Monthly Archives: 3月 2015

勧学篇第一(1)

君たちは、こうあってほしい―

「学ぶことは、継続しなければいけない。青の染料は、藍の草から採取するものだ。だがその色は、元の草よりも青いではないか。氷は、水から形成される。だがその冷たさは、元の水よりも冷たいではないか。」(君たちもまた、学び続ければますますよい人間となるのだ。努力を怠ってはならない。)

もとの木はたとえピンと張った縄(すみなわ)で計測できるほど真っ直ぐであったとしても、これを曲げて車の輪に仕立て上げると、コンパスの曲線で計測できる円形に加工されるのだ。こうなったらたとえ乾かしても、元の真っ直ぐな形には戻らない。それは、曲げる力を加えたからなのだ。ゆえに、木は縄を使って加工すれば真っ直ぐな木材となり、金属は砥石で研げば鋭利な道具となる。君たちも、同じなのだ。広く学んで毎日怠りなく自己を反省すれば、やがて君たちの智恵は輝き、行いに過ちのない人材となることができるのだ。しかしそのためには、高い山に登って、天の高さを知らなければならない。深い谷に下りて、地殻の厚さを知らなければならない。つまりわが国の長い歴史の中で、これまでわが国の文明を作り出した建設者である先王たち(注1)が残した業績をよく学び取らなければ、学問の効果が絶大であることが分からないのだ。干人(かんじん)・越人(えつじん)・夷人(いじん)・貉人(ばくじん)(注2)は、生まれたときは同じ声で泣く。しかし成長すれば、それぞれの習俗を身につけて異なってしまう。この変化は生まれつきでは決してなく、後天的な教育の結果なのだ。(だから学び教えられることが、人間をどれだけ形作るかがわかるというものだ。)『詩経』には、この言葉がある(注3)。:

おお、なんじ君子よ!
安息を常とするなかれ!
なんじの地位につつしみ励み、
ひたすらに正直を愛せよ!
よく精神を働かせてよく見聞し、
なんじの幸福を助けよ!
(小雅、小明より)

よく精神を働かせるためには、正道と共に歩むのが最高なのだ。
そして幸福とは、(正道と共に歩む智恵によって)禍を受けなくすることが最上なのだ。


(注1)原文は「先王」であり、中華のいにしえの聖王たちのことであるが、より普遍的な意味に解釈するために補って訳した。
(注2)干・越・夷・貉は当時の中華周辺の諸族。
(注3)詩の訳は、新釈漢文大系の解釈によった。下のコメントを参照。
《原文・読み下し》
(注4)君子曰く、學は以て已む可からず。靑は之を藍に取りて、而(しこう)して藍よりも靑く、冰(こおり)は水之を爲して、而して水よりも寒し。木直なること繩に中(あた)るも、輮(たわ)めて以て輪と爲せば、其の曲なること規に中り、槁暴(こうばく)有りと雖も、復(ま)た挺せざるは、輮(じゅう)之をして然らしむるなり。故に木繩を受くれば則ち直く、金礪(れい)に就けば則ち利(するど)く、君子博く學びて日に己を參省すれば、則ち智明らかにして行い過ち無し。故に高山に登らざれば、天の高きを知らざるなり。深谿(しんけい)に臨まざれば、地の厚きを知らざるなり。先王の遺言を聞かざれば、學問の大なることを知らざるなり。干(かん)・越(えつ)・夷(い)・貉(ばく)の子、生れて聲を同じくし、長じて俗を異にするは、教え之をして然らしむるなり。詩に曰く、嗟(ああ)爾(なんじ)君子、恆(つね)に安息する無かれ、爾の位を靖共(せいきょう)し、是の正直(せいちょく)を好み、之を神(しん)にし之に聽(したが)い、爾の景福を介(たす)くと、神は道に化するより大なるは莫(な)く、福は禍無きより長なるは莫し。


(注4)勧学篇の前半部は、『大戴礼記(だたいらいき)』勧学篇とほぼ同一のテキストである(本サイトの(3)末尾までが一致する)。両者の関係については、議兵篇(5)のコメントを参照。

『荀子』という書物は『孟子』に比べると、不遇な扱いを受けて来た。
宋代の朱子学においては異端と決め付けられて、儒学の正統なテキストから弾かれてしまった。有名な詩人の蘇軾(蘇東坡)は『荀卿論』を書いて荀子を「好んで異説をなして譲らず、あえて高邁な議論を立てて後を顧みず、その言葉は愚人の驚くところであり小人の喜ぶところである。子思(しし。孔子の孫であり『中庸』の作者とみなされる)・孟軻(孟子の本名)は世のいわゆる賢人君子である。だが荀卿(荀子のこと)一人だけが『天下を乱す者は子思・孟軻である』などと言うのだ」と批判している。蘇軾は、荀子の弟子で秦の丞相であった李斯がなした悪政は師の荀子に由来するとまで言い、散々である(注)。

わが日本では、荻生徂徠が荀子に一定の評価を与えた。徂徠は儒学を個人の倫理学として学ぶ朱子学の姿勢を斥け、儒学はむしろ「礼楽刑政(れいがくけいせい)」、つまり古代中国の為政者たちが創生した統治のための法律、文化の体系を学ぶことであると、大胆な価値転換を提唱した。徂徠によって、儒学は統治論として読み替えられた。それゆえ徂徠は個人倫理を重視する孟子を批判し、礼楽刑政のシステムを論ずる荀子により好意的な評価を与えたのであった。しかし日本の儒学の本流はやはり朱子学であり、あるいはそのアンチとしての陽明学であり、両者ともに孔子・孟子を称えるが、荀子は顧みられることが少なかった。

その荀子が著した書が、『荀子』である。現在のテキストは、前漢末の劉向(りゅうきょう)が整理した『荀卿新書』三十二篇が唐代にははなはだしく混乱したテキストとなって伝わっていたために、唐の楊倞(ようりょう)がこれを再び校訂して注解を施したものが起源である(元和十三年、818)。劉向の『荀卿新書』はすでに伝わらず、ましてや劉向の整理以前の原型がどのようであったかは、今は知る由もない。どこまでが荀子本人の著作で、弟子あるいは他人の追加がどれだけあったのかも、わからない。その後清代になると朱子学から距離を取って古代文化を客観的に研究しようとする考証学が盛んとなり、ようやく中国での『荀子』研究が進んだ。王先謙の『荀子集解』(光緒十七年、1891)はその成果である。日本では、久保愛(1759-1835)が研究成果をまとめて『荀子増注』(文政三年、1820序)を著した。

こうして正統な儒学から目の敵にされ続けた、『荀子』である。それほどに、世の正義漢たちの神経を逆撫でする書物なのであろうか?

