大学或問・伝十章の二 ~斉家治国平天下が各章ある理由・平天下とは進んだ国内統治のこと~

投稿者: | 2023年4月5日

『大学或問』伝十章の二~斉家治国平天下が各章ある理由・平天下とは進んだ国内統治のこと~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、身自(よ)りして家、家自りして國、國自りして天下、均しく己を推し人に及ぼすの事と爲す、而(しこう)して傳の之を釋する所以の者、一事自ら一説と爲す、相通ずること能わざる者有るが若きは何ぞや。
曰、此れ勢の遠邇、事の先後を以て、施す所同じからざること有るのみ、實に異事有るに非ず、蓋し必ず物に接(まじ)わるを審かにし、好惡偏ならず、然して後に倫理を正し、恩義を篤うして、其の家を齊うること有り、其の家已に齊をり、事皆法(のっと)る可くして、然して後に以て標準を立て、教誨を胥(ま)ちて、其の國を治むること有り、其の國已に治まり、民興起を知りて、然して後に以て己を推し物を度(はか)りて、此を擧げて彼に加えて、天下を平にす可し、此れ其の遠近先後を以て、施すこと同じからざること有るなり、然れども國自り以上は、則ち内を治むる者、嚴密にして精詳なり、國自り以下は、則ち外を治むる者、廣博にして周遍なり、亦其の本末實に一物、首尾實に一身たることを見つ可し、何ぞ名づけて異説を爲さんや。
曰、所謂(いわゆる)民の父母というは何ぞや。
曰、君子に絜矩の道有り、故に能く己が好惡を以て、民の好惡を知り、又能く民の好惡を以て、己が好惡と爲すなり、夫れ其の好む所を好んで、之を與(あた)え之を聚(あつ)め、其の惡(にく)む所を惡みて、以て施さざるときは、則ち上の下を愛すること、眞に猶お父母の其の子を愛するがごとし、彼の民の其の上を親しむこと、豈に亦猶お子の其の父母を愛するがごとくならんや。
曰、此に引く所の節、南山の詩は何ぞや。
曰、言は尊位に在る者は、人の觀仰する所謹まずんばある可からず、若し人君己を恣(ほしいまま)にし私に徇(したが)いて、天下と其の好惡を同せざるときは、則ち天下の僇(りく)と爲ること、桀紂幽厲(けつちゅうゆうれい)(注1)が如し。
曰、衆を得れば國を得、衆を失えば國を失うは何ぞや。
曰、言は能く絜矩すれば、則ち之を父母として、衆を得國を得、絜矩すること能わざれば、則ち天下の僇と爲りて、衆を失い國を失う。
曰、所謂先ず德を愼むは何ぞや。
曰、上には國を有(たも)つ者は謹まずんばある可からざることを言う、此には其の謹みて當に先すべき者は尤も德に在ることを言う、德は即ち所謂明德なり、之を謹む所以は、亦物を格し知を致し意を誠にし心を正して、以て其の身を脩むるのみ。


(注1)桀紂は、伝十章の一注を参照。幽厲は周の幽王・厲王で、西周を代表する暗君。詳細は拙作ブログ「新読荀子」成相篇第二十五(4)の注を参照してください。
《要約》

  • 修身から斉家(伝八章)・斉家から治国(伝九章)・治国から平天下(伝十章)は、すべて「己を推し人に及ぼす」の原理で統一されている。にもかかわらず、大学の伝はそれぞれに一章を割いて説を立てる。まるで相通ずるものがないかのように書かれているのは何故か。その問いに対して、朱子は答える、「この三者は原理が同じであるが、遠近先後が違い、それぞれに施すものが違うからである。また治国から前は内を治めることであり、厳密かつ精詳である。治国から後は外を治めることであり、広博かつ周遍である。各段階は本末・首尾があるだけで、すべて本質は一物一身であることを捉えなければならない」と。
  • 修身から斉家は、己が外界に(はじめて)接したところで好・悪を偏ならず行う努力であり、そこで倫理を正して恩義を篤くして家を斉えるのである。斉家から治国は、(家という外界に好・悪を偏ならず行い斉えることができたところから進み、)標準を立て教誨を行い国家を治める努力である。治国から平天下は、民を興起させることができたところで己を推して物を度り、(興起した民が取り残されずに最後まで達成できるように調整して、)天下を平らかに安定繁栄させる努力である。(言いかえるならば、治国は国を仁愛をもって公正に統治することであり、平天下は民の多方向な活力を調整して幸福を最大限に実現させることである、といえるだろうか。朱子は最終的に一国を越えた広域帝国に進めと言っているのではない。)

    【※】以下はブログ作者のノート。朱子の政治論は、彼が生きていた宋帝国の範囲内にとどまる。せいぜい当時喪失していた北中国の回復までであるが、朱子は北中国を支配していたジュルチン帝国(金)への積極的主戦論者とはいえなかった。ふりかえって『大学』が実際に書かれたと思われる戦国~秦漢代を見れば、平天下とは戦国時代では自明に存在し漢帝国においても封建国として存在していた地方ごとの国、その範囲を越えた中華帝国全体の統治術と読むことができるだろう。それは地方文化圏ごとに存在する国の統治を越えて、中華帝国に一律の法律制度を適用する、という意味に取ることができる。時代は下って朱子の生きていた宋帝国においては官僚制度が帝国全土に整えられて、地方ごとに国を封建する必要はなくなっていた。朱子はそれゆえ平天下を上のような解釈で読んだのであろう。いずれにせよ、平天下は朱子の時代以降に現れたモンゴル帝国・清帝国、あるいは大英帝国のような多文化帝国の支配術を想定しているものではない。

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