『大学章句』とは・当サイトの漢文について

『大学章句』とは

『大学章句』とは、儒家の古文献『大学』に対して朱熹(しゅき。尊称して朱子と呼ばれる。1130-1200)が書き下ろした注解の書である。

そもそも『大学(旧字体で大學)』とは、『礼記(らいき、同じく禮記)』の第四十二大学篇を指す。『礼記』はいわゆる五経(ごきょう)すなわち詩・書・礼・易・春秋という漢代に定められた五種類の国定テキストのうち、礼の部に属する一つである。礼のテキストは三礼(さんらい)と称され、『周礼』『儀礼』そして『礼記』があった。『大学』とは、この『礼記』の一篇として漢代以降の王朝によって伝えられていった。

『礼記』は、通説に従えば前漢時代(西暦紀元前202-紀元後8。以下特記なければ西暦紀元後)に戴聖(たいせい、生没年不詳)が儒家の礼にまつわるテキスト群を集成した書である。礼は儒家が社会秩序のために最も重視する文化装置であって、『礼記』に集録されている各篇の内容は、礼そのものの解説だけに留まらず大学篇や中庸篇のような個人と社会の理想を論じた思想的各篇も含まれている。現行の『礼記』は四十九篇であるが、戴聖の編纂時点にすでにこの篇数であったのか、それとも後漢時代に馬融(ばゆう、79-166)が増補削減してその弟子の鄭玄(ていげん。伝統的に「じょうげん」と読まれる。127-200)が注を付した結果現行の姿となったのかは、説が分かれている。『礼記』のテキスト群がいつの時代の製作であったのか、についての問題は、その一部の篇については成立の根拠がある。『月令篇』は、秦の始皇帝の宰相であった呂不韋(りょふい。?-紀元前235)が編纂させた『呂氏春秋』の正月紀から十二月紀までと内容が一致しており、そこから取られたものであると考えてよい。また『史記』孔子世家には、『中庸篇』は孔子の孫の子思(しし、生没年不詳)が作ったものであるという記述がある。『隋書』音楽志上には、『中庸』『表記』『坊記』『緇衣』の四篇は子思学派のテキストである『子思子』から取られたものである、という記述がある。『子思子』が早くに散逸してしまったのでこれまで確かめようもなかったのであるが、1993年代に郭店楚簡(かくてんそかん)が出土したことによって、資料状況が変わった。郭店楚簡は現在のところ戦国時代中期(紀元前300年ごろ)の竹簡文献であると推測されて、その中には『緇衣』篇を含む儒家系のテキストが含まれていた。孟子と同時代の『緇衣』篇が発掘されたことによって、『隋書』の記述は近年信憑性が増しているところである。だが『礼記』全四十九篇の中で、このように由来が分かる篇は一部でしかない。『大学』篇に至っては、誰の作であったのかという古い伝承は何もない。信じたければ『礼記』全体が秦代以前の儒家の伝承である、という儒家の主張を取ればよいが、次の時代の漢代に少なくとも手が加えられた可能性を排除することは難しいだろう。

『大学』が注目されるようになったきっかけは、唐代の韓愈(かんゆ。字は退之、768-824)が『原道(げんどう)』において、『大学』テキストのいわゆる八条目のくだりを引用したところにあった。『原道』は儒学復興運動のさきがけとなった宣言の書であり、次の宋代にその道統論が中華世界の正統な思想すなわち孔子の学の伝承系統を指し示したものとして、重要視された。そのテキストの中に『大学』が引用されたことによって、このテキストの価値が宋代に一挙に上昇する下準備が行われたといえる(『原道』の読み下しおよび現代語訳は、本サイト内にあり)。

『大学』が孔子の遺書である、と唱え始めたのは、宋代の程子(ていし)である。程顥(ていこう。字は伯淳、号で程明道とも呼ばれる。1032-1085)・程頤(ていい。字は正叔、号で程伊川とも呼ばれる。1033-1107)の兄弟は、師の周敦頤(しゅうとんい。字は茂叔、号で周廉渓とも呼ばれる。1017-1073)の提起した世界観・人間観を発展させて、儒学の新しい展開をもたらす研究を行った。兄弟を合わせて、程子または二程子と尊称される。後世、朱子は故国の福建路において程子の学を伝承する李侗(りとう。字は愿中、号で李延平とも呼ばれる。1093-1163)にあえて師事し、その学を受け継いだのであった。朱子を通じて、程子が後世の儒学に与えた影響ははなはだ大きいものとなった。

