『荀子』の名句・成語

『荀子』は主に理論的叙述が中心の著作であり、『史記』や『戦国策』のようなエピソードを積み重ねる形式の著作が豊富な故事成語を輩出したのとは違って、この著作から出た名句や成語があまりない。加えて『論語』や『孟子』のように後世の読書人たちにとって必読の書とされない、むしろ異端的な日陰者の著作であった。ゆえに、人口に膾炙した名句が少ない。以下は、その中から選んだ名句・成語の一部である。

青は之を藍より取りて、藍よりも青く、氷は水之を為して、水よりも寒(つめた)し。勧学篇
一般には「青は藍より出て藍より青し」、あるいは「出藍の誉れ」として引用される。染料の青は藍(あい)の草から取るが、その色は藍の草よりも青い。氷は水から成るが、水よりも冷たい。その意味は、人間は努力することによって元の自分よりもより高い存在に改造することができる、ということである。荀子はこのたとえによって、君子が自然な低い存在から進んで自らを高め、自然なままの存在である一般大衆を指導する手本となるべきことを説いている。荀子は性悪説の立場にあって、生まれたままの人間はすべて例外なく欲望することしかできない愚かな存在であると考える。しかし人間は、学んで自らをより高い状態に改善する能力もまた持っている。君子とは、志を持って学び自らを凡人から飛び抜けて偉大な状態に押し上げた者を指すのである。

付け加えると、この言葉は「生徒が先生を越えて偉大になること」という意味で引用されるのが普通である。だが、この引用は荀子の原義から外れている。


君子は居必ず郷(きょう)を択び、遊ぶに必ず士に就く。勧学篇
教育には環境を整えることが必要である、という言葉である。荀子は人間が外界からのインプットによりよくも悪くもなる、という機械的な人間観を持つ。なのでよき君子に育てるためには、よい環境の土地に住まわせ、よい友人を選んで交流させなければならない。荀子は放っておいても子は育つ、という放任教育を取らない。


是を是とし非を非とするは、之を智と謂い、是を非とし非を是とするは、之を愚と謂う。脩身篇
是々非々」の出典である。現代では「何でもイエスと言うな、道理があって認めるべきものは認め、道理に合わず認められないものは認めないのが正しい態度である」という意味で使われる。荀子は、これができるのが君子である、と言う。


義を先にして利を後にする者は栄え、利を先にして義を後にする者は辱(はずか)しめらる。栄辱篇
荀子は性悪説を主張するが、悪を薦めているのでは決してなくて、人間はそのままでは利己的な存在であると言うのである。君子は努力して、利己的な凡人から離脱して人の手本となり指導者となれと薦めているのである。


人を相するは、古(いにしえ)の人有ること無きなり、学ぶ者は道(い)わざるなり。非相篇
荀子は、人相や骨相など人間の身体的属性によって人物の価値を絶対に評価してはならないと言う。なぜならば人間の身体は天から与えられたものであって人間はどうすることもできないが、社会にとって最も重要な価値は天与のものではなくて自ら努力して心中の学問と徳を積むことによって得られる能力だからである。


君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す。王制篇
人民と君主との関係を指した著名な言葉である。


人の生や群すること無き能わず、群して分無ければ則ち争い、争えば則ち乱れ、乱るれば則ち窮す。富国篇
荀子の社会契約論の基礎にある人間観である。ここから荀子は礼法の必要性を説き、身分秩序の必要性を説き、身分に応じて富と労苦が不平等に配分されることを人間の生命と経済的繁栄のために必要な秩序として正当化する。


其の固塞は険に、形勢は便に、山林・川谷は美に、天材の利は多し、是れ形勝なり。彊国篇
荀子が秦国に遊説したとき、国土の美しさを表現した言葉。「形勝」の出典。荀子は秦国の力による統治術は行き詰る、と厳しく批判していたが、彼が実際に秦国を訪れて見聞したものは美しい国土に素朴な人民、清潔な官僚であった。荀子は、秦の美点を認めざるをえなかった。


雩(う)して雨ふるは、何ぞや。曰く、何も無きなり。猶お雩せずして雨ふるがごときなり。天論篇
荀子の合理的自然観を示す痛快な一句である。雩(あまごい)をして雨が降るのは、雩せずに雨が降ることと何の違いもない。雩のような天に祈る儀式は単なる政治の装飾にすぎず、祈りの効果を信じている無知な人民に付き合っているにすぎない、と言い切る。


