解蔽篇第二十一(4)

By | 2015年5月21日
この心というものは、身体の統制者にして、理性判断(注1)の主体である。心は自ら命令を出すのであって、心の外部から命令を受けることをせずにそれを行う。すなわち心が自らの意志で禁止し、自らの意志で活用し、自らの意志で手放し、自らの意志で獲得し、自らの意志で行き、自らの意志で止まる。ゆえに、口は強要すれば黙らせたりしゃべらせたりすることもできる。身体は強要すれば屈ませたり立たせたりすることもできる。しかしながら、心は強要して意思を変えさせたりはできないのである。心がよいと判断すればこれを受け、心がだめだと判断すればこれを退けるのである。ゆえに、このような言葉がある、「心の中というものは完全に自由な選択をする状態であって、先天的にこれを禁止するようなものはない。心は、自らの力で必ず全てのものを写し取って見る。なので、写し取られた外部の対象は雑駁である。しかしながら、心がそれらを選択する作用を窮めれば、認識が二つにぶれることはなくなる」と。『詩経』に、この言葉がある。:

巻耳(けんじ)采(と)り采(と)る
傾筐(てかご)に満たぬ
賢者はおらぬか、朝位に付けたし
周の朝位は、賢者がおらぬ
(周南、巻耳より)

傾筐(てかご)を満たすこと自体は、たやすいことだ。巻耳(けんじ)(注2)を得ることも、たやすいことだ。しかそれらのことは、周の朝位を思うことと併行してできないのだ。ゆえに、「心があちこちに分裂していては、知は得られない。心が偏った考えに蔽われていては、正しい取捨選択ができない。心が二つのことにぶれていては、疑惑してしまう」と言うのである。この言葉をよく噛み締めて明晰に内省するならば、外界の万物をことごとく同時に正しく認識できるのである(注3)。その正しい認識に従って己の身がなすべきことをとことんまで尽くせば、美しい完成を見ることができるだろう。同類に分類されるべき諸物は、その共通概念が二つにぶれなようにしなければならない(注4)。ゆえに、知者は唯一の正解なる判断を選択して、心を統一するのである。農夫は農業については詳しいが、治田(ちでん)などの農政官僚(注5)になることはできない。商人は市場については詳しいが、治市などの市場政策を行う官僚(注5)になることはできない。工人は器物制作について詳しいが、工師などの工民管理政策を行う官僚となることはできない。これら三者は、個別の物に詳しいにすぎない。しかしこれら三つの技能を持たずとも、農政・市場政策・工民管理政策の三官を治めることができる人間がいる。それは、統治の正道に詳しいから可能なのである。物に詳しい人間は、個別の物を物として処理するにとどまる。しかし統治の正道に詳しい人間は、全ての物を物として統括できる。ゆえに君子は正道に心を統一させることによって、万物を明晰に内省して明察できるのである。正しい意志をもって明察に論ずるならば、万物に対して正しい位置づけを与える明知が得られる。むかし、舜帝が天下を統治したやり方は、いちいち事務の詳細を配下に告げることをしなかった。しかしながら、天下の万物は見事に制御されたのであった。

