勧学篇第一(4)

By | 2015年3月31日
では、学ぶことはどこから始めてどこで終わるべきであるか?
それはこうである。まず入門のカリキュラムは、美しい格言を繰り返し唱えて、体で人の道を覚えこむ。そこから進んで応用のカリキュラムは、人間社会のルールである礼を熟読して、よき社会人となるのである。学ぶことの目的には、まずいっぱしの士(宮廷人として最低ランクの存在)となるところから始めて、最後には聖人(最高段階の人間、あるいは国家の統治者)を目指すのである。真に学問を積み、努力すること久しければ、必ず聖人にまで至るはずだ。学ぶことは、死んではじめて終わるものだ。学ぶカリキュラムには、終わりがある。しかし学ぶ目標については、いかなるときも一瞬たりとも捨て置いてはならないのである。これを行う者が、人間というものだ。これを捨て置く者は、しょせん禽獣(きんじゅう。ケダモノ)の域を出ない。『書経』(古代王朝の法令集)はわが国の政治の軌跡である、学ばなければならない。『詩経』はわが国の均整ある歌の文化の極地である、学ばなければならない。礼すなわち礼儀規則は、わが社会の法の大筋であり、法判断(注1)のガイドラインなのである、これも学ばなければならない。ゆえに、学ぶことは礼を最終目標としなければならない。これがわが国の道徳の本源なのだからだ。礼を学べば、恭敬の精神と文化故実の詳細が身に付く。音楽を学べば、ハーモニーの美が身に付く。『詩経』と『書経』を学べば、知識豊富となる。『春秋』を学べば、微言大義(びげんたいぎ。簡潔な記録の中に豊富な意味を込める叙述法)の読解力が身に付くのである。これら学問の体系を学ぶことを通じて、天地の間にある知識は全てカバーできるのである。

君たちが学ぶときには、耳から入って心に留め、身体に行き渡って、立ち居振る舞いにまで好影響を及ぼし、ちょっとした言葉の端にも、ちょっとした動作の中にも、ただ一つの礼の規則に則るようでなくてはならない。だが小人が学ぶときには、耳から入ってすぐに口に出す。口と耳の間は四寸(9cm)しかないのだから、そんなことでは七尺(157.5cm)の身体を美にするには足りない。こんな言葉があるだろう、「古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にする」(論語、憲問篇の言葉と同じ)と。これが、今どきの風潮だ。君たちが学ぶときには古の学ぶ者のようでなくてはならず、己の身を美にすることを目標としなければならない。だが小人が学ぶときには、禽犢(きんとく、ケダモノ)が作られるばかりなのだ。だから連中は、問われないのにべらべらとしゃべる。耳障りである。一つの質問に対して、余計なことを付け加えて返答する。しゃべりすぎである。耳障りでしゃべりすぎでは、いけない。君たちは、打てば美しく響くように簡潔に答えなければならない。(正道をよく理解し、己を美しくする学び方をするべきである。知識を持っているだけで正道が理解できないような学び方は、ものの役に立つ人間を作らない。)

「学は其の人に近づくより便なるはなし」(学ぶためには、しかるべき師にお近づきになって学ぶ以上に、効果的なことはない)。なぜならば、礼と音楽はテキストの中に法則が記されているだけであって、それだけでは解説が分からない。詩経と書経のテキストはあまりに古い文献であるので、そのままでは現代に役立てる術が分からない。春秋はあまりに簡潔な歴史書なので、なかなか理解できない。なので、しかるべき師に従って、君子の正統な学説を学ぶことによって、尊重される存在となって周囲に名声が聞こえるようになるのである。ゆえに、「学は其の人に近づくより便なるはなし」だ。学ぶ道は、信頼できる師に好んでついて行くよりも速習できることはない。その次に効果的な学び方は、礼を尊んで体化することを心がけることだ。もし師を好むことができず、また礼を尊ぶこともできず、単に雑駁な知識を学ぶばかりで、それで詩経や書経を手に取ったらどうなるか?一生が経った後でさえ、知識不足の三流教師(注2)で終わるのが関の山だ。わが国の文明を作り出した建設者である先王たちの業績を慕い、仁義の道に基づこうと志すならば、礼はまさしく学ぶ正道なのである。挈裘(きゅうれい。毛皮のコート)を手でぶら下げたならば、毛は綺麗に一方向に向かう。礼もそれと同じで、全てが正道に綺麗に向かっているのである。礼に従わず、礼から派生する国法を理解せず、詩経や書経の知識だけで立派な人間となろうとするのは、たとえるならば指で川幅を測ること、戈(ほこ)で黍(きび)を搗(つ)くこと、錐で壷の中から食べることであり、ものになりはしないのである。ゆえに、礼を尊べば、まだ理解が不十分であっても国法の守護者ということができる。だが礼を尊ばないならば、たとえ聡明で能弁であっても世の役に立たない無能教師(注2)である。


