以下のレジメは、サイト管理者が論語読書会(京都)で2011年8月に発表したものです。 |
西京元西陣小学校で開催されている論語読書会に出席している私が、論語を読むに当たって、武内義雄先生の論考と『孟子』『史記』『漢書』、及び当時の中国史についての私の知っていることを土台にして、発想の赴いたところをノートにしたものです。
論語読書会の上田塾長から、論語学而篇の配列には一定の意味が存在しているという示唆を受けて、私なりに考えてみたところです。
以下は、論語勉強会に出席する私の、全くの独断によるノートにすぎません。
学術的に合っているかといえば、合っていないと思います。
だが、論語は、二千年の古典です。
すでにありとあらゆる読み方が無数の人の手によって試みられて来たのであり、これからも試みられるだろうし、そしてそのような試みによって論語の評価が大きく変わるほど新奇で儚い書物ではない。むしろ、今は新たに読む試みを付け加えることが、古典が錆付いて生命を失っていくことを防ぐであろうことを、私は強く信じています。古典にとってもっとも辛いことは、後の時代の読者から批判されることでは断じてなく、読者を得られず、無視されることではないでしょうか。
二〇一一年八月
一、三つの論語とその折衷の歴史について
『論語』という書物は、いつ編集されたのか。
別稿でも書いたが、時代を遡ってみれば、『論語』は儒家の最重要のテキストではなかった。
『孟子』にも『荀子』にも、『論語』というテキストの名前は出て来ない。ましてや孔子と門人の言行録である『論語』が、孔子一門の最大の業績であるなどとは、どこにも書かれていない。もちろん、上記の諸文献には、孔子と弟子たちの言葉がふんだんに引用されている。その中には『論語』と一致するものもあれば、『礼記』に準ずるものもあり、さらには他の文献に見られない独自の言葉もかなり引用されている。
しかし、『孟子』や『荀子』には、「書」(書経)「詩」(詩経)「易」(易経)「春秋」といったいわゆる十三経の中に含まれるテキストの書名については明言されているものの、孔子の言葉は孔子の言葉として、書名もなしに引用されているばかりである。彼らは現代の『論語』の元となったであろう孔子の言行録を手元に持っていたのはおそらく間違いないだろうが、それが『論語』であるとは言及しない。ただ、儒家の教祖である孔子とその直弟子たちの言行録として、スクールの内部では尊重されていたことであろう。
歴史書の中で、『論語』がはっきりと現れるのは、漢代である。
(司馬遷『史記』仲尼弟子列伝)
(現代語訳)そういうわけで、孔子の弟子の名簿を論ずるには、孔氏の邸宅から出土した古文が真相に近い。私はそういうわけで、弟子の姓名と言葉をすべて『論語』の弟子の問答から取ってつなぎ合わせてこの篇を作ったが、疑わしいものは削った。
このように、司馬遷は『史記』で言っている。
司馬遷(? – BC85)は前漢武帝(在位BC141-87)時代の人で、この時代にようやく『論語』という書物がはっきり認識されていたことがわかる。司馬遷の上の文は、孔子の弟子たちのエピソードを並べた列伝であるが、文中に出てくる「孔氏の邸宅から出土した古文」については、以下で述べるものである。
『史記』は前漢時代に書かれた歴史書であるが、『史記』を継いで後漢時代初期に班固が著したのが、『漢書』である。
その『漢書』の一篇である「芸文志」の報告によれば、前漢時代には、「魯論語」「斉論語」「古論語」の三通りの『論語』テキストが存在した。このうち「古論語」は、前漢景帝(在位BC157-141)の末年に孔子宅の旧壁から発掘されたという。これは、古代文字によって書かれたテキストすなわち古文であった。いっぽうあと二つの「魯論語」と「斉論語」については当時の現代文字で書かれたテキストすなわち今文で伝わっていたが、それらがいつから存在したのか、残された記録からは判然としない。
後漢王朝は紀元220年をもって終わり、三国演義で著名な曹操の嫡子である曹丕(在位AD220-226)が、新たに魏王朝を創始する。
魏の何晏(? – AD249)はいろいろと面白いエピソードの多い人物であったが、学問的な功績も高い学者であった。彼は、漢代の訓詁学の成果を集大成して、『論語集解』を著した。その『論語集解』の叙に、以下の内容がある。
