非相篇第五(1)

By | 2015年6月12日
人相で人を判断することは、いにしえの人々は行わなかったことであり、学ぶ者は言わないものである。かつての姑布子卿(こふしけい)(注1)とか、近年では梁国の唐舉(とうきょ)(注2)とかが、人の身体的特徴と面相を占って吉凶禍福を予言した。世俗の者たちはこれらを賞賛するが、いにしえの人々はこのようなことは行わなかったのであり、学ぶ者は言わないものである。ゆえに人の身体的特徴を占うことは、人の心を論ずるには及ばず、人の心を論ずることは、正道を学ぶわざを選ぶことにはかなわないのである。身体的特徴のよしあしは、心のよしあしには勝つことができない。また心のよしあしは、学ぶわざのよしあしには勝つことはできない。学ぶわざが正しくて心が素直であれば、たとえ顔かたちが悪くても心と学ぶわざが正しいので、君子となるために障害などありはしないのだ。逆にたとえ顔かたちがよくても心と学ぶわざが悪ければ、小人となることを止める助けになりはしないのだ。君子であることこそを、吉と言うべきである。小人であることこそを、凶と言うべきである。なので、顔面の長短・身長の高低・身体の美醜・形相の善悪は、吉凶ではない。このようなことは、いにしえの人々は問題にしなかったのであり、学ぶ者もまた問題にしないのである。たとえば堯帝は身長が高く、舜帝は身長が低かった。周の文王は身長高く、周公は身長が低かった。仲尼(ちゅうじ)は身長が高く、子弓(しきゅう)は身長が低かった(注3)。むかし、衛の霊公(注4)に家臣がいて、公孫呂(こうそんりょ)(注5)という名であった。身長は七尺(158cm)だが顔面が縦も横も三尺(68cm)あって、そこに目と鼻と耳が付いているという異様な面相であった。だが公孫呂は、天下に轟く名声を得たのであった。楚の孫叔敖(そんしゅくごう)(注6)は、期思(きし。河南省)の出身の田舎者で、突き出した禿頭に左足が右足より長いというおかしな風采であったが、車に乗りながらにして(注7)楚王を覇者に導いた。楚の葉公子高(しょうこうしこう)(注8)は身長低く身は痩せていて、歩けば服の重さにすら耐えられないほどひ弱に見えた。だが白公の乱(注9)において令尹子西(れいいんしせい)・司馬子期(しばしき)がすべて乱によって殺されたとき、葉公子高は楚都に入って白公を誅殺して楚国を平定した。彼が楚国を平定した手際は、手の平を返すがごときたやすさであり、その仁義と功名は後世に称えられた。ゆえに、士は身体の長さとか大きさとか重さとかを考えたりせず、ただその心中の高低だけを知ろうとするのである。顔面の長短・身長の高低・身体の美醜・形相の善悪は、論ずるに値しないのである。徐の偃王(えんおう)(注10)はうつむいて近くを見ることができず(注11)、仲尼(ちゅうじ)は蒙倛(もうき。ざんばら髪の鬼の仮面)(注12)のような不気味な面相であり、周公は折れた枯れ木のようなせむしの身体であり、皋陶(こうよう)(注13)は皮をむいた瓜のような血の気のない顔色であり、閎夭(こうよう)(注14)は顔の皮が見えないほどのひげ面であり、傅說(ふえつ)(注15)は魚の背びれのようなせむしの身体であり、伊尹(いいん)(注16)は顔に鬚(ひげ)も眉も無く、禹は片足をひきずり、殷の湯王は半身不随であり、堯・舜は瞳が重なっていた(注17)。ならばわが一門に学ぶ諸君(注18)は、人間の意志を論じてその人の文芸学問を比較し、それで人のよしあしを比較しようとするのか?それとも諸君は、単に身体が長い短いとか、外見が美しいとか醜いとかを論じて、人を嘲笑おうとするのか?いずれがよいか、よく考えるがよい。

