致士篇第十四(2)

By | 2015年10月18日
人民大衆の心を得たならば、天まで動かすことができるだろう(注1)。心中を楽しませたならば、寿命もまた延びるであろう。誠信であるならば理性は精妙となるが、言葉が誇大であるならば精神は亡失してしまうだろう(注2)

君主の憂いは、「私は賢者を登用する」と口で言うことにはなくて、本当に賢者を必ず登用するかどうかにある。「賢者を登用する」と口で言っても、実際の行いでは賢者を斥ける。口と行動が矛盾していて、それで賢者がやって来て愚者が引っ込むことを望んでも、それを実現することは難しいであろう。蝉を勢いよく飛び跳ねさせる人(注3)は、その任務は火を明るく焚いて木をゆさぶることに尽きる。しかし火が明るく焚かれなければ、木をゆさぶっても無益であろう。いまの時代に仁徳を明らかに示す君主がいるならば、天下がこの者に帰することは蝉が明るい火に寄って来るようなものではないか。

事業に臨み人民に接するとき、義を基準にして臨機応変に行い、寛容の心をもって多くを容れ、敬いつつしむ心をもって先導していくのが、政治の第一歩である。その後に中正調和の精神をもって明察して判断し、人民を支えるのが、政治の最大の要点である。その後に昇進降格・褒賞処罰を行うのであり、これが政治の終着点である。ゆえに一年目には第一歩から始めて、三年目には終着点に行き着くのがよい。だが終着点からいきなり着手したならば、政令は行われず、上と下は怨み憎み合うこととなるだろう。これは、争乱を自ら起こすことになる。『書経』に、この言葉がある。:

たとえ義刑・義殺であっても、直ちに執行してはならない。「なんじは順番にまだ従っていない」と言おう。
(周書、康誥より)

この言葉は、教化をまず行え、と言っているのである。

程(はかり)は、物の規準である。礼は、分節の規準である。程を用いて大小を決めて、礼を用いて身分序列を定め、徳に応じて位階を与え、能力に応じて官職を与える。およそ身分秩序とは厳格が望ましいが、人民はおおらかであることが望ましい。身分秩序が厳格であれば文飾が整い、人民がおおらかであれば安らかに暮らす。上が文飾整い下が安らかに暮らしていることは功名の極致であり、これ以上に付け加えることは何もない。

君主は国家の最高位の者であり、父親は家庭の最高位の者である。最高位に一人だけがいれば治まるが、二人いれば争乱となる。いにしえから現代まで、いまだ最高位の者が二人いて互いに権勢の重さを争い、それで長続きできた者はいない。

師となる術には四つあるが、その中に博く学ぶことは含まれていない。尊厳があり畏敬されていれば、師となることができるだろう。五、六十歳になって信頼があれば、師となることができるだろう。経文を唱えてその教えを侮らずその教えに違反しなければ、師となることができるだろう。微細な事象を認知してそこに倫理を貫くことができたならば、師となることができるだろう。ゆえに師となる術には四つあるが、その中に博く学ぶことは含まれていないのである。水が深いと渦を巻き、木の葉が落ちると土のこやしとなるがごとくに、弟子が学問を成し遂げて栄達すれば師を思って慕い集まるようになるものだ。『詩経』に、この言葉がある。:

言、むくいざることなく
徳、むくいざることなし
(大雅、抑より)

この言葉のとおりである。

褒賞は過分であってはならず、刑罰は濫用されてはならない。褒賞が過分であれば小人ですら利益を得ることとなり、刑罰が濫用されたならば君子ですら害が及ぶことになる。もし不幸にして過つとすれば、褒賞が過分であったとしても刑罰を濫用してはならない。善良の者を害するよりは、愚劣な輩を利したほうがましである。


