著(せんちょ)盛大の貌。諠は、忘るるなり。道は、言うなり。學は、講習・討論の事を謂(い)う。自ら脩むとは、省察(しょうさつ)克治(こくち)の功なり。恂慄は、戰懼(せんく)なり。威は、畏(おそ)る可(べ)きなり。儀は、象(のっと)る可きなり。詩を引きて之を釋(と)くは、以て明德を明(あきら)かにする者の至善に止(とど)まるを明かにす。學ぶを道うと自ら脩むとは、其の之を得る所以(ゆえん)の由(よし)を言う。恂慄と威儀とは、其の德容の表裏(ひょうり)の盛(さかん)を言い、卒(おわり)は乃(すなわ)ち其の實(じつ)を指して之を歎美(たんび)するなり。

詩に云う、於戲(ああ)、前王(ぜんおう)忘れられず、と。君子は其の賢を賢として其の親(しん)を親とし、小人は其の樂(らく)を樂として其の利を利とす。此(ここ)を以て世を沒(ぼっ)すも忘られざるなり。
於戲の音は、嗚呼(おこ)。樂の音は、洛(らく)。
詩は、周頌(しゅうしょう)烈文(れつぶん)の篇。於戲は、歎辭(たんじ)。前王は、文・武を謂うなり。君子は其の後賢・後王を謂い、小人は後民を謂うなり。此に言うは、前王の民を新(あらた)にする所以の者は、至善に止まり、能(よ)く天下後世をして一物も其の所を得ざる無からしむ。所以(ゆえ)に旣に世を沒するも、人(ひとびと)之を思慕し、愈(いよいよ)久しくして忘られず、と。此(こ)の兩節は、詠歎(えいたん)・淫泆(いんいつ)にして、其の味(あじ)深長、當(まさ)に之を熟玩(じゅくがん)すべし。

右は傳(でん)の三章。至善に止まるを釋(と)く。
此の章の內(うち)、淇澳の詩を引くより以下は、舊本(きゅうほん)は誤りて誠意の章の下に在り。


《用語解説・本文》
詩に云う、彼の淇の澳を、、朱子の注にあるとおり、以下は『詩経』衛風、淇澳篇にある句。衛風は国風(こくふう)の部の一で、春秋時代の諸侯国のひとつである衛国の歌謡を集めたシリーズ。
斐たる有る君子出版社の名である「有斐(ゆうひ)」の出典。君子の姿がうるわしい様を指す。
瑟たり僩たり朱子は「瑟は、嚴密の貌。僩は、武毅の貌」と注しているが、「瑟」を人の敬虔な徳に「僩」をみやびやかなさまに解する新釈漢文大系の説を取りたい。下の訳は新釈に沿って行う。
切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如し成句「切磋琢磨(せっさたくま)」の出典で、論語にも見える。
詩に云う、於戲、前王、、同じく、『詩経』周頌、烈文篇にある句。周頌は詩経の頌(しょう)の部の一で、周の祖先の徳を称えた歌。前王とは朱子の注にあるとおり、文王・武王のこと。
君子は其の賢を賢として其の親を親とし、小人は其の樂を樂として其の利を利とす朱子の解釈では、君子は後賢・後王で小人は後民という。つまり先王である文王・武王が民を新たにして、その遺徳によって後世の王と賢人、統治される小人が恩恵を受ける、というように解している。だが、新釈漢文大系も指摘するように、本文の「君子は其の賢を賢として其の親を親とし、小人は其の樂を樂として其の利を利とす」は論語の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁篇)と同様の意味であるはずで、文王・武王に限らずいつの時代でも統治者である君子は賢者を尊重して政治を行い親族と親しんで倫理の模範を示し、被統治者である小人はその政治の下で節度を持って楽しみ適正に利を求めることに専念するのがよき秩序のあり方である、という読み方をするほうがよいと考える。下の訳は、本訳を新釈の指摘に沿って行い、朱子注に沿った訳を付記した。

《用語解説・朱子注》
澳は、於六の反反は、反切(はんせつ)のこと。反切とは、漢字の読み方の解説をするときの語句である。「澳」字を「於」と「六」を切って合わせた音で読め、という意味。ただし朱子の時代の発音で解説されているので、元代以降に大幅に発音が変化した現代中国語(北京語)と全く合わない。
猗は、叶韻にして、音は阿叶韻(きょういん)は協韻とも書く。古代中国(秦代以前)の詩歌を解説するときの語句である。詩歌は句の末尾の字が韻を踏むことが原則であるが、後世の発音で読むと韻が合わない場合が頻出する。叶韻は、そういった字はあえて別の読み方をさせているのだ、と注釈者が考えたときに用いる用語である。朱子の時代、古代語の研究は未発達であり、後世の研究によって朱子注などの叶韻は否定されることとなった。秦代以前の上古音を再構成すれば孔子の時代にはそれぞれの字の韻は合っていた、という見解が現代では一般的である。
鄭氏鄭玄(ていげん、じょうげん)。漢代に、大学篇を含む礼記の注を書いた。『大学章句』の歴史を参照。
『詩経』の技巧。動植物を述べた句を本題の前に置き、連想をうながす。
此の章の內、淇澳の詩を引くより以下は、舊本は誤りて誠意の章の下に在り朱子が言うのは、このページ全体の箇所。礼記大学篇では、伝一章の直前にある。新旧相違表を参照。

