造父(ぞうほ)(注1)は、天下の御者で最上の人間である。だが、車と馬が与えられなければその能力を示すことはできない。羿(げい)(注2)は、天下の弓手で最上の人間である。だが、弓と矢が与えられなければその能力を示すことはできない。大儒は、最もよく天下を調和させて統一させる人間である。だが、百里四方の土地が与えられなければその功績を示すことはできない(注3)。だが堅固な車とよく整えた馬を揃えて、それで一日千里の遠くまで走ることができないならば、造父とはいえない。よく整えた弓と真っ直ぐな矢を揃えて、それで遠くにある小さな的を射抜くことができないならば、羿とはいえない。そして百里の土地を与えられて、それで天下を調和させて統一し、強暴なる者を制圧することができなければ、大儒とはいえない。この大儒という存在は、たとえ貧民街の陋屋に隠棲して、錐を立てる土地すら持っていなくても、王公ですら名声を争うことができず、大夫程度の位階であったとしても、一人の君主も手元に置き続けることができず、その名声は諸侯を凌駕して、諸侯は競ってこれを家臣とすることを願わずにはいられない。だから大儒がたった百里四方の土地を用いたとしても、千里四方の国はこれと勝負することもできず、強暴の国を鞭で叩いて使役し天下を斉一して、この国を傾けることができる敵などはいなくなるのである。これが、大儒の証拠である。大儒の言葉は正しい分類に従い、大儒の行為は礼義に従い、大儒が行動を起こすときにはいかなる後悔もありえず、大儒が難事に当たるときには変化に応じてことごとく適切な措置を行い、時とともに応変し、世とともに応変し、千事に万変するも、その取る道は一つで何の変化もない。これが、大儒の行為である。大儒が窮迫すると、俗儒どもはこれを笑う。しかし大儒がことをうまく成し遂げると、英傑でもこれに教化され、無茶苦茶な人間どもはこれから逃れ、邪説を立てる者どもはこれを恐れ、一般人たちはこれの偉大さを見て自ら恥じ入るのである。ことを成し遂げるときには天下を統一し、しかし窮迫するときには一人でその貴い名声を立てる。天であってもこれを死に追いやることはできず、地であってもこれを埋め去ることはできず、桀(けつ。代表的な悪王)・盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)のはびこる末世であっても、これを汚すことはできない。大儒でなければ、このような姿で世に立つことはできはしない。仲尼(ちゅうじ)・子弓(しきゅう)(注4)が、これに当たるのである。
ゆえに、俗人がいて、俗儒がいて、雅儒がいて、大儒がいる。学問をせず、正義もなく、富と利益を尊ぶ者。これが、俗人である。ゆるやかな衣に薄い帯をしめ、冠を高く被り、大方は先王の道に則りながら理解不十分ゆえにかえって社会の統治術を乱し、誤った学問を雑駁に列挙し、現代の君主(注5)に則って国家の制度を斉一するべきなのに、そのことを知らず、まず尊ぶのは礼義であって『詩経』『書経』の学問はその後に置くべきなのに、そのことを知らず、その衣冠と行為はすでに世俗の者と同じなのに、それを憎むことを知らず、その言葉と弁論はすでに邪説の墨子(ぼくし)と同じなのに、邪説と正道とを分ける見識力を持たず、先王のことを口に出して愚者を欺き、衣食を要求し、財貨を得て口を養うことができれば上機嫌となり、諸侯の太子に付き従い、諸侯にへつらう側近どもに仕え、諸侯の有力な食客どもを褒め称え、平然として諸侯の終身の捕虜のように従って、それ以上の志を持たない者。これが、俗儒である。次に、現代の君主に則って国家の制度を斉一にし、礼義を尊んで『詩経』『書経』の学問は後回しにして、その言葉と行動には大いなる礼法が示されているが、しかしながらその見識力はいかなるときにも斉一であるまでには至らず、礼法と教えが及ばない事象とか、あるいは見聞がまだ得られない事象などに直面したときには、これらを類推によって正しく判断するだけの知を得るには至らない。ゆえに、知っているものは知っていると言い、知らないものは知らないと正直に言う(注6)。その心中は他人を誹謗することなく、また他人によってその心中が欺かれることもない。こうして賢者を尊んで礼法を畏れて、怠けることも傲慢となることもしない者。これが、雅儒である。