心を統一することがまだ不安定であれば、心中の意志は大いに充実していたとしても(注6)、その中は多様に入り乱れていていつ崩れるか分からない。しかし心をよく養って安定させることができたならば、心中の意志は大いに充実していながら(注6)、そのことに気づくことすらない不動心の境地に至るのである。経典(注7)にこの言葉がある、「人の心は不安定であるが、正道に従った心は安定する」と。安定・不安定の境目は、ただ明察の君子となって後に知ることができるのである。ゆえに、人の心はたとえるならば水盤に張られた水のようなものである。静かに置いて動かすことがなければ、不純物は下に沈んで上澄みだけが上に留まる。これならば、鬚(ひげ)や眉(まゆ)の毛も写すことができるし、肌の目も写すことができる。しかしここに一陣の微風が通り過ぎれば、下の不純物が動いて上澄みが上で乱れ、大きな物体の姿すら写すことができなくなるであろう。心もまた、このようなものである。ゆえに、心を理性によって導き、清明な意志によってこれを養い、物に対する歪んだ見方で心を傾けることをしなければ、是非を定めることが可能となるし、疑問を裁決することが可能となる。だがほんの小さな物ですら心を乱したならば、その効果はたちまち現れて端正であった外形は変化してしまい、心中は傾いてしまい、心はおおまかな事すら裁決できなくなってしまうだろう。だからこの世に書を好む者は多いが、倉頡(そうけつ)(注8)だけが有名である。倉頡は、心を統一することができたからである。この世に農事を好む者は多いが、后稷(こうしょく)(注9)だけが有名である。后稷は、心を統一することができたからである。この世に音楽を好む者は多いが、夔(き)(注10)だけが有名である。夔は、心を統一することができたからである。この世に義を好む者は多いが、舜だけが有名である。舜は、心を統一することができたからである。倕(すい)は弓作りに、浮游(ふゆう)は矢作りに、羿(げい)は射術に詳しかった。奚仲(けいちゅう)は車制の制定に、乗杜(じょうと)は馬車作りに、造父(ぞうほ)は御者術に詳しかった(注11)。このようにいにしえから現代に至るまで、二つのことを追ってそれに詳しくなった者などは、いないのである。曾子(そうし)(注12)はこう言った、「合唱のための指揮棒を見て、『これはネズミ叩きに使える』などと考えるような輩とは、私はともに合唱の修練をすることはお断りだ!」と。とある洞窟の中に隠棲していた人間があった。その名を、觙(きゅう)と言った。この者は、透視術の達人であり、このためによく想念することを好んだ。だが彼は耳と目に欲望を誘発するものを見聞きしてしまうと、想念が破れてしまった。また蚊や虻(あぶ)の羽音が聞こえると、精神が集中できなかった。なので彼は見るもの聞くものの欲望から遠ざかり、蚊や虻からも遠ざかって、静かに黙考すればその術は冴え渡った。では、仁を思うことがこの觙のようであれば、心が安定しているといえるだろうか?いや、そうではないだろう。孟子は、妻の無礼を見て、これを離縁しようとした(注13)。これは、礼を守ることによく努力したとはいえるだろう。しかしながら、これでは觙のようによく思考した者には及ばない。有子(注14)は、眠気を退散させようとして手の平を焼いた。これは、よく忍耐したとはいえるだろう。しかしながら、これでは觙のように思考を愛する者には及ばない。その觙ですら、見るもの聞くものの欲望から遠ざかり、蚊や虻からも遠ざかるようでは、まだまだ不安定であって、心の安定には及ばない。心を安定させた者は、「至人」と言うべきである。至人になれば、心を努力することはいらず、心に忍耐することもいらず、心が不安定であることもない。ゆえに、濁明なる者は、外に向けて派手にしかし不安定に輝くが、清明なる者は、内に向けて静かにかつ確かに輝くのである。聖人は己の持てる欲を自制したりせずほしいままに行い、己の持てる情を自制したりせず快くさせて、なおかつ万事をこの世の理によって制御できるのである。聖人は心を努力することはいらず、心に忍耐することもいらず、心が不安定であることもない。ゆえに、仁者が正道を行うときには、意図して努めずあるがままに成就する(注15)。聖人が正道を行うときには、あえて努力せずとも自然体で成就する(注15)。仁者の思慮は恭しく、聖人の思考は楽しさに満ちている。これが、心を治める道なのである。