現在手に取ることができる『荀子』の開巻の言葉が、上のものである。私は読んだとき、なんと穏やかで理性に満ちた語り始めであろうか、と感心してしまった。『孟子』の開巻の言葉は、王との対話である。富国強兵を望む梁の恵王に対して、「なんぞ必ずしも利を言わん。ただ仁義あるのみ!」と食って掛かるのである。孟子の戦略は、大王を圧倒してねじふせる言葉の魔力を用いてこれを洗脳し、頂上のトップから理想の改革を行わせようとするものである。なので孟子の言葉は、宗教的な折伏の響きがある。論理は時に飛躍し、たとえ話で分かった気にさせるものである。

しかしながら、この『荀子』の開巻の言葉は、大王へのメッセージではない。この書を開く興味を持った、志ある諸君に対しての語りかけである。この勧学篇が冒頭に置かれていることは、まちがいなく『論語』を意識している。『論語』の冒頭には、「学びて時に之を習う、また楽しからずや」に始る有名な句が置かれている。荀子も参照したことであろう『論語』は、その冒頭に志あって学ぶ者たちへの励ましの言葉が置かれているのである。荀子は、自らこそが儒学の正統派であると疑うことがなかった。それで、『論語』の続編を書くつもりで、学ぶ者たちを励ます言葉を冒頭に置いたに違いない。(荀子のオリジナルな配置が、現行のとおりであったとは限らない。しかしながら、私は少なくとも現行の形に最初に並べた前漢の劉向は、明らかにこの書が『論語』の続編であることを意識していたはずだと思う。)

荀子は、「性悪説」の提唱者であると知られている。じっさい、後の篇にはそのものずばり「性悪篇」まである。人間はしょせん利得を考える欲望的存在が本性であり、善人はその本性を矯正することによって後天的になり得るのである、という主張である(誤解してはいけないが、荀子は人間の本性が邪悪を好む、と言っているのではない。単なる利得を求める利己心が本性であると言うのである)。その主張はいずれ検討するとして、この冒頭の言葉はそんなスレた人間観から発するものであろうか?性悪説と言っておきながら、読む者の自発的な奮起を期待する、熱い励ましの魂があるではないか?これから後、荀子は読む者に対して知性ある立派な人間となることを勧め、人相で人物を評価する当時の風潮を批判し、これを打ち砕け、人間の真の価値は外見にはなく心の中にあるのだ、と喝破するのである。その言葉は、人が善を選んで自己を向上させることを明らかに期待している。これのどこが性悪説なのであろうか?

私は、「性悪説」はあくまでも孔子以来の儒家の主要テーマである「国家をいかに運営すれば平和な統治が行われるか?」という統治論的問題を荀子が考察した際に、人間認識として置いた作業仮説であると考えたい。『荀子』では、中盤以降で統治論が展開される。そこでは、人間は「悪=利得を求める存在」として設定され、その存在をよく誘導して統治する方策が述べられる。国家を統治する方法を考えるときには、統治される対象である人間に幻想を持たず、これを突き放して捉える冷徹さを持たなければならない。荀子は、マクロの社会を考察するときの統治論を考察するための作業仮説として「性悪説」を唱えたのではないだろうか。

他方彼が批判する孟子は、マクロの社会を統治するための政治経済学でもミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学においても、一貫して「性善説」である。ゆえに、ミクロの倫理学では人間は自らの持つ善なる可能性を伸ばして無限の努力を行えば聖人にすらなれると説くわけである。同時にマクロの統治論の領域においてもまた、統治する君主の仁義が最初の一撃となって、それが人間の輪を作って強い国家を作り、さらには天下全体までこれを喜んで推戴するであろうという主張につながったのであった。だが荀子ら後世の理論家から見れば、孟子のマクロの統治論はあまりに粗雑であった。荀子はそれに替えて、人間の本性は「悪=利得を求める存在」であり、そのような人間を統治するためには国家システムを構築して制御しなけければならない、というプランを提示したのであった。この荀子のプランは、人間が利得を求める存在であるという視点に立って、初めて説明することができた。ゆえに彼の性悪説は、マクロの統治論の必要から要請されたものであった。

他方、荀子はミクロの個人がいかに生きるべきかを勧める倫理学を説く際には、孟子と対立する必要を感じなかったはずである。マクロの政治経済学とミクロの倫理学では、おのずから対象が違うのである。この対象においては、この勧学篇のように荀子は人間が善に向かい自己を向上させることを信じている。そしてこの『荀子』を読む者に対しても、そうなってほしいと期待しているのである。最初の勧学篇は、この天下をよい世界を作ることに導くべき志ある者への呼びかけの倫理学である。後に続く諸篇は、志あり学問を積んだ統治者が社会に直面したときに、心がけるべき政治経済学である。『荀子』に収録された両者の議論は、冒頭の勧学篇は読む者じしんへの呼びかけ、続く諸篇は読む者が対象とすべき社会への認識であり、読む段階によって対象が違う。「性悪説」は、後者を対象とした仮説であると読まなければいけない。私は、そう考えたい。

さて、上の訳について、私は原文の「君子」をあえて「君たち」と訳してみた。これは宮崎市定氏が『論語』にある「君子」という言葉は孔子の弟子たちへの呼びかけであることが多く、そういった場合は「諸君」という意味に取ったほうがよい、と提案していることに賛同したものである(宮崎『論語の学而第一』岩波現代文庫『論語の新しい読み方』収録)。荀子は孔子の後継を自任する者であり、この開巻の呼びかけの言葉は志ある者への誘いの言葉で間違いがないだろう。なので、「君子」を「君たち」とあえて訳してみた。そうすると、荀子の熱い励ましの息遣いが聞こえてくる。

