議兵篇第十五(5)

By | 2015年4月22日
礼というものは、統治区別の至上であり、強国の基本であり、威令が行われる道であり、功名を挙げるための締めくくりである。王公がこれに依拠すると天下を得ることになるし、これに依拠しないと社稷(しゃしょく)(注1)を亡ぼすことになる。ゆえに、固い鎧も鋭い武器も、これで勝利を得るには足りない。高い城壁も深い堀も、これで防御を完全にするには足りない。厳しい命令も繰り返す刑罰も、これで権威を得るには足りない。礼の正道によればこれらはうまく行われ、よらなければしくじるまでのことである。楚国の人は、鮫の革と犀(さい)の革で作った鎧を着ける。叩けば鋭い音がでて、まるで金属か石のようである。宛(えん。楚国にある製鉄地帯)の鋼鉄で産する矛は、蜂のように傷つけサソリのように殺す。兵の神速なることは、つむじ風のようである。なのに、かの楚国は垂沙(すいさ)の地で危機に陥り(注2)、唐蔑(唐昧、とうまい)(注3)は戦死した。莊蹻(そうきょく)(注4)が遠征を行ったが、結局楚国は秦国に敗れて四分五列してしまった。固い鎧と鋭い武器が、なかったわけではない。国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。楚国は、汝水(じょすい)と潁水(えいすい)(注5)を天然の要害となし、長江と漢水(かんすい)(注6)を巨大な堀として持ち、鄧(とう。河南省)の森林地帯を北方の境界として、方城山(ほうじょうさん。河南省)で囲まれている。なのに、秦軍が来襲したならば、枯れ葉を掃くように鄢・郢(えんえい)の地を取られてしまった(注7)。固い城塞と天然の要害が、なかったわけではない。国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。また殷の紂王は比干(ひかん)の内臓をえぐりだし、箕子(きし)を幽閉し、炮烙(ほうらく)の刑を行い(注8)、常時殺戮を行って、家臣たちは震え上がり命永らえる者とてない有様であった。なのに、周軍が来襲したならば、王の命令は下で行われず、自国の人民を用いることができなかった。命令が厳格で、刑罰が頻繁でなかったわけではない。これも国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。

いにしえの兵は、戈(か。槍の一種で、横に突き出た刃が付いている)・矛・弓矢だけであった。なのに、敵国はそれらの武器を試さずとも降伏した。城郭を構えることもなく、堀や池を掘ることもなく、砦を築くこともなく、弩(いしゆみ)や投石器のような機械兵器を使うこともなかった。なのに、国内は安泰で、外敵を恐れることもなく、固く守られていた。その理由は他でもない、礼の正道を明らかにして人民を区別しながらも応分に扱い、時にこれを使用するときには真にこれを愛し、下が上に和する様はまるで打てば響く鐘の音のようであった。法令に従わない者が出たときになって、はじめて刑を執行したのであった。ゆえに一人を刑に処して天下は服し、罪人もお上を怨まなかったのは、罪が己にあることを知るからであった。こういうわけで刑罰を簡単にしてしかも威が下に行われるのは、他でもない、礼の正道に依拠するからである。いにしえの帝堯は天下を治めたとき、一人を殺して、二人を処罰して、これで天下が治まったという。言い伝えに「威は厳格であって、しかもそれを行うことはない。刑は定めて、しかもそれを用いることはない」とあるのは、このことを言っていたのである。