(注1)まるで人の信望を得たら天の自然まで好影響を与える、といった天人相関説のような言葉である。しかし荀子は天の運行と人の行為は無相関であると論じているので(天論篇を参照)、これはレトリックであってその真意は「人の信望を得れば天与の自然を最大に活用できる」ぐらいのところであろう。原文は四字四句で「天」「年」「神」「魂」と押韻されている。美文ゆえのレトリックとみなすべきであろう。
(注2)不苟篇に「誠信は神(しん)を生じ、夸誕(かたん)は惑を生ず」とある。ここの文は、不苟篇の言葉の言い換えである。不苟篇(5)注2参照。
(注3)楊注は、南方人は蝉を取ってこれを食す、と注している。つまり食料として蝉を採るのである。
《原文・読み下し》
衆を得れば天を動かし、意を美(たの)しませれば(注4)年を延ばし、誠信なれば神(しん)の如く、夸誕(かたん)なれば魂(こん)を逐(うしな)う。
人主の患は、賢を用うと言うに在らずして、誠に賢を用うることを必ずするに在り(注5)。夫れ賢を用うと言う者は口なり、賢を却(しりぞ)くる者は行(おこない)なり。口・行相反して、賢者の至りて不肖者の退かんことを欲するも、亦難からずや。夫れ蟬を耀(おど)らす(注6)者は、務(つとめ)其の火を明(あきら)かにして、其の樹を振うに在るのみ。火明かならざれば、其の樹を振うと雖も、益無きなり。今人主能く其の德を明かにするもの有らば、則ち天下之に歸すること、蟬の明火に歸するが若し。
事に臨み民に接して、義を以て變應し、寬裕にして多く容れ、恭敬にして以て之に先だつは、政の始なり。然る後に中和・察斷して、以て之を輔くるは、政の隆なり。然る後に之を進退・誅賞するは、政の終なり。故に一年之を與(もっ)て(注7)始め、三年之を與(もっ)て終る。其の終を用(もっ)て(注8)始と爲さば、則ち政令行われずして、上下怨疾せん。亂の自ら作(おこ)る所以なり。書に曰く、義刑・義殺も、庸(もち)うるに卽(そく)を以てすること勿(なか)れ、汝(なんじ)惟(ただ)未だ事に順(したが)うこと有らずと曰え、とは、敎を先にするを言うなり。
程(てい)(注9)なる者は物の準なり、禮なる者は節の準なり。程以て數を立て、禮以て倫を定め、德以て位を敘(じょ)し、能以て官を授く。凡そ節奏は陵(りょう)を欲して、生民は寬を欲す。節奏は陵なれば文あり、生民は寬なれば安んず。上文に下安きは、功名の極なり、以て加う可からず。
君なる者は國の隆(りゅう)なり、父なる者は家の隆なり。隆一にして治まり、二にして亂る。古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ二隆重きを爭いて、能く長久なる者有らず。
師術に四有り、而(しこう)して博習は與(あずか)らず。尊嚴にして憚(はばか)らるれば(注10)、以て師と爲る可く、耆艾(きがい)(注11)にして信あれば、以て師と爲るく、誦說(しょうせつ)して陵(しの)がず犯さざれば、以て師と爲る可く、微を知りて論(りん)(注12)あれば、以て師と爲る可し。故に師術四有り、而して博習は與らず。水深ければ回(めぐ)り、樹落つれば則ち本に糞(つちか)い、弟子通利(つうり)すれば則ち師を思う。詩に曰く、言として讎(むく)いざること無く、德として報いざること無し、とは、此を之れ謂うなり。
(注13)賞は僭(せん)を欲せず、刑は濫(らん)を欲せず。賞僭すれば則ち利小人に及び、刑濫すれば則ち害君子に及ぶ。若し不幸にして過たば、寧(むし)ろ僭するも濫すること無かれ。其の善を害せん與(より)は、淫を利するに若かず。