《現代語訳》
詩には、「淇水(きすい。衛国を流れる川)の澳(くま。川の曲がって奥まったところ)を見れば、青竹がみずみずしく伸びている。うるわしき姿の君子は、切(せつ)するがごとく磋(さ)するがごとく、琢(たく)するがごとく磨(ま)するがごとし。瑟(うやうやしい)たりて僩(みやびやか)たり、赫(輝いている)たりて喧(盛んである)たり。うるわしき姿の君子は、いつまでも忘れられないだろう」とある。「切するがごとく磋するがごとし」とは、君子が学ぶことを言うのだ。「琢するがごとく磨するがごとし」とは、君子が自らを修養することを言うのだ。「瑟たりて僩たり」とは、君子がおそれつつしんで学び修養する様子である。「赫たりて喧たり」とは、君子の姿が威儀を備えた様子である。「うるわしき姿の君子は、いつまでも忘れられないだろう」とは、その最高に盛んな徳と疑いようのない至上の善とを、民が決して忘られないことを言うのである。
「澳」は、「於」「六」の反切。「菉」は、詩経では「綠」となっている。「猗」は叶韻(きょういん)で、音は「阿(あ)」である。「僩」は、「下」「版」の反切。「喧」は、詩経では「咺」となっている。「諠」は、詩経では「諼」となっていて、読みは「況」「晚」の反切。「恂」は、鄭氏(鄭玄)は「峻」字と読むように注する。
詩は、衛風淇澳の篇である。「淇」は、川の名。「澳」は、隈(くま)である。「猗猗」は、美しく盛んな姿。この句は、興(きょう。上注参照)である。「斐」は、うつくしい文(あや)のある姿。刀と鋸(のこぎり)を使って切(せつ。切る)し、椎(つち)と鑿(のみ)を使って琢(たく。打ち欠く)する。いずれも、物を切って形を作ることである。鑢(やすり)と鐋(とぎいし)を使って磋(さ。すり磨く)し、沙(すな)と石を使って磨(ま。磨く)する。いずれも、物を加工してなめらかに作ることである。骨や角を加工する者は、これを切したあとさらにこれを磋する。玉や石を加工する者は、これを琢したあとさらにこれを磨する。いずれも、加工は最初の段階があって、そこからますます細かく作り上げていくのである。「瑟」は、おごそかで重厚な姿。「僩」は、いかめしく毅然とした姿。「赫」と「喧」とは、非常に明らかで盛大な姿。「諠」は、忘れることである。「道」は、言うことである。「学」は、学習して討論することを言うのである。「自ら脩む」とは、内によく反省して克己することを言うのである。「恂慄」は、おののき畏れながら学ぶことである。「威」は畏れるべき威厳であり、「儀」は礼儀に従った作法である。この詩を引用して説明を加えた理由は、これによって「自らの徳を自ら世に明らかに示そうとする者は、疑いようのない至上の善に止まる」ということを示すためである。「学ぶ」ことと「自らを修養する」ことを言うのは、君子が至善に止まるための方法を示したのである。「恂慄」と「威儀」は、修養の結果として君子の内面と外面の徳の姿が盛んとなった姿を示したのである。最後の言葉は、まさにそのような君子の素晴らしい実質を挙げて歎美したのである。

詩には、「ああ、前王たちが忘れられない」とある。君子とは、政治のために賢者を尊重し、倫理のために親族に親しむ。その下にある小人は、正しい政治のもとで己の楽しみを楽しみ、己の利益を享受する(朱子注に沿った訳:文王・武王の後に続く君子たちは、かれら前王にならって賢者を尊重し、親族に親しむだろう。後の小人たちも、かれら前王の与えた恩徳を楽しみ、利益を享受するだろう。)文王・武王のような偉大な統治者は、そのような政治を行ったがゆえに世を去った後でも人々から忘れ去られないのである。
「於戲」の音は、「嗚呼(おこ)」である。「樂」の音は、「洛(らく)」である。
詩は、周頌烈文の篇である。「於戲」とは、感嘆の言葉である。「前王」とは、文王・武王を指す。「君子」とは、両王の後の時代の賢人たちと周王たちのことを指し、「小人」もまた後の時代の人民たちのことを指す。この言葉が言いたいことは、文・武の前王が民を新(あらた)にしたやり方とは、至善に止まって後世の天下が一物ですら正しい地位を得ないことがないようにさせたというものであった、ということである。ゆえに彼らは亡くなった後でも人々に慕われて、ずっと後世まで忘れ去られることがなかったのである。上の両節のくだりはまことに詠歎にあふれていて、その味わいは深くて長い。ここはよくよく味わうべきところである。

