韓愈『原道』(原文読み下し・現代語訳)

解題


韓愈(かんゆ)、字(あざな)は退之(たいし)、諡(おくりな)は文公。大暦三年(768)-長慶四年(824)。中唐時代の官僚であり文人。唐宋八大家の一に数えられる。文学では秦漢以前の文章を理想とする古文復興運動を主導し、思想では仏教・道教を批判して儒教復興運動を開始した。後の宋代に、久しく絶えていた中華の道統を再発見した先駆者として称揚された。

『原道』は、韓愈の手になる儒教復興の宣言書である。二つの点で、後世の儒教思想に与えた影響が大きい。まず第一に、堯舜から孔子・孟子に継承された道統があることを示したこと。これによって孟子が道統の中に位置づけられて後世の神格化への準備がなされた。いっぽう荀子は韓愈によって低く評価されて、後の宋代には異端として排斥される結果となった。第二に、『大学』のいわゆる八条目からの引用が行われて、後の宋代に『大学』が聖典化される道を開いたことである。



『原道』(原文読み下し・現代語訳)

出典:『新釈漢文大系 唐宋八大家文読本巻一』より

博(ひろ)く愛する、之を仁と謂う。行いて之を宜(よろ)しうする、之を義と謂う。是(これ)に由りて之(ゆ)く、之を道と謂う。己に足りて外(ほか)に待つこと無き、之を德と謂う。仁と義とは定名(ていめい)たり。道と德とは虛位(きょい)たり。故に道に君子有り、小人有り。而(しこう)して德に凶有り、吉有り。

ひろく人々を愛することを、「仁」と呼ぶ。行って正しくすることを、「義」と呼ぶ。(中身は問わないが、ともかく)これに依拠して進むものを、「道」と呼ぶ。(同じく中身は問わないが、ともかく)それによって自ら充実して他に期待しないものを、「徳」と呼ぶ。「仁」と「義」は、具体的な実体を指す用語である。いっぽう「道」と「徳」は、具体的な内容を伴わない形式を指す用語である。それゆえに、語の定義として君子の「道」がありえるし、小人の「道」がありえる。また凶なる「徳」がありえるし、吉なる「徳」がありえる。

小人の「道」・凶なる「徳」道教の根本聖典である『老子』の本来の名称は『老子道徳経』である。韓愈は、ゆえに老子の言う「道」「徳」は儒教の「道」「徳」と言葉が同じなだけで内容は小人のもので凶である、と言っているのである。

老子の仁義を小として、之を非毀(ひき)するは、其の見る者小なればなり。井に坐して天を觀(み)て、天は小なりと曰う者は、天の小なるに非ざるなり。彼は煦煦(くく)を以て仁と爲し、孑孑(げつげつ)を義と爲す。其の之を小とするも亦宜(うべ)なり。其の所謂(いわゆる)道は、其の道とする所を道とす。吾が所謂道に非ざるなり。其の所謂德は、其の德とする所を德とす。吾が所謂德に非ざるなり。凡(およ)そ吾が所謂道德と云う者は、仁と義を合せて之を言うなり。天下の公言なり。老子の所謂道德と云う者は、仁と義を去って之を言うなり。一人の私言なり。

老子が仁義を小さなものとしてこれを非難するのは、彼が見るところが小さいからである。井戸の中に座って天を眺めて「天は小さい!」とか言う者がいたとしても、それは天が小さいわけではない。老子はちっぽけな愛情を見てこれを「仁」とみなし、こぢんまりと小さく己を守る姿を見てこれを「義」とみなしている。彼がこれらを小さいと言うのも、また当然のことである。老子が言うところの「道」とは、彼が「道」とみなしているところのものを「道」と言っているのであるが、それは私(韓愈)が言うところの「道」とは同じでない。同様に、老子が言うところの「徳」とは、彼が「徳」とみなしているところのものを「徳」と言っているのであるが、これも私が言うところの「徳」と同じでない。そもそも私にとって「道徳」と言うものは、仁と義を合わせてこれを言うのである。これは、天下共通の公言である。しかし老子にとって「道徳」と言うものは、仁と義を取り去ってこれを言うのである。これは、彼一人の個人的な私言にすぎない。