後半に、『詩経』からの引用がある。『詩経』は古代中国の詩集であり、孔子の学校ではこれの学習に力を入れていた。宮廷人として、尊敬される紳士として、『詩経』を学んでいることは必須であり、『詩経』を知らない者は教養を疑われた。教養ある者は折にふれて『詩経』から一フレーズを引用して、それで思いの丈を伝えたり、政治的主張を遠まわしに伝えたりする。これが、古代中国における洒落者たちの流儀であったのだ。なので、荀子もまた『詩経』を引用して、学ぶ者にこれぐらいの敷居はまたいで来なさいよ、と言うわけである。今の日本では、このような共通の教養はあるのだろうか?ガンダムで例えるのは、教養とはいえないだろう、、、

詩の原文で、「神之聽之」とある。古代詩の本来の意味を取れば、「神之(これ)之を聽き」と読み下し、「神様が(まっとうな私を)聞き届けてくださる」と訳すべきである。しかしここでは、『新釈漢文大系』訳者の藤井専英氏の指摘に基づいて訳した。荀子は「神」という文字に超越的存在を意味させることはなく、人間の内なる精神、つまりは理性のはたらきを意味させるのが専らである。荀子は、人間が自らの力でできることに限って議論を行うのであり、超越的存在について論じることはない。その点もまた、「怪・力・乱・神を語らず」(論語、述而篇)の孔子と同じくしている。ただ孔子は語りはしなかったが、鬼神への畏敬の心は強く持っていた。それに比べて荀子は、よくも悪くもずっと合理的な考えの持ち主である。ゆえに荀子は、世の人が迷信を信じていることを厳しく批判するのである。


(注)服部宇之吉氏によれば、蘇軾の真意は荀子・李斯の名を借りて王安石・呂恵卿を誹るものであったという(『漢文大系十五巻 荀子集解』収録の「荀子解題」)。しかしながら、宋代の新法批判者たちが王安石を攻撃するために荀子の名を借りて、それが受け入れられたということは、すでに宋代主流の儒者たちの間において荀子とはそういうものであると受け止められていたことを意味しているはずであろう。ましてや、以降の朱子学者たちにとってはなおさらである。

勧学篇第一(2)

こんな言葉がある、「私はかつて一日中頭の中で思索してみたものだが、それはわずかな時間学校で学んだことにすら及ばなかった。私はかつてつま先を立てて眺めてみたものだが、それは高い山に登って広く見回したことにすら及ばなかった」(前半は『論語』衛霊公篇の言葉「我嘗て終日食らわず終夜寝ず以て思う。益無し。学ぶに如かざるなり」を想起させる)。
山の上に登って手招きすれば、自分のひじが長くなったわけでないのに、遠くから見てもらえる。追い風に乗せて呼べば、声の速さが加わったわけでないのに、はっきりと聞こえる。馬車を使えば、自分の足が強くなったわけでないのに、千里(400km)を走ることもできる。舟を使えば、自分の体が水に浮くわけでないのに、黄河や長江を渡ることすらできる。君たちもまた、同じなのだ。生まれたときはしょせん同じ人間であり、優劣などさほどありはしない。ただ学習によって力を借りた者だけが、優れた人間となれるのである。

南方に、蒙鳩(みそさざい)という鳥がいる。羽を集めて、これを毛で編みこんで巣を作り、葦の穂にその巣をひっかける。ところが強風が吹いて葦が折れてしまうと、巣の中の卵は割れて子は死んでしまう。これは、巣の作り方がまずかったからではない。ひっかけた葦が悪かったからである。また西方に、射干(ひおうぎ)という草花がある。茎の長さはわずか四寸(9cm)しかないが、高山の上に咲いてしかも百仞(157.5m)の崖の上にある。この花が高くに仰ぐことができるのは、茎が長く生長したからではない。立っている所が高いからである。蓬(よもぎ)は本来地を這う草であるが、丈高い麻の間に生えたときには起こさずして真っ直ぐに立つものだ。蘭槐(らんかい)の根は、芷(し)という香草である。しかしこれを汚水にひたすと、君子はもはや近づけるところとはならず、庶民ですらこうなってはもはや有り難がらない。芷そのものが汚いからでは、決してない。ひたした水が汚いからである。わかったかな、だから君たちは必ずよい環境の土地に住むこと。そして必ず立派な士と交友すること。こうするのは、悪の道に落ちるのを防ぎ、中正の美徳に近づくためなのだ。


《原文・読み下し》
(注1)吾嘗て終日にして思うも、須臾(しゅゆ)の學ぶ所に如かざるなり。吾嘗て跂(つまさきだ)ちて望むも、高きに登るの博く見ゆるに如かざるなり。高きに登りて招けば、臂(ひじ)の長を加うるに非ざるなり、而(しか)るに見ゆる者遠し。風に順(したが)いて呼べば、聲の疾を加うるに非ざるなり、而るに聞こゆる者彰(あきら)かなり。輿馬(よば)を假(か)る者は、足を利するに非ざるなり、而るに千里を致す。舟楫(しゅうゆう)を假る者は、水に能(た)うるに非ざるなり、而るに江河を絕す。君子は生異なるに非ざるなり、善く物に假るなり。
南方に鳥有り、名を蒙鳩(もうきゅう)と曰う。羽を以て巢と爲し、而(しこう)して之を編むに髮を以てし、之を葦苕(いちょう)に繫(つな)ぐ。風至りて苕(ちょう)折れ、卵破れて子死す。巢完(まった)からざるに非ざるなり。繫(か)かる所の者然ればなり。西方に木有り、名を射干(やかん)と曰う。莖(くき)の長さ四寸なれど、高山の上に生じ、百仞(ひゃくじん)の淵に臨む。木莖(もっけい)能く長きに非ざるなり。立つ所の者然ればり。蓬(ほう)も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直(なお)し(注2)。蘭槐(らんかい)の根、是を芷(し)と爲す。其れ之を滫(しゅう)に漸(ひた)せば、君子は近づけず、庶人は服せず。其の質美ならざるに非ざるなり、漸す所の者然ればなり。故に君子は居必らず鄕(きょう)を擇び、遊ぶに必ず士に就く。邪辟(じゃへき)を防いで中正(ちゅうせい)に近づく所以(ゆえん)なり。


