大略篇第二十七(15)

By | 2016年1月24日
七十一
子貢が孔子に言った、
子貢「賜(それがし)は、学問をすることに疲れました。主君の下に宮仕えして、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

朝(あした)も夕も、温和に恭(つつし)み
ひたすら政事に、恪(つつし)まん
(商頌、那より)

朝廷は、朝も夕も精勤しなければならない。主君に仕えることは、難しいことであるぞ。主君に仕えたとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは親に仕えて、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

孝子は、匱(とぼ)しからず。
そなたに、永く福授けん。
(大雅、既酔より)

孝子は、親にいつも気前よく仕えなければならない。親に仕えることは、難しいことであるぞ。親に仕えたとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは妻子のそばで、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

わが妻に、掟を示し
その掟、兄弟に及ぼし
かくして家御(おさ)め、邦(くに)御(おさ)めん
(大雅、思斉より)

夫は、家庭を苦労して治めなければならない。妻子と共に暮らすことは、難しいことであるぞ。妻子と共にあったとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは朋友とともに、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

朋友、我を攝(たす)く
攝くるに、威儀を以てす
(大雅、既酔より)

朋友どうしは、厳しく助け合わなければならない。朋友とともにあることは、難しいことであるぞ。朋友と共にあったとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「ならば、それがしは田畑でも耕して、一息つきたいです。」
孔子「『詩経』に、こうあるではないか。:

おまえは昼には茅(ちがや)刈れ、
おまえは夜には縄をなえ、
さっさと屋根を葺きかえんかい、
それが終わったら、また種を播け。
(豳風、七月より)

農夫は、辛い勤労の連続なのだ。田畑を耕すことは、難しいことであるぞ。田畑を耕したとて、なんで一息つけるだろうか?」
子貢「では、それがしはどこで一息つけるのでしょうか?」
孔子「あの丘を見るがよい。高々と作られて、土がかぶせられて、鬲(れき。煮炊きの器)を逆さにしたように丸く盛り上がっている。あれが、一息つけるところなのだ。」
子貢「ああ、、あの墓に入ることこそが、休息の場所というわけですか!なんと、死は大いなることでしょうか!君子はそこでようやく休息できて、小人もまた同じくそこで休息するのだ!」

本章の問答は、孔子家語困誓篇にも見える。
本章の問答は「死して後已む」(論語、泰伯篇)や「殀寿貮(たが)わず身を脩めてもってこれを俟(ま)つは命を立つるゆえんなり」(孟子、盡心章句上)といった君子の心がけを、詩経の引用を巡る問答によって展開させたものであろう。しかしながら、レトリックが過剰にすぎて、本来の意図である命尽きるまで努力せよ、という教えというよりも、人生は労苦にすぎないといった厭世思想にすら読めてしまう。この問答を製作した者の意図が、十分に成功しているようには思われない。

七十二
詩経国風にある娘を求める歌についての注釈には、「欲を満たしながら、礼によって自制することを怠らない」とある。その誠実さは金石のように固いので、この歌の音楽は宗廟の中で演奏されてもよい。詩経小雅の詩は、穢れた君主に用いられなかった者たちが、自ら身を引いて低い地位に下がり、今の時代の政治を嫌ってかつてのよき時代を懐かしんで作られたものである。その言葉は美しく文飾されているものの、その声の中には哀しみが込められている。

楊注は、「色を好むは關雎(かんしょ)の淑女を得るを楽しむを謂う」と注する。すなわち最初の詩は、周南關雎(かんしょ)を指すと解釈している。關雎は男女が互いを求める恋歌であり、しかし礼を守り通す心があるために厳粛な宗廟で演奏しても不適切ではない、と言いたいのである。小雅は詩経の一グループであり、言われているとおり今の時代を批判した歌が多い。

七十三
国が興隆しようとしているときには、必ず君主の師が貴ばれて、君主の傅(ふ。養育係)が貴ばれるものだ。君主の師と傅が貴ばれたならば、人民は我が身を慎むようになるだろう。人民が我が身を慎むようになれば、法度は守られるであろう。だが国が衰亡しようとしているときには、必ず君主の師と傅は軽んじられるものだ。君主の師と傅が軽んじられたならば、人民は己のしたいように行うようになるだろう。人民が己のしたいように行うようになれば、法度は破られるであろう。

猪飼補注の推測を取り上げて、補って訳した。下の注3参照。

七十四
いにしえの時代には、庶民は五十歳で選ばれて仕官し、天子・諸侯の子は十九歳で冠を着けた。冠を着けた後は政治に携わることになったが、それはこの歳になれば教育が十分行われたとみなされたからである。

兪樾の解釈に従い、五十歳のままで解釈する。下の注4参照。

七十五
(増注の解釈)
学問を好む君子は、人を教えるべき人材である。人を教えるべき人材でありながら教えることをしないのは、不幸なことである。だが君子でないのに学問を好む者は、人を教えてはいけない人物である。人を教えてはいけない人物なのに人を教えたならば、それは歪んだ知識を人に授けることによって、泥棒に食料をくれてやり、盗賊に武器を貸してやるような最悪の結果を産む。
(王念孫の解釈)
君子を愛する人は、教育を授けてあげるべき有望な人材である。このような人材に教育を授けないのは、不幸なことである。だが君子でない者どもを愛する人は、教育を授けてはならない人間の屑である。このような者に教育を授けるのは、泥棒に食料をくれてやり、盗賊に武器を貸してやるような最悪の結果を産む。