周道(しゅうどう)衰え、孔子沒して、秦に火あり、漢に黃老(こうろう)、晉(しん)・魏(ぎ)・梁(りょう)・隋の閒(かん)に佛(ぶつ)あり。其の道德仁義を言う者、楊(よう)に入らざれば、則ち墨(ぼく)に入り、老に入らざれば、則ち佛に入る。彼に入れば、必ず此を出づ。入る者は之を主とし、出る者は之を奴とす。入る者は之に附き、出る者は之を汙(お)とす。噫(ああ)、後の人、其れ仁義道德の說を聞かんと欲するも、孰(たれ)に從ってか之を聽(き)かん。

周王朝の道が衰え、孔子が没してから後には、秦王朝で焚書の害があり、漢王朝で黄老(こうろう)の術の流行があり、晋・北魏・梁・隋の各王朝では仏教の流行があった。これらの時代は、道徳や仁義を言う者ですら、あるいは楊朱(ようしゅ)の邪説を交えたり、そうでなければ墨子(ぼくし)の邪説に傾いたり、老子の邪説を交えたり、そうでなければ仏陀の邪説に傾いたりした。そのどれかに深入りして、別のどれからから離れるといった有様であって、彼らは深入りしたものを第一と称えて離れ去ったものを劣った説だとけなし、深入りしたものに付き従い離れ去ったものを汚らわしいと嫌う。ああ!後世の人が仁義道徳のことを聞きたいと願ったとしても、この体たらくでは誰に従って聴けばよいというのだろうか?

黄老の術漢代の初期に流行した政治思想。無為にして治めることを至上として、政治は何もせずなすがままに任せることが最もよいと考える、一種の自由放任思想。中華最初の君主である黄帝(こうてい)が行い、老子が継承した術であると宣伝された。
楊朱戦国時代の思想家。善行は自分に何の利益ももたらさないという懐疑主義に立ち、自分の快楽を追及する以外に正義はない、という極端な利己主義を主張した。
墨子春秋時代末期の思想家。兼愛(親族だけでなく、全ての人を等しく愛する)、尚賢(王族よりも賢者を貴んで政治をさせる)、非攻(侵略戦争をやめる)、非楽(宮廷音楽を廃止する)、節葬(葬式を簡略にする)、節用(国家財政を倹約する)を主張して、伝統文化の尊重を唱える儒家と激しく対立した。

老者(ろうしゃ)は曰く、孔子は吾が師の弟子なり、と。佛者(ぶつしゃ)は曰く、孔子は吾が師の弟子なり、と。孔子を爲(えら)ぶ者も、其の說(せつ)を習い聞き、其の誕(たん)を樂(たの)しんで自ら小とするなり。亦(また)曰く、吾が師も亦嘗(かつ)て之を師とせりと爾(しか)云う、と。惟(ただ)之を其の口に舉(あ)ぐるのみならずして、又之を其の書に筆す。噫(ああ)、後の人仁義道德の說を聞かんと欲すと雖(いえど)も、其れ孰(たれ)に從ってか之を求めん。甚しいかな、人の怪を好める。其の端(たん)を求めず、其の末を訊(と)わず、惟怪を之れ聞かんと欲す。

