大略篇第二十七(9)

By | 2016年1月8日
四十一
易の「小畜(しょうちく)」の爻辞(こうじ)に、「再び正道に戻れば、咎はないだろう」とある。『春秋経』において穆公(ぼくこう)を賢者であると称えているのは、過去の過ちをよく悔い改めたからである。

小畜は六十四卦の一で、巽上乾下。引用された文は、初九の爻辞(こうじ)の句である。爻辞とは、卦を構成する六本の爻(こう)のそれぞれの意味を解説したもので、爻辞を易占にどのように用いるかについては複雑な理論がある。いちばん下の爻が陽である場合には「初九」、陰である場合には「初六」と称する。小畜のいちばん下の爻は陽なので初九である。
言及されている穆公とは、春秋時代の秦国の君主である秦の穆公(繆公とも記録される)のことである。楊注は春秋公羊伝に「何が穆公を賢とするか。能く変ずるを為すを以てす」(文公十二年)とあることを指摘する。楊注はこれに続けて、「前に蹇叔・百里の言を用いず、崤函に敗る。而して自ら変じて悔い、秦誓を作り、茲に黄髪を詢すを謂う」と注する。楊注が指すエピソードは、以下のとおりである。すなわち穆公は家臣の百里奚(ひゃくりけい)と蹇叔(けんしゅく)の諫言を聴かずに鄭国を討って、崤(こう。または殽)に敗れた。公は帰国して大いに過ちを悔い、群臣に対して今後は家臣の進言を容れて善政を行うことを誓った。この誓言は、『書経』の秦誓(しんせい)篇であるという。百里奚と穆公については、成相篇(1)注1、あるいは孟子万章章句上、九も参照。

四十二
士たるもの、ねたむ友人がいると、賢明な人々はこれに近づかない。君主たるもの、ねたむ家臣がいると、賢人はこの下にやってこない。公明正大な道を覆い隠す者を、「昧(まい)」すなわち愚昧と言う。賢良の人材を覆い隠す者を、「妒(と)」すなわち嫉妬の逆恨みと言う。妒昧の愚人を重んじる者を、「狡譎(こうけつ)」すなわちずるくて詐ると言う。妒昧の人間と狡譎の家臣は、国家にとってけがらわしいわざわいである。

四十三
口でよい意見を出して、なおかつ行いでこれを実行する者は、国の宝というべきである。口は下手でよい意見を出すことができないが、行いではよく実行できる者は、国の役に立つ器というべきである。口が上手でよい意見を出すことができるが、行いは下手でよい成果を挙げることができない者もまた、国のために用途ある者というべきである。だが国でよい意見を出しながら、行いでは悪事をなす者は、国のわざわいといわなければならない。国を治める者は、国の宝を尊重し、国の器を愛し、国のために用途ある者を任用し、国のわざわいを除くべし。

四十四
人民が豊かでなければ、人民の「情」をよい方向に養うことができない。人民を教化しなければ、人民の「性」をよい方向に制御することができない。よって、家ごとに五畝(9.1アール)の宅地と百畝(1.82ヘクタール)の田畑を割り当て、それぞれの家で農事に励まさせ、農繁期に国が役務を徴発しないことによって、人民を豊かにするのである。それから教育機関として首都に大学(たいがく)、地方に庠序(しょうじょ)を置いて、ここにおいて六礼(りくれい。下注参照)を修めさせ、七教(しちきょう。下注参照)を明らかに学ばせることによって、人民を導くのである。『詩経』に、この言葉がある。:

飲食をば、これにたまいて
教誨をば、これに与えん。
(小雅、緜蛮より)

飲食を与えて、さらに教化することができれば、王の仕事は全て尽きるだろう。

増注および集解の王念孫によれば、六礼とは冠・昏(婚)・喪・祭・郷・相見のこと。郷とは郷飲酒礼(郷里で地方の学校を卒業した最優秀の生徒を中央に送り出す送別の酒宴の礼。楽論篇参照)および郷射礼(郷里で射術を競う競技を行う礼)であり、相見とは士相見礼(士が人と会見する礼)である。また七教とは父子・兄弟・夫婦・君臣・長幼・朋友・賓客を指す。
本章は、『孟子』梁恵王章句上、七の孟子の言葉にきわめて近い。いわば孟子の「恒産無ければ恒心無し」を、荀子流の言葉で言った章といえるだろうか。「情」「性」は荀子の性悪説のタームである。正名篇(1)の定義を参照。性悪篇ほかの叙述を繰り返せば、人間の生のままの「性」「情」は「偽(い)」すなわち人為によって矯正されなければならず、その「偽」とはとりもなおさず礼のことである。