(注1)原文「神妙」。荀子は「神妙」の語を人間の持てる認知力・判断力の素晴らしさ、といった意味に用いる。議兵篇(3)では「神妙」をそのままにして訳さなかったが、ここではあえて意訳する。
(注2)巻耳は、「みみなぐさ」と訓じる。ナデシコ科の草で、ハコベの類と言う。
(注3)以上の議論より、荀子は人間の認識とは”tabula rasa”に書き込まれた感覚を心中の理性で取捨選択することによって成立する、という視点をもっていることが分かる。その心中の理性が無意識によって支配されている、といったフロイトら精神分析論の議論、人間の認識はその人間が置かれた時代と文化の特殊性に制約されている、といったレヴィ=ストロースやミシェル・フーコーら構造主義者の議論、あるいは言語が先にあって心は言語の範囲内でしか語ることができない、といった言語哲学の議論、これら現代哲学の議論と荀子の議論は、当然ながらすれ違うことになる。
(注4)原文「類不可兩也」。訳したようなことを言っていると思われるが、新釈の藤井専英氏が言うように、このあたりにはおそらく脱誤がある。ここまで精密に人間の認識を説いている荀子が、「同類は共通概念が二つにぶれてはならない」という点についてこんな説明不足の語句で終わらせることは、ちょっと考え難い。
(注5)原文「田師」。農政官僚のことだが、王制篇(5)の官職表と照らし合わせて例を追加して訳した。次の「市師」も同じ。
(注6)原文「榮」。増注は未知未詳、恐らくは栄華の身に在るを知らず、と言う。新釈は「栄」を安・利と同概念と言い、正理平治をもたらすことと言う。どの説を取っても釈然としないが、とりあえず「栄」は心中の意志が充実していることと取った。
(注7)原文「道経」。集解の郝懿行は、ここより下の格言が『偽古文尚書』大禹謨篇にもあるが、『偽古文尚書』は晋代の梅頤(ばいさく)の偽書であるので、梅頤は『荀子』のここから取って捏造したのであろう、と言っている。この格言がどのような経典から引用されたのかはもはや不明であるが、儒家において用いられていた格言集があったのであろう。
(注8)倉頡(そうけつ)は五帝の最初である黄帝の史官で、はじめて文字を作ったと伝えられる。
(注9)后稷(こうしょく)は、堯舜の下で農事によく勉めたという。周王朝の祖。
(注10)夔(き)は、舜帝の下で音楽をつかさどったという。
(注11)倕(すい)は舜帝の臣、浮游(ふゆう)は未詳、羿(げい)は伝説の弓矢の名人。奚仲(けいちゅう)は禹の臣。楊注は、奚仲は改制をしただけである、と言う。乗杜(じょうと)は諸説あり。造父(ぞうほ)は伝説の御者術の名人。
(注12)曾子は曾参(そうしん)。孔子の弟子で儒家の魯学派の祖。
(注13)『韓詩外伝』に、「孟子の妻が独りでいたときに、足を投げ出して座っていた。それを孟子は、部屋に入って見た。孟子は、母親に妻の無礼を告げて、これを離縁しようと請うた。母親はこれを止めた。孟子はここに至って自責して、妻を去らせなかった」という趣旨のエピソードがある。
(注14)有子は有若(ゆうじゃく)。孔子の弟子。孟子は有若のことを宰我・子貢と並ぶ智者と評価している。孟子公孫丑章句上、二参照。
(注15)原文「無為」「無強」。老荘思想のような解釈とならないように、意訳した。
《原文・読み下し》
心なる者は形の君にして、神明の主なり。令を出して令を受くる所無く、自(みずか)ら禁じ、自ら使い、自ら奪(うしな)い(注16)、自ら取り、自ら行き、自ら止まるなり。故に口は劫(せま)りて墨云(ぼくうん)せしむ可く、形は劫りて詘申(くつしん)せしむ可きも、心は劫りて意を易(か)えしむ可からず。之を是(ぜ)とすれば則ち受け、之を非とすれば則ち辭す。故に曰く、心の容は、其の擇(えら)ぶや禁無く、必ず自ら見る、其の物たるや雜博なるも、其の情(せい)(注17)を之れ至(きわ)むれば貳(じ)せず、と。詩に云う、卷耳(けんじ)を采り采る、傾筐(けいきょう)に盈(み)たず、嗟(ああ)我が懷(おも)う、彼の周行に寘(お)かる、と。傾筐は滿たし易きなり、卷耳は得易きなり、然り而(しこう)して以て周行に貳す可からず。故に曰く、心枝すれば則ち知ること無く、傾けば則ち精(くわ)しからず、貳すれば則ち疑惑す、と。以て之を贊稽(さんけい)すれば、萬物兼ね知る可きなり。身其の故(こと)を盡(つく)せば則ち美なり。類は兩(りょう)なる可からず、故に知者は一を擇(えら)びて壹(いつ)にす。農は田に精しくして、以て田師(でんし)爲(た)る可からず。賈(こ)は市に精しくして、以て賈師(こし)爲る可からず。工は器に精しくして、以て器師(きし)爲る可からず。物に精しき者なり。(注18)人有り、此の三技(さんぎ)を能くせずして、三官を治めしむ可し。曰く、道に精しき者なり。物に精しき者は物を物とするに以(や)め(注19)ども、道に精しき者は物を物とするを兼ぬ。故に君子は道に壹(いつ)にして、以て物を贊稽(さんけい)す。道に壹なれば則ち正しく、物を贊稽すれば則ち察なり。正志を以て察論を行えば、則ち萬物官す。昔者(むかし)舜の天下を治むるや、事を以て詔(つ)げずして萬物成る。
一に處(しょ)して之れ危(き)なれば、其の榮は滿側(もんしょく)(注20)し、一を養いて之れ微にして、榮なるも而(しか)も未だ知らず。故に道經(どうけい)に曰く、人心之れ危く、道心之れ微(び)なりと。危微(きび)の幾(き)は、惟(た)だ明君子にして而(しこう)して後に能く之を知る。故に人心は譬(たと)へば槃水(ばんすい)の如し。正錯(せいそ)して動かすこと勿ければ、則ち湛濁(ちんだく)(注21)下に在りて、清明上に在り。則ち以て鬒眉(しゅび)を見て理(り)(注22)を察するに足る。微風之を過ぐれば、湛濁下に動き、清明上に亂る。則ち以て大形の正を得可からざるなり。心も亦是(かく)の如し。故に之を導くに理を以てし、之を養うに清を以てし、物之を傾くること莫くんば、則ち以て是非を定め嫌疑を決するに足る。小物(しょうぶつ)之を引けば、則ち其の正(せい)外に易わり、其の心(こころ)內に傾けば、則ち以て庶理(そり)を決するに足らず。故に書を好む者は衆(おお)し。而(しこう)して倉頡(そうけつ)のみ獨り傳わる者は、壹(いつ)なればなり。稼を好む者は衆し、而して后稷(こうしょく)のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。樂(がく)を好む者は衆し、而して夔(き)のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。義を好む者は衆し、而して舜のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。倕(すい)は弓を作り、浮游(ふゆう)は矢を作り、羿(げい)は射に精し。奚仲(けいちゅう)は車を作り、乘杜(じょうと)は乘馬を作りて、造父(ぞうほ)は御に精し。古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て兩にして能く精しき者有らざるなり。曾子曰く、其の庭(てい)(注23)を以て鼠を搏(う)つ可きを是(み)れば(注24)、惡(いずく)んぞ能く我と與(とも)に歌わん、と。空石(くうせき)の中に人有り、其の名を觙(きゅう)と曰(い)う。其の人と爲りや、射(せき)(注25)を善くして以て好んで思う。耳目の欲接すれば、則ち其の思を敗り、蚊虻(ぶんぼう)の聲聞(きこ)ゆれば、則ち其の精を挫く。是を以て耳目の欲を闢(さ)けて、蚊虻の聲を遠ざけ、閑居・靜思すれば則ち通ず。仁を思うこと是(かく)の若くんば、微と謂う可きか。孟子は敗(はい)を惡(にく)みて妻を出す、能く自から强(つと)むと謂う可きも、今だ思うに及ばざるなり(注26)。有子は臥(が)を惡みて掌(てのひら)を焠(や)く、能く自から忍ぶと謂う可きも、未だ好むに及ばざるなり。耳目の欲を闢(さ)け、[可謂能自强矣、未及思也]蚊虻(ぶんぼう)の聲[聞則挫其精]を遠ざくるは(注27)、危と謂う可くして、未だ微と謂う可からざるなり。夫れ微なる者は、至人なり。至人なれば、何をか强(つと)め、何をか忍び、何をか危ならんや。故に濁明は外に景(えい)し、清明は內に景す。聖人は其の欲を縱(ほしいまま)にし、其の情を兼(こころよ)くし(注28)、而(しこう)して焉(これ)制する者は理なり。夫れ何をか强め、何をか忍び、何をか危ならんや。故に仁者の道を行うや、無為なり。聖人の道を行うや、無强なり。仁者の思や恭しく、聖者の思や樂し。此れ心を治むるの道なり。