老子の徒は、「孔子はわが師の弟子であった」と言い、仏陀の徒は「孔子はわが師の弟子であった」と言う。孔子の学を選ぶ者ですら、老子・仏陀の説を習い聞き、それらのホラ話を楽しんで孔子の説をさげすむ有様である。そうして「わが師孔子もまた、かつては老子・仏陀を師としたのだ」とかなんとか言うのである。このことを口で言うだけでなく、書物に書くことまでする。ああ!後世の人が仁義道徳のことを聞きたいと願ったとしても、この体たらくでは誰に従って聴けばよいというのだろうか?なんと人が怪説を好むことは、はなはだしいのだろうか!正しい説はどこから始まりどこで終わるのかということを求め尋ねることもせず、ただ怪説を聞こうとするのだ。

老子の徒は、「孔子はわが師の弟子であった」と言い孔子が修行時代に老子に礼を学んだ、という話は司馬遷の史記にも見えて、非常に古くからある。道教は、この伝説を利用して老子を孔子の上に置く。

古(いにしえ)の民たる者は四(し)、今の民たる者は六。古の敎うる者は其の一に處(お)り、今の敎うる者は其の三に處る。農の家は一にして、粟(ぞく)を食(は)むの家は六なり。工の家は一にして、器を用うるの家は六なり。賈(こ)の家は一にして、焉(これ)に資(と)るの家は六なり。之を奈何(いかん)ぞ民窮して且つ盜(とう)せざらんや。

いにしえの時代、民は四階層(士・農・工・商)であった。今、民は六階層になっている。いにしえの時代、教化する階層は士だけであった。今の時代、教化する階層は仏僧・道士を増やして三階層になっている。農民は一階層で、食糧を食う家は六階層である。工民は一階層で、器具を使う家は六階層である。商売する民は一階層で、これから買って生活する家は六階層である。これでどうして、民が窮迫して盗みに走らずにいられようか?

四階層・六階層唐王朝は仏教・道教をあつく保護し、国家による庇護を与えていた。また当時、兵役納税を逃れる目的で仏僧・道士となる者が後を絶たなかった。韓愈は、そのような事情で仏教・道教が財政を圧迫して民を苦しめていると批判しているのである。

古(いにしえ)の時、人の害多し。聖人なる者有りて立ち、然る後に之に敎うるに相生養(せいよう)するの道を以てす。之が君と爲(な)り、之が師と爲りて、其の蟲蛇(ちゅうだ)・禽獸(きんじゅう)を驅(か)りて、之を中土(ちうゅど)に處(お)らしめ、寒くして然る後に之が衣を爲(つく)り、饑(う)えて然る後に之が食を爲り、木處(ぼくしょ)して顛(くつがえ)り、土處(どしょ)して病むや、然る後に之が宮室を爲り、之が工を爲して、以て其の器用を贍(な)し、之が賈(こ)を爲して、以て其の有無を通じ、之が醫藥(いやく)を爲して、以て其の夭死(ようし)を濟(すく)い、之が葬埋(そうまい)・祭祀(さいし)を爲して、以て其の恩愛を長じ、之が禮(れい)を爲して、以て其の先後を次(じ)し、之が樂(がく)を爲して、以て其の湮鬱(いんうつ)を宣(の)べ、之が政を爲して、以て其の怠勌(たいけん)を率い、之が刑を爲して、以て其の強梗(きょうこう)を鋤(のぞ)き、相欺くや、之が符璽(ふじ)・斗斛(とこく)・權衡(けんこう)を爲して、以て之を信にし、相奪うや、之が城郭・甲兵を爲して、以て之を守る。害至りて之が備(そなえ)を爲し、患(うれい)生じて之が防(ふせぎ)を爲せり。