宋代(北宋960-1127、南宋1127-1279)は、官僚の選抜基準が科挙に一本化されて、士大夫と呼ばれる試験に受かったエリートたちが一代限りの貴族階級として国政を担う体制が定着した。また、キタイ・タングート・ジュルチン・モンゴルといった尚武の諸族が国家を建国して、宋王朝を圧迫する世界情勢であった。そのような世界情勢の中で、国粋主義が思想界に台頭した時代でもあった。宋代の思想家たちは、膨大な民から選ばれたエリートのなすべき倫理を儒学に求め、また外来思想の仏教を排して中華文明が古来から伝承してきた土着の倫理として儒学を称揚したのであった。北宋代には、程子の他に欧陽脩(おうようしゅう、1007-1072)、司馬光(しばこう、1019-1086)ら歴史家、邵康節(しょうこうせつ、1011-1077)、張載(ちょうさい。字は子厚、号で張横渠とも呼ばれる。1020-1077)ら思想家が活動し、とくに張載は朱子の学に大きな影響を及ぼした(朱子の学を形作った周敦頤・二程子・張載はあわせて「周張二程」と呼ばれる)。

程子は『大学』を自らの儒学思想の最重要のテキストとして特筆し、それが朱子に受け継がれた。程子は、『大学』とは孔子の遺書を曾子(そうし)が伝え、曾子の解説と加えて曾子の弟子が記録した書である、と位置付ける解釈を始めた。だが、そこに明確な根拠があったわけではない。程子の意図を推測するならば、『大学』を儒家の古文献の中で別格視するために、孔子の晩年の高弟であった曾子の伝えた書である、という見立てを行うことによって、道統論の中に位置付けようとしたのであろう。すなわち孔子(『論語』)→曾子(『大学』)→子思(『中庸』)→孟子(『孟子』)の道統とそれぞれに対応する聖典がある、という考えである。朱子はこの見立てを完全に肯定して、これら四つのテキストを「四書」として取り上げて、それぞれに注解の筆を取ったのである。すなわち『論語集解』『大学章句』『中庸章句』『孟子集解』である。朱子学とは、これら四書の注解を頂点とした、儒学古文献の統一的解釈の体系を指す。『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四書が朱子によって儒学の最重要テキストとして取り上げられたことは、以降の歴史において中国のみならず朱子学を導入した日本・朝鮮においてもこれら四つのテキストが読書人にとって必読の書として各国読書人の教養に入れられることの始まりとなった。

当サイトで見るように、朱子は『大学』を孔子の遺書であるという二程子の説を受け継ぎ、さらに伝承された『大学』テキストには錯簡脱漏があるはずだ、という程子の説もまた受け継いだ。朱子は程子の課題を受け継ぎ、『大学章句』においては原テキストから文を前後に移し替え、また脱漏があるに違いないとみなした箇所には補伝を加えることを試みている。これほどに重大な変更を行ったせいであろう、朱子は『大学章句』の執筆に並々ならぬ心血を注いだようである。『大学章句』序の日付は淳煕巳酉二月(1189)となっていて、このとき一応完成稿とみなしたのであろうが、しかしその後も改訂の意欲は衰えず、『大学』誠意章の解を改訂したのは彼の死の九日前であったという。「某(それがし)、大學に於いて用工甚だ多し。論・孟・中庸は、却って力を費やさず」(朱子語類、大学一 綱領より)と朱子は言っているくらいで、『大学』に費やした努力に比べたならば論語・孟子・中庸への作業は大したことはなかった、と言うのである。こうして『大学章句』は単なる注解にとどまらず、朱子が自らの思想に沿ってオリジナルな改訂を盛り込んだ著作なのである。その結果、『大学章句』は論理の筋道がよく通っていて、朱子学の入門書として好適なものとなっている。

しかしながら、それゆえに『大学章句』は、後世の学者の批判が絶えない問題の書でもある。中国では王陽明の批判が著名であり、彼は『大学章句』を批判して『大学』は原テキストによって読むべきことを主張した。王陽明は『大学』を『孟子』の良知説と組み合わせて、朱子とは異なる解釈によって読んだ。日本では、伊藤仁斎の批判がある。仁斎は『大学』そのものが孔子の遺書ではない、と主張した。仁斎は、『大学』は詩経・書経を知っているが孔子の学を理解しない後世の者が作った書にすぎない、と断じたのであった。仁斎は朱子の注解を回避して『論語』『孟子』の原テキストから古代思想の真意を読み解く古学を提唱したのであるが、『大学』には『論語』『孟子』に見られない語句があり、その主張は孔子・孟子の学と一致していない、と批判したところである(詳細は、本サイトの附録を参照)。

当サイトの漢文について

《漢文原文・読み下し》

以下の二書を参照しています。

冨山房『漢文大系』第一巻(服部宇之吉校訂、明治四十二年)
明治書院『新釈漢文大系2 大学・中庸』(赤塚忠著、昭和四十二年)

・漢字は旧字体を用い、読み下し文は現代仮名遣いを用います。

《現代語訳》

原文そのままの訳ではなくて、背後にある思想を明らかにするために、言葉を足し加えて訳を行います。