(注4)原文「美意」。楊注は、「美意は楽意なり」と言う。これに従い、美を「たのしむ」の意に取る。
(注5)原文「不在乎言用賢、而在乎誠必用賢」。宋本はこの文となっている。集解の王先謙は、『群書治要』では「不在乎不言、而在乎不誠」とあることを引いて、「不」字が脱している、と言う。しかし、二つの「不」字がない宋本のままで同じ意味として通るわけであり、あえて「不」字を挿入する必要はないと思われる。増注の久保愛は、宋本に従って二つの「不」字を置かない。
(注6)新釈の藤井専英氏は、「耀」は躍(やく)・趯(てき)に通じて跳の意、と注する。あざやかにおどりあがること。
(注7)増注は、「與」と「以」はいにしえに通用す、と言う。後ろの「與」も同じ。
(注8)新釈は、「以」に同じ、と注する。
(注9)楊注は、「程」は度量の総名なり、と言う。はかり。
(注10)増注は、「憚」は畏れ憚らるるなり、と注する。漢文大系および金谷治氏は、増注と同じく「はばからる」と受身で読んでいる。しかし新釈の藤井専英氏はこれを「はばかる」と読んで、受身の意ではない、と注している。弟子から畏れられるのではなくて自らつつしむことを実践するのが師術である、という藤井氏の意図は分からなくもない。しかしここは主流説に従って受身の意で取っておく。
(注11)楊注は、五十を「耆」と曰い六十を「艾」と曰う、と言う。五、六十歳のこと。
(注12)集解の郝懿行は、「論」と「倫」は古字通ず、と言う。郝懿行は「倫」を倫理の意に取っている。これに従っておく。
(注13)この末尾の文は、『春秋左氏伝』にほぼ同一のテキストがある。下のコメント参照。

致士篇の後半は、断章とみなされる文章が続く。一貫したテーマがあるようには見えず、この篇を記録した者の補遺であろうか。

末尾の語について、増注および集解の盧文弨は、いずれも『春秋左氏伝』(『左伝』と略称されることが多い)にほぼ同文があることを指摘する。すなわち襄公二十六年に楚の声子(せいし)の言として「歸生之を聞く、善く國を爲(おさ)むる者は、賞僭(たが)わずして、刑濫(みだ)りならず、と。賞僭わば、則ち淫人に及ばんことを懼れ、刑濫りならば、則ち善人に及ばんことを懼る。若し不幸にして過たば、寧(むし)ろ僭うとも濫りなること無かれ。其の善を失わんよりは、寧ろ其れ淫を利せん」とある。この理由について盧文弨は「考うるに、荀卿は左氏春秋を以て張蒼(ちょうそう)に授け、蒼は賈誼(かぎ)に授く。荀子は固(もと)より左氏を傳うる者の祖師なり」と言う。すなわち、『左伝』を漢代に伝承した荀子学派の系譜があり、ゆえに『荀子』の中にもこうして同一の文が存在していることにつながっているという説明である。『左伝』は『公羊伝』『穀梁伝』と並んで春秋三伝と呼ばれ、BC722年からBC481年までの年代記である『春秋経』の伝(でん、各年の詳細な伝承記事)の一つとして儒学で重視されてきたテキストである。『左伝』の最大の特徴は、他の二伝に比べて史的エピソードが豊富に収録されている点であり、また別の特徴として後の時代に起こったことが過去に卜筮の卦や星占いに表れていた、といったような予言的記述が非常に多く見られて、後世の結果は過去からの必然であるとみなす作者の決定論的な歴史観が見える。

さて、『左伝』には清代末期から偽書説が提出されている。『左伝』は前漢代の末に劉歆(りゅうきん。荀子の書を最初に編纂した劉向の子)が漢帝国の秘府(書庫)から発掘し、これを『春秋経』の伝の一つとして宣伝したところからテキストの歴史は始まる。しかし劉歆の発掘に疑いを持った清代学者たちは、『左伝』は劉歆の捏造した文書である、と批判したのであった。しかし『新釈漢文大系 春秋左氏伝』著者の鎌田正氏はその解説で、『左伝』は戦国時代中期のBC320年前後の成立であり、孔子の高弟である子夏(しか。姓は卜、名は商、字は子夏)の春秋学に影響された魏国の史官が制作したものであろう、という見解を述べて、捏造説には否定的である。『左伝』が劉歆の捏造なのか戦国時代の作品なのかを論議することは今の私がなすべきことではないので、深入りはしないことにする。なお古い時代には『左伝』は孔子の同時代人である左丘明(さきゅうめい)の著作である、という説が立てられていたが(漢代の司馬遷、あるいは『左伝序』を書いた魏晋代の杜預など)、これは多くの批判が提出されていて、ありえないと思われる。

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