いにしえの時代、人は危難が多かった。そこに聖人なる者が現れて立ち、それから人々に互いに助け合って生きる道を教えたのであった。聖人は、人々の君主かつ師となった。すなわち害虫・毒蛇・猛獣・猛禽どもを追い払って、人々が中華の土地に安心して住めるようにした。寒くなったら衣服を作ることを教え、ひもじくなったら食糧を作ることを教えた。木の上の生活では落ちて怪我をするし、洞窟の中の生活では病気になってしまうので、人々に家屋を作ることを教えた。ものづくりをする工業を始めて、人々が器物が使えるようにした。また商業を始めて、物資が各地で流通できるようにした。また医療と薬を始めて、人々を若死にから救った。死者の埋葬と先祖の祭祀を始めて、家族が恩愛する心を育てた。礼儀の規則を定めて、年長者と年少者の間の秩序を作った。音楽を始めて、人々の気鬱な気持ちをはればれとさせた。政治を始めて、人々の怠惰な心を奮い立たせた。刑罰を始めて、人々から粗暴な者を取り除いた。人々が互いにだましあうならば、符璽(ふじ。割り符)・斗斛(とこく。ます)・權衡(けんこう。はかり)を採用して、信用して取引できるようにした。人々が互いに争奪しあうならば、城郭を作り甲兵(よろいと武器)を揃えて、人々の安全を守ったのであった。このように、聖人は害があったならばその備えをなし、侵略があったならばその防ぎをなしたのであった。

今其の言に曰く、聖人死せざれば、大盜(だいとう)止まず。斗を剖(さ)き衡(こう)を折りて、民爭(あらそ)わず、と。嗚呼(ああ)、其れ亦思わざるのみ。如(も)し古(いにしえ)に之れ聖人無くんば、人の類滅ぶること久しからん。何ぞや。羽(う)・毛(もう)・鱗(りん)・介(かい)の以て寒熱に居る無ければなり。爪牙の以て食を爭う無ければなり。

今、このようなことを言う者がいる。すなわち「聖人が死ななければ、大盗賊はいなくならない。斗(ます)を引き裂いて衡(はかり)を叩き折れば、民は争わなくなる」と。ああ!なんと思慮が浅いのであろうか。もしいにしえの時代に聖人がいなかったならば、人類はとっくの昔に滅亡していたであろう。なぜなら人類には鳥の羽も獣の毛皮も魚のうろこも貝の殻もないのだから、そのままでは寒さや暑さに耐えられないからである。また鳥獣のような牙も爪もないのだから、彼らと食糧を争って取ることができないからである。

今、このようなことを言う者がいる。すなわち、、以下に引用された言葉は、『荘子』胠篋篇にある句を改変したものである。

是(こ)の故(ゆえ)に君は令を出す者なり。臣は君の令を行いて、之を民に致(いた)す者なり。民は粟(ぞく)・米(べい)・麻(ま)・絲(し)を出し、器皿(きへい)を作り、貨財を通じ、以て其の上に事(つか)うる者なり。君、令を出さざれば、則ち其の君たる所以(ゆえん)を失わん。臣、君の令を行いて之を民に致さざれば、則ち其の臣たる所以を失わん。民、粟・米・麻・絲を出し、器皿を作り、貨財を通じ、以て其の上に事えざれば、則ち誅(ちゅう)せられん。今其の法に曰く、必ず而(なんじ)の君臣を棄て、而の父子を去り、而の相生養するの道を禁じ、以て其の所謂(いわゆる)清淨(せいじょう)・寂滅(じゃくめつ)なる者を求めよ、と。嗚呼(ああ)、其れ亦幸(さいわい)にして三代の後に出て、禹(う)・湯(とう)・文(ぶん)・武(ぶ)・周公(しゅうこう)・孔子に黜(しりぞ)けられざるなり。其れ亦不幸にして三代の前に出ずして、禹・湯・文・武・周公・孔子に正されざるなり。