(注1)『大戴礼記』勧学篇は「孔子曰く」で始まる。『論語』衛霊公篇の言葉とほぼ同一であることを意識しているのであろう。
(注2)『集解』の王念孫は、『大戴礼記』曾子制言上篇ではこの後に「白き沙(すな)も涅(どろ)の中に在れば、之と倶(とも)に黑なり」と続いているが、同勧学篇にはない。おそらく『荀子』勧学篇は後世の者が削ったのであろう、と言う。

立派な人間となるにはどうすればよいのかを、荀子は懇切丁寧に説得する。
学ぶことなしに考えるのが無益であることは、孔子も指摘するところである。儒家の中には、孟子の「大人はその赤子の心を失わざる者なり」とか、「人の学ばずして能くする所の者は、その良能なり。慮(おもんぱか)らずして知る所の者は、その良知なり」とかの格言を重視して学問を軽視し、心中の至誠さえあれば立派な人間なのだ、などと唱える者もあるようである。しかし荀子は、そのような安易を認めない。孟子もまた認めないと思うのであるが。荀子は、人間が立派なのは後天的に学んで知力を身につけるからであると考える。人間は放置教育しておいても自然とよい子になる、とは荀子は考えない。必ず周囲の環境を整え、立派な先生の教えを受け、悪者と付き合わせない配慮があって、よき人間は形成されるというのである。

後半は、人間が環境に影響を受けるという指摘である。荀子は、外界からのインプット次第で人間が変化するという、機械論的な人間観を持っているようである。後に見るように荀子が「礼」を身につけることを最も重視することと、彼の教育観は整合している。

私は、荀子の教育観はもっともだと思うが、ただどのような環境が教育に最適であるのかは、一概には決められないと考える。中世の日本で学問を行う場所といえば仏教寺院であって、比叡山や高野山は人里離れた山中にあって外界と隔離された道場であった。いっぽう江戸時代の儒学や蘭学の塾は都会の真ん中にあって、市井の空気と共にある学問所であった。西洋の人は、日本の大学の前にパチンコ屋があることに驚愕するという。学問を侮っているのか、といぶかるのであろう。しかし市井の中に学問所があるのは、日本の江戸時代からの伝統であるとも言えるだろう。もっとも私の住居の近くにある京都大学の周辺は今やコンビニとチェーン店の飲食店ばかりであり、これらが学問の肥やしになるようには思えないが。

ともかく、荀子の言葉は志ある者への呼びかけである。立派な人になることを志すのであれば、スマホからだけ情報を得るのはやめにして固い本を読書する試みにチャレンジするのがよいだろう。

勧学篇第一(3)

ものごとが起こるときには必ずその原因があり、また人が栄光あるいは恥辱をこうむるときには、必ずその人の持てる徳に応報するものなのだ。肉が腐れば、虫が沸く。魚がしなびても、やはり虫が沸く。そして人が怠慢して己のことを忘れると、わざわいがやってくるのだ。固い木は斬られて、柱に使われる。柔らかい木は刈り取られて、束ねて綱にされる。そしてよこしまなことが己にあれば、怨みを買って木のように叩き斬られるのがオチだ。薪(たきぎ)を一律に並べて火をつけたら、乾いた側に燃え広がっていく。地面を一面の水平にしてみたら、水は湿った箇所に溜まっていく。草木は群がって繁茂し、動物は群れをなして行動する。このように、物はそれぞれが持てる性質に応じて動くのである。性質に応じた因果関係があるために、的が立てられたら弓矢が飛んでくるのであり、林木が茂ったら木こりがやってくるのであり、樹木が陰をなせば鳥たちが休むのであり、貯蔵肉が酸敗したら蚋(ぶよ)が集まるのである。言葉が悪かったら、どうなるか?禍を招く結果がありえるのである。行いが悪かったら、どうなるか?恥をかく結果がありえるのである。君たちは、己の立つ状況をよく理解して、言行を慎まなければならない。

土が積もって山になれば、自然と風雨を呼ぶという。水が溜まって淵となれば、自然と龍が住み着くという。そして善が積み重なって大きな徳となれば、いつのまにか高度な理性の人(注1)となり、最高な心の持ち主(注1)となるであろう。一歩一歩を積み重ねなければ、千里の先に届くことは決してない。小さな川の流れを積み重ねなけれな、大河や大海を作ることはない。駿馬であっても一躍だけでは十歩(13.5m)も跳ぶことはできないが、駄馬であっても十日馬車を引っ張り続けることができる。成果は、継続にあるのだ。鑿を入れても途中でやめたら、朽木を折ることもできない。しかし鑿を辛抱強く入れ続けたら、金属や石にも彫り込むことができる。地下の蚯螾(みみず)を、見たまえ。奴らは爪も牙もなく、強い筋骨も持っていない。それでも地面近くで土を食らい、地下深くで水を飲んで、地中に自在に穴を掘り進める。これは、奴らが心を専一にして頑張っているからなのだ。それに比べて蟹は足が八本ハサミが二丁あるのに、ヘビあたりが作った穴を借りなければ、自分で穴を掘って隠れることすらできない。これは、奴らが心せっかちで集中できないからなのだ。だから、心ひそかに志を継続する者でなければ、名声が高らかに広がることはない。陰ながら努力を継続する者でなければ、赫々たる功名を挙げることはないのだ。交差点で迷っている者は、目的地に着くことはない。二人の君主に同時に仕官する者は、どちらの君主にも受け入れられない。人間の目は二つの方向を同時に見ることはできないが、見る力は完全だ。人間の耳は二つの音を同時に聞き取ることはできないが、聞く力は完全だ。竜は、足がなくても雲に乗って自由に飛ぶことができる。だがムササビは、飛んだり穴を掘ったり走ったりと器用に見えるが、簡単に追い詰められてしまう。『詩経』には、この言葉がある。:

筒鳥(つつどり)が、桑木(くわき)にありて
雛鳥(ひいなどり)、七羽育てぬ
親鳥は、君子のごとく
育て方、迷わず一つ
迷わずに、一つであるは
固き心の、現れなりき
(曹風、鳲鳩より)

そうだ、君たち君子は、迷わず一つのことに集中する固き心を持たなければならないのだ。

むかし、瓠巴(こは)という楽人が瑟(しつ。おおごと)を奏したら、泳ぐ魚が飛び出して聴いたという。また伯牙(はくが)という楽人が琴を奏したら、馬が首を伸ばして聴きながら秣(まぐさ)を食ったという。(このように魚や馬ですら、音楽を聴く耳を持っているという。ならば人間の耳目はなおさらであり、)どんなに小さな声でも聞こえないことはなく、どんなに隠れた行為であっても露見しないことはないのだ。玉(ぎょく)が埋もれている山は、草木が艶めく。珠(たま)が沈んでいる淵は、岸辺が乾かない。(玉や珠が見えなくても、周囲に影響を及ぼして分かってしまうのだ。)どうして善をなしながら、それを積み上げずにあきらめるのか?この世の中、善が聞こえずに終わることなど、どうしてありえようか?


(注1)原文は「神明」および「聖心」であるが、荀子は超越的な神を理論に想定しない。なので、あくまでも人間の精神の高度な段階を意味するように訳した。
《原文・読み下し》
物類の起る、必ず始まる所有り、榮辱の來る、必ず其の德に象(かた)どる。肉腐れば蟲(むし)を生し、魚枯るれば蠹(と)を生じ、怠慢身を忘るれば、禍災乃ち作(お)こる。强は自ら柱を取り、柔は自ら束を取り、邪穢(じゃあい)身に在るは、怨の構うる所なり。薪(たきぎ)を施(し)くこと一の若くなれば、火は燥に就く、地を平にすること一の若くなれば、水は溼(しつ)に就く。草木は疇生(そうせい)し、禽獸は羣(ぐん)す。物は各(おのおの)其の類に從う。是の故に質的張りて弓矢至り、林木茂りて斧斤至る、樹蔭を成して衆鳥息(いこ)い、醯(けい)酸にして蚋(ぜい)聚(あつ)まる。故に言は禍を招くこと有り、行は辱を招くこと有り。君子は其の立つ所を愼まんかな。
積土山を成せば、風雨興り、積水淵を成せば、蛟龍(こうりゅう)生じ、積善德を成せば、神明自得し、聖心備わる。故に蹞步(きほ)を積まざれば、以て千里に至ること無し、小流を積まざれば、以て江海を成すこと無し。騏驥(きき)も一躍して、十步なること能わざれども、駑馬(どば)も十駕すれば、功は舍(お)かざるに在り。鍥(けつ)して之を舍けば、朽木も折れず、鍥して舍かざれば、金石も鏤(ちりば)む可し。蚯螾(きゅういん)は爪牙の利、筋骨の强無きも、上埃土(あいど)を食い、下黃泉(おうせん)を飮む。心を用いること一なればなり。蟹は六跪(注2)して二螯(にごう)なるも、蛇蟺(だせん)の穴に非ざれば、寄託する所無きは、心を用いること躁なればなり。是の故に冥冥の志無き者は、昭昭の明(注3)無く、惛惛(こんこん)の事無き者は、赫赫(かくかく)の功無し。衢道(くどう)を行く者は至らず、兩君に事(つか)うる者は容れられず。目は兩視すること能わずして明に、耳は兩聽すること能わずして聰なり(注4)。螣蛇(とうだ)は足無くして飛び、梧鼠(ごそ)は五技にして窮す。詩に曰く、尸鳩(しきゅう)桑に在り、其の子七つ、淑(よ)き人君子は、其の儀一なり、其の儀一なれば、心結ぶが如し、と。故に君子は一に結ぼる。
昔者(むかし)瓠巴(こは)瑟(しつ)を鼓して、流魚出でて聽き、伯牙琴を鼓して、六馬仰ぎて秣(まぐさ)う。故に聲は小として聞こえざること無く、行いは隱として形(あらわ)れざること無し。玉山に在りて草木潤い、淵珠を生じて崖枯れず。善を爲して積まざるか、安(いずく)んぞ聞こえざる者有るや(注5)


(注2)集解は、「六」は「八」の誤写であると言う。
(注3)増注は荻生徂徠の説を引き、「明」の字は「名」の誤りかと言う。
(注4)宋本には「能」字が二回あり、元刻にはない。ここは宋本に合わせる。
(注5)大戴礼記勧学篇と一致する文は、ここまでである。大戴礼記はこの後に若干の孔子の言葉が置かれて結句となる。その一つは、宥坐篇(3)の最初にある孔子が水を称えた言葉とほぼ一致する。

善行を積む努力を続ける者には、幸福がやって来る。荀子は必ずそうだと説く。
耳に心地よい激励ではあるが、『論語』や『孟子』をこれまで読んできた私の目には、荀子の楽観には陰影がなさすぎるように見える。
孔子や孟子は、善人が必ずしも幸福を得られない可能性があることを、想定している。だから孔子は富貴などは君子の楽しみにはないのだ、と言うのであり、貧窮に生きてしかも愚痴を言わない高弟の顔回を、こよなく愛したのである。孟子は、「殀寿貮わず、身を脩めて以て之を俟つ、命を立つる所以なり(寿命の長い短いなど気にするな。ひたすら自分自身を修めて命尽きるのを待て。それが、天命を損なわずにまっとうするということなのだ。)」と言うのであり、現世での幸福などは度外視して、ひたすら己を研鑽して命を燃やせ、と勧めるのである。彼らの人生観に比べて、荀子の人生観は軽いと言わずにはいられない。荀子には、善人が報われないというテーマを正面から論じた聖書の『ヨブ記』は、遠くに離れた世界であろう。

