およそ言葉において、先王の道に合わず礼義に従わないものは、それを姦言と言う。姦言はたとえ能弁であっても、君子の聞くところではない。だがたとえ先王に則り、礼義に従い、学ぶ者を説得する弁論ができたとしても、言葉を好むことなく、言葉を楽しむことができなければ、それは決して真の士ではない。ゆえに、君子は言葉を用いるに当たって、心中の志は言葉を好み、外に出た行動は言葉どおりに沿って安定し、言葉を発するときにはこれを楽しんで味わうようでなければならない。ゆえに、君子は必ず弁論をせずにはいられないのである。およそ人間は、己が善であると考えることを好んで言わずにはいられない。とりわけ君子は、それを好むのである。ゆえに君子は、他人に贈る言葉は黄金や珠玉よりも貴重であり、他人に示す言葉は華麗な刺繍よりも美しく、他人に聞かせる言葉は鐘(かね)・鼓(つづみ)・琴(こと)・瑟(おおごと)の楽器よりも聴いて楽しいのである。ゆえに君子の言葉は人を飽かせることがない。だが卑しい俗人はこれに反し、実利ばかりを好んで美麗な文化を知るところがない。ゆえに彼らは生涯低俗で凡庸なままなのである。『易経』に、この言葉がある。:
これは、言うべきことを言う勇気のない腐れ儒者どものことを言うのである。諸君ら君子は、よき弁論をすることをはばかってはならない。 およそ説得の難しいところとは、聖王の最高の正道を最低の愚人どもに説明しなければならないところにあり、聖王の最高の治世を現在の最悪の乱世において説明しなければならないところにある。なので、正道をずばりと簡潔に説明しても、連中は分かるものではない。そこで遠い古代のことを例に挙げて論じると、連中はそんなに古い時代ならば間違えて言っているのだろう、と疑う。逆にごく最近のことを例に挙げて論じると、連中はそんな当たり前のことを聞いて何の得があるのか、とやはり疑う。よく弁舌をなす者はこのような中にあって、遠い古代を例示しても決して間違うことなく、近い時代のことを例示しても決して凡庸に陥らず、時代とともに論を変えて調節し、緩急を出し入れしながら、あたかも水路の流れを調節したり材木の曲がりを直したりする道具が己に備わっているかのごとくに相手の琴線に触れる説得を行うのである。こちらの言いたいことを詳しく説いて、しかも相手と衝突したりはしないのだ。己の心中を制御するためには墨縄(すみなわ)を用いて厳格に測り、他人に接するときには弓のしなりを矯正するようにしなやかに誘導していくのである。己を測るために墨縄を用いるので、天下の法則となることができる。他人に接するために弓のしなりを矯正するように行うので、寛容をもって対応することができて、これによって天下の大事を成すことを望むことがきる。ゆえに君子は賢明でありながらよく無能を容れ、知者でありながらよく愚者を容れ、博学でありながらよく浅薄者を容れ、純粋でありながらよく不定見な雑駁者を容れるのである。これを兼術(けんじゅつ)と言い、硬軟清濁自在の説得術なのである。『詩経』に、この言葉がある。:
兼術があれば、蛮族も愚者も全て容れて、最終的に同化させることができるだろう。 他人を説得して、己に従わせる術について言おう。慎重な姿勢で相手に臨み、誠実な姿勢で相手を扱い、堅固な姿勢で自説を保ち、理性を用いて相手を諭し、比喩を用いて明らかに説明し、喜ばしい和やかな空気を作って自説を相手に送り込み、自説がいかに宝のように貴重であるかを分からせ、自説を貴んで精密丁寧に説明するのである。このようにしたならば、自説は常に受け入れられることとなり、たとえこちらの主張が相手を喜ばせることはできなくとも、こちらの主張を相手は尊重せずにはいられなくなるであろう(注1)。