よって、君主とは政令を出す存在であり、家臣とは君主の政令を実施してこれを民に行わせる存在なのである。そして民とは穀物・米・麻糸・絹糸を生産し、器物を製作し、財貨を流通させ、これらの仕事によって上の君主・家臣に仕える存在なのである。もし君主が何の政令も出さないのであれば、君主に存在意義はない。もし家臣が君主の政令を実施して民に行わせることをしないのであれば、家臣に存在意義はない。もし民が穀物・米・麻糸・絹糸を生産せず、器物を製作せず、財貨を流通させず、上の君主・家臣に仕えることを何もしないならば、これはもう死刑に処するしかない。なのに、いまこんな教えを言う者たちがいる。すなわち、「君臣の関係を棄てなさい。父子の縁を切りなさい。生産して互いに助け合い生活する道を禁止する。なんじが求めるべきは、あの老荘の清浄の道であり、また仏教の寂滅の道である」と。ああ!こやつらは、幸いにしていにしえの三代の後に現れたので、禹・湯・文・武・周公・孔子らの聖人に斥けられなかった。不幸にして三代の前に現れなかったので、禹・湯・文・武・周公・孔子らの聖人によって過ちを正されることもなかったのであった。

清浄・寂滅清浄は老荘の理想。己の意志を消して動かず、清浄で静かな心を得る。寂滅は仏教の理想。苦の根源である煩悩を滅し去り、解脱して仏となる。
三代いにしえの夏・殷・周の三王朝。儒教によって理想の時代とみなされる。周の衰退によって春秋戦国時代の乱世となり、道が衰えた。春秋時代の孔子がその衰世の中で後世に三代の道を伝えた。そのように儒教は考える。
禹・湯・文・武・周公三代の聖人を時代順に並べたもの。禹は夏王朝の開祖。湯王(とうおう)は殷王朝の開祖。文王(ぶんおう)は周王朝の開祖とみなされる。武王(ぶおう)は文王の子で、殷王朝を倒した。周公は武王の弟で武王の没後幼い成王の摂政となり、周王朝の礼楽を整えた。

帝の王に於(お)ける、其の號(ごう)各(おのおの)殊(こと)なれども、其の聖たる所以(ゆえん)は一なり。夏は葛(かつ)して冬は裘(きゅう)し、渇すれば飲みて饑(う)うれば食(くら)う。其の事殊なれども、其の智たる所以は一なり。今其の言に曰く、曷(なん)ぞ太古の無事を爲(な)さざる、と。是(これ)も亦冬の裘する者を責めて、曷ぞ之を葛にするの易(やす)きを爲さざると曰(い)うなり。饑うるの食う者を責めて、曷ぞ之を飲むの易きを爲さざると曰うなり。

いにしえの「帝」と「王」とはそれぞれ称号は違うが、彼らがみな聖人であった理由は同じである。夏には風通しの良い葛(くず)の衣を着ることができるし、冬には暖かい裘(かわごろも)を着ることができる。のどが渇けば飲むことができるし、腹が減れば食べることができる。それぞれ行為は違うが、これらはみないにしえの聖人たちが築いた智恵の成果であることは同じである。なのに、いまこんな教えを言う者たちがいる。すなわち、「どうして太古の原始時代のように、何も智恵を働かせない楽な生活をしないのか?」と。これもまた、冬に裘を着る者を「どうしてもっと軽い葛の衣にしないのか?」と批判したり、腹が減って食事をする者を「どうしてもっと簡単に水を飲むことをしないのか?」と批判するようなものである(老荘の者どもは、いにしえの聖人たちの成果の上に生活しているくせに、太古の原始状態がよかったなどと言う。太古の原始状態が住みよいわけがなかろう)。

「帝」と「王」堯・舜はいにしえの五帝に数えられ、帝号である。湯王・文王・武王は王号である。

傳(でん)に曰く、古(いにしえ)の明德(めいとく)を天下に明(あきら)かにせんと欲する者は、先(ま)ず其の國(くに)を治む。其の國を治めんと欲する者は、先ず其の家を齊(ととの)う。其の家を齊えんと欲する者は、先ず其の身を脩(おさ)む。其の身を脩めんと欲する者は、先ず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠(まこと)にす、と。然らば則ち古の所謂(いわゆる)心を正しくして意を誠にせんと欲する者は、將(まさ)に以て爲(な)す有らんとするなり。今や其の心を治めんと欲して、而(しか)も天下國家を外にし、其の天常(てんじょう)を滅ぼし、子たるも其の父を父とせず、臣たるも其の君を君とせず、民たるも其の事を事とせず。

