大学或問・伝五章の二 ~格物窮理とは~

投稿者: | 2023年3月25日

『大学或問』伝五章の二~格物窮理とは~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文の訓点から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
又進脩の術何れか先なること問う者有り、程子の曰く、心を正し意を誠にするより先なるは莫し、然れども意を誠にせんと欲せば、必ず先ず知を致せ、知を致さんと欲せば、又物に格(いた)る(注1)に在り、致は盡なり、格は至なり、凡そ一物有れば、必ず一理有り、窮めて之に至るは、所謂(いわゆる)物に格る者なり、然れども物に格ること亦一端に非ず、或は書を讀みて道義を講明し、或は古今の人物を論じて其の是非を別ち、或は事物を應接して其の當否に處るが如きは、皆理を窮むるなり、曰、物に格るというは、必ず物物にして之に格るや、將(は)た止(た)だ一物に格りて、萬理皆通ずるや、曰、一物格りて萬理通ずることは、顔子(注2)と雖も亦未だ此に至らじ、惟だ今日にして一物に格り、明日又一物に格り、積習旣に多くして、然して後に脱然として貫通する處有るのみ。
又曰く、一身の中自(よ)り、以て萬物の理に至るまで、理會し得ること多くして、自ら當に豁然として箇の覺る處有るべし。
又曰く、理を窮むるというは、必ず天下の理を盡し窮むと謂うに非ず、又止だ一理を窮め得れば便ち到ると謂うに非ず、但だ積累すること多くして後、自ら當に脱然として悟る處有るべし。
又曰く、物に格るは、天下の物を盡し窮めんと欲するに非ず、但だ一事の上に於て窮盡して、其の他類を以て推す可し、孝を言うに至りては、則ち當に其の孝爲る所以の者如何と求むべし、若し一事の上に窮め得ざれば、且つ別に一事を窮む、或は其の易き者を先にし、或は其の難き者を先にす、各人の淺深に隨う、譬えば千蹊萬徑の如し、皆以て國に適(ゆ)く可し、但だ一道を得て入れば、則ち類を推して其の餘に通ず可し、蓋し萬物各一理を具えて、而して萬理同じく一原に出ず、此れ推して通ぜずということ無かる可き所以なり。
又曰く、物必ず理有り、皆當に窮むべき所、天地の高深なる所以、鬼神(注3)の幽顯なる所以の若き是れなり、若し曰天は吾れ其の高きことを知るのみ、地は吾れ其の深きことを知るのみ、鬼神は吾れ其の幽にして且つ顯なることを知るのみと曰わば、則ち是れ已に然り詞、又何の理をか窮む可けんや。
又曰く、孝を爲んと欲せば、則ち當に孝爲る所以の道を知るべし、如何にして奉養の宜爲る、如何にして温凊(おんせい)(注4)の節爲る、窮究せずということ莫くして、然して後に之を能くす、獨り夫の孝の一字を守りて得可きに非ず。
或は問う、物を觀己を察する者、豈に物を見るに因りて反て諸己に求めんや、曰、必ずしも然らず、物我一理、纔(わず)かに彼を明にすれば即ち此を曉とす、此れ内外を合するの道なり、其の大を語れば、天地の高厚なる所以、其の小を語れば、一物の然る所以に至るまで、皆學者の所宜しく思を致すべき所なり、曰、然らば則ち先ず之を四端(注5)に求めて可ならんや、曰、之を情性に求めば、固(まこと)に身に切ならん、然して一草一木亦皆理有り、察せずんばある可からず。
又曰く、致知の要當に至善の在る所を知るべし、父は止だ慈に、子は止だ孝にの類の如し、若し此を務めずして、徒に汎然として以て萬物の理を觀んと欲せば、則ち吾れ恐らくは其の大軍の游騎、出ること太(はなは)だ遠くして歸する所無きが如くならんことを。
又曰く、格物は之を身に察して、其の之を得ることの尤も切なるに若くは莫し。
此の九條は、皆格物致知の當に力を用うべきの地と、其の次第工程とを言うなり。