(注1)原文「類」。『荀子』にはこの語がしばしば出てくる。法の明文がない事項について統治者が判断すべき基準のことを指す。あるいは礼義の正義の原理に基づく類推判断を指し、またあるいは類似の判例を参照した判断を指すと考えられる。ここでは法判断と訳しておいた。
(注2)原文は「陋儒」および「散儒」である。「儒」とは周王朝に滅ぼされた殷の遺民の村で、祭祀と教育を担った存在であったという。『荘子』の中には、徒党を組んで墓の盗掘を生業としていたいかがわしい「儒」が書かれている。その中から知識人集団として上昇したのが孔子の言う「君子儒」であり、相変わらず村で祭祀と教育を担う身分の低い「小人儒」も並列して存在していた。なので、「儒」を教師と訳した。(参考文献:重澤俊郎『周末の社会及び文化の特質』)
《原文・読み下し》
學は惡(いず)くにか始り、惡くにか終る。曰く、其の數は則ち誦經(しょうきょう)に始まり、讀禮(どくれい)に終わる。其の義は則ち士爲(た)るに始まり、聖人爲るに終わる。眞に積み力(つと)むること久しければ則ち入る。學は沒するに至りて而(しこう)して後に止む。故に數を學ぶは終り有るも、其の義の若きは則ち須臾(しゅゆ)も舍(す)つ可からず。之を爲せば人なり、之を舍つれば禽獸(きんじゅう)なり。故に書なる者は政事の紀なり、詩なる者は中聲の止まる所なり、禮なる者は法の大分なり、類(るい)(注3)の綱紀なり。故に學は禮に至りて止む。夫れ是を之れ道德の極と謂う。禮の敬文や、樂の中和や、詩書の博や、春秋の微や、天地の閒に在る者畢(つく)せり。
君子の學や、耳に入りて、心に著(つ)き、四體(したい)に布(つ)き、動靜に形(あら)わる。端(ぜん)にして言い、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し。小人の學や、耳に入りて、口に出づ。口耳の閒(かん)は則ち四寸のみ、曷(いずく)んぞ以て七尺(しちせき)の軀(く)を美にするに足らんや。古の學ぶ者は己が爲にし、今の學ぶ者は人の爲にす。君子の學や、以て其の身を美にし、小人の學や、以て禽犢(きんとく)と爲る。故に問わずして告ぐ、之を傲(ごう)と謂い、一を問いて二を告ぐ、之を囋(さつ)と謂う。傲は非なり、囋も非なり。君子は嚮(ひびき)の如し。
學は其の人に近づくより便なるは莫し。禮樂は法にして說かず、詩書は故にして切ならず、春秋は約にして速ならず。其の人に方(なら)いて君子の說を習わば、則ち尊にして以て遍なりて、世に周す(注4)。故に曰く、學は其の人に近づくより便なるは莫しと。學の經は、其の人を好むより速きは莫く、禮を隆(とうと)ぶこと之に次ぐ。上其の人を好む能わず、下禮を隆ぶこと能わず、安(すなわ)ち(注5)特(ただ)に將(まさ)に雜[識]志を學び(注6)、詩書に順(したが)わんとするのみ。則ち末世窮年まで、陋儒(ろうじゅ)爲ることを免れざるのみ。將に先王に原(もと)づき、仁義に本づかんとすれば、則ち禮は正に其の經緯(けいい)・蹊徑(けいけい)なり。挈(きゅう)の裘(えり)を領(ひっさぐ)るが若し、五指を詘(かが)めて之を頓(ひ)けば、順(したが)う者は勝(あ)げて數う可からざるなり。禮憲に道(よ)らずして、詩書を以て之を爲すは、之を譬(たと)うるに猶(なお)指を以て河を測り、戈(か)を以て黍(しょ)を舂(つ)き、錐を以て壷に飡(そん)するがごとし、以て之を得る可からず。故に禮を隆べば、未だ明ならずと雖も法士なり。禮を隆ばざれば、察辯(さつべん)と雖も散儒なり。


