勧学篇第一(2)

By | 2015年3月30日
こんな言葉がある、「私はかつて一日中頭の中で思索してみたものだが、それはわずかな時間学校で学んだことにすら及ばなかった。私はかつてつま先を立てて眺めてみたものだが、それは高い山に登って広く見回したことにすら及ばなかった」(前半は『論語』衛霊公篇の言葉「我嘗て終日食らわず終夜寝ず以て思う。益無し。学ぶに如かざるなり」を想起させる)。
山の上に登って手招きすれば、自分のひじが長くなったわけでないのに、遠くから見てもらえる。追い風に乗せて呼べば、声の速さが加わったわけでないのに、はっきりと聞こえる。馬車を使えば、自分の足が強くなったわけでないのに、千里(400km)を走ることもできる。舟を使えば、自分の体が水に浮くわけでないのに、黄河や長江を渡ることすらできる。君たちもまた、同じなのだ。生まれたときはしょせん同じ人間であり、優劣などさほどありはしない。ただ学習によって力を借りた者だけが、優れた人間となれるのである。

南方に、蒙鳩(みそさざい)という鳥がいる。羽を集めて、これを毛で編みこんで巣を作り、葦の穂にその巣をひっかける。ところが強風が吹いて葦が折れてしまうと、巣の中の卵は割れて子は死んでしまう。これは、巣の作り方がまずかったからではない。ひっかけた葦が悪かったからである。また西方に、射干(ひおうぎ)という草花がある。茎の長さはわずか四寸(9cm)しかないが、高山の上に咲いてしかも百仞(157.5m)の崖の上にある。この花が高くに仰ぐことができるのは、茎が長く生長したからではない。立っている所が高いからである。蓬(よもぎ)は本来地を這う草であるが、丈高い麻の間に生えたときには起こさずして真っ直ぐに立つものだ。蘭槐(らんかい)の根は、芷(し)という香草である。しかしこれを汚水にひたすと、君子はもはや近づけるところとはならず、庶民ですらこうなってはもはや有り難がらない。芷そのものが汚いからでは、決してない。ひたした水が汚いからである。わかったかな、だから君たちは必ずよい環境の土地に住むこと。そして必ず立派な士と交友すること。こうするのは、悪の道に落ちるのを防ぎ、中正の美徳に近づくためなのだ。


《原文・読み下し》
(注1)吾嘗て終日にして思うも、須臾(しゅゆ)の學ぶ所に如かざるなり。吾嘗て跂(つまさきだ)ちて望むも、高きに登るの博く見ゆるに如かざるなり。高きに登りて招けば、臂(ひじ)の長を加うるに非ざるなり、而(しか)るに見ゆる者遠し。風に順(したが)いて呼べば、聲の疾を加うるに非ざるなり、而るに聞こゆる者彰(あきら)かなり。輿馬(よば)を假(か)る者は、足を利するに非ざるなり、而るに千里を致す。舟楫(しゅうゆう)を假る者は、水に能(た)うるに非ざるなり、而るに江河を絕す。君子は生異なるに非ざるなり、善く物に假るなり。
南方に鳥有り、名を蒙鳩(もうきゅう)と曰う。羽を以て巢と爲し、而(しこう)して之を編むに髮を以てし、之を葦苕(いちょう)に繫(つな)ぐ。風至りて苕(ちょう)折れ、卵破れて子死す。巢完(まった)からざるに非ざるなり。繫(か)かる所の者然ればなり。西方に木有り、名を射干(やかん)と曰う。莖(くき)の長さ四寸なれど、高山の上に生じ、百仞(ひゃくじん)の淵に臨む。木莖(もっけい)能く長きに非ざるなり。立つ所の者然ればり。蓬(ほう)も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直(なお)し(注2)。蘭槐(らんかい)の根、是を芷(し)と爲す。其れ之を滫(しゅう)に漸(ひた)せば、君子は近づけず、庶人は服せず。其の質美ならざるに非ざるなり、漸す所の者然ればなり。故に君子は居必らず鄕(きょう)を擇び、遊ぶに必ず士に就く。邪辟(じゃへき)を防いで中正(ちゅうせい)に近づく所以(ゆえん)なり。


(注1)『大戴礼記』勧学篇は「孔子曰く」で始まる。『論語』衛霊公篇の言葉とほぼ同一であることを意識しているのであろう。
(注2)『集解』の王念孫は、『大戴礼記』曾子制言上篇ではこの後に「白き沙(すな)も涅(どろ)の中に在れば、之と倶(とも)に黑なり」と続いているが、同勧学篇にはない。おそらく『荀子』勧学篇は後世の者が削ったのであろう、と言う。

立派な人間となるにはどうすればよいのかを、荀子は懇切丁寧に説得する。
学ぶことなしに考えるのが無益であることは、孔子も指摘するところである。儒家の中には、孟子の「大人はその赤子の心を失わざる者なり」とか、「人の学ばずして能くする所の者は、その良能なり。慮(おもんぱか)らずして知る所の者は、その良知なり」とかの格言を重視して学問を軽視し、心中の至誠さえあれば立派な人間なのだ、などと唱える者もあるようである。しかし荀子は、そのような安易を認めない。孟子もまた認めないと思うのであるが。荀子は、人間が立派なのは後天的に学んで知力を身につけるからであると考える。人間は放置教育しておいても自然とよい子になる、とは荀子は考えない。必ず周囲の環境を整え、立派な先生の教えを受け、悪者と付き合わせない配慮があって、よき人間は形成されるというのである。

後半は、人間が環境に影響を受けるという指摘である。荀子は、外界からのインプット次第で人間が変化するという、機械論的な人間観を持っているようである。後に見るように荀子が「礼」を身につけることを最も重視することと、彼の教育観は整合している。

私は、荀子の教育観はもっともだと思うが、ただどのような環境が教育に最適であるのかは、一概には決められないと考える。中世の日本で学問を行う場所といえば仏教寺院であって、比叡山や高野山は人里離れた山中にあって外界と隔離された道場であった。いっぽう江戸時代の儒学や蘭学の塾は都会の真ん中にあって、市井の空気と共にある学問所であった。西洋の人は、日本の大学の前にパチンコ屋があることに驚愕するという。学問を侮っているのか、といぶかるのであろう。しかし市井の中に学問所があるのは、日本の江戸時代からの伝統であるとも言えるだろう。もっとも私の住居の近くにある京都大学の周辺は今やコンビニとチェーン店の飲食店ばかりであり、これらが学問の肥やしになるようには思えないが。

ともかく、荀子の言葉は志ある者への呼びかけである。立派な人になることを志すのであれば、スマホからだけ情報を得るのはやめにして固い本を読書する試みにチャレンジするのがよいだろう。

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