古伝(礼記大学篇)には、こうある。すなわち、「古の明徳を天下に明かにせんと欲する者は、先ず其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉う。其の家を斉えんと欲する者は、先ず其の身を脩む。其の身を脩めんと欲する者は、先ず其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」と(経、八条目を参照)。ならばすなわち、このいにしえの言葉にある「心を正しくして意を誠にする」ことを欲する者がいたならば、その先には自分自身を精進して、家庭をよくして、国家を治めて、さらに天下を平らかにするという目標があるはずなのである。なのにいまの時代の者どもは、自分の心を治めることを欲しながら、しかも天下国家を考えずに、天常(てんじょう。天から与えられた倫理)を滅ぼす。つまり子でありながら父を父とせず、家臣でありながら主君を主君とせず、民でありながらなすべき勤労を果たさないのだ(仏教は自分自身の悟りを得ることに熱心であるが、そのために出家して家を捨てろと言い、出家したら国家も君主も無関係だと背を向け、生産をせずに托鉢で食を乞う。己一人が悟って家庭と天下国家への責務を取らないのは、正しいとはいえない)。

孔子の春秋(しゅんじゅう)を作るや、諸侯夷(い)の禮(れい)を用うれば、則ち之を夷とし、中國に進めば、則ち之を中國とす。經(けい)に曰く、夷狄(いてき)の君有るは、諸夏(しょか)の亡きに如かず、と。詩に曰く、戎狄(じゅうてき)は是れ膺(う)ち、荊舒(けいじょ)は是れ懲(こら)す、と。今や夷狄の法を舉(あ)げて、之を先王の敎の上に加う。幾何(いくばく)か其れ胥(ひき)いて夷と爲らざらん。

孔子が『春秋』を作ったとき、諸侯が蛮族の礼を用いたときにはこれを蛮族として書き、蛮族が中国の礼を用いたときにはこれを中華の諸侯として書いたものだ。経典には、「たとえ蛮族に名君がいたとしても、たとえ中華諸国に君主がいなくて混乱していたとしても、野蛮な蛮族は文化ある中華諸国には及ばない」とある(『論語』八佾[はちいつ]篇)。詩には、「戎狄(じゅうてき。中国北西の蛮族)は、撃ち平らげるのみ。荊舒(けいじょ。長江流域の蛮族)は、懲らしめるのみ」とある(『詩経』魯頌[ろしょう]閟宮[ひきゅう]篇)。なのに今や蔑むべき蛮族の法を持ち上げて、これをいにしえの聖王たちの教えより上に置いている。こんなことでは、やがてこぞって我々が蛮族に落ちてしまうのも時間の問題ではないだろうか?

春秋孔子が作ったと伝えられる、古代の歴史書。ただの歴史書ではなくて、孔子が各時代の事件に対して善悪を判断して筆誅を加えていると解釈される。『春秋』本文は簡潔にすぎるので、後世に長大な解説書が三つ提出された。『春秋穀梁伝』『春秋公羊伝』『春秋左氏伝』である。
『詩経』は古代周王朝の詩歌を集めたアンソロジー。魯頌はその一部で、諸侯の一で孔子の生国である魯国において祖先の祭りにおいて歌われた詩歌を集めたシリーズであるという。
蛮族の法原文「夷狄の法」。インドから伝来した仏教を指している。