先王に則って礼義を統制し、制度を斉一して、身近な情報から深遠な知識を獲得し、いにしえの礼法の原理に沿って現代の事象を理解し、一つの正道に沿って万物を理解し、いやしくも仁義の正道に沿った事象であるならば、たとえ鳥や獣のことであってもそれが本当のことか誤った情報であるかを白と黒を分けるように容易に判別し、それどころかいまだかつて見たことのない事象が突然あるところで発生したとしても、それが入るべきカテゴリーを判断してその事象を分類してこれに対応し(注7)、疑心してためらうことなどはない。礼法を万物に張り巡らせて、万物を礼法によって計量することによって、割符を合わせるかのように見事に正しく理解して判断する。これが、大儒である。ゆえに、君主が俗人を登用すれば、万乗(ばんじょう)の国(注8)ですら滅亡するであろう。俗儒を登用すれば、万乗の国はようやく存続できるに留まるであろう。雅儒を登用すれば、千乗の国は安泰となるであろう。そして大儒を登用すれば、百里四方の小国であっても長らく存続できて、しかも三年の後には天下を統一して、諸侯をその家臣とすることができるだろう。であるから大儒がもし万乗の国に登用されたならば、その挙動一つで天下は平定され、一日にしてその功績は明らかとなるであろう。 (注1)造父は、有名な御者。性悪篇(6)注5参照。
(注2)羿は、伝説の弓の名人。 (注3)孔子・子弓は大儒であったが、政治を執るための土地を与えられなかったので天下を平定する功績を挙げることができなかった、と言いたいのである。つまり、荀子が大儒と称えるが天下平定の功績を挙げられなかった孔子・子弓を弁護するためのエクスキューズとして、この前置きがある。 (注4)仲尼は、孔子の字(あざな)。子弓は、詳細不明。非相篇(1)コメントの考証を参照。 (注5)原文「後王」。後王が指す対象についての考証は、非相篇(3)コメント参照。本サイトでは、現代の君主の意味に取る。 (注6)原文読み下し「之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰う」。論語為政篇の「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是(これ)知なり」を想起させる。しかし荀子の分類では、この段階の知では雅儒であり、俗儒より上であるが完全とはいえない。大儒は以下に述べるように完全な判断力を持つ者であって、「知らざる」ことに直面しても完全に正しい類推を行うことができる者であり、よって「知らず」と言うことなどありえないと言うのである。荀子は大儒(聖人と言い換えてよい)が一般の雅儒(士・君子と言い換えてよい)を凌駕する完全な知の保有者であることを主張するために、このような非現実的な叙述を大儒に当てはめる結果となる。 (注7)原文読み下し「統類を舉げて之に應じて」。未知の事象に直面したとき、それが入るべきカテゴリーを判断して分類し、理解可能な事象に位置づける。ここで荀子は、既知のカテゴリーに当てはめて未知の事象を理解する、という固定的な認知の構造を言っている。未知の事象に直面することによって既知のカテゴリーがゆらぎ、結果として新しいパラダイムが発生する、というパラダイム・シフトの可能性は、全く想定されていない。 (注8)万乗の国とは戦車一万台を用意できる国、という意味で、戦国時代における大国の代名詞。つづく千乗の国は、よって中規模の国の代名詞である。 |
《原文・読み下し》 造父(ぞうほ)なる者は天下の善く御する者なり、輿馬無ければ則ち其の能を見(あら)わす所無し。羿(げい)なる者は天下の善く射る者なり、弓矢無ければ則ち其の巧を見わす所無し。大儒なる者は善く天下を調一する者なり、百里の地無ければ則ち其の功を見わす所無し。輿は固く馬は選びたり、而(しか)も以て遠きを至(いた)して一日にして千里なること能わざれば、則ち造父に非ざるなり。弓は調(ととの)い矢は直くして、而も以て遠きを射て微に中(あ)つること能わざれば、則ち羿に非ざるなり。百里の地を用いて、而も以て天下を調一し、强暴を制すること能わざれば、則ち大儒に非ざるなり。彼の大儒なる者は、窮閻(きゅうえん)・漏屋(ろうおく)に隱れ、置錐(ちすい)の地無しと雖も、而も王公も之と名を爭うこと能わず、一大夫の位に在るも、則ち一君も獨り畜(とど)むること能わず、一國も獨り容るること能わず、成名は諸侯より況(さかん)にして、得て以て臣と爲すことを願わざる莫し。