儒效篇第八(9)

By | 2015年8月10日
人間の等級について。心は私欲にねじまがっていながら、他人が自分のことを公正であるとみなすことを望み、行いは汚れていながら、他人が自分のことをきちんと整っているとみなすことを望み、きわめて愚かで無知でありながら、他人が自分のことを知者であるとみなすことを望むならば、これは一般人である。心は私欲を抑えた末に公正となり、行いは「情」・「性」(注1)を抑えた末にきちんと整い、知力があっても好んで人に質問する末に才覚を現し、このように公正できちんと整って才覚あるならば、これは小儒ということができる。心は公正であることに安んじ、行いはよく整っていることに安んじ、知力は法の大綱と法判断(注2)に通暁するならば、これは大儒ということができる。大儒とは、天子・三公(注3)に就く人材であり、小儒とは、諸侯・大夫・士(注4)に就く人材であり、一般人とは、工業・農事・商売に就くべき人材である。そして礼義とは、君主が配下の群臣の能力を測定して区分する基準(注5)であって、これによって人間の等級が完成するのである。

君子の言葉には踏み外さない境界があり、君子の行いには守るべき範囲があり、君子には唯一の尊重する正道がある。政治について意見を求める者がいたならば、国家を安泰にして存続させる方法以外のことは、口に出さない。持つべき志について意見を求める者がいたならば、士(注6)となるべき方法以外のことは、口に出さない。道徳について意見を求める者がいたならば、現代の君主(注7)の定めた法度以外のことは、口に出さない。夏・殷・周三代の正道のさらに前のことは、資料不備ではっきりしたことが言えない。そして現代の君主の法律から外れたことを言うのは、正しくない。君子の言葉・行い・道は、高かろうが低かろうが大きかろうが小さかろうが、すべてこの境界を越えないのであって、これによって君子は己の心を踏み外さない境界の範囲内に留めるのである。ゆえに、諸侯が政治について質問しても、その質問が国家を安泰にして存続させる方法以外に及べば、君子は答えない。庶民が学問について質問しても、その質問が士(注8)となるべき方法以外に及べば、君子は教えない。諸子百家が言説を立てても、その言説がわが国の文明の建設者であった先王(注9)のこと以外に及べば、君子は聞く耳を持たない。これが、君子の言葉には踏み外さない境界があり、君子の行いには守るべき範囲がある、というのである。


(注1)荀子の性悪説における「情」・「性」の意味は、さきの儒效篇(8)注1を参照。
(注2)原文「統類」。儒效篇(5)注3ほかと同じ。
(注3)三公とは、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注4)通常荀子は「士」という語を君子より格下の官僚という意味に用いるが、ここでは大夫と合せて宮廷の家臣の意味で用いられている。
(注5)原文「寸尺尋丈檢式」。寸・尺・尋・丈は長さの単位。檢・式は法則や基準の意味。合せて、測定する基準のことを言う。
(注6)こちらの「士」は、君子より格下で一般人よりは上の統治階級のことである。たとえば脩身篇(4)を参照。
(注7)原文「後王」。儒效篇(7)注5を参照。
(注8)ここの「士」も、上の注6と同じ意味である。
(注9)原文「先王」。ここは「後王」でなくて「先王」でよい。なぜならば、荀子にとって本来依拠するべきなのは先王の道であって、後王の制度は本質的に先王の道と合致していてなおかつ資料が明確であるからこれに従うのがよい、と考えるからである。儒效篇(7)注15も参照。
《原文・読み下し》
人論(じんりん)(注10)。志は曲私を免れずして、人の己を以て公と爲さんことを冀(ねが)い、行は汙漫(おまん)を免れずして、人の己を以て脩と爲さんことを冀い、甚だ愚陋・溝瞀(こうぼう)にして、人の己を以て知と爲すことを冀う、是れ衆人なり。志は私を忍びて、然る後に能く公、行は情性を忍びて、然る後に能く脩、知にして問を好み、然る後に能く才なり。公・脩にして才なるは、小儒と謂う可し。志は公に安んじ、行は脩に安んじ、知は統類に通ず、是の如くなれば則ち大儒と謂う可し。大儒なる者は、天子・三公なり。小儒なる者は、諸侯・大夫・士なり。衆人なる者は、工・農・商賈(しょうこ)なり。禮なる者は、人主の羣臣(ぐんしん)の寸・尺・尋・丈・檢・式爲(た)る所以にして、人倫盡(つ)くせり。
君子は言に壇宇(だんう)(注11)有り、行に防表(ぼうひょう)有り、道に一隆有り。道德(せいじ)(注12)の求を言えば、安存より下らず、志意の求を言えば、士より下らず、道德の求を言えば、後王に二(たが)わず(注13)。道三代に過ぐるは、之を蕩と謂い、法後王に二(たが)う(注13)は、之を不雅と謂う。之を高くし之を下(ひく)くし、之を小にし之を臣(きょ)(注14)にするも、是に外ならず、是れ君子の志意を壇宇・宮廷(注15)に騁(は)する所以なり。故に諸侯政を問いて、安存に及ばざれば、則ち告げざるなり。匹夫學を問いて、士と爲るに及ばざれば、則ち敎えざるなり。百家の說、先王に及ばざれば、則ち聽かざるなり。夫れ是れを之れ君子は言に壇宇有り、行は防表有りと謂うなり。


(注10)集解の王念孫は、「論」は読んで「倫」となすべし、と言う。「倫」は等級のこと。これに従う。
(注11)集解の王念孫は、「壇」は堂基にして「宇」は屋辺なり、壇宇有りと言うはなお言に界域有りというがごとし、と言う。建物の内のように守られた境界がある、という意味。
(注12)楊注は、ここの「道德」はまさに「政治」となすべし、と言う。これに従う。
(注13)新釈の藤井専英氏は于省吾の説を取って、「二」は「下」字の誤りであると言う解釈を採用している。「下(くだ)る」と解釈するならば、後王の制度からさらに下って逸脱しない、という意味となるだろう。しかし王制篇では「道は三代に過ぎず、法は後王に貮(たが)わず。道三代に過ぐるは、之を蕩(とう)と謂い、法後王に貮うは、之を不雅と謂う」とある。よって藤井氏も「二」は「貮」のことであるとみなすことが妥当である、と付け加えている。ここでは藤井説を取らず、「二」は「貮」に通じて「たがう」意であるとみなす。
(注14)楊注は、「臣」は「巨」の誤りと言う。
(注15)この「宮廷」は「壇宇」と同じく境界のことであって、具体的な建物の意ではない。

儒效篇は、これで終了する。大儒は国家の頂点にあって統治し、小儒は国家の中堅にあって行政を行う。統治者が従うべき正道は夏・殷・周の三代の古制にならい、礼法の規則は「後王」に従う。「後王」は、いちおう現代の君主と解釈しておくことにしたい。以上が、荀子の結論である。

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