十一 聖王の舜は、「私は、自らの心の欲するがままに従って自らを治めている」と言った。ゆえに、礼が創設された理由は、賢人から庶民に至るまでの被統治者の生活を統御することにあるのであって、聖人は礼によって自らの統治を制御しているわけではない。しかしながら、礼はその聖人を作り出すために、また必要とされるものなのだ。聖人たちといえども、まず最初に礼を学ばなければ聖人にはなれなかったであろう。だから堯は君疇(くんちゅう)に学び、舜は務成昭(むせいしょう)に学び、禹は西王国(せいおうこく)に学んだのである。 ※君疇・務成昭・西王国について、楊注は『新序』に「堯は尹寿(壽)に学び、舜は務成跗に学び、禹は西王国に学ぶ」とあることを引用する。だがそれらの人物の詳細はいずれもはっきりしない。
※引用された舜の言葉は出典不明(現行の偽古文尚書にあるが、後世の偽書なので出典とできない。下の注1参照)だが、このような言葉が聖王たちの言葉として戦国時代に伝承されていたことは確かであった。孟子はこのような言葉から盡心章句上、三十の「堯舜は之を性のままにし、湯武は之を身につけ、五覇は之を假(か)る」といった解釈を導き出したのであろう。この孟子の言葉の通りであれば、堯舜は生まれながらの「性」のままで聖人であり、それに比べて聖人の道を学んで身に着けた湯・武は堯舜に劣る存在である、ということになりかねない。荀子は聖人の伝承された言葉を引用しながらも、その意味を「礼は統治を行う道具であって、統治者じたいは礼に拘束されずに己の知徳をもって判断を行う」という意味でとらえている。そうした後に、聖人の堯舜といえども必ず学ばなければ聖人として大成できなかった、と孟子一派の主張を批判したのであろう。君子が学ぶことの必要性は、荀子は孟子に比べてとりわけ多く強調するところである。 十二 ※五十歳以降は激しい動作を伴う喪礼を行わず、七十歳以降は喪中でも食事を切り詰めない、という意味。下の注2参照。
十三 ※親迎の礼の説明は、『儀礼』士昏礼篇にもある。
十四 ※漢文大系は、原文の「君子の子に於けるや」以下を別の一章に数えている。
※本章の語句は、『大戴礼記』曾子制言上篇および曾子立事篇の中に曾子(曾参)の言葉の一部として表れる。 ※荀子にとっては、本能的な「情」に「慮」を働かせて、「偽(い)」によって行動を制御することが人間の目標である。それを行うことが、礼であるといえるだろう。正名篇(1)の定義を参照。 十五 |
《読み下し》 舜曰く、維(こ)れ予(われ)欲するに從いて治まる、と(注1)。故に禮の生ずるは、賢人より以下庶民に至るものの爲(ため)にして、聖を成さんが爲に非ざるなり。然り而(しこう)して亦聖を成す所以なり。學ばざれば成らず。堯は君疇(くんちゅう)に學び、舜は務成昭(むせいしょう)に學び、禹は西王國(せいおうこく)に學ぶ。 五十は喪(そう)を成さず、七十は唯衰(さい)存するのみ(注2)。 親迎の禮に、父南に鄉(むか)いて立ち、子北に面して跪(ひざまず)く。醮(しょう)して之に命ずらく、往きて爾(なんじ)が相(しょう)を迎え、我が宗事を成し、隆(あつ)く率(みちび)くに敬を以てし、先妣(せんぴ)に之れ嗣(つ)がしめ、若(なんじ)は則ち常有れ、と。子曰く、諾(だく)、唯能(た)えざらんことを恐る、敢て命を忘れんや、と。 夫れ行なる者は、禮を行うの謂なり。禮なる者は、貴者は焉(これ)に敬し、老者は焉に孝し、長者は焉に弟し、幼者は焉に慈し、賤者は焉に惠す。其の宮室に賜予するは、猶お慶賞を國家に用うるがごとく、其の臣妾に忿怒(ふんど)するは、猶お刑罰を萬民に用いるがごときなり。君子の子に於けるや、之を愛するも面する勿(な)く、之を使うも貌(ぼう)すること勿く(注3)、之を導びくに道を以てするも强(し)うること勿し。 禮は人心に順(したが)うを以て本と爲す。故に禮經(れいけい)(注4)に亡きも、而も人心に順う者は、(増注に従い宋本・元本の語句に戻す:)禮に背(そむ)く者ならんや(注5)。 (注1)注釈者たちは、『書経』大禹謨篇にこの言葉が見えることを指摘する。だが『書経』大禹謨篇は「偽古文尚書」に分類されるテキストであって、「偽古文尚書」ははるか後世の晋代に現れた偽書であることがすでに考証学者によって立証済みである。よって、現在はこの言葉が『書経』から引用されたと言うことはできない。
(注2)楊注は、「喪を成さずとは、哭踊の節を備えず。衰存するとは、ただ衰麻を服するのみ」と注する。すなわち五十歳以降は葬儀において哭泣(こくきゅう。大泣きすること)および辟踊(へきよう。胸を打ち叩いて足を踏み鳴らすこと)の礼を行わず、七十歳以降は衰麻(さいま)すなわち麻の喪服を着るだけで食事を切り詰めるようなことはしない、ということである。 (注3)集解の郝懿行は、「貌すること勿しとは、優(いた)わるに辞色を以てせずを謂う」と注する。子を使うときに労わるような言葉や顔色を出さない、という意味。 (注4)新釈の藤井専英氏は、「礼経(禮經)」は「礼径」であると解釈する。すなわち礼経とは具体的な礼関係のテキストに限定されるものではなくて、もっと一般的な礼に関する言葉の意であると言う。これに従いたい。 (注5)宋本・元本はもと「背禮者也」に作るが、集解本は盧文弨の説に従ってこれを「皆禮也」に改めている。しかし増注の久保愛は「背禮者也」は「背禮者耶(礼に背く者ならんや)」の意に取るべきであって、これを「皆禮也」に改めている版を後人の私改として斥ける。増注に従い、宋本・元本のもとの姿に戻すことにしたい。 |