(注16)新釈の藤井専英氏は「奪」は「取」の反対語でなければならず、「落・失」の意と言う。これに従う。
(注17)集解の王先謙は、「情」は「精」の借字である、と言う。
(注18)原文「精於物者也」。原文では次文の「道に精しき者なり(精於道者也)」の下にある。集解の盧文弨は、「精於物者也」は前の文の後に置くべし、と言う。兪樾は、原文の並べ方のままで疑うは「精於物者也」の前に「非」字があるべしと言う。新釈・金谷治氏は盧文弨に従っている。ここは盧文弨に従って移す。なお漢文大系は原文のままで「道に精しければ、物に精しき者なり」と読み下している。
(注19)新釈の藤井専英氏は、「以」は「已」に通じる、と言う。「やむ・ただそれのみ」。
(注20)新釈の藤井専英氏は、「満」は「懣」に通じ、「側」は中正を失う意、と言う。
(注21)楊注は、「湛」は「沈」と読む、と言う。
(注22)ここでは、きめ細かなもの、という意味。楊注は皮膚の文理、と言う。
(注23)楊注・集解の盧文弨はそのまま庭のことと解する。しかし新釈の藤井専英氏は高享を引いて、庭は「くさかんむりに庭」の字であろう、と言う。「てい」と読み、歌う時に調子をとる棒の意。これが最も明快なので、これに従う。なお、この字はCJK統合漢字拡張Aにもない。
(注24)増注は「是」は「諟」と通じると言う。「みる」。
(注25)集解の兪樾は、「射」は疑うは射策(せきさく)・射覆(せきふく)のことと言う。物を伏せてその中身を当てる術。いわゆる透視術。これに従う。
(注26)猪飼補注に従い、下の文からここに移す。注27参照。
(注27)原文「闢耳目之欲、可謂能自强矣、未及思也、蚊虻之聲、聞則挫其精、可謂危矣、未可謂微也」。この箇所は文に混乱があり、論者は錯簡を疑う。猪飼補注は「未及思也」を上のアンダーラインに移し、「可謂能自强矣」「聞則挫其精」を衍とみなし、「蚊虻之聲」の上に「而遠」を補う。一応は、これに従っておく。
(注28)増注は、疑わくは「兼」は「慊」に作るべし、と言う。こころよい。