これが、「他人の貴ぶところを貴ぶことを行う」ということなのである。言い伝えに、「ただ君子だけが、他人の貴ぶところを貴ぶことを行う」とあるのは、今言った術を通じて行うのである。 君子は、必ず弁論をせずにはいられない。およそ人間は、己が善であると考えることを好んで言わずにはいられない。とりわけ君子は、それを好むのである。それゆえ小人は弁論すれば凶悪なことを言い、君子は弁論すれば仁にあふれたことを言うのである。言葉を発してそれが仁に当たらないのであれば、何も言わないほうがましであり、不仁なむだ話を多くするよりは訥弁であるほうがましである。しかし言葉を発してそれが仁に当たるのであれば、逆にそのような言葉を好む者は人間として優れていて、言葉を好まない者は人間として劣っている。ゆえに、仁のあふれた言葉は偉大なのである。仁にあふれた言葉が上に立つ者から表れたならば、それは下にある者たちを導くための政令となるだろう。また仁にあふれた言葉が下にある者から表れたならば、それは上に立つ者を忠節から救おうとする諫言となるだろう。ゆえに君子が仁を行うときには、それを飽くことなく行うことができるのである。心中の志は仁を好み、外に出た行動は仁に基づいて安定し、そして仁にあふれた言葉を楽しんで言うであろう。ゆえに、君子は必ず弁論をせずにはいられないのである。細かなことを指し示す弁論は、それらの発端をずばりと示す弁論には及ばない。発端を示す弁論は、一切は正しい礼義の区分に基づいていることを示す弁論には及ばない。細かなことをきっちりと示す弁論があり、発端を明らかに示す弁論があり、礼義の区分に基づいていることを示す道理を示す弁論がある。これらの違いが、聖人の弁論と士・君子の弁論を分けるのである(注2)。小人の弁論があり、士・君子の弁論があり、聖人の弁論がある。事前に熟慮したわけでなく、早くから計画したわけでなく、その都度に発言しながら全てが的を得ていて、言葉は麗しい文飾をなして正しい分類法に従い、その弁論は自在に挙げて降ろして進んで移り、臨機応変で尽きることがない。これが、聖人のなす弁論である。事前に熟慮を行い、かつ早くから計画しているので、わずかの言葉でも聴くに値し、麗しい文飾をなす言葉でありながらも実のある内容であり、博学な言葉でありながらも正論である。これが、士・君子のなす弁論である。話す言葉を聴けば口数はやたらと多いのに一貫性がなく、身を用いて働かせれば嘘が多くて功績は挙がらず、上に仕えさせれば明察の王に従うことができず、下を束ねさせれば人民を調和して斉一させることもできず、そのくせに口舌は長い弁論だろうが短い応答だろうが妙に人を納得させるようにしゃべくって、これで何やら偉大な大人物と勘違いさせるに足りる。これこそは姦人の中の姦人というべきである。いざ聖王が立ったあかつきには、まっさきにこれに誅罰を加えるであろう。盗賊のたぐいへの誅罰は、その後回しにするぐらいである。なぜならば盗賊は教化すれば回心させることもできるが、姦人の中の姦人は教化することが不可能だからである。 (注1)増注の久保愛はここに注して、「孟子の斉宣梁恵に於けるは是なり」と言う。つまり、孟子が梁の恵王(けいおう)、斉の宣王に対して説得を試みたときには、孟子の自説が二人の王を喜ばすことはできなかったが二人の王は孟子の主張を尊重せざるをえなかった、と久保愛は評しているのである。孟子の両王への説得の詳細は、『孟子』梁恵王章句および公孫丑章句の全体を参照。
(注2)聖人・君子・士の三者は国家秩序の中で君主・上級官僚・下級官僚に当たる。ここでは君主である聖人と官僚である士・君子の二者に分類して論じている。解蔽篇(6) の注4参照。 |
