応候が、荀子に質問した。 (応候)「この秦国に入国されて、何を見られましたか?」 (荀子)「お国のとりでは堅固に守られ、お国の地勢は万事に至便で、お国の山林・川谷は美しく、豊富な物資を利用できます。これは美しい国土というものです(注1)。国境を入ってお国の風俗を見ますと、人民は朴訥であり、音楽・歌謡は下品に落ちておらず、服装は奇怪に流れておりません。役人を大いに畏れて従順であるのは、さながらいにしえの人民です。各都市の官庁を見ますと、お国の官吏たちは粛然として、恭倹・敦敬・忠信にして浮ついたところがありません。これは、さながらいにしえの官吏です。首都に入ってお国の士大夫たちを見ると、皆が自宅の門を出たら朝廷の門に直行し、仕事が終わって朝廷の門を出たら自宅にすぐ帰ります。いささかも、私事を行うことがありません。不正なことに媚びへつらうこともなく、仲間うちで私党を組むこともなく、気高い風で諸事によく通じて公正である。これは、さながらいにしえの士大夫です。お国の朝廷を見ると、朝廷の仕事は多忙さがまるで見えず、百事をてきぱきと聴聞・決裁して仕事を後に残したりしません。じつに余裕があって、拍子抜けするほどに政治のやることがないのは、さながらいにしえの朝廷です。まことに秦国が四世にわたって勝ち続けたのは、偶然ではありませんでした。必然でありました。これが、それがしが見たものであります。『楽に統治し、簡単な指図で細かい政治も行われ、複雑なことを行わずに功績を挙げるのは、統治の極地である』と言いますが、秦国はこれに当たるでしょう。 そうではありますが、それがしにはお国のために非常に憂慮することがあります。お国はここまでの美質を完璧に兼ね備えていて、それなのに真の王者の功名に比べたならば、その及ばないことがあまりに遠すぎるということです。これは、どうしたことであろうか。それはおそらく、儒家の統治術がほとんど用いられていないからです。『正道に純粋ならば、王者となる。正道と邪道を混ぜて用いると、覇者となる。正道が一つもなければ、滅亡する』と言います。これが、秦国の短所なのです。」 (注1)秦は堅固な函谷関に守られ、そこから先には豊かな関中盆地が広がっていた。南の秦嶺山脈は、中国では珍しい鬱蒼とした森林に覆われている。荀子の本拠地である斉国はというと、一時代前の孟子が斉国にある牛山(ぎゅうざん)が伐採と羊の放牧ではげ山になってしまってることを言及している。すでに中原地方は戦国時代において過開発の様相を示していた。荀子は斉国に比べた秦国の土地の美しさに、さぞ驚いたことであろう。
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《原文・読み下し》 應侯(おうこう)孫卿子(注2)に問うて曰く、秦に入りて何をか見る。孫卿子(注2)曰く、其の固塞は險に、形勢は便に、山林・川谷は美に、天材の利は多し、是れ形勝なり。境に入りて其の風俗を觀るに、其の百姓は樸(ぼく)に、其の聲樂は流汙(りゅうお)ならず、其の服は挑(よう)(注3)ならず、甚だ有司を畏れて順なるは、古の民なり。都邑・官府に及ぶまで、其の百吏は肅然として、恭儉・敦敬・忠信にして不楛(ふこ)ならざること莫きは、,古の吏なり。其の國に入りて、其の士大夫を觀るに、其の門を出ずれば公門に入り、公門を出ずれば、其の家に歸り、私事有ること無きなり。比周せず、朋黨せず、倜然(てきぜん)として、明通して公ならざる莫きは、古の士大夫なり。其の朝廷を觀るに、其(はなはだ)(注4)朝は(注5)間にして、百事を聽決して留めず、恬然として治無き者の如きは、古の朝なり。故に四世勝有るは、幸に非ざるなり、數なり。是れ見る所なり。故に曰く、佚にして治し、約にして詳に、煩ならずして功あるは、治の至なり、と。秦之に類す。然りと雖も、則ち甚だ其れ諰(し)すること有るなり。數具の者を兼ねて盡(ことごと)く之有り、然り而して之を縣(はか)るに(注6)王者の功名を以てすれば、則ち倜倜然(てきてきぜん)として其の及ばざることに遠し。是れ何ぞや、則ち其の殆(ほと)んど儒無ければなるか。故に曰く、粹にして王たり、駮(ばく)にして霸たり、一無くして亡ぶと。此れ亦秦の短なる所なり。 (注2)増注には二箇所に「子」字がない。