百里の地を用いて、而も千里の國能く之と勝を爭うこと莫く、暴國を笞棰(ちすい)し、天下を齊一して、而も能く傾くる莫し、是れ大儒の徵(ちょう)なり。其の言は類有り、其の行は禮有り、其の事を舉(あ)ぐるや悔無く、其の險を持するや變に應じ曲(つぶ)さに當り、時と遷徙(せんし)し、世と偃仰(えんぎょう)し、千舉萬變するも、其の道一なり。是れ大儒の稽(けい)なり。其の窮するや俗儒之を笑うも、其の通ずるや英傑も之に化し、嵬瑣(かいさ)(注9)は之を逃れ、邪說は之を畏れ、衆人は之を愧ず。通ずれば則ち天下を一にし、窮すれば則ち獨り貴名を立つ。天も死せしむること能わず、地も埋むること能わず、桀(けつ)・跖(せき)の世も汙(けが)すこと能わず、大儒に非ざれば之に能く立つこと莫し、仲尼(ちゅうじ)・子弓(しきゅう)是れなり。 故に俗人なる者有り、俗儒なる者有り、雅儒なる者有り、大儒なる者有り。學問せず、正義無く、富利を以て隆(とうと)しと爲す、是れ俗人なる者なり。逢衣(ほうい)・淺帶(せんたい)、其の冠を解果(かいら)(注10)にし、略(ほぼ)先王に法(のっと)りて而も世術を亂すに足り、繆學(びゅうがく)雜舉(ざっきょ)し(注11)、後王に法りて制度を一にするを知らず、禮義を隆(とうと)びて詩書を殺(そ)ぐ(注12)ことを知らず、其の衣冠・行僞(こうい)は、已(すで)に世俗に同じ、然り而(しこう)して惡[者](にく)む(注13)ことを知らず、其の言議・談說は、已に墨子に異なること無し、然り而して明(めい)は別(わ)くること能わず、先王を呼び以て愚者を欺き、衣食を求め、委積(いし)を得て以て其の口を揜(おお)うに足れば、則ち揚揚如(ようようじょ)たり。其の長子に隨い、其の便辟(べんべい)に事(つか)え、其の上客を舉(ほ)め、億(*)然(おくぜん)(注14)として終身の虜の若くにして、敢て他志有らず、是れ俗儒なる者なり。後王に法り制度を一にし、禮義を隆びて詩書を殺(そ)ぎ、其の言行は已に大法有り、然り而して明は齊(ひと)しくすること能わず、法敎の及ばざる所、聞見の未だ至らざる所は、則ち知は類すること能わざるなり。之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰う、內は自ら以て誣いず、外は自ら以て欺かず、是を以て賢を尊び法を畏れて敢て怠傲せず、是れ雅儒なる者なり。先王に法り禮義を統べ、制度を一にし、淺を以て博を持し、古を以て今を持し、一を以て萬を持し(注15)、苟(いやしく)も仁義の類なれば、鳥獸の中に在りと雖も,白黑を別つが若く、倚物(きぶつ)・怪變(かいへん)の、未だ嘗て聞かざる所、未だ嘗て見ざる所、卒然として一方に起これば、則ち統類を舉げて之に應じて、儗㤰(ぎたい)(注16)する所無し。法を張りて之を度(はか)れば、則ち晻然(えんぜん)として符節を合するが若し、是れ大儒なる者なり。故に人主俗人を用うれば、則ち萬乘の國亡び、俗儒を用うれば、則ち萬乘の國存し、雅儒を用うれば、則ち千乘の國安く、大儒を用うれば、則ち百里の地も久しく、而(しか)も後(のち)三年にして、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。萬乘の國を用うれば、則ち舉錯(きょそ)して定まり、一朝にして伯(あきら)かなり(注17)。 (*)原文は「にんべん+患」。CJK統合漢字および同拡張Aにないので、やむなく代用する。
(注9)「嵬瑣」は、大につけ小につけ無茶苦茶な行いをすること(人)。非十二子篇(1)注10参照。
(注10)「解果」について楊注本説、増注は未詳と言う。集解の盧文弨は楊注或説の『説苑』の引用から、蠏螺(蠏堁)となすべし、と言う。蠏螺は高地のこと。増注は非十二子篇で「其の冠を弟佗(ていた)にし」とあり、 解果が弟佗と関係があるかもしれない可能性を示唆している。弟佗は、だらしなくゆるんでいること。漢文大系・新釈は蠏螺の方向で解釈しいて、金谷治氏は弟佗の方向で解釈している。いちおう蠏螺の意味とみなしておく。 (注11)ここまで原文「而足亂世術繆學雜舉」。猪飼補注は『韓詩外伝』の引用に「舉」字がなく、この字おそらく衍字と言い、「而足亂世、術繆學雜[舉]」と区切る。読み下せば、「世を乱すに足り、術は繆に、学は雑にして」となるだろう。金谷治氏はこの読み方に沿っている。