世俗の説をなす者は、「湯王・武王は禁令・法令を行き渡らせることができなかった」と言う。それはどういう意味かといえば、「楚国と越国は、両王の時代に中華の天子の制度に従っていなかったからだ」と言う。だがこれは、まちがっている。湯・武は天下において最も禁令・法令を実行することができた君主であった。湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注1)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣とすることに成功し、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく湯・武を畏れ、服従し、感化され、従順となったのであった。なのにどうして、楚国・越国だけがその制度に従わなかいことがあっただろうか?そもそも王者の制度というものは、その支配する土地の形勢を見て用いる用具を決め、地理的な遠さを測って国家への貢献に差別を設けるものであった。それは、全ての土地で一律なものでは決してなかった。よって魯人には榶(とう)(注2)を、衛人には柯(か)(注2)を、斉人には一革(いっかく)(注2)を納めさせた。このように土地の形勢が異なっている諸侯に対しては、納めさせる用具や装具を必ず異にしたのであった。ゆえに中華諸国は礼制の内容を同一にして服属させたが、南蛮・東夷・西戎・北狄の非中華諸族は同じく服属するものの礼制の内容は異なるものとしたのであった。すなわち都に近い封内は甸服(でんぷく)(注3)の制を与え、その外にある封外は侯服(こうふく)(注4)の制を与え、中華の領域内にある諸侯領である侯衛は賓服(ひんぷく)(注5)の制を与え、蛮族であっても中華に隣接していて教化を与える蠻夷は要服(ようふく)(注6)の制を与え、さらにその外にあって教化の行き渡らない戎狄は荒服(こうふく)(注7)の制を与えた。甸服の民は、天子の父と祖父を日々祭る「祭」にて貢物を上げる義務を持つ。侯服の民は、天子の祖先を月毎に祭る「祀」にて貢物を上げる義務を持つ。賓服の諸侯は、季節毎の祭りである「享」にて貢物を上げる義務を持つ。要服の蛮族は、一年毎に貢物を上げる「貢」の義務を持つ。荒服の蛮族は、天子の代替わりのときに来朝する「終王」の義務を持つ。これら毎日の「祭」・毎月の「祀」・季節毎の「享」・一年毎の「貢」・天子の代替わり毎の「終王」の制度は、土地の形勢を見て用いる用具を決め、地理的な遠さを測って国家への貢献に差別を設けるものであった。これぞ、王者の制度であったのだ。楚国・越国は天子の都から遠く、「享」・「貢」・「終王」の範疇に入っていた。これを「祭」や「祀」の範疇の地方といっしょくたにして、同様の制度に従えと言うのであろうか?それは、何でも同じ規準をあてはめるだけで区別を知らぬ稚拙な説(注8)というものである。このような者は溝の中に転び落ちた乞食のような無知浅慮の輩であり、王者の制度を語る資格はない。ことわざに、「浅い者とはともに深いことを測ることはできず、愚かな者とはともに知をはたらかせることはできず、井戸の中の鼃(がまがえる)には東の大海の楽しみを語る価値がない」というが、まさにこのような愚説を立てる輩を言うのである。
(注1)富国篇では「薄」「滈」の字であらわれる。いずれも史書に見える殷・周王朝初期の都。
(注2)榶、柯、一革ともに楊注は未詳と言う。何らかの器の類を指しているはずである。 (注3)楊注の引く『書経』禹貢篇に従うと、首都から五百里(200Km)四方は封内であり、天子のための治田を耕す服属を行う。 (注4)上に同じく、封内の外五百里は天子のために斥候の職を行う服属を行う。 (注5)上に同じく、封外の外には侯圻(こうき)・甸圻(でんき)・男圻(だんき)・采圻(さいき)・衛圻(えいき)の五圻(ごき)があり、そこまでが中華の範囲内である。五圻を合わせて二千五百里(1,000Km)。ここの諸侯は天子に来朝する服属を行う。 (注6)楊注は、さらにその外五百里は「蠻服」、さらにその外五百里は「夷服」であると言う。孔安国によると、ここは文教をもって拘束する必要があると言う。 (注7)楊注は、それぞれ五百里ずつ外が「戎狄」であると言う。ここは中華九州の外であり風俗を戎狄と同じくする、荒涼の地である。 (注8)原文「規磨之說」。規はコンパス。規磨を楊注は、コンパスが磨滅すれば円が書けなくなると言い、差錯の説のことと言う。集解の郝懿行は少し違った解釈を取り、「磨」は「摩」たるべしと言い、規摩は規画揣摩、すなわちコンパスで円を書くように単一の規格で推測することであり、単一の規格を全ての例に当てはめるのは必ずしも当たるとはいえない、という意味。郝懿行に近づけて訳す。 |
