法行篇第三十(1)

By | 2016年2月11日
公輸(こうゆ)(注1)であっても、縄(すみなわ)を越えた規準を作ることはできない。聖人であっても、礼を越えた規準を作ることはできない。礼というものは、一般人はこれに法(のっと)りながらその意味を知ることがないが、聖人はこれに法りながらその意味を理解しているのである。


曾子が言った、「親族をうとんじながら、他人と親しんではならない。己が不善でありながら、他人を怨んではならない。刑を受けることが決定してから、天に助けを求め叫んではならない。親族をうとんじながら他人と親しむのは、人との付き合い方があまりに回りくどすぎる。己が不善でありながら他人を怨むのは、あまりに道理に外れすぎる。刑を受けることが決定してから天に助けを求めて叫ぶのは、あまりに遅すぎる。詩に、この言葉がある。:

源の水、細かりしときに
雝(ふさ)がず塞(とど)めることもせず、
轂(こしき)が破れた、その後で
あわててその輻(や)を太くする
(逸詩。原詩は伝わらない)

(注2)。事がすでにしくじった後で後悔して溜息をついても、もはや何の足しにもなりはしないのだ」と。


曾子は、重病の床にあった。子の曾元(そうげん)(注3)が、父の足下に控えて座っていた。曾子が言った、「元(げん)よ、記しておけ。お前にこれを告げよう。そもそも魚や鼈(すっぽん)、黿(でかいすっぽん)や鼉(わに)は、深い淵の中にあってもこれを浅いとみなしてその底にさらに穴を掘る。鷹や鳶は、高い山の中にあってもこれを低いとみなしてその上に巣を作る。彼らはこれほどまでに用心しながらも、人間に捕らえられる。そのときには、必ず餌によって釣られるのである。ゆえに君子もまた、いやしくも利に釣られて義を損うことを行ってはならない。行わなければ、恥辱がそこから生じて我が身に降りかかることもないであろう」と。


子貢が、孔子に質問した。
子貢「君子が玉を貴んで珉(びん。玉に似た石)を賎しむのは、なぜでしょうか。玉は希少品で、珉はたくさんあるからでしょうか?」
孔子「ああ賜(し)よ(注4)、それはまた何という言葉を言うのか。そもそも君子がたくさんあるから賎しんで、希少だから貴ぶことなどをするであろうか?君子は、玉というものに徳をなぞらえるのである。すなわち、その温和に潤い輝く様は、仁のようである。その硬くて文様が整然とした様は、知のようである。その硬くて曲がらない様は、義のようである。その角立ちながら触れるものを傷つけない様は、正しき行動のようである。それがたとえポキリと折れたとしても曲がることはない様は、勇のようである。美しい輝きも醜い傷も一緒に表に見せてしまう様は、人の情のようである。これを叩けば清らかで高い音が遠くまで聞こえ、その音が止むときにはきっぱりと終わる様は、あるべき言葉のようである。ゆえに、たとえ珉に細やかな彫刻を施したとしても、玉のあきらかな美しさにはかなわないのだ。ゆえに、『詩経』にこの言葉があるのだ。:

言(われ)、君子を念(おも)う
温和なること、玉の如し
(秦風、小戎より)

と。」


(注1)公輸は、墨子(墨翟)と同時代の名匠。『孟子』離婁章句では公輸、『墨子』魯問篇・公輸篇においては公輸子または公輸盤として表れる。楊注は「魯の巧人で名は班」と注する。『墨子』では、墨子と技術を競って及ばなかった人物として描かれる。
(注2)これは逸詩であるので、詩の引用がどこまでであるのかには諸説ある。下の注7参照。轂(こしき)は、車輪の車軸を囲んで輻(や)を集めて支える部分。輻(や)は、放射状に並べた車輪内部の棒。大略篇(14)注7を参照。
(注3)曾元は曾子の子。大略篇五十一章にも表れるが、大略篇のエピソードは時代的に疑問がある。
(注4)賜は子貢の名。宥坐篇(4)注9参照。
《読み下し》
公輸も繩(じょう)に加うること能わず、聖人も禮に加うること莫し。禮なる者は衆人法(のっと)りて知らず、聖人法りて之を知る。

曾子曰く、內人を之れ疏んじて外人を之れ親しむこと無かれ。身不善にして人を怨むこと無かれ。刑己(すで)に至りて天を呼ぶこと無かれ。內人を之れ疏んじて、外人を之れ親しむ、亦遠(えん)ならずや。身不善にして人を怨む、亦反ならずや。刑己に至りて天を呼ぶ、亦晚(おそ)からずや。詩に曰く、涓涓(けんけん)たる(注5)源水、雝(よう)せず(注6)塞(そく)せず、轂(こく)已に破碎して、乃ち其の輻(ふく)を大にす、と(注7)。事已に敗れて、乃ち重大息(ちょうたいそく)するも、其れ云(ここ)に益あらんや、と。