(注3)増注は「挑」は「姚」であると言う。 (注4)増注の荻生徂徠は「其」は「甚」たるべし、と言う。 (注5)増注は宋本に従い「朝」字を補う。 (注6)集解の王先謙は「縣」は「衡」のごとしと言う。「はかる」。 |
荀子は、劉向も記載しているように秦国に招かれて訪問した。そのときの王は昭襄王(在位BC306-BC251。『史記』では昭襄王、昭王の両方の記載がある)であり、宰相は范雎(はんしょ。?-BC255)であった。范雎は応(應)の地に封じられたので、応候(應候)とも呼ばれる。また故国の魏で命を狙われていたために、張禄(ちょうろく)という偽名を用いていた。その後彼は秦に渡って昭襄王に認められ、宰相に就任した。秦では偽名の張禄で呼ばれていたと『史記』にはあり、それを裏付けるように二十世紀に出土した雲夢秦簡では、「張禄」の名で現れる。昭襄王は戦国時代後期の半世紀間以上も秦のトップとして君臨し、その治世の期間で秦は中華世界の超大国に成長した。昭襄王の治世の中盤までを支えた宰相は秦の王族の魏冄(ぎぜん)であったが、それに代わって治世の末年を支えたのが、范雎であった。
秦国が強大化する過程は、その強い兵を用いた度重なる戦争での勝利によるものであった。そして、この軍事力を背景として、諸国を秦にひれ伏させた。まず楚国は、東方で越国と激戦していて斉国とも事を構えていた隙を付かれる形で、西方から侵攻されて都を奪われた(彊国篇(2)および(3)も参照)。次に魏国は、度重なる侵攻を受けて大量の兵を失い、領地を大きく削られて弱体化した。趙国は、長平の戦で惨敗したことによって、もはや秦の支配に刃向かう術を失った。かつての大国たちは、秦国の兵の前に屈服していったのであった。
荀子がその目で実際に見た秦国は、素晴らしいものであった。美しい国土、質朴な人民、清潔な官吏、能率的な政治。どれもこれも、荀子たち儒家がいにしえの王者たちの治世として観念的に描写していた政治が、秦国では実現されていた。荀子は、彼が活動の拠点としていた斉国との大きな格差を、どのように思ったであろうか。そして周辺諸国から虎狼の国と陰口を叩かれ、信用できない好戦的な国として忌み嫌われていたこの超大国がここまで儒家の理想に近い国であったことを見て、彼の理論はどうなってしまうのであろうか。藤井専英氏は、荀子は秦国がいささかも儒を重視しようとしない点において既に亡国の相が表れていると判じた、と、この節の解説で書いておられるが、私は荀子はそこまで己のイデオロギーでしか物が見えない論者であったとは思えない。むしろ荀子は、秦国の王と宰相に初めて謁見したとき、この国を王者の国とすれば天下は安泰となる、と期待したのではないか、と思うところである。そのための、儒の導入である。私は、謁見の時から荀子が秦国を儒が採用されていないから亡国だ、と突き放していたとは、ここでの彼の秦国への素直な評価を見るとにわかに信じられない。
秦国を実見したとき、荀子には下の孟子の言葉が思い起こされたかもしれない。
(盡心章句上、十三。議兵篇(4)注5に応じて、(*)の訳を変えた。)
平常体で静かに治まっている国が、王者の国である。秦国は、どうしてこのように見事に治まっているのであろうか。秦国のような力による統治を行っている国の人民はさぞや苦しんでいるはずだ、というのが儒家のイデオロギーから来る推測であった。しかし、実際の秦国は、まるで違うではないか?