以上は、伝の三章である。至善に止まることを説いている。
本章のうち「淇澳」の詩の引用より以下は、旧本(礼記大学篇)では誤って誠意章(伝六章)の後に置かれていた。

《原文》
詩云、瞻彼淇澳、菉竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮僩兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。如切如磋者、道學也。如琢如磨者、自脩也。瑟兮僩兮者、恂慄也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛德至善、民之不能忘也。
澳、於六反。菉、詩作綠。猗、叶韻、音阿。僩、下版反。喧、詩作咺。諠、詩作諼。並況晚反。恂、鄭氏讀作峻。
詩、衛風淇澳之篇。淇、水名。澳、隈也。猗猗、美盛貌。興也。斐、文貌。切以刀鋸、琢以椎鑿、皆裁物使成形質也。磋以鑢鐋、磨以沙石、皆治物使其滑澤也。治骨角者、旣切而復磋之。治玉石者、旣琢而復磨之。皆言其治之有緒、而益致其精也。瑟、嚴密之貌。僩、武毅之貌。赫・喧、宣著盛大之貌。諠、忘也。道、言也。學、謂講習・討論之事。自脩者、省察克治之功。恂慄、戰懼也。威、可畏也。儀、可象也。引詩而釋之、以明明明德者之止於至善。道學自脩、言其所以得之之由。恂慄威儀、言其德容表裏之盛、卒乃指其實而歎美之也。

詩云、於戲、前王不忘。君子賢其賢而親其親、小人樂其樂而利其利。此以沒世不忘也。
於戲音、嗚呼。樂音、洛。
詩、周頌烈文之篇。於戲、歎辭。前王、謂文・武也。君子謂其後賢・後王、小人謂後民也。此言、前王所以新民者、止於至善、能使天下後世無一物不得其所。所以旣沒世、而人思慕之、愈久而不忘也。此兩節、詠歎淫泆、其味深長、當熟玩之。

右傳之三章。釋止於至善。
此章內、自引淇澳詩以下、舊本誤在誠意章下。

朱子の注にもある通り、この文は原文の礼記大学篇では伝一章の前にあって伝六章の後にある。朱子はこれを後に移して前文とつなげ、伝三章とした。

『大学』は志を持って人の模範となり、やがては政治を執ろうとする君子を養成することが眼目として書かれた書である。なので、君子に深い知識と厳しい自己修養を求めるのだ。中国明朝が人民のために公布した『六諭(りくゆ)』には、そのような向上心を持つべき薦めが欠けている。「父母に孝順たれ」「長上を尊敬せよ」「郷里と和睦せよ」「子孫を教訓せよ」「各(おのおの)生理を安んぜよ」「非為(ひい)を作(な)すなかれ」の六つの教えは、統治される小人の分際を定めた教訓である。現実の中華帝国においては民は小人であり、教化とはこの程度の分際を守っておとなしく税を払っていればよい存在なのであった。民に向上心などは期待するべくもなく、支配する側にとってはただ暴れて騒乱を起こすことを恐れていた。科挙に及第したごくわずかの君子と小人である膨大な数の民との間には、はなはだしく隔たった身分的・心情的な格差があった。

この『六諭』は八代将軍吉宗の時代に清朝の刊本が琉球を経由して紹介されたのであるが、吉宗政権は町人のための好適な教えとして中国の例にならい、江戸はじめ三都の民に子供たちの学習の手本としてこれを推奨した。こうして、『六諭』は江戸期に寺子屋の場でひろく教えられることとなった。それに比べて四書の『大学』は、統治する君子に対する修養の薦めの書であって、これを学ぶことは武士のための訓戒というべきであった。もちろん武士だけが『大学』を学んでいたわけではもとよりなく、二宮尊徳の例を出すまでもなく向学心ある町人や農民たちもまた手に取るところであった。明治二三年に発布された教育勅語は、その中に国家への責任と勉学向上の薦めが置かれている。これらは『六諭』には見えない教訓であり、むしろ『大学』のごとき君子の目指すべき徳目であるといえる。『六諭』が教育勅語のモデルであるという説が広く行われているのであるが、それは両者が君主から人民に発布した教訓書である、という形式の類似でしかない。教育勅語の内容は『六諭』を大きく踏み出していて、『大学』のような君子の徳目にむしろ近いのである。

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