五十六 上の者が義を好めば、下の者は目立たないところで己を美しく飾るであろう。だが上の者が富を好めば、下の者は利を求めて命まで賭けるであろう。この二者は、治世と乱世の分かれ道なのである。民衆の俗諺に、「そんなに富が欲しいのか、ならば恥を捨てるがよい、必死に富だけ求めるがよい、旧友たちとも別れるがよい、義とはおさらばすればよい」とある。上の者が富を好めば、すなわち人民の行いはこの言葉のようになるのだ。これで世が乱れないわけがあるだろうか? 五十七 ※天論篇において、荀子は自然現象は人間の行為と無関係に変動すると断言した。なので、ここで湯王の言葉を取り上げているものの、「善政ならば天が恵んで天候が順調となり、悪政ならば天が怒って天候が不順となる」というような後世の天人相関論的な考えを肯定しているはずがない。
五十八 ※孟子の「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」(盡心章句下、十四)を彷彿とさせる。民本主義(民主主義ではない)は、孟子にも荀子にも通底している。
五十九 ※君道篇などに見える、君主の道である。なお「舜の天下を治むるや、事を以て詔げずして萬物成る」の句は、解蔽篇(4)の句と同じである。
六十 ※解蔽篇(4)に「農は田に精しくして、以て田師爲る可からず。賈は市に精しくして、以て賈師爲る可からず。工は器に精しくして、以て器師爲る可からず」の句があり、この章と同じである。
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《読み下し》 上羞(ぎ)(注1)を好めば、則ち民闇に飾り、上富を好めば、則ち民利に死す。二者は亂の衢(く)なり。民の語に曰く、富を欲するか、恥を忍べ、傾絕(けいぜつ)(注2)せよ、故舊(こきゅう)を絕て、義と分背(ふんはい)せよ、と。上富を好めば、則ち人民の行い此(かく)の如し、安(いずく)んぞ亂れざるを得んや。 湯は旱(ひでり)にして禱(いの)りて曰く、政節ならざるか。民をして疾(や)ましむるか。何を以て雨(あめふ)らざること斯(こ)の極に至るや。宮室榮(さか)んなるか、婦謁(ふえつ)(注3)盛んなるか。何を以て雨らざること斯の極に至るや。苞苴(ほうしょ)(注4)行わるるか、讒夫(ざんぷ)興るか。何を以て雨らざること斯の極に至るや。 天の民を生ずるは、君の爲に非ざるなり。天の君を立つるは、以て民の爲にするなり。故に古者(いにしえは)地を列(つら)ねて國を建つるは、以て諸侯を貴ぶのみに非ず、官職を列して爵祿を差(わか)つは、以て大夫を尊ぶのみに非ず。 主の道は人を知り、臣の道は事を知るに。故に舜の天下を治むるや、事を以て詔(つ)げずして萬物成る。 農は田に精しくして、以て田師(でんし)爲(た)る可からず。工・賈(こ)も亦然り。 (注1)増注および集解の王念孫は、「羞」はまさに「義」に作るべしと言う。これらに従う。なお猪飼補注は楊注のとおり「羞」を「貧を羞じる」意と取って、なおかつ後の「闇」字は「閹(えん。おおう)」に作るべしと注し、ここを「上羞(は)じることを好めば、則ち民閹飾(えんしょく)す」と読む説を出している。その場合の訳は、「上の者が貧乏を恥じることに傾けば、下の人民は貧乏を虚飾して無理に華美となるだろう」のようになるであろう。猪飼説に従う場合、後の「二者は亂の衢(く)なり」の句は、両者ともに乱世への道筋である、という意味となる。
(注2)楊注は、「傾絕(絶)は、身を傾け命を絶ちて求めるを謂う」と注する。 (注3)楊注は、「婦謁は婦言是れ用いらるるを謂う」と注する。 (注4)苞苴とは、わらの包み(苞)としきもの(苴)。転じて、それらに包んで載せる贈り物のこと。 |