私は、こう思う。遅れた地域には、先進地域にはない剛毅朴訥さがある。それは、経済人類学的に言うならば、水平的な互酬の交換様式が豊かに残っている社会ということである。人民がただの徴発された兵でなく、戦士としての気風を持つことができる社会である。このような社会は、国家として合理的な組織を与えられたとき、強くなる。兵が強いばかりでなく、彼らが官僚になれば規律あって公共心に富む集団を生み出すことができるであろう。また遅れた国であるゆえに、文化の進んだ地域から先進的な文化を選んで吸収し、かつ外国から有能な人材を招聘して働かせる融通性も持つことができるであろう。遅れた地域が先進地域から刺激を受けて短期間で強大となるケースは、古今東西でいくつも例が見られる。
京都の公家たちは戦争を好む関東武士を野蛮と忌み嫌ったが、楠正成は日本中の軍をもってしても武蔵・相模の両国の武士には合戦で勝てそうにない、と評した。その関東武士が拓いた鎌倉幕府は、中国から輸入した中国法による法治官僚国家のシステムを壊して、より日本の国情に合わせた封建国家の統治システムを作りあげた。彼らは合戦に強いだけではなくて、政治システムにおける融通性・独創性も持ち合わせていたのであった。また幕末から明治時代の日本を動かしたのは、薩摩や土佐といった辺境の地からやってきた志士たちであった。彼らは蛮勇において、気概において、さらに智恵においても日本の維新をリードする存在であった。また古代ローマは地中海世界の辺境に位置して、その建国は地中海世界の中ではいちばん遅れたものであったが、それゆえに衰えていく古代文明の中で唯一質朴な気風を発揮して、古代文明を総合した最後の大帝国を打ち立てたのであった。
私は秦国もまた、中華世界の辺境であったゆえに、爛熟した文化を持つが人間も政治も混乱していた中原諸国を圧倒することができたのではないだろうか、と考える。秦国が始皇帝の統一まで終始武断により諸国と対したのは、秦国の強さが質朴な人民が作る兵の力にあったことを、時の為政者たちは分かっていたからではなかっただろうか。秦国は、まことに荀子の言ういにしえの民、いにしえの官吏、いにしえの士大夫の姿だったのである。よって、おそらく儒家が賞賛する湯王や武王の朝廷や兵もまた、実際は秦国のように質朴にしてかつ戦場においては勇猛非情であったに違いない、と私は思うところである。
ただ、荀子の秦国に対する言葉は、全くの的外れというわけではない。あの最強の兵を誇ったローマ人であっても、周辺諸国を征服して帝国を建設したときには、武断を薄めて平和な時代にふさわしい統治形態に移っていった。すなわち文化としては先進地域のギリシャ文化を尊び、統治としては法による支配と交通網の整備によって経済的な繁栄に心を砕いた。秦国より前に中華世界の支配者となった湯王や武王もまた、そうであったことだろう。伝説的な記録ではあるが、武王は殷を倒して征服戦争が成った後、兵を解散して今後は戦争を行わないことを宣言した。その死後に摂政として政治を執った周公は、親族である管叔鮮と蔡叔度の反乱を力で平定したものの、国の運営方針としては武王の意志を継承して武断ではなくて礼楽によって国を治めようとした。周公の作と伝承される『詩経』の賛歌には、このようにある。:
載(すなわ)ち干戈を戢(おさ)め、
載(すなわ)ち弓矢を嚢(ふくろ)にしまう
(周頌、時遭より)
あくまで伝説とはいえ、儒家が武王・周公の事業を統治の正道として称えることには、確かに一面の真理がある。たとえ武断によって帝国が成立したとしても、その広域的な支配は帝国のシステムが傘下にある各共同体に利益をもたらさなければ、継続されないだろう。前にも言ったとおり、世界帝国は武力を用いた支配というよりも、むしろ帝国のシステムが周辺の国家や共同体に安全保障と経済的利益を提供するゆえに、自発的に成立するものなのである。
荀子は、秦国の国風はいにしえの風であるから勝利するのが当たり前であることを確信し、ゆえにこれから中華を統一する王者に進むときには、これまでのような武断の風であっては諸国を統治できない、と范雎に言いたかったのであろう。そう私は、思うところである。