善行が必ず報われる、ということを根拠付けるために、儒家の宿敵である墨家は「鬼神」の人間への介入を想定した。墨家は、この世の存在を超えた超存在である「鬼神」が善人を助けてくれるはずだ、と期待したのである。こうでも考えなければ、命を賭して縁もゆかりもない小国の防衛を引き受けて、その行為に何の見返りも得られない墨家集団たちは、日々を生きていくことができなかったのであろう。

だが儒家である荀子は、「鬼神」の介入など想定できない。だから同じ儒家の孟子は、命を粗末にせず無駄死にはするな、と勧めるのである。なるたけ災厄は避ける、という賢い生き方で生き延びるのが、不遇に会った時の知恵というわけである。
しかし荀子は、善人が必ず報われる、と言う。
それを可能とするためには、善人が報われる社会を作り上げなければならない、ということとなるであろう。
後の諸篇で見るように、荀子は政治を行う有能者が高い地位と富を受け取ることは自然な秩序であり、この秩序が国家の礼なのである、と主張する。荀子は戦国時代にありながら、すでに後世の中華帝国を見ているのである。科挙の試験は、よくも悪くも有能者が相応に報いを得る制度として、極めて洗練されている。中華帝国では、地位と名誉と富を得る道が、科挙の試験に及第すること一点に絞られて、きわめて分かりやすくなった。荀子の理想を現実の社会で実現させようとすれば、結局試験で有能者を選んで高い地位に就ける、という制度が最終的な結論だったのであろう。もとよりその弊害として、人間の価値が科挙に及第することだけに絞られて狭くなってしまった。試験のために論語や孟子を丸暗記したからといって、その人が本当に善人だといえるかどうか。

もちろん私は、善人が報われる社会であってほしい、と荀子と同じく思っている。しかし現実は、必ずしもそうではない。科挙の試験があったとしても、完全ではない。
私は、善人が必ず大きな成功を得ることができなくても、社会の中で何がしかの居場所を見つけることができてそれなりに納得できる人生を送ることができたならば、そのような社会こそが最上であると考える。懐の深い社会だけが、できることであろう。日本の社会は、まだ辛うじてそれが可能であると私は思っている。近年は競争原理ばかりが強調されるが、勝者には報いを与え、かつ敗者にもそれなりの居場所を与えることができる社会が、強い社会であると私は考える。

勧学篇第一(4)

では、学ぶことはどこから始めてどこで終わるべきであるか?
それはこうである。まず入門のカリキュラムは、美しい格言を繰り返し唱えて、体で人の道を覚えこむ。そこから進んで応用のカリキュラムは、人間社会のルールである礼を熟読して、よき社会人となるのである。学ぶことの目的には、まずいっぱしの士(宮廷人として最低ランクの存在)となるところから始めて、最後には聖人(最高段階の人間、あるいは国家の統治者)を目指すのである。真に学問を積み、努力すること久しければ、必ず聖人にまで至るはずだ。学ぶことは、死んではじめて終わるものだ。学ぶカリキュラムには、終わりがある。しかし学ぶ目標については、いかなるときも一瞬たりとも捨て置いてはならないのである。これを行う者が、人間というものだ。これを捨て置く者は、しょせん禽獣(きんじゅう。ケダモノ)の域を出ない。『書経』(古代王朝の法令集)はわが国の政治の軌跡である、学ばなければならない。『詩経』はわが国の均整ある歌の文化の極地である、学ばなければならない。礼すなわち礼儀規則は、わが社会の法の大筋であり、法判断(注1)のガイドラインなのである、これも学ばなければならない。ゆえに、学ぶことは礼を最終目標としなければならない。これがわが国の道徳の本源なのだからだ。礼を学べば、恭敬の精神と文化故実の詳細が身に付く。音楽を学べば、ハーモニーの美が身に付く。『詩経』と『書経』を学べば、知識豊富となる。『春秋』を学べば、微言大義(びげんたいぎ。簡潔な記録の中に豊富な意味を込める叙述法)の読解力が身に付くのである。これら学問の体系を学ぶことを通じて、天地の間にある知識は全てカバーできるのである。

君たちが学ぶときには、耳から入って心に留め、身体に行き渡って、立ち居振る舞いにまで好影響を及ぼし、ちょっとした言葉の端にも、ちょっとした動作の中にも、ただ一つの礼の規則に則るようでなくてはならない。だが小人が学ぶときには、耳から入ってすぐに口に出す。口と耳の間は四寸(9cm)しかないのだから、そんなことでは七尺(157.5cm)の身体を美にするには足りない。こんな言葉があるだろう、「古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にする」(論語、憲問篇の言葉と同じ)と。これが、今どきの風潮だ。君たちが学ぶときには古の学ぶ者のようでなくてはならず、己の身を美にすることを目標としなければならない。だが小人が学ぶときには、禽犢(きんとく、ケダモノ)が作られるばかりなのだ。だから連中は、問われないのにべらべらとしゃべる。耳障りである。一つの質問に対して、余計なことを付け加えて返答する。しゃべりすぎである。耳障りでしゃべりすぎでは、いけない。君たちは、打てば美しく響くように簡潔に答えなければならない。(正道をよく理解し、己を美しくする学び方をするべきである。知識を持っているだけで正道が理解できないような学び方は、ものの役に立つ人間を作らない。)