《原文・読み下し》 凡そ言(げん)先王に合せず、禮義に順(したが)わざる、之を姦言と謂う。辯(べん)なりと雖も、君子は聽かず。先王に法(のっと)り、禮義に順い、學者に黨(さと)す(注3)、然り而(しこう)して言を好まず、言を樂しまざれば、則ち必ず誠の士に非ざるなり。故に君子の言に於けるや、志之を好み、行之に安んじ、之を言うことを樂しむ、故に君子は必ず辯す。凡そ人は其の善とする所を言うことを好まざること莫し、而して君子を甚しと爲す。故に人に贈るに言を以てするは、金石・珠玉より重く、人に觀(しめ)すに言を以てするは、黼黻(ほふつ)・文章より美しく、人に聽かしむるに言を以てするは、鐘鼓(しょうこ)・琴瑟(きんしつ)より樂し、故に君子の言に於けるや厭くこと無し。鄙夫(ひふ)は是に反し、其の實を好んで其の文を恤(かえりみ)ず、是を以て終身埤汙(ひお)・傭俗(ようぞく)を免れず。故に易に曰く、囊(ふくろ)を括る、咎(とが)も無く譽(ほまれ)も無し、とは、腐儒を之れ謂うなり。 凡そ說の難きは、至高を以て至卑に遇い、至治を以て至亂に接するなり。未だ直(ただ)ちに至る可からざるなり。遠く舉(きょ)すれば則ち繆(びゅう)を病(うれ)い、世を近うしては則ち傭(よう)を病う。善者の是の間に於けるや、亦必ず遠舉して繆ならず、近世にして傭ならず、時と遷徙(せんし)し、世と偃仰(えんこう)し、緩急嬴絀(えいちゅつ)、府然(ふぜん)として渠堰(きょえん)・檃栝(いんかつ)の己に於けるが若きなり。曲(つぶさ)に謂う所を得、然り而して折傷せず。故に君子の己を度(はか)るには則ち繩(じょう)を以てし、人に接するには則ち抴(せつ)(注4)を以てす。己を度るに繩を以てす、故に以て天下の法則と爲すに足る。人に接するに抴(せつ)(注4)を用う、故に能く寬容し、求に因りて以て天下の大事を成す。故に君子は賢にして能く罷(ひ)を容れ、知にして能く愚を容れ、博にして能く淺を容れ、粹にして能く雜を容る、夫れ是を之れ兼術と謂う。詩に曰く、徐方(じょほう)既に同す、天子の功、とは、此を之れ謂うなり。 談說(だんぜい)の術。矜莊(きょうそう)以て之に涖(のぞ)み、端誠(たんせい)以て之に處し、堅强以て之を持し、分別以て之を喩(さと)し、譬稱(ひしょう)以て之を明(あきら)かにし、欣驩(きんかん)・芬薌(ふんきょう)以て之を送り、之を寶(たから)とし、之を珍とし、之を貴び、之を神とす。是(かく)の如くなれば則ち說(せつ)常に受けられざること無く、人に說(よろこ)ばれずと雖も、人貴ばざること莫し。夫れ是を之れ能く其の貴ぶ所を貴ぶことを爲すと謂う。傳に曰く、唯(ただ)君子のみ能く其の貴ぶ所を貴ぶことを爲す、とは、此を之れ謂うなり。 君子は必ず辯ず。凡そ人は其の善とする所を言うことを好まざること莫し、而(しこう)して君子を甚しと爲す。是を以て小人辯ずれば險を言い、君子辯ずれば仁を言うなり。言うて仁に之れ中(あた)るに非ざれば、則ち其の言うは其の默するに若かざるなり、其の辯は其の吶(とつ)なるに若かざるなり。言うて仁に之れ中れば、則ち言を好む者は上なり、言を好まざる者は下なり。故に仁言大なり。上に起るは下を道(みち)びく所以にして、政令是れなり。下に起るは上に忠なる所以にして、謀救(かんきゅう)(注5)是れなり。故に君子の仁を行うや厭(あ)くこと無く、志之を好み、行之に安んじ、之を言うを樂しむ。故に言う、君子は必ず辯ず、と。小辯は端を見(あら)わすに如かず、端を見わすは分に本づくを見(あら)わすに如かず。小辯にして察、端を見(あら)わして明、分に本づきて理なり。聖人・士・君子の分具(そな)わる。小人の辯なる者有り、士・君子の辯なる者有り、聖人の辯なる者有り。