解釈には上の二説あり、訳を併記した。下の注6参照。
《読み下し》
子貢孔子に問うて曰く、賜は學に倦めり、願わくは君に事(つか)うるに息(いこ)わん、と。孔子の曰く、詩に云う、溫恭にして朝夕(ちょうせき)、事を執るに恪(つつし)むこと有り、と。君に事うること難し、君に事うるも焉(いずく)んぞ息う可けんや、と。然らば則ち、賜願わくは親に事うるに息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、孝子匱(とぼ)しからず、永く爾(なんじ)に類を錫(たま)う、と。親に事うること難し、親に事うるも焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは妻子に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、寡妻に刑(のっと)り、兄弟に至り、以て家邦を御(おさ)む、と。妻子難し、妻子焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは朋友に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、朋友の攝(せつ)する所、攝するに威儀を以てす、と。朋友難し、朋友焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜願わくは耕に息わん、と。孔子の曰く、詩に云う、晝(ひる)は爾(なんじ)于(ゆ)きて茅(ちがや)かれ、宵は爾索(なわ)を綯(な)え、亟(すみやか)に其れ屋に乘(のぼ)れ、其れ始めて百穀を播(ま)け、と。耕難し、耕焉んぞ息う可けんや、と。然らば則ち賜は息うべき者無きか、と。孔子の曰く、其の壙(こう)(注1)を望めば、皋如(こうじょ)たり、嵮如(てんじょ)たり、鬲如(れきじょ)たり(注2)、此れ則ち息う所を知らん、と。子貢曰く、大なる哉死や。君子は焉(ここ)に息い、小人は焉(ここ)に休む、と。

國風(こくふう)の色を好むや、傳に曰く、其の欲を盈(みた)して而(しか)も其の止を愆(あやま)たず、と。其の誠は金石に比す可く、其の聲宗廟に內(い)る可し。小雅は汙上(おじょう)に以(もち)いられず、自ら引きて下に居り、今の政を疾(にく)んで、以て往者を思う。其の言は文有りて、其の聲は哀有り。

國の將(まさ)に興らんとすれば、必ず師を貴びて傅(ふ)を重んず。師を貴びて傅を重んずれば(注3)、則ち法度存す。國將に衰えんとすれば、必ず師を賤んで傅を輕んず。師を賤んで傅を輕んずれば、則ち人快(かい)有り、人快有らば則ち法度壞(やぶ)る。

古者(いにしえは)匹夫五十(注4)にして士(つか)え(注5)、天子・諸侯の子は十九にして冠す。冠して治を聽くは、其の敎至ればなり。

君子なる者にして之(注6)を好むは、其の人なり。其の人にして敎えざるは、不祥なり。君子に非ずして之(注6)を好むは、其の人に非ざるなり。其の人に非ずして之を敎うるは、盜に糧を齎(もた)らじ、賊に兵を借(か)すなり。


(注1)楊注は、壙は丘壠なり、と言う。ここでは、墓の丘のこと。
(注2)集解の郝懿行は、「皋はなお高きがごときなり。嵮は即ち顛字。鬲は鼎の属なり。此れ皆丘壠の形状を言う」と言う。皋如は丘の高い様子、嵮如は顛如のことであって丘に土が蔽いかぶさっている様子、鬲如は鬲(れき。煮炊きする釜)を伏せた形のように丸く盛り上がっている様子のこと。
(注3)猪飼補注、集解の兪樾ともに、ここに語句が脱落していることを疑う。猪飼補注は、「則人有憚、人有憚(則ち人憚る有り、人憚る有らば)」が脱落しているのではないかと言う。上の訳では猪飼補注の推測を取り上げて訳を補った。
(注4)楊注は、礼では「四十で仕える」とあるので、五十は四十の誤りであると言う。しかし集解の兪樾はこれを非として、いわゆる四十で仕えて五十で大夫となるのは卿・大夫の子であって、ここで「匹夫」と言っているのは、礼記王制篇に言う俊士・選士のようなものを指しているのだろう、と注する。俊士・選士とは、郷里の庶民の中から秀でた者を選んで仕官させる制度である。
(注5)増注・集解の郝懿行は、「士」はまさに「仕」に作るべしと言う。
(注6)増注は、「之を好むとは、学を好むを言うなり。其の人は、教うる可きの人を謂うなり」と注する。集解の王念孫は、「此れ能く君子を好まば、則ち教うる可きの人と為り、教うる可くして之を教えざるは是れ不祥なるも、若(も)し好む所君子に非ざれば、則ち教うる可からざるの人と為り、教うる可からずして之を教うるは則ち是れ盗に糧を齎し賊に兵を借すなるを言う」と注する。増注は二つの「之」を学問とみなし、王念孫は二つの「之」を君子・非君子とみなす。両説ともに通るので、二説に応じた訳を併記する。

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