「学は其の人に近づくより便なるはなし」(学ぶためには、しかるべき師にお近づきになって学ぶ以上に、効果的なことはない)。なぜならば、礼と音楽はテキストの中に法則が記されているだけであって、それだけでは解説が分からない。詩経と書経のテキストはあまりに古い文献であるので、そのままでは現代に役立てる術が分からない。春秋はあまりに簡潔な歴史書なので、なかなか理解できない。なので、しかるべき師に従って、君子の正統な学説を学ぶことによって、尊重される存在となって周囲に名声が聞こえるようになるのである。ゆえに、「学は其の人に近づくより便なるはなし」だ。学ぶ道は、信頼できる師に好んでついて行くよりも速習できることはない。その次に効果的な学び方は、礼を尊んで体化することを心がけることだ。もし師を好むことができず、また礼を尊ぶこともできず、単に雑駁な知識を学ぶばかりで、それで詩経や書経を手に取ったらどうなるか?一生が経った後でさえ、知識不足の三流教師(注2)で終わるのが関の山だ。わが国の文明を作り出した建設者である先王たちの業績を慕い、仁義の道に基づこうと志すならば、礼はまさしく学ぶ正道なのである。挈裘(きゅうれい。毛皮のコート)を手でぶら下げたならば、毛は綺麗に一方向に向かう。礼もそれと同じで、全てが正道に綺麗に向かっているのである。礼に従わず、礼から派生する国法を理解せず、詩経や書経の知識だけで立派な人間となろうとするのは、たとえるならば指で川幅を測ること、戈(ほこ)で黍(きび)を搗(つ)くこと、錐で壷の中から食べることであり、ものになりはしないのである。ゆえに、礼を尊べば、まだ理解が不十分であっても国法の守護者ということができる。だが礼を尊ばないならば、たとえ聡明で能弁であっても世の役に立たない無能教師(注2)である。


(注1)原文「類」。『荀子』にはこの語がしばしば出てくる。法の明文がない事項について統治者が判断すべき基準のことを指す。あるいは礼義の正義の原理に基づく類推判断を指し、またあるいは類似の判例を参照した判断を指すと考えられる。ここでは法判断と訳しておいた。
(注2)原文は「陋儒」および「散儒」である。「儒」とは周王朝に滅ぼされた殷の遺民の村で、祭祀と教育を担った存在であったという。『荘子』の中には、徒党を組んで墓の盗掘を生業としていたいかがわしい「儒」が書かれている。その中から知識人集団として上昇したのが孔子の言う「君子儒」であり、相変わらず村で祭祀と教育を担う身分の低い「小人儒」も並列して存在していた。なので、「儒」を教師と訳した。(参考文献:重澤俊郎『周末の社会及び文化の特質』)
《原文・読み下し》
學は惡(いず)くにか始り、惡くにか終る。曰く、其の數は則ち誦經(しょうきょう)に始まり、讀禮(どくれい)に終わる。其の義は則ち士爲(た)るに始まり、聖人爲るに終わる。眞に積み力(つと)むること久しければ則ち入る。學は沒するに至りて而(しこう)して後に止む。故に數を學ぶは終り有るも、其の義の若きは則ち須臾(しゅゆ)も舍(す)つ可からず。之を爲せば人なり、之を舍つれば禽獸(きんじゅう)なり。故に書なる者は政事の紀なり、詩なる者は中聲の止まる所なり、禮なる者は法の大分なり、類(るい)(注3)の綱紀なり。故に學は禮に至りて止む。夫れ是を之れ道德の極と謂う。禮の敬文や、樂の中和や、詩書の博や、春秋の微や、天地の閒に在る者畢(つく)せり。
君子の學や、耳に入りて、心に著(つ)き、四體(したい)に布(つ)き、動靜に形(あら)わる。端(ぜん)にして言い、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し。小人の學や、耳に入りて、口に出づ。口耳の閒(かん)は則ち四寸のみ、曷(いずく)んぞ以て七尺(しちせき)の軀(く)を美にするに足らんや。古の學ぶ者は己が爲にし、今の學ぶ者は人の爲にす。君子の學や、以て其の身を美にし、小人の學や、以て禽犢(きんとく)と爲る。故に問わずして告ぐ、之を傲(ごう)と謂い、一を問いて二を告ぐ、之を囋(さつ)と謂う。傲は非なり、囋も非なり。君子は嚮(ひびき)の如し。
學は其の人に近づくより便なるは莫し。禮樂は法にして說かず、詩書は故にして切ならず、春秋は約にして速ならず。其の人に方(なら)いて君子の說を習わば、則ち尊にして以て遍なりて、世に周す(注4)。故に曰く、學は其の人に近づくより便なるは莫しと。學の經は、其の人を好むより速きは莫く、禮を隆(とうと)ぶこと之に次ぐ。上其の人を好む能わず、下禮を隆ぶこと能わず、安(すなわ)ち(注5)特(ただ)に將(まさ)に雜[識]志を學び(注6)、詩書に順(したが)わんとするのみ。則ち末世窮年まで、陋儒(ろうじゅ)爲ることを免れざるのみ。將に先王に原(もと)づき、仁義に本づかんとすれば、則ち禮は正に其の經緯(けいい)・蹊徑(けいけい)なり。挈(きゅう)の裘(えり)を領(ひっさぐ)るが若し、五指を詘(かが)めて之を頓(ひ)けば、順(したが)う者は勝(あ)げて數う可からざるなり。禮憲に道(よ)らずして、詩書を以て之を爲すは、之を譬(たと)うるに猶(なお)指を以て河を測り、戈(か)を以て黍(しょ)を舂(つ)き、錐を以て壷に飡(そん)するがごとし、以て之を得る可からず。故に禮を隆べば、未だ明ならずと雖も法士なり。禮を隆ばざれば、察辯(さつべん)と雖も散儒なり。


(注3)宋本は「羣(群)類」であり元刻は「類」である。集解は王念孫の説を引用して、ここでいう「類」の意味は法の対立語であるので、「羣」字は除くべきと言う。
(注4)原文「則尊以遍矣、周於世矣」について、増注は最初の「矣」字は衍字(よけいな文字)であると言う。ならば「則ち尊にして以て世に遍周す」と読み下すべきである。猪飼補注は、「周於世矣」が後人が追加した贅文であると言う。
(注5)「安」は語助。「案」とともに『荀子』テキストで多用される。「則」の同義。
(注6)増注は荻生徂徠の説を引いて「志」を衍字と言い、集解は王引之の説を引いて「識」の字が誤入であると言う。集解に従う。