(注1)出典本では、「物ニ格ルニ」とならんで「物ヲ格スニ」の読み下しが置かれている。
(注2)顔子は、顔回のこと。字は子淵で、顔淵とも言われる。孔子の弟子の一人で、孔子から最高の評価を受けている。
(注3)鬼神は、死者の霊魂。中国の信仰では、これが実在しているゆえに厚く葬喪の礼を行い、祖先の祭祀を行うのであると考える。
(注4)礼記曲礼篇「凡そ人子爲るの禮、冬には温にして夏には凊、昏には定して晨には省」より。親への孝礼は冬には温かく夏には凊(すず)しく計らい、夜には寝所を定めて朝には安否の挨拶をする。
(注5)四端とは孟子公孫丑章句上ほかにあらわれる惻隠・羞悪・辞譲(または恭敬)・是非の心であり、孟子はこれをそれぞれ仁・義・礼・智の端(たん。はじまり)と呼んだ。
《要約》

  • 朱子は、格物致知において力を用いるべき点と、格物致知の次第工程として、程子の語録九つを引用する:
  • 知を致すには、物に格(いた)らなければならない。あらゆる事物には、必ずそれぞれ一つ一つに理がある。その理を窮めて至ること(窮理)、それが物に格ることである。窮理の道は、たとえば書を読んで道義を論じ明らかにすること、たとえば古今の人物を論じてそれらの是非を分かつこと、たとえば事々に対応して当否を判定処理すること、がある。
  • 物に格るには、ひとつの事物だけにかかわって万理に通じるのではなく、今日は一物明日は別の一物と格物を積み上げていき、いつかどこかで脱然貫通するしかない。一物に格って万理に通じることは、あの孔子の高弟である顔回でもできなかったことだ。(以下、四書大全にある朱子の言葉を要約:理を窮める者は、すでに知っていることを手掛かりにして、未知のことを理解するよう試みるのである。これが(孟子の言う)良知のはたらきであり、これを試みないならば、既知の範囲でとどまってしまい未知のことを窮めることができない。)
  • 一身の中から万物の理に至るまで多く理解した果てに、豁然として覚るはずである。
  • 窮理とは、天下の理すべてを尽くすわけではないし、一理を窮めれば至るわけでもない。多く積み上げた果てに、脱然として悟るべきものである。
  • 物に格るには、まず一事を窮め尽くして、そこから類推する。たとえば「孝」に格るには孝の道理を求め尽くし、そこから君主・兄弟・夫婦・朋友とのあるべき関係を類推していくのである。一事において得心できなければ、別の一事から窮め始めるのがよい。わかりやすい事から始めてもよいし、難しい事から始めてもよい。学ぶ人の器量の浅深に応じて取り組む課題を選ぶべきである。ちょうど目的の国に行くためには千蹊万径があるようなものだ。万物にはおのおの一理があるが、万理は同一の源(天理)から発している。ゆえに、類推を続ければ通じないことはないのだ。
  • たとえば天地が高く深い理由、鬼神が幽(かす)かに顕れる理由、これら一物ごとの理を窮めなければならない。ただ天地が高くて深い、鬼神が幽かに顕れると言うだけでは、それらの理を窮めていない。
  • 孝をなそうとするならば、孝とは何であるか、どうすればよいのかについて、知らなければならない。適切な奉養のやり方を窮めなければならず、ただ孝の一字を守っていただけでは孝は成し遂げられない。
  • 自分自身を窮めるために物を観察する必要はないのではないか、と問われて、「必ずしもそうではない。物我一理、物の理が少しわかれば、己の理もまた少し分かるのである。これが内外を合わせる道である。天地の大から一物の小まで、その成り立つ理由を学ぶ者は思いを致すべきである」と答えた。また、ではまず自分自身の中から発する惻隠・羞悪・辞譲・是非の四端から窮理を始めるのは可であろうか、と問われて、「自己の情性に求めれば、身に切であろう。一草一木にもまた理がある。察せずにはいられない」と答えた。(以下、四書大全にある朱子の言葉を要約:格物窮理は内外を必ず合わせなければならない。学ぶ者の窮理は、一物も遺すことはない。自己が物の理を知ることができれば、その理の自然によってあちらも応ずるであろう。一草一木一禽一獣にも理があり、春夏秋冬は陰陽のはたらきによって転変する。万物が気均しく体同じであることは、知り得るのである。生物の死は見るに忍びず、鳴き声を聞けばその肉を食べられず、時宜にかなわなければ木を伐らず獸を殺さず、胎児は殺さず巣は覆さない。これがすなわち内外を合わせる道である。[朱子の言葉を解釈するならば、以下のようになるだろうか。すなわち、人間もまた天地の万物と一理であるので、人間が非人間に対して感じたときに応ずる中にも理がはたらいている。孟子が指摘するごとく、動物に対してすら惻隠の心が生ずる。人間の惻隠の心は、人間に対して最大に働くのであって対象が非人間でもある程度は働く。])


