大学或問・伝七章 ~正心を中庸の理論で説く~

投稿者: | 2023年3月31日

『大学或問』伝七章~正心を中庸の理論で説く~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、人の心有る、本以て物に應ず、而(しこう)して此の章の傳に、以爲(おもえ)らく喜怒憂懼する所有れば、便ち其の正を得ずと爲す、然らば則ち其の心爲るや、必ず槁木(こうぼく)(注1)の復た生ぜず、死灰の復た然(も)えざるが如きにして、乃ち其の正を得たりと爲しや。
曰、人の一心は湛然虛明なること、鑑(かがみ)の空しきが如く、衡(はかり)の平なるが如し、以て一身の主爲る者、固(まこと)に其の眞體(注2)の本然なり、而して喜怒憂懼感ずるに隨いて應じ、妍蚩(けんし)(注1)俯仰物に因りて形を賦する者も、亦其の用の無きこと能わざる所の者なり、故に其の未だ感ぜざるの時は、至りて虛しく至りて靜なり、所謂(いわゆる)鑑空衡平の體は、鬼神と雖も其の際を窺うことを得ざる者有り、固に得失の議す可き無し、其の物に感ずるの際に、應ずる所の者又皆節に中れば、則ち其の鑑空衡平の用、流行して滯らず、正大光明なり、是れ乃ち天下の達道爲る所以、亦何の其の正を得ざることか之れ有らんや、惟だ其の事物の來る、察せざる所有れば、之に應じて旣に或は失う無きこと能わず、且つ又與(とも)に倶に往かざること能わざるときは、則ち其の喜怒憂懼、必ず中に動く者有りて、而して此の心の用始めて其の正を得ざる者有るのみ、傳者の意、固に心の物に應ずるを以て、便ち其の正を得ずと爲して、必ず枯木死灰の如くにして、然して後に乃ち其の正を得たりと爲するに非ず、惟だ是れ此の心の靈、旣に一身の主と曰う、苟も其の正を得て、是に在らずということ無きときは、則ち耳目口鼻四肢百骸、命を聽く所有りて以て其の事を供せずということ莫し、而して其の動靜語黙出入起居、惟だ吾が使う所にして、理に合ずということ無し、如(も)し其れ然らずんば、則ち心此に在りて心彼に馳せ、血肉の軀、管攝する所無し、其の面を仰ぎて貪りて鳥を看、頭を囘して錯(あやま)りて人に應ず(注4)者、幾(ほと)んど希なり、孔子の所謂操るときは則ち存す、舎つるときは則ち亡す(注5)、孟子の所謂其の放心を求め、其の大體に從う(注6)という者、蓋し皆此を謂う、學者深く念じて屡(しばしば)之を省みざる可けんや。


(注1)荘子斉物論篇「形は固(もと)より槁木の如くならしむ可く、心は固より死灰の如くならしむ可きか」から取る。肉体は槁木(枯れ木)のように、心は死灰(冷たくなった灰)のように、生気が抜けている。荘子においては、もとよりこうして無心無欲であることを心身の理想とする。
(注2)四書大全に「眞體は乃ち其の本體の人僞に雜わらざる者なり」とある。
(注3)妍蚩は、美と醜の意。
(注4)杜甫、漫成二首より。顔を上げて飛ぶ鳥をまじまじと眺め、振り向いて人に応じたらおかしな応えをしてしまった。風流に遊んでいる様を詠んだ詩であるが、朱子がこれを引用した意図は「心ここに在らねば視れども見えず」なのであって、杜甫の詩のように周囲を忘れて放心しながら観察できると考えてはいけない、ということである。
(注5)孟子告子章句上に、孔子の言葉として表れる。
(注6)孟子告子章句上「學問の道は他無し、其の放心を求むるのみ」および「其の大體に從えば大人と爲り、其の小體に從えば小人と爲る」より。二つの文はそれぞれ別の章にある。
《要約》

  • 「この伝において、喜・怒・憂・懼する所あれば、すなわちその正を得ず、とある。それは荘子の言う槁木死灰の心によってその正を得るということなのか」と問われて、朱子は以下のごとく答える:
  • 人の心は元来、鑑(かがみ)のように空虚で、衡(はかり)のように水平である。これによって心は一身の主であり、真体(いまだ人為が加わらない本体)の本然である。心がまだ何も外物に感じていないときは、まだ何も映っていないし、まだどちらにも傾いていない。この空虚水平は、誰にも変えることができない人心の本体である(朱子学の言う未発の性。中庸「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う」)。
  • 心は外物に感じて、応じる。このとき心の用(作用)が発生し、もろもろの感情が起こり、美醜高低の形態が認識される(朱子学の言う已発の情)。
  • 心が感じて応じるところのものがすべて「節に中(あた)」れば、心の鑑と衡は正大光明、流れて滞らないであろう。発して節に中る、これが天下の達道であり、必ず正を得るだろう(中庸「発して皆節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」)。
  • しかしながら、外物が来る前に喜・怒・憂・懼の心が内在していれば、喜・怒・憂・懼するべき外物を感じたときに、心がそれに応じて節に中らず、正が失われてしまうだろう。(朱子学の論をまとめると、心には思慮感情が発生する前に存在している未発の性=体と、心が外物を感じて思慮感情となって応じる已発の情=用の二部分があるとみなす。「心を正す」ために必要な修養は、思慮感情が起こる以前の未発の心を居敬して存養するところにある。未発の性=体が存養されれば已発の情=用が「節に中」り、心が正にあることとなるであろう。心が正にあるならば、日用のあらゆる状況において感情が激情に流れず思慮が乱されず、正しい判断と行動が得られるであろう。これがまさしく『中庸』で聖賢が示す心を正すための道である、と朱子学は読解する。居敬存養が仏教の禅と違う点は、禅が念慮思考の除去を求めるのに対して居敬存養は同時に格物致知を遂行し思慮をきわめるところにあるとされる。)
  • この伝における本意は、心が外物を感じて応じるときに正が失われてしまう場合を指摘しているのである。決して槁木死灰の心になれと言っているのではない。
  • 「心ここに在らず」というのは、心は一身の主であり、その正を得て「心ここに在らず」とならないときには、身体は本来の役割どおりに働き、動作は心の命ずるとおりに行われて理に合わないということはない。しかし「心ここに在らず」であるときは、身体は統御するものがいなくなり認識も行動もおぼつかないであろう、という意味である。(心が正しく制御されていないと、脩めるべき身体が本来の働きを見せない。)

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