故(なに)か蔽(へい)を為す。欲蔽を為し、悪(お)蔽を為し、始蔽を為し、終蔽を為し、遠蔽を為し、近蔽を為し、博蔽を為し、浅蔽を為し、古蔽を為し、今蔽を為す。解蔽篇
真理を得られなくする心の蔽(おお)いは何であるかを列挙したもの。欲望があると、正しく評価することができない。憎悪があると、正しく評価することができない。物事の始まりの時点では、それを正しく評価できない。物事の仕上げの段階では、すでにここまで成功してきたという油断が、事態を正しく評価させない。自分に疎遠な存在ならば、正しく評価できない。自分に親しい存在ならば、やはり正しく評価できない。多く知りすぎると、正しく評価できない。知ることが少なすぎると、やはり正しく評価できない。昔の時代のことは、正しく評価できない。今の時代に起こっていることは、これを正しく評価できない。いずれも、人間の心を曇らせる罠である。荀子は、君子は正しく認識すべきであるし認識できる、と言う。それが本当であるかは置いておいて、心を蔽うものについての荀子の指摘は的確である。


心なる者は形の君にして、神明の主なり。解蔽篇
夏目漱石「こヽろ」の初版単行本(1914)の表紙には、康煕字典の「心」字の項が載せられている。そこに、荀子のこの句が見える。漱石はこの句から何かを示唆しようとしたのであろうか。それとも、単に彼の漢文趣味から漢籍の「心」に関わる語句を装丁したにすぎないのであろうか。荀子の原文の意味は、「心とは身体を統制する主人であって高度な理性の持ち主である」(だから君子はこの力を完全に発揮させなければならないし、発揮させることができれば世界を統治することができる)というものである。しかし漱石の「こヽろ」は、そんな明晰で強力な荀子の心とは真逆の人間の物語であり、表紙の引用はまるでブラックユーモアのように見える。ほんとうは荀子のように明晰に判断する心を持たなければならないのに、実際の人間の心はそれを到底なしえないがために苦しみ後悔する、漢籍の説く理想と現実に生きる人間との懸隔を言いたかったのであろうか。


人の性は悪、其の善なる者は偽(い)なり。性悪篇
著名な性悪説のスローガンである。荀子は人間の生物学的本性は悪=利己的存在であり、そこから偽=人為を用いることによって善になることができる、と言う。悪のままに止まるのが小人であり、被支配者である。善に進むのが君子であり、支配者である。荀子は人間の資質が平等に悪であり、そこから善に努力した者とそうでない者とが結果として格差を産む、と考えるのである。


古(いにしえ)は刑罪に過ぎず、爵徳に踰(こ)えず、故に其の父を殺して其の子を臣とし、其の兄を殺して其の弟を臣とす。君子篇
荀子は、親や親族の罪により子が罰を受け、先祖の功績により子孫が能力以上に高位に昇ることを批判する。個人が受ける刑罰と爵禄は、本人の罪と能力に応じたものでなければならない。荀子の理想とする社会は、合理的な能力評価が行われるべきである。各人への評価をその親族や祖先の評価と切り離すことができない東アジア社会の通念は、荀子の賛同するところではない。


道に従いて君に從わず、義に従いて父に従わざるは、人の大行なり。子道篇
荀子の合理的な倫理思想が明確に現れた言葉。君主に従うことよりも、親に従うことよりも、正道と正義に従うことを優先せよと言う。君主に従わず親に従わないことを正当化する、他の儒書には見られない大胆な主張である。


5 thoughts on “『荀子』の名句・成語

  1. 池本吉一

    着眼大局、着手小局

    この言葉は、勧学編で、荀子が述べた言葉でしょうか?

    誰か、解説して下さい。

    Reply
    1. 河南殷人 Post author

      池本さん、勧学篇の全体の趣旨としてその言葉のことを指していると言えるかもしれませんが、勧学篇にはそのものの言葉はないと思います。楊倞の注にもないようです。浅学にして、今はこれ以上のことを申すことはできそうにありません。どちらの方かのより的確なご解説をいただけるならば、ありがたいです。もしかしたら、誰かが荀子の趣意を要約した言葉なのかもしれません。小さな努力を積み上げて大きな功績に至る、ということは荀子が繰り返し言及しているところです。

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  2. 石黒康児

    不勉強で、この言葉が荀子に関係するとは知りませんでした。
    子供の頃、父親から囲碁の対局の時に聞かされた記憶があります。
    意味は
    「常に大局見ていて、自己の着手はその時点での最善を打て」
    と教わり、囲碁の世界では知られた言葉だと思っていました。
    今度、中国へ出向いたときに囲碁を知る人へ同じ言葉があるか聞いてみます。

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    1. 河南殷人 Post author

      石黒さん、囲碁用語なのですね。じゃあ荀子とはちょっと違うかもしれません。

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  3. 梶山泰

    着眼大局、着手終局、4日文字あって、日々寸進。が元の成句。誰か4文字を教えて!

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