かつて桀(けつ)・紂(ちゅう)は、身体は大きく美しく、天下に秀でていた。筋力は人並み優れ、一人で百人を敵とすることができた。なのにわが身は死んで国は滅び、天下の大恥辱となり、後世悪人を挙げるときには必ず両者が考えられるようになった。これは、容貌が悪かったからではない。ただ彼らは見聞が足りず、論議がいやしかった結果なのだ。今の世の乱れた君主や村落の軽薄才子どもは、美麗に着飾ってなまめかしく化粧し、奇怪な服装を着て女性のような格好をして、気性も態度も軟弱なことこの上もなく、どれもこれもまるで女子のようである。このような輩を成人女性たちは夫としたいと皆願い、若い処女たちは恋人としたいと皆願い、それで実家を捨ててこいつらに走ろうと望む者が肩を並べて次々に現れる始末である。だがしかし普通にまともな君主ならばこういう輩を家臣とすることを恥じ、普通にまともな父親ならばこういう輩を子として持つことを恥じ、普通にまともな兄ならばこういう輩を弟として持つことを恥じ、普通にまともな一般人ならばこういう輩を友人として持つことを恥じる。こういう輩がにわかに役人に捕らえられて、市場で公開処刑されるような境遇に遇うと、愚かにも天の助けを呼んで大泣きし、今の窮地に苦しんで、これまでの愚行を後悔しない者はいない。これは、容貌が悪かったからではない。ただ彼らは見聞が足りず、論議がいやしかった結果なのだ。こういうことであるならば、わが一門に学ぶ諸君(注18)は、美しい容貌を持つことと広い見聞・高い議論をなすことのどちらがよいと考えるか、聞きたいものである。