(注1)富国篇(5)注1参照。
(注2)『戦国策』によると楚国の敗戦らしいが、詳細は不明。
(注3)戦国時代、楚国の将軍。楚の懐王の時代、秦が楚を攻撃する一連の合戦の最中に、秦・韓・斉・魏の連合軍に敗れて戦死した。
(注4)議兵篇(2)注4参照。
(注5)汝水(じょすい)と潁水(えいすい)は、淮水(わいすい)上流の川。地図で寿春(じゅしゅん)で合流する上流の二河川。
(注6)漢水は、陝西省南部の漢中盆地から流れて長江に合流する大河。地図では省略した。
(注7)鄢(えん)・郢(えんえい)は湖北省の都市。郢(えい)は楚の旧首都であり、BC278年白起の秦軍によって攻略された。楚は東に逃れて都を陳、さらに寿春に遷した。
(注8)比干は紂王のおじ。紂王を諌めたが胸を割かれ内臓をえぐり出されたという。箕子は紂王のおじ。紂王を恐れて狂人を偽ったが、王に幽閉された。炮烙の刑は火の上に渡した銅の柱に油を塗ってそこに罪人を渡らせ、火に落ちて焼き殺す刑。いずれも『史記』殷本紀に書かれている紂王の狂気を表すエピソードである。これらは紂王を殺して殷を亡ぼした周王朝が、その正当性を飾るために残されたエピソードである。歴史的真実とは思えない。
《原文・読み下し》
(注9)禮なる者は、治辨の極なり、强國の本なり、威行の道なり、功名の總(そう)なり。王公之に由るは、天下を得る所以なり、由らざるは、社稷(しゃしょく)を隕(す)つる所以なり。故に堅甲・利兵も以て勝を爲すに足らず、高城・深池も以て固と爲すに足らず、嚴令・繁刑も以て威と爲すに足らず。其道に由れば則ち行われ、其の道に由らざれば則ち廢す。楚人は鮫革(こうかく)・犀兕(さいじ)以て甲を為し、鞈(とう)として金石の如し。宛(えん)の鉅鐵釶(きょてつし)は、慘(さん)として蠭蠆(ほうたい)の如く、輕利・(けいり)僄遫(ひょうそく)は、卒として飄風(ひょうふう)の如し。然り而(しこう)して兵垂沙(すいさ)に殆(あやう)く、唐蔑(とうまい)死し、莊蹻(そうきょく)起りて、楚分れて三四と爲る。是れ豈(あ)に堅甲・利兵無からんや、其の之を統(す)ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。汝潁(じょえい)以て險と爲し、江漢以て池と爲し、之を限るに鄧林を以てし、之を緣(めぐ)らすに方城を以てす。然り而して秦師至れば、而(すなわ)ち鄢郢(えんえい)舉げらるること、槁(こう)を振るうが若く然り。是れ豈に固塞・隘阻無からんや、其の之を統ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。紂は比干を刳(こ)し、箕子を囚し、炮烙(ほうらく)の刑を爲し、殺戮時無く、臣下懍然として、其の命を必すること莫し。然り而して周師至れば、而ち令下に行われず、其の民を用うること能わず。是れ豈に令嚴ならず、刑繁ならざらんや。其の之を統ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。古の兵は、戈矛(かぼう)弓矢のみ、然り而して敵國は試を待たずして詘(くつ)す。城郭辨(べん)ぜず、溝池抇(ほ)らず、固塞樹せず、機變張らず。然り而して國晏然(あんぜん)として外を畏れずして[明](注10)內(かた)き(注11)者は、它(た)の故無し、道を明にして之を分鈞(ぶんきん)し、時に使いて誠に之を愛し、下の上に和するや影嚮(えいきょう)の如く、令を由(もち)いざる(注12)者有りて、然る后に之を誅(ま)つ(注13)に刑を以てす。故に一人を刑して天下服し、罪人其の上を郵(とが)(注14)めざるは、罪の己に在るを知ればなり。是れ故に刑罰省きて威流(おこな)わるは、它の故無し、其の道に由る故なり。古の帝堯の天下を治むるや、蓋(けだ)し一人を殺して、二人を刑して、天下治まる。傳に曰く、威厲(れい)にして而(しか)も試みず、刑錯(お)きて而も用いず、とは、此を之れ謂うなり。


(注9)ここから各注は史記礼書を参照して『荀子』の語句を訂正する。
(注10)『集解』『増注』ともに「明」は衍字と言う。
(注11)楊注は史記にもとづき「內(内)」は「固」であると言う。
(注12)『増注』は「由」は「用」、と言う。
(注13)『集解』の王念孫は史記・韓詩外伝において「誅」は「俟」となっていることを引き、さらに王制篇を引いて「待つ」の意味であると言う。
(注14)『集解』は史記を引いて宋本の「郵」は「尤」であると言う。