夫(そ)れ所謂(いわゆる)先王の敎とは何ぞや。博(ひろ)く愛する之を仁と謂い、行いて之を宜(よろ)しくする之を義と謂う。是に由(よ)りて之(ゆ)く之を道と謂い、己に足りて外に待つこと無き之を德と謂う。其の文は詩・書・易(えき)・春秋、其の法は禮(れい)・樂(がく)・刑・政、其の民は士・農・工・賈(こ)、其の位は君臣・父子・師友・賓主・昆弟・夫婦、其の服は麻絲(まし)、其の居は宮室、其の食は粟米(ぞくべい)・果蔬(かそ)・魚肉。其の道たる明(あきら)かにし易(やす)く、其の敎たる行い易きなり。是の故に之を以て己を爲(おさ)むれば、則ち順にして祥(しょう)なり。之を以て人を爲むれば、則ち愛にして公なり。之を以て心を爲むれば、則ち和にして平(たいら)かなり。之を以て天下國家を爲むれば、處(しょ)する所として當(あた)らざるは無し。是の故に生きては則ち其の情を得、死しては則ち其の常(じょう)を盡(つ)くす。郊(こう)にしては天神(てんしん)假(いた)り、廟(びょう)にしては人鬼(じんき)饗(う)く。

そもそも、いにしえの聖王たちの教えとはなんであろうか?ひろく人々を愛することを、「仁」と呼ぶ。行って正しくすることを、「義」と呼ぶ。これに依拠して進むものを、「道」と呼ぶ。それによって自ら充実して他に期待しないものを、「徳」と呼ぶ(以上は、冒頭の言の繰り返しである)。いにしえの聖王たちの教えとは、文でいえば詩経・書経・易経・春秋である。法でいえば礼義・音楽・刑罰・政治である。階層秩序でいえば士・農・工・商である。人間関係でいえば父と子・師と友・客と主人・兄と弟・夫と妻である。服装でいえば麻服と絹服である。住居でいえば通常の家屋である。食事でいえば米などの穀物・野菜にくだもの・魚と肉である。これらを薦めるいにしえの聖王たちの道は中華の風俗に合って、わかりやすい。その教えもまた、仏教や道教と違って行いやすいのだ。それゆえに、いにしえの聖王たちの教えによって自分自身を精進させたならば、順調に進んでよき結果が得られるであろう。その教えによって人々を治めたならば、仁愛深くかつ公正な関係が築けるだろう。その教えによって自分の心を制御したならば、やわらいで平静な心が得られるだろう。その教えによって天下国家を統治したならば、あらゆる事案を適切に処理できるだろう。このようにいにしえの聖王たちの教えは完全なものであるから、生きる者に対してはその情にふさわしく対することができるだろうし、死せる者に対しては常の祭礼を十分に尽くすことができるだろう。聖王たちの教えに従って郊(こう。皇帝が首都の南郊で天を祭る儀式)を行えば、天の神も喜んで祭壇に降りて来るだろう。また宗廟で祖先の祭りを行えば、亡者の霊魂も喜んで供え物を受け取ることであろう。

詩経・書経・易経・春秋詩経・春秋は上を参照。書経は、古代の帝王・諸侯の詔勅や法令を集めた歴史書。ただし後世に伝わるうち約半分の篇は、後世に偽作された偽書(偽古文尚書)である。易経は易占いに託した運命哲学の書であって、儒教では文王・周公・孔子が書いたと信じるがおそらく真実ではない。
麻服と絹服原文「麻絲」。唐代当時の日常的な服装。特殊な僧衣や道服を着る仏教・道教を批判しているのである。唐代当時、木綿はインドから導入されてからまだ年月が浅く、普及するのは後の時代であった。
米などの穀物・野菜にくだもの・魚と肉原文「粟米・果蔬・魚肉」。道教では五穀などの通常食を絶って神仙となることを理想とし、仏教では殺生戒として肉食を禁じる。