さきの箇所からの、続きである。正しい知見を得るために精神を集中して雑念を除け、という荀子の教えは、独特のものではない。朱子学がまさにそうであるし、ギリシャ以来の西洋哲学でも、多く語られてきたところである。だが、荀子にとって正しい知見を得ることの目的は、ギリシャ哲学のように純粋な学問に奉仕するためではない。朱子学のように人間として倫理的完成を目ざすことは、「勧学篇」の議論のように荀子にとってももとより目指すところである。しかし、荀子にはもっと実際的な目的がある。それは、上は聖人として国家を統合する明察の指導者となることであり、下は官僚として行政を執るパワーエリートとなることである。国家を運営する官僚は、農民・商人・工人が職業に特化した個別の知識しか持たないのに対して、これらを統括する総合的な知識を持たなければならない、と荀子は考えるからである。「富国篇」の議論にあったように、人間は国家の権力に従い、その与える秩序の中に服しない限り、己の生存と富を確保することができない。そのように荀子は考えるので、国家の支配者である君主と官僚の役目は、社会全体の福祉の増大のためにその知識をもって運営するところにある。よって国家の君主ですら官僚の頂点にある役職にすぎず、その地位にある者は最高の知徳を要求するのであった。そのことは、「正論篇」で見たところである。

だから、ここでの荀子の議論は、為政者に向けた心得であると考えなければならない。荀子はこの解蔽篇で、為政者に対して、国家を運営するためには被統治者を統括するための明察な知識を持て、と言うのである。これを官僚の傲慢とみなすか、あるいは国家運営の局地に立つ官僚はそれだけの能力と気概がなくてはならない、と捉えるか。現代の者は、よく考えなければならないだろう。

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