しかし、「舉」字を衍字とみなさず読む楊注を採用する漢文大系および新釈に賛同したい。 (注12)集解の郝懿行は「殺」字はけだし「敦」字の誤り、と言う。漢文大系はこれに従っている。金谷治氏および新釈の藤井専英氏は「殺」字をそのまま減殺の意に解している。両者ともに勧学篇において礼義を尊ばずに詩書に従うだけの儒者を「陋儒」と批判していることをその根拠として挙げる。「下禮を隆ぶこと能わず、安(すなわ)ち特(ただ)に將(まさ)に雜[識]志を學び、詩書に順(したが)わんとするのみ。則ち末世窮年まで、陋儒(ろうじゅ)爲ることを免れざるのみ」(勧学篇(4))。金谷・藤井説に従う。つづく「殺」字も同様。 (注13)原文「然而不知惡者」。増注、集解の王念孫ともに「者」字は衍字と言う。 (注14)集解の王念孫は、「にんべんの右に『立+患』」字の誤りか、と言う。この字は「億」字に通じ、「安」の意である。よって「億然」「安然」、すなわち平然の意に取る。 (注15)楊注はここまでのくだりについて、「先王」はまさに「後王」となすべく、「古を以て今を持し」は「今を以て古を持し」となすべし、と注している。ここのくだりは、藤井専英氏の指摘するように、非相篇末尾の文章「近きを以て遠きを知り、一を以て萬を知り、微を以て明を知る」に対応したものであろう。だが非相篇においては古い時代よりも後王を参照するべきだ、と言っているために、楊注はかくのごとき入れ替えを主張しているに違いない。楊注のように入れ替えたほうが、確かに解釈としては分かりやすい。しかし増注の久保愛が言うように、荀子の本意は先王の道を勧めるものであって、その上で後王の道もまた先王の道と合致しているからこれに則ることは正しいと言っているのである。なので久保愛は「本注(楊注のこと)は拘(なず)むなり」と言って、楊注が他篇の言葉に拘泥している、と評している。確かに原文のままに後王=雅儒、先王=大儒、と対比させたほうが文章として美しく、しかも著者の本意を示すことができるだろう。なので、原文のままにしておく。 (注16)原文の「㤰」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。増注は「㤰」はまさに「慸」字に作るべく、「慸 」は「滞」と同じ、と言う。増注に従う。「儗滞」は、心に疑ってためらうこと。 (注17)原文「一朝而伯」。楊注は「伯」は読んで「覇」となす、と言う。集解の王念孫はこれに反対し、読んで「白」たるべしと言う。「白」は顕著、明らかの意。すなわち大儒が万乗の国を用れば覇者どまりであるはずがなく、一日で名声が天下に明らかとなるはずだと言うのである。王念孫説に従う。 |
俗儒を批判して孔子と子弓を賞賛することは、非十二子篇後半の叙述と共通している。後王に則るべきことは非相篇に共通しているが、注でも述べたところだが、荀子は後王(上の訳では、「現代の君主」とした)と先王とが同一の原理に従っていると考えるので、後王を肯定するのである。後王は先王よりも時代がより近くて、得られる情報がより明確であり、これの制度に見習うことは間違いではない。荀子はその理由で後王を肯定するのであって、荀子が後王に則るべきだと言うことは、先王の制度を軽視するべきだと言う意味では決してない。荀子はいにしえの時代から現代まで人間社会を統治する正道は一切変化していないと考える、歴史不変論者なのである。詳細は非相篇で検討した。
荀子が大儒の能力を非現実的なまでに過大評価している点においては、どうやら孟子と変わるところがないようだ。荀子の「百里四方の土地でも三年で天下を統一できる」といった言葉は、孟子の「文王を手本とすれば、大国は五年で必ず天下に政治を行えるようになり、小国でも七年で必ずそうなるであろう。」(離婁章句上、七)という言葉と何ら変わることがない。孟子も荀子も理想だけを重視して、理想を現実化させるときの困難な過程を考えようとしない。孔子を大儒と称える荀子には悪いが、たとえ孔子が百里四方の地の小国を与えられたとしても、三年で天下を統一するようなことは絶対に不可能であったろう。現に孔子は百里四方よりもずっと大きな魯国で大司寇の高位にあり、そこで数年の間政治の中枢にあったのである。しかし孔子は天下の平定はおろか、魯国の改革にすら失敗して国を去らざるをえなかった。荀子の言葉は、孔子の本当の実績を無視した空想の孔子像である。