(現代語訳)前漢の劉向が言うには、魯論語は二十篇であった。斉論語は二十二篇であり、そのうちの(魯論語と重なる)二十篇は、すこぶる魯論語より章句が多かった。魯の共王の時世に、宮殿を造営するために孔子の邸宅を壊したとき、古文で書かれた論語(古論語)を得た。斉論語には「問王」「知道」の二篇が、魯論語より余計にあった。この二篇は、古論語にもなかった。古論語は、堯曰篇の第二章「子張問、、、」が抜き出されて独立した一篇となっており、全部で二十一篇であった。しかし、古論語の各篇の順次は、斉論語とも魯論語とも異なっていた。
このように、三つの論語の関係が、劉向の言葉として引用されている。さらに、
(現代語訳)前漢の安昌候張禹(? – BC5)は、もともと魯論語を伝授されて、さらに斉論語も学び、それぞれのよい部分に従って校訂し、この論語は「張候論」と名づけられて、世の尊重するところとなった。
とある。この「張候論」は、一部斉論語を参照したものの、篇章は魯論語に依った。こうして前漢末以降、張禹が校訂した一部斉論語を折衷した魯論語が、『論語』の主流となった時期があった。さらに、
(現代語訳)後漢末、大司農鄭玄(じょうげん、AD127 – 200)が、魯論語の篇章に対して、これを斉論語と古論語と比較して、注を打った。
とある。上の何晏の言葉から見ると鄭玄は魯論語を基礎にして他二種の論語を折衷したように見える。しかしながら鄭玄はそもそも後漢に盛んになった古文学の大家であり、前漢代に孔子旧宅から出土したという古文のテキストを重視する立場の学者であった。果たして、ポール・ぺリオ(Paul Pelliot, 1878-1945)によって失われていた鄭玄注論語が敦煌から発掘されたとき(1908)、その注は古論語に従って論語を校訂する立場であった。
こうして、前漢から後漢にかけて、まず張禹によって魯・斉の両論語が折衷され、さらに鄭玄によって古論語が折衷されたという、『論語』校訂の歴史が明らかとなった。現在の『論語』は、漢代に魯・斉・古三種の論語が折衷された、その後の姿である。
しかし元となったそれぞれの三つの論語については、現在ではその内容を漢代以降の注釈者の文章から、断片的に読み取ることができるにとどまる。そこで、武内義雄先生は、魯論語と斉論語の内容について、推定を試みられた。
『漢書』芸文志ほかの各文献を総合すると、魯論語・斉論語の学者は、ともに前漢武帝~昭帝・宣帝の時代を、遡ることができない。判明している中で最も古い学者は魯論語の魯扶卿と斉論語の王卿であり、いずれも武帝期の学者である。このうち魯扶卿は、王充『論衡』によると、孔安国から論語を伝授された。また宣帝時代ごろに斉論語を論じた学者である庸生は、これもまた孔安国の孫弟子である。
資料は乏しいものの、以上の点から、武内先生は推理される。
- 孔安国とは、そもそも魯の共王の時代(前漢景帝の末年)に、孔子の旧宅の壁から古文のテキストを発掘したとき、それの解読に当たった張本人である。彼は、この古文テキストを基礎にして古文学を創始した。その中には、もちろん古論語も入っている。魯論語の魯扶卿、斉論語の庸生は、その孔安国の弟子または孫弟子である。
- 魯論語・斉論語ともに、学者が発生した時期は、景帝の次の皇帝である武帝時代を遡ることができない。
- これより、古論語の前には魯論語も斉論語も存在せず、両者は古論語を今文に転写したときの異同・あるいは師から弟子に伝授される間に関係ない文章が混入されたことによって、武帝期以降に魯と斉で異なるテキストとして発展したにすぎないのではないか。
かくして、武内先生は、漢代にあった魯・斉・古三つの論語の起源は、全て同じ古論語であり、それを今文に転写したときの異同・あるいは師から弟子に伝授される間に関係ない文章が混入されたことによって、三つのテキストに分かれたにすぎないのではないか、と考証される。
だがもしそうだとすれば、景帝末期の古論語発掘以前に、『論語』はなかったのであろうかと言えば、そんなはずはあるまい。『孟子』『荀子』などの先秦時代のテキストには、現行の『論語』と一致する孔子らの言葉が、収録されているのである。ならば、古論語以前の『論語』がどのような内容であったかの考証が、さらに必要となってくる。
[(2)へつづく]