楚国の兵は強力であるが礼によらないので敗れた、と荀子はここで言う。それは、荀子生前の時代の観察であった。始皇帝の死後に項羽が現れて楚軍を率い、項羽はそのカリスマで彼のために命を賭けて奮戦する軍を作り上げた。その戦国時代の軍にはなかった異質の戦士集団の前に、軍法の力に頼っていた秦軍は粉砕されて、滅亡した。秦滅亡後に天下を分けて対決した劉邦の漢軍をして、項羽の軍には戦場では勝てないと諦めさせて持久戦を余儀なくさせたのであった。項羽の兵は、礼や法の力よりもカリスマの下で団結した軍が勝利することを、どうやら示したようである。秦国の法と荀子の礼は、戦闘の勝敗に限って言うならば、項羽の前で言葉を失う。

しかし項羽は、戦場での戦術を知っていたが、天下を攻略して信認を得るための戦略を知らなかった。劉邦は、持久して項羽の補給路を断つ策を取った。韓信は劉邦の命を受けて、周辺諸国を平定して項羽を孤立させる策を着々と成功させていった。戦場で勝つだけの項羽は、勝ちながら総体として追い込まれていった。ついに垓下(がいか)の戦で四面楚歌の孤立無援となり、勇戦しながらも散っていった。よって、項羽は戦術の強さだけでは天下の王とはなれない、という一つの実例であった。荀子の主張も、あながち間違いではない。

しかし劉邦は韓信や張良の戦略によって勝ったのであって、礼によって勝ったのではない。劉邦の漢帝国が儒家の礼を採用するのは、天下を平定した後に儒家の叔孫通(しゅくそんとう)の建策を用いてからであった。叔孫通はよく儒家の本分を分かっていて、「儒者は進取を行うことは下手ですが、守成を行うことはできます」と劉邦に進言した(『史記』劉敬叔孫通列伝)。叔孫通は劉邦に認められ、野人たちが起こした漢帝国の朝廷を、古式ゆかしい宮廷の礼で装飾したのであった。儒家の役割は、帝国が成立した後になって平時の制度を提供するところにあった。


閑話(むだなはなし)は置いておき、上に訳した議兵篇の箇所とほとんど同じ文が、『史記』礼書にも引用されている。『史記』礼書は他に『荀子』礼論篇の一部とほぼ同じ文も収録されていて、『史記』と『荀子』が起源を同じくするテキストを参照していたことは明らかである。

『荀子』の上のくだりは、『韓詩外伝』にもほぼ同じテキストが引用されている。

漢代の書物で、とくに現行の『荀子』と重なるテキストが見られるものは、『大戴礼記(だたいらいき)』および『韓詩外伝(かんしがいでん)』である。

大戴礼記
前漢代の儒者である戴徳(たいとく、生没年未詳)が、漢代初期に伝わっていた孔子の弟子および後学者たちのテキストを、後世に整理したもの(『四庫全書総目提要』)。別途に彼の甥の戴聖(たいせい)が『礼記(小戴礼記)』を編集し、現在五経の一とされているものは甥のテキストである。両者のテキストの関係には諸説ある。『四庫全書総目提要』は、戴聖が大戴礼記をさらに削って礼記を作ったと言う。『大戴礼記』は、全八十五篇のうち現在三十九篇しか伝わっていない。
残存する『大戴礼記』には『荀子』の言葉と重なる箇所があるが、特にその礼三本篇は、『荀子』礼論篇の前半部とほぼ重なる。また『大戴礼記』勧学篇は、『荀子』勧学篇の前半部と同宥座篇の一部とほぼ同一である。
韓詩外伝
前漢代の儒者である韓嬰(かんえい、生没年未詳)が、『詩経』の伝として先秦時代の様々なテキストから抜書きして、独自の見解を加えたもの。引用されたテキストは儒家に限らない。
『韓詩外伝』は、とくに『荀子』と重なるテキストからの抜書きが多い。上に掲げた議兵篇の一部もまた、そうである。

現在『荀子』と名付けられているテキストは、BC26年に劉向が荀子学派のテキスト群を整理して『荀卿新書』(孫卿新書)として発表したことが初出である。このとき劉向は三百二十二編の著作の中から重複する二百九十篇を削って三十二篇に整理したとある。上の『荀子』と『史記』礼論篇の相違はわずかな文字の違いであり、テキストの転写間違いの可能性が強い。しかし『大戴礼記』に記載されている『荀子』の複数の篇をつなげたようなテキスト、あるいは多少語句の出入りがあるテキストについては、あるいは劉向が整理したとき重複分として削られた別バージョンに由来していたのかもしれない。