(注1)春秋時代の人。『韓詩外伝』に孔子の人相を見たという話がある。
(注2)戦国時代、梁すなわち魏国の人。史記蔡沢列伝で、無名時代の蔡沢の人相を見て将来の富貴を予言したという。果たして蔡沢は、秦国の宰相となった。
(注3)堯・舜はいにしえの聖王。文王は周王朝の開祖、周公はその子で成王の摂政。仲尼は孔子の字(あざな)。子弓は詳細不明、下のコメントの考証を参照。
(注4)衛の霊公は、孔子と同時代の衛国の君主。孔子は魯を去った亡命時代に何度か霊公のもとに身を寄せた。
(注5)詳細不明。
(注6)増注によれば、楚王の令尹(れいいん)すなわち宰相となって、十二年で楚の荘王を覇者とした、と言う。
(注7)原文「軒較之下」。新釈の藤井専英氏は「軒較」を車とその部品とみなし、「軒較之下」を坐したままで肉体を使わず頭脳を働かせる意、と解釈する。
(注8)沈諸梁子高(しんしょりょう・しこう)のこと。姓は沈、名は諸梁、字は子高。葉(しょう)に封ぜられたので葉公子高という。
(注9)史記伍子胥列伝によると、白公は楚の王族で、父の太子建は鄭国に亡命中に鄭国によって殺された。白公はこれを怨みに思って鄭国を討とうとしたが、当時の楚の宰相であった令尹子西はかえって鄭国を救出する援軍を出した。白公はこれに怒って、令尹子西と司馬子期を襲撃して殺した。このとき葉公子高は楚の人民を率いて白公を討ち、白公は敗れて逃亡の末に自害した。
(注10)史記秦本紀によれば、徐の偃王は周の穆王(ぼくおう)の時代に反乱を起こして鎮圧された、とある。だがここでは明らかに徐の偃王を肯定的に言及している。各書において徐の偃王が仁義を修めたという記録があるようである。
(注11)原文読み下し「目馬を瞻(み)る可く」。楊注によれば、徐の偃王は偃仰(背が下を向いて首が上を向くこと、つまり背骨が曲がっていたこと)でうつむいて細かく見ることができず、やっと遠くの馬が見えるだけであった、と言う。
(注12)「蒙倛」はざんばら髪の鬼の仮面のこと。荻生徂徠は「倛(き)を蒙(こうむ)る」と読んで、仮面をかぶる、と解する。
(注13)堯・舜に仕えた獄官。
(注14)周の文王の臣。
(注15)殷の高宗の臣で、高宗に抜擢されて殷を中興させた。
(注16)殷の湯王の臣。湯王を輔佐して夏王朝を亡ぼし、殷王朝を建国させた。
(注17)原文「參牟子」。牟子(ひとみ)が参(かさ)なる、という意味。海音寺潮五郎氏は、項羽もまた瞳が重なっていた、という記録があるところを評して、瞳の色が薄くて瞳が二つあるように見える様であろう、と言った。おそらくこのことであろう。
(注18)原文「従者」。楊注は、荀卿の門人、と言う。盧文弨は楊注を非として単に学ぶ者の意と解するが、楊注のほうがリアリティがあるのであえてこちらを採用して訳すことにしたい。
《原文・読み下し》
人を相するは(注19)、古の人有ること無きなり、學ぶ者は道(い)わざるなり。古者(いにしえは)姑布子卿(こふしけい)有り、今の世梁(りょう)に唐舉(とうきょ)有り、人の形狀・顏色を相して、其の吉凶・妖祥を知る。世俗之を稱するも、古の人は有ること無きなり、學ぶ者は道わざるなり。故に形を相するは心を論ずるに如かず、心を論ずるは術を擇ぶに如かず。形は心に勝らず、心は術に勝らず。術正にして心順なれば、則ち形相(けいそう)惡しと雖も心術善くして、君子と爲るに害無きなり。形相善しと雖も心術惡しければ、小人と爲るに害無きなり。君子之を吉と謂い、小人之を凶と謂う。故に長短・小大・善惡・形相は、吉凶に非ざるなり、古の人有ること無きなり、學ぶ者道わざるなり。蓋し帝堯は長にして、帝舜は短なり、文王は長にして、周公は短なり、仲尼は長にして、子弓は短なり。昔者(むかし)衛の靈公に臣有り、公孫呂(こうそんりょ)と曰う。身の長(たけ)七尺、面の長さ三尺にして、廣さ三寸、鼻・目・耳具(そな)わりて、而(しか)も名は天下を動かす。楚の孫叔敖(そんしゅくごう)は、期思(きし)の鄙人(ひじん)なり。突禿(とっくつ)長左、軒較(けんかく)の下(もと)にして、楚を以て霸たらしむ。葉公子高(しょうこうしこう)は、微小短瘠(たんせき)、行くに將(まさ)に其の衣に勝えざらんとするが若し、然るに白公の亂にや、令尹子西(れいいんしせい)・司馬子期(しばしき)皆焉(これ)に死したれば、葉公子高入りて楚に據り、白公を誅し、楚國を定むること、手を反(かえ)すが如きのみ、仁義・功名は後世に善とせらる。故に士は長を揣(はか)らず、大を揳(はか)らず、輕重を權(はか)らず、亦將(まさ)に心を志(し)らんとするのみ(注20)。長短・小大、美惡・形相、豈に論ぜんや。且つ徐の偃王(えんおう)の狀は、目馬を瞻(み)る可く、仲尼の狀は、面蒙倛(もうき)の如く、周公の狀は、身斷菑(だんし)の如く、皋陶(こうよう)の狀は、色削瓜(さくか)の如く、閎夭(こうよう)の狀は、面に見膚(けんぷ)無く、傅說(ふえつ)の狀は、身植鰭(しょくき)の如く、伊尹(いいん)の狀は、面に須麋(しゅび)無く、禹は跳び湯は偏し、堯・舜は參牟子(さんぼうし)なり。從者將(まさ)に志意を論じ、文學を比類せんとするか。直(ただ)將に長短を差し、美惡を辨じて、相欺傲(ぎごう)せんとするか。古者(いにしえ)桀・紂は長巨姣美(こうび)にして、天下の傑なり、筋力越勁(えつけい)にして、百人之に敵(あた)る。然り而(しこう)して身死し國亡び、天下の大僇(たいりく)と爲り、後世惡を言えば則ち必ず稽(かんが)う。是れ容貌の患に非ざるなり、聞見の衆(おお)からず、論議の卑しきのみ。今世俗の亂君、鄉曲(きょうきょく)の儇子(けんし)、美麗姚冶(ようや)にして、奇衣婦飾し、血氣態度、女子に擬せざること莫し。婦人得て以て夫と爲すを願わざること莫く、處女得て以て士と爲すを願わざること莫く、其の親家(しんか)を弃(す)てて之に奔(はし)らんと欲する者、肩を比(なら)べて並び起る。然り而して中君以て臣と爲すを羞じ、中父以て子と爲すを羞じ、中兄以て弟と爲すを羞じ、中人以て友と爲すを羞ず。俄にして則ち有司に束(つか)まられ、大市に戮(りく)せられるれば、天に呼びて啼哭(ていこく)し、其の今を苦傷して、其の始を後悔せざること莫し。是れ容貌の患に非ざるなり、聞見の衆からず、論議の卑きのみ。然らば則ち從者將に孰(いず)れを可とせんとするや。