(注3)宋本は「羣(群)類」であり元刻は「類」である。集解は王念孫の説を引用して、ここでいう「類」の意味は法の対立語であるので、「羣」字は除くべきと言う。
(注4)原文「則尊以遍矣、周於世矣」について、増注は最初の「矣」字は衍字(よけいな文字)であると言う。ならば「則ち尊にして以て世に遍周す」と読み下すべきである。猪飼補注は、「周於世矣」が後人が追加した贅文であると言う。
(注5)「安」は語助。「案」とともに『荀子』テキストで多用される。「則」の同義。
(注6)増注は荻生徂徠の説を引いて「志」を衍字と言い、集解は王引之の説を引いて「識」の字が誤入であると言う。集解に従う。

学ぶときには、正しいカリキュラムを学び、体に染み付くように学び、そして立派な先生からマンツーマンの指導を受けなければならない。最後のことは、学問や芸事は子弟間の心の伝承であることを言っているのだ。教科書に書かれている内容は無味乾燥であり、人間の心が入っていない。教わることは、先生の立派な面だけでなくて、困ったところや足りないところまで先生の人間としての生き様全てを受け取るのが最上であるはずだ。このことは、私は昔は分からなかったが、今になるとそうであるに違いないと考え直すようになった。私は人生の師を慕って付いて行く経験がなかったので、学問が中途半端なのである。現在の私にとって、記憶に残る先生は高校三年時代(1986年)の担任であったM先生ぐらいしかいない。しかしM先生は日本史が担当であり、私は世界史を選択していたので、ついぞ授業を受けることができなかった。戦前の国士北一輝の熱烈な信奉者であり、当時の私はポストモダンで左傾という当時の高二病患者であったので、リベラルなM先生にしてこの趣味はいかがなものか、と理解に苦しんだものであった。しかし今となって思えば、日本を憂う心が穏やかな語りの奥に烈々とあられたのであろう。師に教わることとは、良い面も困った面も合わせて懐かしみ、人の生き様という総合的知識を教わるものである。この教育は、インターネットではなかなか達成できないであろう。

荀子はこうして師を選ぶように語るとき、最上の師は自分であると自負していたはずである。荀子は、孟子亡き後の儒家界で最大の知識人であった。漢代にまとめられた礼のテキスト集の一つである『大戴礼記(だたいらいき)』には、荀子の叙述と重複する点が多い。これは、荀子が主に編集したテキストが儒家の礼関係文献では重視されていた痕跡であると思う。また『孟子』では『論語』からの引用は前半十篇からが比較的多い。それに比べて荀子の引用はここのくだりのように後半十篇から目立つ。わが国の伊藤仁斎は、『論語』の前半十篇と後半十篇では性質が異なっていると見抜いた。これを武内義雄氏は『論語の研究』において前半を魯学派の伝承を中心としたものであり、後半を主に斉学派の伝承を中心としたものであろう、と考証した。魯学派は孔子の死後に彼の生国である魯国で起こった派閥であり、孟子はこちらに含まれる。いっぽう斉学派は孔子の弟子、子貢(しこう)から始まり斉国で起こった派閥である。荀子の生国は儒家不毛の地であった趙国であり、そこから斉の儒家界にデビューした。斉で荀子は個人倫理を重視する魯学派よりも、政策論に重点を置く斉学派に近い立場を取っていたと想定してみたい。荀子は、孟子やその師である子思(しし。孔子の孫)を誤った儒家の先行者たちとして辛辣に批判するのである。