『荀子』、『史記』礼書、『韓詩外伝』、『大戴礼記』の中のいくつかの篇といった前漢代の礼に関するテキストは、荀子学派が漢代に残したテキスト群を起源として、漢代にかけて別個の書物として整理されたものであろう。荀子学派のテキストは、ここまで引用されるほど漢代の礼論に影響があり、漢代儒学に影響があった。なのに、『史記』荀卿列伝の荀子に関する記録はあまりに簡潔で、業績の記載に乏しい。これは、不可解なことではないだろうか。

荀子は、自然現象は人間と無関係に起こる、という天人分離論を天論篇で主張した。いっぽう前漢武帝の時代に春秋学を修めて宮廷で重きを成した儒者が、董仲舒(とうちゅうじょ、BC179-BC122)であった。董仲舒は天人相関説を主張し、災異説を主張した。以下、安居香山『緯書と中国の神秘思想』(平河出版社、1988年)を参考しながら述べる。

董仲舒が武帝に天人相関説・災異説を建言した理由は、彼の皇帝権力絶対化の思想に沿ったものであった。董仲舒は漢帝国の秩序をいにしえの王たちの秩序と同じものと考え、皇帝が地上に君臨することは正統であると考えた。しかしそれでは君主権への歯止めがなくなってしまうので、彼は天の運行と君主の徳とは相関していて、君主が不徳であれば天が災害を下すであろう、と皇帝を天から下る倫理によって戒める、という思惑があった。それゆえの天神相関説・災異説であったという。しかし彼の思惑はどうであれ、このような説は荀子の天人分離論と明らかに相容れない。董仲舒は皇帝の責任の報いを天に放り投げて、人間ではなくて天が裁くであろう、と言ったことになる。これは、君主の人間に対する責任を問う孟子や荀子の思想から遠ざかるものであった。

前漢王朝では、董仲舒以降しだいにオカルト思想が前面に出るようになった。天人相関説・災異説は踏み込んで、天下から瑞兆・凶兆を探し出して、これを王朝の未来を予言する天の命令であるとみなす神秘主義が広がるようになった。また儒学が国家宗教として広く普及させられるようになると、儒学のテキストである『春秋』が予言を示している、という神秘的解釈が大流行した。緯書(いしょ)は、『春秋』その他儒学のテキストに予言的な解釈を与えた書で、漢代末期には続々と現れるようになった。これら漢代に流行した神秘主義思想を、讖緯(しんい)思想という。

讖緯思想は、王莽の現れた前漢末に全盛を迎えることとなった。王莽は「符命(ふめい)」すなわち緯書に書かれている予言が自らの即位を示している、という解釈を利用した。当時の人はいとも簡単にこれを信じ、王莽は前漢王朝を廃して新王朝を起こした。その失政による動乱の後に、劉秀が後漢王朝を再建して光武帝として即位した。光武帝もまた、漢が復興するという「図讖(としん)」すなわち緯書の予言に基づいて即位したのであった。緯書によって革命に成功した光武帝はこれを尊重し、天下に緯書を公布するよう指令した。この頃オカルト思想は、国家公認の思想にまで流布していたのであった。

『孫卿新書』劉向校讎叙録においては、董仲舒が「書を作りて孫卿(荀子)を美」としたと書かれている。もっとも現存している唯一の董仲舒の著作は『春秋繁露』八十二篇であるが、集解の王先謙はそこに荀子を称えた内容がないと言う。すでに、散逸したものと思われる。だが少なくとも董仲舒じたいは漢代初期の儒学に絶大な影響を及ぼした荀子のことを高く評価していたことになる。

もしかしたら荀子の名は、董仲舒以降の漢代後期儒学がしだいにオカルトに傾いていく中で、儒学の合理的思想を代表する書としてしだいに顧みられることが少なくなっていったのかもしれない。今はこのぐらいにして、いずれ天論篇を読むときに私ができる範囲で考えてみたい。

議兵篇は残りを一気に読み下す予定であったが、『荀子』と他の漢代書物との関係を整理するために、一回を費やすことにした。

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