(注19)元本には、「人」字がない。増注は元本に従い「人」字を削っている。
(注20)原文「亦將志乎心耳」。王先謙は集解本で「心」字を削っている。王先謙は「事、長大・輕重を揣揳(しけつ)せず、亦且(まさ)に彼の数聖賢に志(しる)す有らんとす」と言って、「(いにしえの士は身体的特徴から人物を論ずることはなく、)聖賢にもそんな特徴があると考えたにとどまっていた」のように解している。漢文大系は王先謙説を取って(ただし「心」字は復活させる)「亦將(しばらく)心に志(しる)すのみ」と読み下している。これに対して新釈の藤井専英氏は、「志」は知る、と注するにとどまる。藤井説を取る。

【この篇は、「子道篇第二十九」の後に読んでいます。】

さきに勧学篇から後の各篇は飛ばして読んだが、ここで戻って非相篇第五を検討したい。この篇は全体としてまとまっていないが、重要な論点が含まれている。一つはここで訳した、「人を相する」ことへの批判である。もう一つは中途から始まる、人間倫理が歴史を通じて同一であるということを論じた部分である。これは、荀子のいわゆる後王思想を裏付ける考えに繋がる。

まず、荀子の「人を相する」ことへの批判が置かれる。その批判するところは、言うまでもないだろう。現代においても、相変わらずよくあることである。史記高祖本紀によれば、漢の開祖である劉邦は若い頃には労働を嫌うごろつきにすぎなかったが、その人相が龍顔(りゅうがん)であったという。史記に記載されているところによると、資産家の呂氏は一文無しであった劉邦の龍顔を見て即座にこれを奇とし、その娘を娶わせることを決めたとある。娘とは中国史で代表的な悪女の一に数えられる、呂后(りょこう)のことである。このエピソードに見られるように、人相とか骨相とかで人物を判断する風潮は、戦国時代から秦漢代にかけて大いに流行していた。

荀子は、時代の風潮をここで批判する。人間の真価は身体的特徴ではく、むしろ心中の善であり、さらに正しい学問を身に付けているかどうかなのだ、と言うのである。孟子が「形・色は天性なり」(盡心章句上、三十八)と言うように、身体は天与の性質である。君子は天与の身体を活用して向上させるところに、偉大さがあるのだ。天論篇で、私は孟子と荀子の比較を試みた。孟子と荀子には、天に対する共通の態度があった。すなわち孟子は、天が与えた運命に対してこれから自律して行動することを説いた。荀子は、天が与えた自然現象に対してこれから自律して政策を行うことを説いたのであった。

荀子がここで「人を相する」ことを批判するのは、天与の自然に人間が甘んじることへの批判の一貫なのである。君子は「人を相する」風潮に心乱されてくじけることなどあってはならず、ひたすら学問に励んで心中の徳を向上させなければならない。荀子がここでファッションに凝って女性まがいの出で立ちをする男子が婦女子に大人気となっているが、世の平均的な男子どもは眉をひそめている、などと書いているところは、昔も今も人間の情はぜんぜん変わらないところを示していて苦笑するばかりだ。礼義を重んじる荀子はこれらを取り締まるべきだという立場に立っているのであろうが、現代の人はもう少し多様性に寛容であるべきだろう。しかし、人間の真の価値は外見よりも心中の徳であり、能力であるという荀子の意見は、昔と今とで換えることは難しいのではないだろうか?