曰く、斯(こ)の道は何の道ぞや。曰く、斯れ吾が所謂(いわゆる)道なり。向(さき)の所謂老と佛(ぶつ)との道に非ざるなり。堯(ぎょう)は是(これ)を以て之を舜(しゅん)に傳(つた)え、舜は是を以て之を禹(う)に傳え、禹は是を以て之を湯に傳え、湯は是を以て之を文・武・周公に傳え、文・武・周公は之を孔子に傳え、孔子は之を孟軻(もうか)に傳う。軻(か)の死するや其の傳(でん)を得ず。荀(じゅん)と揚(よう)とは、擇(えら)んで精(くわ)しからず、語りて詳(つまびら)かならず。周公よりして上は、上として君たり。故に其の事行わる。周公より下は、下として臣たり。故に其の說(せつ)長し。

「では、その『道』とは何であるか?」と問われたならば、私はこう答えるだろう。すなわち「それは、私がこれまで述べたところの『道』である。さきほどの老子・仏陀の『道』ではないのだ。堯はこれを舜に伝え、舜はこれを禹に伝え、禹はこれを湯王に伝え、湯王はこれを文王・武王・周公に伝え、文王・武王・周公はこれを孔子に伝え、孔子はこれを孟軻(もうか。孟子の本名)に伝えた。しかし孟軻が亡くなった後、それは誰にも伝えられなかった。確かに荀子揚雄が出たが、彼らは『道』から正しく詳しく選び取ることができなかった。また彼らは『道』のことを正確に論ずることができなかった。周公以前の聖王たちは、みな上にあって君主として君臨した。ゆえに、実際の政治で『道』を行った。周公とその後の孔子・孟子・荀子らは、みな下にあって家臣であった。ゆえに実際の政治ではなくて、書物の中で長々と『道』を述べたのであった。」

堯・舜五帝に数えられる、いにしえの聖王たち。あわせて「堯舜」と呼ばれ、聖王たちのうちでも最も完全無欠の君主として称えられる。堯は位を舜に禅譲し、舜は位を禹に禅譲した。禹の死後にその子が後を継いで即位し、以後世襲して夏王朝となった。
荀子戦国時代末期の大儒。前漢代の儒者においては、孟子よりも荀子の影響力が圧倒的であった。韓愈は、荀子の性悪説を批判する。この『原道』では批判の言葉しかないが、別の著作(『読荀子』)では「荀と揚とは大醇にして小疵あり」と言って、「大筋は純粋だがわずかに傷がある」程度の批判にとどめている。しかしこの『原道』の批判が後世の宋代において荀子を異端の地位に追いやった嚆矢となったことは間違いないだろう。
揚雄前漢末から王莽の時代に活動した名文家・儒者。ここで韓愈はその性善性悪混合説に難色を示したのであるが、彼が王莽の知己であって王莽の漢王朝簒奪の時期に傍観していたことは、韓愈の批評に加えて後世の評判を下げることになった。

然らば則ち之を如何(いか)にして可ならんや。曰く、塞がずんば流れず。止めずんば行われず。其の人を人にし、其の書を火にし、其の居を廬(いおり)にし、先王の道を明(あきら)かにして、以て之を道(みちび)き、鰥(かん)・寡(か)・孤(こ)・獨(どく)・廢疾(はいしつ)の者に養うこと有らば、其れ亦其の可なるに庶(ちか)からん、と。

では、どうすればよいのであろうか?私は言いたい、「仏教・道教の普及を塞がなければ、いにしえの聖王の教えは再び広がらない。仏教・道教を禁止しなければ、いにしえの聖王の道は行われない。仏僧・道士を民に帰すのだ。仏書・道書を焼き捨てるのだ。仏教徒・道教徒を寺院から追放して、普通の居宅に住まわせるのだ。そしていにしえの聖王の道を明らかに示して、邪宗に堕ちていた彼らを導き、鰥(かん。妻のない男)・寡(か。夫のない女)・孤(こ。親のない幼児)・獨(どく。子のない老人)・廢疾(はいしつ。不治の傷病人)の者たちを保護して養育するのだ。これらをすることは、まだ今よりましとなる対策に近いだろう。」