学ぶときには、正しいカリキュラムを学び、体に染み付くように学び、そして立派な先生からマンツーマンの指導を受けなければならない。最後のことは、学問や芸事は子弟間の心の伝承であることを言っているのだ。教科書に書かれている内容は無味乾燥であり、人間の心が入っていない。教わることは、先生の立派な面だけでなくて、困ったところや足りないところまで先生の人間としての生き様全てを受け取るのが最上であるはずだ。このことは、私は昔は分からなかったが、今になるとそうであるに違いないと考え直すようになった。私は人生の師を慕って付いて行く経験がなかったので、学問が中途半端なのである。現在の私にとって、記憶に残る先生は高校三年時代(1986年)の担任であったM先生ぐらいしかいない。しかしM先生は日本史が担当であり、私は世界史を選択していたので、ついぞ授業を受けることができなかった。戦前の国士北一輝の熱烈な信奉者であり、当時の私はポストモダンで左傾という当時の高二病患者であったので、リベラルなM先生にしてこの趣味はいかがなものか、と理解に苦しんだものであった。しかし今となって思えば、日本を憂う心が穏やかな語りの奥に烈々とあられたのであろう。師に教わることとは、良い面も困った面も合わせて懐かしみ、人の生き様という総合的知識を教わるものである。この教育は、インターネットではなかなか達成できないであろう。

荀子はこうして師を選ぶように語るとき、最上の師は自分であると自負していたはずである。荀子は、孟子亡き後の儒家界で最大の知識人であった。漢代にまとめられた礼のテキスト集の一つである『大戴礼記(だたいらいき)』には、荀子の叙述と重複する点が多い。これは、荀子が主に編集したテキストが儒家の礼関係文献では重視されていた痕跡であると思う。また『孟子』では『論語』からの引用は前半十篇からが比較的多い。それに比べて荀子の引用はここのくだりのように後半十篇から目立つ。わが国の伊藤仁斎は、『論語』の前半十篇と後半十篇では性質が異なっていると見抜いた。これを武内義雄氏は『論語の研究』において前半を魯学派の伝承を中心としたものであり、後半を主に斉学派の伝承を中心としたものであろう、と考証した。魯学派は孔子の死後に彼の生国である魯国で起こった派閥であり、孟子はこちらに含まれる。いっぽう斉学派は孔子の弟子、子貢(しこう)から始まり斉国で起こった派閥である。荀子の生国は儒家不毛の地であった趙国であり、そこから斉の儒家界にデビューした。斉で荀子は個人倫理を重視する魯学派よりも、政策論に重点を置く斉学派に近い立場を取っていたと想定してみたい。荀子は、孟子やその師である子思(しし。孔子の孫)を誤った儒家の先行者たちとして辛辣に批判するのである。

さて荀子はここで儒家として推奨するカリキュラムを詳説する。礼儀規則を学び、音楽を学び、『書経』『詩経』『春秋』を師について詳しく学ぶべきであると言う。中華文明の歴史・国語・音楽・道徳修身の学習である。そう考えると、内容は変わっているが現在の教育と教科はそんなに変わらない。この他に、士が学ぶ六芸(りくげい)には計算術があり(数)、弓術があり(射)、馬車の運転術があり(御)、書道があった(書)。なので初等数学と武芸もあったのである。もっとも、古代ギリシャのように体育教育を最重視することはなかった。西洋の英雄は裸体となっても美しいことに憧れるが、中華世界の君子は上半身ですら裸になることは非礼の極みであった。

しかし、荀子は古典を尊重するとはいえ、古典がそのままでは現代の役に立たないことを認めている。古典の現代的意義を師から解説されず、ただ独学で詩経や書経を学んで知識人ぶる者を、荀子は三流教師と蔑み、志ある君たちはそうなってはならないと説くのである。そして礼儀規則を学ぶことを通じて、現代の世界の法の精神を読み取り、為政者の勘を育め、と言うのである。これは、荀子が中華世界の伝統の中に現代の社会の運営にも通じる共通の精神、言い換えれば「国の基本的かたち」がずっと続いているという考えを持っているからであろう。儒家は、こういう伝統重視の考え方をするのである。現代の思想用語では、保守主義という。荀子は儒家として保守主義を取るが、古い伝統を無批判に現代に適用するのではなくて、伝統を現代の状況に当てはめる形に応用して用いよ、と言うのである。これは、自らの文化に対する強い自信があってこそ可能なことである。近年日本は保守化していると言われるが、日本を否定することが精神のバネとなっていた戦後時代の活力がようやく尽きて、かつ日本を否定するために理想とするべきモデルも今やなくなってしまい、自分の伝統に回帰することが国民の人情となっていることが、背景にあるのであろう。日本は、立派な文化を持った国である。だがそれに安住するだけではいけない。荀子が説くように、よき伝統を好んでかつそれを現代に生かす知的な努力を続けなければならない。

荀子は、現代の社会の運営のためには伝統である礼の精神を現代的文脈で理解して、これを生きた術として活用せよと説く。当時のエリートは、現代日本の国家一種官僚と弁護士と大学教授を合わせたような、知識人兼法律家兼政策立案者である。教養を持って尊敬される存在であると同時に、政策も立てる能力がなければならない。荀子は何が何でも古い伝統を守るのではなく、現代の法や政治にも古い時代の制度と共通した精神があることを認め、より現代に即した統治に応用するべきことを説く。荀子のこの考えは、「後王思想」などと呼ばれる。「後王思想」は、『荀子』の特定の篇に固まって論じられているわけではなくて、諸篇に散らばって時折言及される。荀子は中華世界の伝統を保守するスクールである儒家に属していたが、現実の国家を統治する問題を考察するときには、はるか昔の中華文明の建設者たちの伝説にばかり拘泥するわけにはいかなかった。なので、現代の統治の中にも見られる合理的で理性的な側面は、先王たちの理念を継承しているはずだと考えて、それらを手本とすることを認めるものであった。このような荀子の視点の延長線上に、彼の弟子の李斯と韓非子がいたはずである。李斯と韓非子は、統治者が任意に制定する新しい法を社会に適用し、これによって社会を操作することを有効とみなす法家思想を信奉した。彼らの考えは、確かに荀子の「後王思想」の発展上にある。荀子自体はおおむね保守的な儒家の範囲内に留まったが、彼の思想の中には法家思想に繋がる面があったのは確かなことであると、私は考える。