ところで、上のくだりで仲尼(孔子のこと)と並んで挙げられている人物に、子弓(しきゅう)という者がいる。この人物は、『荀子』の他篇(非十二子、儒效)にも現れるのであるが、詳細不明の人物である。しかしながら荀子は子弓なる人物を孔子と並列しているので、これが荀子にとって孔子と並ぶ学問の先達の師に当たるのではないか、という推測が学者たちの間で出されたのであった。『荀子』本篇中を見ても、史記荀卿列伝の中にも、荀子が学問を受けた師の名前は記録されていない。

仲尼は孔子の字(あざな)なので、子弓もまた字であると推測できる。重澤俊郎氏は、子弓の正体の各説について『荀況研究』(大空社『周漢思想研究』所収)でレビューを行っている。

  • 朱張(子弓):王弼の説。論語王弼注において、「朱張字は子弓、荀卿以て孔子と比す」とある。朱張は論語微子篇で逸民すなわち隠者であったと伝えられているが、荀子の思想に隠者を重んじる思想はないので、重澤氏はこの説は難しいと言う。事実『論語』『孟子』には見られる隠遁思想の痕跡が『荀子』には全く見られないので、重澤氏の指摘は的を得ていると思われる。
  • 馯臂(子弓):張守節・朱熹の説。馯臂子弓(かんぴ・しきゅう)は史記仲尼弟子列伝において、孔子の弟子の商瞿(しょうく)から易学を受けた楚人と記録されている。だが荀子は六経すなわち詩・書・礼・楽・易・春秋の中では易について最も疎遠であり、よって重澤氏はこの説もまた難しいと言う。事実『荀子』内で易に関する言及は他の五経に比べて非常に少なく、張守節・朱熹の説は受け入れ難い。
  • 冉雍(仲弓):楊倞の説。冉雍仲弓(ぜんよう・ちゅうきゅう)は『論語』で孔子に高く評価された弟子で、徳行に優れていたと評される。王先謙も集解序で子弓=仲弓説に賛同する。重澤氏は彼の字はもと「子弓」であって次兄を表す「仲」の字を後に加えて「仲弓」とされた可能性を指摘している。
  • 言偃(子游):邵懿辰・武内義雄の説。言偃子游(げんえん・しゆう)は孔子の弟子で、文学に優れていたと評される。子游学派は礼を重視したので、荀子の学といちおうの親近性はある。しかし重澤氏は邵懿辰が主張する『礼記』檀弓篇が子游学派の作であって檀弓とは子弓=子游のことである、という説は根拠薄弱であると言う。また武内義雄博士は、『礼記』礼運篇の思想が荀子の礼に関する思想と類似性が高いことを指摘して、礼運篇が孔子と子游との対話として構成されているためにこの篇を子游学派の作と想定して、同様に子弓⁼子游の誤り説に同意する。しかしながら次の非十二子篇において、子游学派は孔子の別の弟子の子張・子夏の両学派と並んで賤儒として荀子に厳しく批判されていて、荀子に子游学派への尊敬は見えない。これにより、私は子弓=子游説も難しいと考える。

重澤氏は、楊倞の冉雍説が消極的な意味において比較的妥当性があると言うが、いずれにも結論を述べない。私が思うに、冉雍説についても肯定することが難しい。冉雍は徳行に優れていたと論語に記録されているのであるが、これと文学や礼法を重視した荀子の思想との間に系譜関係を見出すことは困難である。私としては、子弓の正体は不明であり、孔子の後に現れて荀子に直接の影響を及ぼす学問を立てたが、後世に名が知られなかった儒家思想家であったろう、と推測する以上のことが今のところはできそうにない。

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