脩身篇第二(4)

By | 2015年7月2日
礼法(注1)を好み、これを実施する人。これは士であって、君子への入門である(注2)。志を篤くして、礼法を身にしっかりと据え付ける人。これは君子であって、君たちがなすべき道である。明察敏捷であって、その智がいかなるときにも尽きることがない人(注3)。これは聖人であって、君たちの最終的な目標である。人というものは、礼法がなければ進む道を迷ってしまうだろう。だがたとえ礼法を参照したとしても、礼法の上っ面の条文だけでなくてその中にある本義精神を理解していなかったら、確信を持った判断を行うことができないだろう。礼法に依拠して、しかも礼法に基づく適切な法判断(注4)を深く理解してこそ、しかる後に万事に信頼のおける温和な為政者となることができるのである。

礼とは、身体を正すもとである。師とは、その礼義を正すもとである。礼がなければ、何によって身体を正すことができるだろうか?師に教わらなければ、どうやって学んだ礼が正しいか否かを知ることができるだろうか?礼に「かくあるべし」と決められていて、そのとおりに行うことができるのは、情(注5)が礼によって矯正されて安定しているゆえである。師が「こうしなさい」と言って、そのとおりに行うことができるのは、自らの知が師と一体化しているゆえである。情が完全に礼に安定し、知が師と並ぶようであるならば、もはや聖人の段階にあると言ってよいであろう。ゆえに、礼を批判する者は、礼法を否定する者なのである。師を批判する者は、師を否定する者なのである。師と礼法を受け入れることなしに自分で選び取った原理で行動することを好む者は、これをたとえるならば、盲人が色彩を議論し、聾者が音声を議論するようなものであって、でたらめ以外に何一つできはしないだろう(注6)。ゆえに学ぶこととは、礼に則ることでなければならない。そしてしかるべき師とは、己の身をもって規範を示し、自らその規範の中に安定することを貴ぶ存在であり、これに従うことが正しく学ぶことなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

識らず知らずに
天の則(のり)に順うべし
(大雅、皇矣)

君たちは、師に就いて礼を学び、この境地を目指さなければならない。

正直で年長者によく従う者であれば、良き年少者と呼ぶべきである。その上に好学で謙虚かつ明敏であるならば、同年代で対等の者はあってもこれより抜きん出た者はありえない。よって、このような子は君子として扱うべきだ。だが怠惰で仕事を嫌がり、潔さも恥も知らずに飲み食いを好むばかりであるならば、悪しき年少者と呼ぶべきである。その上にわがままで怒りやすく不従順で、陰険で攻撃的で年長者に従わない者であるならば、これは不肖の年少者と呼ぶべきであって、法に触れて刑を受けても、自業自得である。人が老年の者を老年の者として尊重すれば、やがてより若い大人たちもまたこの者に集うであろう。困窮している者をその困窮から救い出すならば、やがてより裕福な暮らしをしている者たちものまたこの者に集うであろう。善行を見せびらかすに隠れて行い、報酬を得ることなしに施しを行うならば、やがて賢者も愚者も併せてこの者の下に一つとなるであろう。人はこの三つの善行を行うならば、大きな過失を行ったとしても、天はその過失の報いを徹底して与えることはないのではないだろうか(注7)

君たちは、利を求めるときには大まかでなければならない。だが害から身を遠ざけるときには、素早くなければならない。非礼の恥を避けるときには、気を配って慎重に行動しなければならない。だが道理を行うときには、勇敢にこれを行わなければならない。

君たちは、貧窮であったとしても志は広く、富貴であったとしても身体は恭しくなければならない(注8)。安楽しているときでも血気をゆるめることなく、労苦して疲れているときでも容貌はだらけることなくあらねばならない。やむなく怒るときでも相手から奪いすぎることをせず、大いに喜ぶときでも相手に与えすぎることをしないように、心得なければならない。君子が貧窮しても志が広いのは、仁を貴び人を愛する豊かな心があるからだ。富貴であっても身体が恭しいのは、己の権勢を殺いで相手にへりくだるからだ。安楽していても血気をゆるめることがないのは、日常から人間の道理に従って生活しているからだ。労苦して疲れていても容貌がだらけないのは、礼義を好んで乱れないことを旨としているからだ。怒るときでも相手から奪いすぎず、喜ぶときでも相手に与えすぎないのは、己の中で法が私情を抑えて勝ることに成功しているからだ。『書経』に、この言葉がある。:

私的な好みを行うなかれ、王の正道に従うべし。
私的な憎しみを行うなかれ、王の正道に従うべし。
(「洪範」より)

この言葉こそ、君たち君子が公義をもって私欲に勝つべき原理を指し示しているのである。


(注1)原文「法」。荀子は国家の法を重視するが、それは礼楽との併用を想定したものであり、法家思想のように法の力だけを国家の必須とみなすことには組しない。士や君子は、礼義と法の両者を学ぶべきである。なので、「礼法」と訳した。
(注2)ここから後のくだりは、解蔽篇(6)注4や非相篇(5)注2と同じく士・君子・聖人の三者を下級官僚・上級官僚・君主と想定した叙述であると考えられる。この脩身篇の訳では、「君子」の語を学ぶ者への呼びかけとして「君たち」と訳すことにしている。その方針に沿って意訳した。
(注3)非相篇で、士・君子の弁論は事前の熟慮が必要であるが、聖人の弁論は事前の熟慮を必要としないと言う。荀子は、聖人の智を常人の士・君子よりも突出した段階に想定している。学ぶ君子たちにとって聖人は目標であるが、現実にはほとんど到達できない目標である。
(注4)原文「類」。「類」字は荀子において頻繁に表れる。法の明文にない事項についての法判断のこと。勧学篇(4)注1参照。
(注5)「情」は正名篇の定義に従えば、「性」から派生する理性判断を通さない衝動のことである。これを礼に従わせる、ということは、とりもなおさず性悪篇の「偽(い)」を通じて善となる議論と同一である。
(注6)師に従わない独学が無意味であることは、勧学篇も同じく述べるところである。
(注7)荀子は天が人間の行動に報いて幸不幸をもたらす、とは考えない。天論篇参照。なのでここの荀子の言葉は、天の意志は不可知であるが少なくとも陰徳を積んだ人間は周囲の他人から支持されるだろうから、過失があっても窮地に陥らないだろう、という意味であろう。荀子は性悪説を自己の社会理論として打ち立てるが、現実の人間への信頼は強い。彼の弟子の韓非子は、人間の利己性について師よりもずっとシニカルである。
(注8)論語学而篇「子貢曰く、貧しうして諂うこと無く、富みて驕る無きは何如。子の曰わく、可なり。未だ貧しうして楽しみ、富みて礼を好む者には若かず」を想起させる。
《原文・読み下し》
法を好んで行うは士なり。志を篤くして體するは君子なり。齊明にして竭(つ)きざるは聖人なり。人法無ければ則ち倀倀然(ちょうちょうぜん)たり、法有りて其の義を志(し)ること無ければ、則ち渠渠然(きょきょぜん)たり。法に依りて又深く其の類を深くして、然る後に溫溫然(おんおんぜん)たり。
禮なる者は身を正す所以なり、師なる者は禮を正す所以なり。禮無くんば何を以てか身を正さん、師無くんば吾安(いずく)んぞ禮の是爲(た)るを知らんや。禮然(しか)くして而(しこう)して然くするは、則ち是れ情(じょう)禮に安んずるなり、師云(うん)して而して云するは、則ち是れ知(ち)師の若くなるなり。情は禮に安んじて、知は師の若くなれば、則ち是れ聖人なり。故に禮を非とするは是れ法を無みするなり、師を非とするは是れ師を無みするなり。師法を是とせずして自ら用うるを好むは、之を譬(たと)うるに是れ猶お盲を以て色を辨じ、聾(ろう)を以て聲を辨ずるがごとく、亂妄を舍(お)きて爲すこと無きなり。故に學なる者は禮に法(のっと)るなり。夫(か)の師は身を以て正儀と爲して、自ら安んずるを貴ぶ者なり。詩に曰く、識らず知らず、帝の則(のり)に順(したが)う、とは、此を之れ謂うなり。
端愨(たんかく)・順弟(じゅんてい)なれば、則ち善少者と謂う可し。加うるに好學・遜敏(そんびん)なれば、則ち鈞(ひとしき)有りて上無く、以て君子者と爲す可し。偷儒(とうだ)事を憚り、廉恥無くして飲食を嗜まば、則ち惡少者と謂う可し。加うるに愓悍(とうかん)にして順ならず、險賊(けんぞく)にして弟(てい)ならざれば、則ち不詳(ふしょう)(注9)少者と謂う可く、刑戮(けいりく)に陷ると雖も可なり。老を老として壯者焉(これ)に歸(き)し、窮(きゅう)(注10)を窮せしめずして通者焉に積(あつ)まり、冥冥に行い無報に施して、賢・不肖焉に一なり。人此の三行有らば、大過有りと雖も、天其れ遂げざるか。
君子の利を求むるや略、其の害に遠ざかるや早(そう)、其の辱を避くるや懼(く)、其の道理を行うや勇。
君子は貧窮なるも志廣く、富貴なるも體恭しく、安燕するも血氣惰(おこた)らず、勞勌(ろうけん)するも容貌枯(こ)(注11)ならず、怒るも過奪せず、喜ぶも過予せず。君子の貧窮なるも志廣きは、仁を隆べばなり。富貴なるも體恭しきは、埶(せい)を殺げばなり。安燕するも血氣惰らざるは、理に柬(えら)べばなり(注12)。勞勌するも容貌枯(こ)(注11)ならざるは、交(ぶん)(注13)を好めばなり。怒るも過奪せず、喜ぶも過予せざるは、法(ほう)私に勝てばなり。書に曰く、好(このみ)を作(な)すこと有ること無く、王の道に遵(したが)う、惡(にくみ)を作すこと有ること無く、王の路に遵う、と。此れ君子の能く公義を以て私欲に勝つを言うなり。