(注8)曾子病(へい)なり(注9)。曾元足(そく)に持(じ)す(注10)。曾子曰く、元、之を志(しる)せ。吾汝に語(つ)げん。夫れ魚鼈(ぎょべつ)・黿鼉(げんた)は、猶お淵を以て淺しと爲して、其の中に堀し、鷹鳶(ようえん)は猶お山を以て卑(ひく)しと爲して、其の上に巢(そう)す(注11)。其の得らるるに及んでは、必ず餌を以てす。故に君子は苟(いやし)くも能く利を以て義を害すること無くんば、則ち恥辱も亦由りて至ること無し、と。

(注12)子貢孔子に問うて曰く、君子の玉を貴びて珉(びん)(注13)を賤しむ所以の者は何ぞや。夫の玉の少くして珉の多きが爲か、と。孔子の曰(のたま)わく、惡(ああ)賜(し)や、是れ何の言ぞや。夫れ君子は豈(あ)に多くして之を賤しみ、少くして之を貴ばんや。夫れ玉なる者は、君子德を焉(これ)に比す。溫潤にして澤なるは仁なり、栗(りつ)(注14)にして理なるは知なり、堅剛にして屈せざるは義なり、廉にして劌(けい)せざる(注15)は行なり、折れて撓(たわ)まざるは勇なり、瑕適(かてき)(注16)並び見(あらら)わるるは情なり、之を扣(たた)くに其の聲(せい)清揚して遠く聞こえ、其の止むや輟然(てつぜん)たるは辭なり。故に珉の雕雕(ちょうちょう)ある有りと雖も、玉の章章(しょうしょう)たるに若かず。詩に曰く、言(われ)君子を念(おも)う、溫として其れ玉の如し、とは、此を之れ謂うなり、と。


(注5)増注は、「涓は小流なり」と言う。
(注6)楊注は、「雝は読んで壅となす」と言う。ふさぐ。
(注7)この詩は『詩経』に見えない逸詩であるので、どこまでが逸詩の引用であるのかについて各注釈者の意見が異なる。金谷治氏は、最後の「其れ云に益あらんや」まで逸詩の引用とみなす。新釈の藤井専英氏は、「事已に敗れて」以下を曾子の結語とみなすが、別に『荀子簡釈』の説を挙げて、韻から見て「乃ち重大息す」までを逸詩の引用であるという解釈も示す。上の訳は、藤井説に従う。
(注8)大戴礼記曾子疾病篇は、病床の曾子が子の曾元と曾華とに教訓を語った内容となっている。本章の語句は、その一部と重なっている。
(注9)増注は、「病は疾困なり」と言う。ここでの「病」字は、重病の状態にあることを指す。
(注10)原文「曾元持足」。増注はこの箇所の注で礼記壇弓上篇の「曾元・曾申足に坐す」を引く。これに従えば「持足」は二人の子が父の足元に控え座していることに解することができる。いっぽう大戴礼記曾子疾病篇は「曾元首を抑え、曾華足を抱う」に作る。つまり二人の子がそれぞれ父の首と足を介抱している様に描かれている。本章の「持足」は、どちらでも読むことができる。上の訳は、増注に従っておく。
(注11)原文「巢其上」。宋本には上に「增」字があり、増注の久保愛は元本に従ってこれを削っている。宋本に従えば、「其の上に巢を增(かさ)ぬ」と読み下せるだろう。
(注12)本章の孔子と子貢との問答は、礼記聘義篇および孔子家語問玉篇にも見える。ただし、玉の徳を挙げた項目が多少違う。また類似の文が、説苑雑言篇、管子水地篇にも見える。
(注13)楊注は、「珉は石の玉に似たる者」と注する。玉に似ている石。
(注14)楊注は「栗は堅き貌なり」と言う。増注は「栗」字の上に「縝(しん)」字を置くが、集解本は置かない。集解の王引之は、謝本・盧本は銭本および元本に従って「縝」字を置くが、これは礼記聘義篇に依って付加したものであり、楊注では栗・理の二字にしか注釈がなされていいないところから見て、楊注が参照した原文は「栗」字のみであったはずと考証する。確かに元本より古い宋本には、「縝」字がない。王引之に従い、「縝」字を置かないことにする。
(注15)楊注は、「劌は傷なり、廉稜ありといえども物を傷つけず」と注する。すなわち、角張っているが触れた物を傷つけないこと。
(注16)楊注は、「瑕は玉の病にして、適は玉の美なり」と言う。増注は、「適は読んで瓋となす。瓋はまた傷なり」と言う。集解の王念孫は、「適は読んで謫となし、謫はまた瑕なり」と言う。よって「瑕適」は楊注に従えば欠点と美点のこと、増注あるいは王念孫に従えば両者ともに欠点を指すことになるだろう。ここでの「情」は人間のありのままの情念という意味であって、ゆえに玉の美点の一つとして挙げられていて、荀子の他篇で見られるような「情」のネガティブな側面ばかりとは言えないであろう。よって楊注を取りたい。

法行篇も、孔子とその弟子たちのエピソード集である。法行篇の名は、冒頭の緒言から出たものであろう。緒言で公輸に言及しながら規準の重要性を述べるところは、『孟子』離婁章句の冒頭に似ている。本篇は緒言のとおり、礼に法(のっと)って行動する教訓を集めたと捉えるべきなのであろうか。だが、そこまで定まったテーマで固められているようにも見えない。この法行篇もまた、孔子家語などの他書に所収のエピソードと類似のものが見られる。

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