さて荀子はここで儒家として推奨するカリキュラムを詳説する。礼儀規則を学び、音楽を学び、『書経』『詩経』『春秋』を師について詳しく学ぶべきであると言う。中華文明の歴史・国語・音楽・道徳修身の学習である。そう考えると、内容は変わっているが現在の教育と教科はそんなに変わらない。この他に、士が学ぶ六芸(りくげい)には計算術があり(数)、弓術があり(射)、馬車の運転術があり(御)、書道があった(書)。なので初等数学と武芸もあったのである。もっとも、古代ギリシャのように体育教育を最重視することはなかった。西洋の英雄は裸体となっても美しいことに憧れるが、中華世界の君子は上半身ですら裸になることは非礼の極みであった。

しかし、荀子は古典を尊重するとはいえ、古典がそのままでは現代の役に立たないことを認めている。古典の現代的意義を師から解説されず、ただ独学で詩経や書経を学んで知識人ぶる者を、荀子は三流教師と蔑み、志ある君たちはそうなってはならないと説くのである。そして礼儀規則を学ぶことを通じて、現代の世界の法の精神を読み取り、為政者の勘を育め、と言うのである。これは、荀子が中華世界の伝統の中に現代の社会の運営にも通じる共通の精神、言い換えれば「国の基本的かたち」がずっと続いているという考えを持っているからであろう。儒家は、こういう伝統重視の考え方をするのである。現代の思想用語では、保守主義という。荀子は儒家として保守主義を取るが、古い伝統を無批判に現代に適用するのではなくて、伝統を現代の状況に当てはめる形に応用して用いよ、と言うのである。これは、自らの文化に対する強い自信があってこそ可能なことである。近年日本は保守化していると言われるが、日本を否定することが精神のバネとなっていた戦後時代の活力がようやく尽きて、かつ日本を否定するために理想とするべきモデルも今やなくなってしまい、自分の伝統に回帰することが国民の人情となっていることが、背景にあるのであろう。日本は、立派な文化を持った国である。だがそれに安住するだけではいけない。荀子が説くように、よき伝統を好んでかつそれを現代に生かす知的な努力を続けなければならない。

荀子は、現代の社会の運営のためには伝統である礼の精神を現代的文脈で理解して、これを生きた術として活用せよと説く。当時のエリートは、現代日本の国家一種官僚と弁護士と大学教授を合わせたような、知識人兼法律家兼政策立案者である。教養を持って尊敬される存在であると同時に、政策も立てる能力がなければならない。荀子は何が何でも古い伝統を守るのではなく、現代の法や政治にも古い時代の制度と共通した精神があることを認め、より現代に即した統治に応用するべきことを説く。荀子のこの考えは、「後王思想」などと呼ばれる。「後王思想」は、『荀子』の特定の篇に固まって論じられているわけではなくて、諸篇に散らばって時折言及される。荀子は中華世界の伝統を保守するスクールである儒家に属していたが、現実の国家を統治する問題を考察するときには、はるか昔の中華文明の建設者たちの伝説にばかり拘泥するわけにはいかなかった。なので、現代の統治の中にも見られる合理的で理性的な側面は、先王たちの理念を継承しているはずだと考えて、それらを手本とすることを認めるものであった。このような荀子の視点の延長線上に、彼の弟子の李斯と韓非子がいたはずである。李斯と韓非子は、統治者が任意に制定する新しい法を社会に適用し、これによって社会を操作することを有効とみなす法家思想を信奉した。彼らの考えは、確かに荀子の「後王思想」の発展上にある。荀子自体はおおむね保守的な儒家の範囲内に留まったが、彼の思想の中には法家思想に繋がる面があったのは確かなことであると、私は考える。

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