先慮せず、早謀せず、之を發して當り、文を成して類し、居錯(きょそ)・遷徙(せんし)し、變に應じて窮まらざるは、是れ聖人の辯なる者なり。之を先慮し、之を早謀し、斯須(ししゅ)の言にして聽くに足り、文にして致實(しつじつ)(注6)、博にして黨正(とうせい)(注7)なるは、是れ士・君子の辯なる者なり。其の言を聽けば則ち辭辯(じべん)にして統無く、其の身を用うれば則ち多詐にして功無く、上は以て明王に順(した)がうに足らず、下は以て百姓を和齊(わさい)するに足らず、然り而して口舌は之れ噡唯(せんい)(注8)に均(おい)て則ち節あり(注9)、以て奇偉(きい)・偃卻(えんきゃく)の屬を爲すに足る、夫れ是を之れ姦人の雄と謂い、聖王起れば、先ず誅する所以なり。然る後に盜賊之に次ぐ。盜賊は變ずることを得るも、此は變ずることを得ざるなり。 (注3)楊注は「黨(党)」は親比なり、と言う。集解の郝懿行は「党」は曉了の意、と言う。楊注に従えば「したしむ」の意となり、郝懿行に従えば「さとす」の意となる。ここは論語雍也篇の言葉と同じく「知る」「好む」「楽しむ」の三段階を指していると解釈したい。したがって、郝懿行に従うことにする。
(注4)楊注或説は、「抴」は「枻」となすべしと言う。楊注或説は「枻(えい)」を「楫」すなわち楫(かじ)の意と言うが、集解の王念孫は「紲(せつ)」と「枻」は同じ、と言う。王念孫の意に従えば、「枻」は弓を矯正する道具のこと。 (注5)集解の王念孫は、「謀救」は「諌救」となすべし、と言う。これに従う。 (注6)集解の王念孫は「致」は「質」となす、と言う。これに従う。 (注7)楊注は「黨(党)」は「讜」に同じと言い、集解の郝懿行は「讜正」はすなわち昌言にして善言を言うなり、と言う。新釈の藤井専英氏は注3楊注の「黨(党)」は親比なり、と合わせる形で「党正」を「正に党(した)しむ」と読んでいる。楊注に従っておく。 (注8)集解の王先謙は、「詹(噡)」は多言なり、と言う。「唯」は短い応答のこと。よって「噡唯」は長い弁舌と短い応答のこと。 (注9)原文「然而口舌之均噡唯則節」。宋本は「均」字を「於」に作る。集解本に拠る漢文大系は「然り而して口舌は之(すなわち)均(きん)あり、噡唯(せんい)すれば則ち節あり」と読み下している。漢文大系は「均」は荻生徂徠説を引いて「韻」と古相通じて声音円諧流利の美を言うなり、「噡唯則節」は一たび口を開きて語り又は返事すれば自然に音節あるなり、と言う。しかし、宋本に拠る新釈の読み方のほうが素直である。新釈に従って「均」を「於」とみなす。 |
非相篇の最後には、君子の弁論の重要性を論じた文章が続けて置かれている。一括して訳した。荀子は、学ぶ弟子たちに剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)を勧める思想家ではなく、正しい言葉ならば積極的に弁じて他人を動かすべきであると勧める。荀子は、世界を正しく表現できる正しい言語があることを信じる者である。よってその正しい言語以外の言語は世を惑わす邪説であって、禁圧しなければならないと主張する者である。荀子の思想には、言論の自由という視点がもとから欠けている。詳細は正名篇に見られる。
以上で、非相篇は終わる。
荀子の思想については、この非相篇までの読書で、私としてはおおむね検討ができたと考える。
これから後は、荀子の他学説批判の篇である非十二子篇第六を読んだ後、現行『荀子』末尾に置かれた堯問篇第三十二の荀子賛を読みたい。『荀子』は堯問篇に続いて劉向の校讎叙録が収録されている。これは、漢文白文も起こして読み下すことにしたい。それ以降は、残された各篇を基本的にコメント抜きで訳していきたい。