(注9)楊注は、「詳」はまさに「祥」となすべし、と言う。
(注10)「窮」について楊注は鰥寡窮匱(かんかきゅうき)、すなわち独り者や窮乏者のことと言う。集解の兪樾は不肖の人、すなわち愚者の意とみなす。どちらでも構わず、むしろどちらの意も含んでいると考えてよいと思われる。上の訳では楊注を取っておく。
(注11)集解の王念孫は、「枯」は読んで「楛」となす、と言う。ぞんざい、そまつなこと。
(注12)「柬(かん)」を楊注は「簡」と同じ、と言う。えらぶ。増注は方苞を引いて、「柬」は「檢」と同じく義理に検束さるるを謂う、と言う。楊注に従う。
(注13)集解の王念孫は「交」は「文」となすべし、と言う。新釈の藤井専英氏は「交」字を変えてまで説くには及ばない、と言い、「交を好む」を社会活動をする人間関係を妥当にすること、と言う。藤井説の言いたいことは分かるのであるが、荀子の他箇所での叙述から浮いている解釈だと私は思う。なので、王念孫説に従い「文」の誤りとみなしたい。

礼法篇は、こうして君子の心得を説いて終わる。ここでの君子は、まったく国家の官僚である。荀子の時代の知識人は全て国家に採用されて官僚となることが期待されていたので、当然といえば当然のことであった。

末尾で「公義」が「私欲」に対立する概念として提出されている。孟子も荀子も同じく孔子の後に続いて儒家を継承した思想家であったが、孟子は「公」と「私」との境界線がどうしてもあいまいになりがちである。それは、身近な親兄弟たちに対する親愛が人間として最初にあって、その延長線上に一般人に対する仁愛を広げるのが正しい仁の人である、という孟子の倫理学上の構成から必然的に導かれる(いわゆる「差別愛」)。孟子が称える聖王の舜帝は、不仁不義の愚者である父親の瞽瞍(こそう)と義弟の象(しょう)とを、君主の座に就いてからも最大限に優遇するのである(『孟子』萬章章句上の一連の議論を参照)。孟子の主張は、いくら自分より親類を尊重する行為なのであるから私欲ではない、と弁明したところで、それが身内びいきの論理であるという謗りを免れない。

それに比べて荀子は、後の臣道篇において家臣の国家への「忠」をとりわけ強調する。荀子は、官僚は親類家族との絆を脇に置いて国家に優先的に奉仕する公僕でなければならない、という官僚の倫理を、孟子よりも鮮明に打ち出すのである。それは、国家よりも一族を優先する部族社会であった春秋時代の空気を続く戦国時代中期においてもまだ継承していた孟子の思想と、戦国時代末期となって、特に秦国などにおいて専制国家と官僚制がすでに高度な発達を終えていた時期に議論を行った荀子の思想との、時代背景の差であったと言うこともできるだろう。

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