四十五
武王が紂(ちゅう)を討ってはじめて殷の故地に入ったとき、商容(しょうよう)の閭(むら)に旗を立ててこれを称え、箕子(きし)の牢獄の前で式(しょく)の礼(大略篇二十一章参照)を行って敬意を示し、比干(ひかん)の墓の前で哭泣した。こうして、天下は善に向かったのであった。

商容は賢人で、殷最後の王である紂(ちゅう)に仕えて諫めたが退けられた。箕子・比干はの紂のおじ。箕子は紂によって幽閉され、比干は紂によって殺された。議兵篇(5)注8参照。
《読み下し》
易に曰く、復して道に自(よ)らば、何ぞ其れ咎あらん、と。春秋に穆公(ぼくこう)を賢とするは、能く變ずることを爲すを以てなり。

士に妒友(とゆう)有れば、則ち賢交親(ちか)づかず、君に妒臣有れば、則ち賢人至らず。公を蔽(おお)う者之を昧(まい)と謂い、良を隱す者之を妒と謂い、妒昧(とまい)を奉ずる者之を交譎(こうけつ)(注1)と謂う。交譎の人、妒昧の臣は、國の薉孽(わいげつ)(注2)なり。

口能く之を言い、身能く之を行うは、國の寶(たから)なり。口言うこと能わずして、身能く之を行うは、國の器なり。口能く之を言い、身行うこと能わざるは、國の用なり。口に善を言い、身に惡を行うは、國の妖なり。國を治むる者は、其の寶を敬し、其の器を愛し、其の用を任じ、其の妖を除く。

富まさざれば以て民情を養うこと無く、敎えざれば以て民の性を理(おさ)むること無し。故に家ごとに五畝(ほ)の宅、百畝の田ありて、其の業を務めしめて其の時を奪うこと勿(な)きは、之を富ます所以なり。大學(たいがく)を立て、庠序(しょうじょ)を設け、六禮(りくれい)を脩め、十敎(しちきょう)(注3)を明(あきら)かにするは、之を道(みち)びく所以なり。詩に曰く、之に飲ませ之に食わせ、之を敎え之を誨(おし)う、と。王事具(そな)わる。

武王始めて殷に入るや、商容(しょうよう)の閭(りょ)に表(ひょう)し(注4)、箕子(きし)の囚に宋本に従い改める:)式(しょく)し(注5)、比干(ひかん)の墓を哭して、天下善に鄉(むか)う。


(注1)「交譎」を楊注は、譎詐の人と交通するの人、と言う。増注および集解の兪樾は、「交」は読んで「狡」となす、と言う。増注・兪樾の説を取る。「狡譎」は、ずるくて詐ること。
(注2)楊注は、「薉」は「穢」と同じ、と言う。「孽」は妖孽でわざわいのこと。すなわち薉孽とは、けがらわしいわざわい。
(注3)楊注は「十は或は七となす」と言う。増注および集解の王念孫は礼記王制篇(「司徒は六礼を脩め、、、七教を明かにす」)に言及して、楊注或説を是とする。これに従う。
(注4)楊注は、「表築して之を旌す」と注する。「表」とは旌表(せいひょう)のことで、忠孝節義の人の家の門に旗を立て、顕彰すること。後の時代の旌表は、皇帝あるいは地方長官が忠孝節義の人の家に扁額(へんがく。吉字を書いた額)を贈る習慣となった。
(注5)宋本は「式」に作るが、集解本に従う底本の漢文大系は「釋(釈)」字に作る。通説では、「釈」字が有力である。礼記楽記篇に同じく武王と商容・箕子・比干を列挙したくだりがあり、「封王子比干之墓、釋箕子之囚、使之行商容而復其位(王子比干の墓を封じ、箕子の囚を釈[ゆる]し、之をして商容に行き其の位に復せしむ)」とある。確かに武王は箕子を「釈」すなわち許して釈放したのであろうが、新釈の藤井専英氏も指摘するように、まずは箕子に敬意を表して「式」すなわち式(しょく)の礼(大略篇二十一章参照)を行った、としてもあながち間違いではないと思われる。より古い宋本のテキストにあえて従いたい。

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