    【※】以下は、ブログ作成者のノート。理は、個物に少しずつ分有されているのではない。理は一つであり、万物の中に理全体が余さず反映されている。あたかも月が水の上にいくつも映されるが、実体の月は一つしかないようなものである、と説明される。とはいえ、理は実体ではない。理は気と共に必ずあり、気を離れた理は想定できない。理は中国語では日常用語であり、最初に常識的認識があって後から定義づけがなされるようなものである。理を日本語で理解することははなはだ難しいが、あえて私が意訳するならば、「わかる・わかった」であろうか。天は、あらゆるものに最初から「わかる」地点を用意してある。万物は「わかる」地点が道理であり、過不及なき中庸である。人間にも、生来「わかる」地点が用意されている。人欲が邪魔するので、人間はそれが「わからない」のである。人欲から去って「わかる」努力をすれば、ひとつひとつ「わかった」となるのである。それを積み重ねれば、世界のことがいつか「わかる」となるだろう。聖人とは、「わかった」人である。人間にって最も重要な「わかる」こととは、人間関係の倫理を「わかる」ことである。しかし「わかる」自体はモノではなく、「わかる」だけを取り出してもそれは無である。朱子学の「性即理」とは、「(この世界の真実は)性だとわかるのである/性をわかれ(努力せよ)」と理解できるだろうか。また陸王学の「心即理」とは、「心でわかるのである/心をわかれ(努力せよ)」と今は理解しておきたい。【※】安田二郎氏は、朱子の理の意味を「考えられ得る」ことであろう、と言われている(『朱子の存在論に於ける「理」の性質について』昭和十四年)。安田氏は朱子の理を、ギリシャ哲学において「外発的ロゴス」とは人間のうちにある「内発的ロゴス」が音声によって話(ロゴス)として外化されたものである、という考えから類比して、朱子の理を考える(ギリシャ哲学の内発的ロゴスは、外発的ロゴスの背後にあるはずだと確信されるものであるが、内発的ロゴス自体は定義上言葉で言うことができない。朱子の理は必ずあるはすだと考えられ得るものであり、しかしその具体像を考えることができない。)。氏の説をいまブログ作成者なりの言葉で解釈して言い換えるならば、この宇宙には秩序が必ずあるように「考えられ得る」。人間には正義が必ずあるように「考えられ得る」。それが理であり、理は「考えられ得る」だけであって具体的に現れることはできない。ただ形気とよばれる五感で知覚できる現象の、そのむこうに確実に予感されるものであり、学ぶ者はそれに従うことを求め続けるまでである。具体的に現れることは決してないために、それを求めてそこに止まる努力(=止至善である!)は決して止むことがないのである。

  • しかしながら、致知の要は至善のある所を知らなければならない。親の慈・子の孝といった人倫を窮め、これらについての聖言を論じることが先である。これを先にせずにただ万物の理を見ようとすることは、大軍の騎兵が遠くに進んで、遂に戻るところがなくなるようなことになりかねない。
  • 格物は、それを我が身に察して、得心するのが最も切なることにしくはない。

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