《原文・読み下し》 世俗の說を爲す者曰く、湯・武は禁令すること能わず、と。是れ何ぞや。曰く、楚・越は制を受けざればなり、と。是れ然らず。湯・武は至って天下の善く禁令する者なり。湯は亳(はく)に居り、武王は鄗(こう)に居る。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、振動・從服して以て之に化順(かじゅん)せざること莫し、曷爲(なんすれ)ぞ楚・越のみ獨り制を受けざらんや。彼の王者の制や、形埶(けいせい)を視て械用(かいよう)を制し、遠近を稱(はか)りて貢獻を等す、豈に必ずしも齊(ひと)しくせんや。故に魯人は榶(とう)を以てし、衛人は柯(か)を用(もつ)てし、齊人は一革(いっかく)を用てす。土地・刑埶同じからざる者は、械用・備飾異ならざる可からざるなり。故に諸夏の國は服を同じくし儀を同じくす。蠻夷(ばんい)・戎狄(じゅうてき)の國は服を同じくし制を同じくせず。封內は甸服(でんぷく)し、封外は侯服(こうふく)し、侯衛は賓服(ひんぷく)し、蠻夷は要服(ようふく)し、戎狄は荒服(こうふく)す。甸服する者は祭(さい)し、侯服する者は祀(し)し、賓服する者は享(きょう)し、要服する者は貢(こう)し、荒服する者は終王(しゅうおう)す。日に祭し、月に祀し、時に享し、歲に貢し、終に王す。夫(そ)れ是を之れ形埶を視て械用を制し、遠近を稱りて貢獻を等すと謂う。是れ王者の至(せい)(注9)なり。彼の楚・越なる者は、且(また)時享・歲貢・終王の屬なり。必ず之を日祭・月祀の屬に齊しくし、然る後制を受くと曰わんか。是れ規磨(きま)(注10)の說なり。溝中の瘠(せき)は、則ち未だ與(とも)に王者の制に及ぶに足らざるなり(注11)。語に曰く、淺は與(とも)に深を測るに足らず、愚は與に智を謀るに足らず、坎井(かんせい)の鼃(あ)は、與に東海の樂(たのしみ)を語る可らず、とは、此を之れ謂うなり。 (注9)楊注は、「至」は「志」たるべしと言う。増注・集解の王念孫は、「至」は「制」たるべしと言う。増注・王念孫に従う。
(注10)集解の郝懿行は「規磨」は「規摩」たるべし、と言う。上の注8参照。 (注11)集解の兪樾は、「溝中の瘠(せき)は、則ち未だ與(とも)に王者の制に及ぶに足らざるなり」の句は「坎井(かんせい)の鼃(あ)は、與に東海の樂(たのしみ)を語る可らず」の後にあるべき、と言う。その意図は、移すことによって先行する「淺」と「愚」に対応させる句が完成するからである。一理はあるが、取らない。 |
つぎは、湯王・武王の時代に南方の楚国や越国が従っていたのかどうか、についての論である。荀子の反論は、いわゆる中華思想である。中華の天子は世界の支配者であり、周辺諸国は天子からの距離の近さに応じて服属の度合いがだんだん薄くなるが、それでも天子の支配下にある、という考えである。これが傲慢な思想であることは疑いを得ないが、中華世界が日本と異なるところは、日本は周囲を海に囲まれていて自然境界が明確であったが、中華世界は地続きであって自然境界が明確でなく、よって中華世界の安定を得るためには周辺諸国を何らかの形で懐柔する必要があった。その手段が、朝貢貿易であった。それは前にも申したように、中華帝国の贈与戦略であった。つまり、周辺諸国に中華世界の財貨を供給して、交換に中華皇帝への形式的な服属を得るトレード関係で国際関係の安定を得ようとする戦略であった。
ここで世俗の説は、楚国や越国は湯王・武王の時代に天子の支配下にいなかった、だから聖王の支配は世界全体には行き渡らない限定的なものであった、と言いたいのである。荀子はこれに対して、『書経』禹貢篇のごとき古文献にある「服」の制度を用いて反論する。「服」とは服従、服属のことであり、中華世界の服属の秩序である。中華の天子から距離が離れるに従って、服属の程度が軽くなる。だがこれもまた中華の秩序であるから、遠方の楚国や越国もまたその距離に応じた「服」の秩序に参加していたのだ、というのが荀子の反論である。後の中華帝国は、二千年もの間この秩序観を保ち続けて、しかもそれが許されたというのは大したものであった。だがそれは中華帝国の皇帝の徳に周辺諸国が服属した、というものではなくて、単に中華帝国と交易することが周辺諸国にとって大きなメリットがあったからにすぎない。荀子のような儒家は中華世界と周辺諸国との関係を政治的な支配服従関係と考えるが、実際の両者のつながりは、経済的な交易関係であったはずである。
遠く殷周時代にさかのぼっても、財貨の交易は南方諸国と盛んに行われていたことであろう。漢字で財貨を表す文字には、「貝」へんが付く。「貝」へんのもともとの意味は、子安貝であった。子安貝は、南方の海で取れる。これを黄河流域に展開していた初期の中華世界は輸入して、宝物として珍重していた。おそらくこれを通貨として用いていたのではなく、権勢を示すための贈答品が主な使用目的であったことだろう。なので、漢字で財貨を表す文字には「貝」へんが付くのである。この対価として古い時代の中華世界が南方諸国に輸出していたのは、おそらく青銅製品であっただろう。
殷周時代の南方諸国に、中華世界の天子が政治的支配を及ぼしていたわけはなかろう。だが、政治的支配がなくとも交易によって継続的な関係にあったはずである。もとより遠方の族長の使節が中華の天子に参賀することはあったであろうが、それは交易を主目的とした儀礼的な通交であって、後世の朝貢貿易と同じく本質は周辺諸国との交易関係にすぎなかったのではなかっただろうか。荀子のような儒家は、経済的ネットワーク圏のことを政治的支配圏と取り違えているのである。そんな中華思想であっても、かつての中華世界は古い時代には青銅製品と絹糸、後の時代には絹織物・茶・磁器・書籍・銅貨といった、周辺諸国が容易に生産できない優秀な財貨を提供することによって、秩序を維持することができたのであった。